
そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「榎本武揚」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。
榎本武揚
一八三六年〈天保七年〉~一九〇八年〈明治四十一年〉
日本人の美意識からすると、敗者は壮絶な最期を遂げねばならない。それでこそ敗者の美学が成り立ち、誰もが納得する。ところが敗者の持つ知識や技術が、敗者の命を救うという珍しい時代があった。明治維新である。
幕末の徳川家というと、保守的で退嬰的なイメージで捉えられがちだが、実は勝海舟や栗本鋤雲に代表されるように、積極的に海外の科学技術を学び、それを取り入れていこうという人材に事欠かなかった。つまり開明的で進歩的だったのだ。
彼らはいち早く開国し、日本を欧米諸国に伍していける近代国家にしていこうという気概に満ちていた。そのためには、柔軟な考えを持つ有為の若者たちを登用せねばならない。そうした英才の中に、榎本武揚という男がいた。
オランダ留学

榎本武揚は天保七年(一八三六)、幕臣の次男として江戸で生まれた。
父の武規は伊能忠敬の門弟で、伊能が「大日本沿海輿地全図」を作成した際、共に蝦夷地を歩いて測量などを手伝ったという。
武揚は幼い頃から優秀で、十六歳の時に昌平黌に入学し、十八歳で卒業した。しかし余暇を使って蘭語と英語を学び、洋学に傾倒したため、儒学と漢学を主要科目としていた昌平黌での成績は悪く、エリート官吏への道は閉ざされた。
榎本の転機となったのは安政元年(一八五四)、十九歳の時、箱館奉行の堀織部正の従者として蝦夷地を探検したことだ。この時、榎本は蝦夷地の無限の可能性を知ることになり、それが後に箱館戦争を起こす遠因となる。
安政二年、江戸に戻った榎本は、長崎に海軍伝習所ができると同時に入学し、オランダ人講師から航海術や海軍戦術を学んだ。この時、後に箱館戦争を共に戦うことになる多くの同志を得ることになる。
安政六年、長崎海軍伝習所が閉鎖されたため、榎本は江戸に戻り、海軍操練所の教授方に採用される。この頃の幕府は、外圧よりも尊王攘夷を唱える西南諸藩に軍事力で対抗すべく、海軍力の充実を図っていた。
文久二年(一八六二)、幕府は当時としては世界最大にして最強の軍艦・開陽丸をオランダに発注し、榎本をはじめとする十五名の留学生を派遣した。
翌文久三年九月にオランダに着いた一行は、それぞれの専門分野に進むが、学究心旺盛な榎本は、航海術、蒸気機関学、機械工学、電信技術、国際法、化学、数学など多くの分野を習得した。
慶応二年(一八六六)、完成した開陽丸に乗った榎本らは、十月にオランダを出港し、翌年三月、横浜に到着した。
鳥羽・伏見の戦いと阿波沖海戦

ところが国内の情勢は、榎本らが出発した頃とは一変していた。
文久二年の生麦事件をきっかけに、尊王攘夷を掲げる志士たちの活動は活発化し、翌文久三年の薩英戦争で戦った薩摩藩と英国が歩み寄り、近代化に邁進していた。
一方の長州藩は、元治元年(一八六四)の禁門の変で一時的に追い込まれたものの、慶応二年の第二次長州征伐(長州側からすると四境戦争)で勝利すると、息を吹き返して土佐藩の仲介で薩摩藩と手を結ぶまでになっていた。薩長土三藩に三条実美や岩倉具視といった公家も呼応し、一大倒幕勢力が形成されつつあった。
こうした最中に帰国した榎本は、異例の出世を遂げ、最終的には海軍副総裁にまで上り詰める(海軍総裁は矢田堀景蔵)。
ところが慶応三年、将軍の慶喜は大政を奉還し、明治天皇によって王政復古の大号令が発せられる。慶喜としては小手先の駆け引きでこの難局を乗り切り、大政を奉還しても新政府の議定の座に残ることで、徳川家の所領と権益を守ろうとした。しかしそれでは、新政府の財源が生まれない。そのため岩倉具視や薩摩藩の西郷隆盛らは、慶喜に辞官納地を命じた。
慶応四年正月、巻き返しを期した慶喜は軍事力で朝廷を威圧し、辞官納地を取り下げさせようとした。しかし、これが裏目に出て幕府は朝敵となり、鳥羽・伏見の戦いで惨敗を喫してしまう。
一方の榎本はこの時、幕府海軍を率いて大坂湾にいた。
正月四日、榎本は停船命令を無視した薩摩藩の春日丸と翔鳳丸に砲撃を加えた。これにより、わが国初の洋式艦船による砲撃戦が勃発する。阿波沖海戦である。
双方合わせて四十発以上の砲弾を撃ち合ったが、互いに命中弾はなく、榎本は春日丸を取り逃がしてしまった。しかし翔鳳丸は機関が故障したことから、わざと座礁し、拿捕を免れるべく自焼する。これにより、この海戦は幕府海軍の勝利となり、榎本はそのデビュー戦を白星で飾った。
しかし大坂湾に戻ってみると、幕府軍は鳥羽・伏見の戦いで大敗を喫していた。
榎本は大坂城に伺候し、慶喜に籠城戦を勧めようとするが、すでにこの時、慶喜は城を脱出しており、榎本と入れ違うようにして艦長不在の開陽丸に乗り込み、無理やり出帆させてしまう。
致し方なく敗残兵をまとめた榎本は、富士山丸で江戸に帰り着く。この時、榎本は、大坂城の金蔵にあった金銀財宝を富士山丸に移送する作業を指揮した。その中には、十八万両もの慶長小判が含まれていたという。これが後に、榎本艦隊の燃料費や蝦夷共和国の建国資金となる。
江戸に戻った榎本は徹底抗戦を唱えるが、慶喜は恭順の姿勢を崩さず、三月には江戸城の無血開城が決まった。
榎本のパーソナリティ
榎本武揚 – Wikipedia
榎本という男には、どことなく弱々しいイメージが付きまとう。
エリート幕臣という出自、長身でハンサムな風貌、また洋学に精通した才人といったことから、そんなイメージが形作られているのだろう。箱館戦争を共に戦った土方歳三、伊庭八郎、中島三郎助、古屋佐久左衛門らが、いかにも武人然としているため、ひ弱に見られてしまうのかもしれない。
しかも箱館戦争末期、自決しようとして、それを止められたことがある。この時、榎本がどれだけ本気だったのか、よく取り沙汰される。しかし、その自決を止めようとした大塚霍之丞が、左手の指を三本も失ったことを思えば、本気だったとしか思えない(榎本は大塚の死まで、その面倒を見る)。
榎本は己の美学を持つインテリで、降伏という屈辱に耐えられなかったのだ。
つまり榎本という男の実像は、その優秀さの陰に隠れがちだが、武士としての矜持を持った意志堅固な人物だったと思われる。そうでなければ、幕臣が草木もなびくように恭順する中、幕府海軍を率いて戦おうなどとは思わなかったはずだ。
それでは、なぜ榎本は戦いに踏み切ったのか。勝算はどこにあったのか。
榎本の自信の源は海軍力にあった。しかも旗艦の開陽丸は当代無双の軍艦だった。
もう一つ忘れてならないのは、榎本には蝦夷地開拓という大きな夢があった。榎本は蝦夷地の無尽蔵の資源を開発し、新政府に対抗しようとしたのだ。
ここからも分かるように、榎本は徳川家に忠節を尽くした忠臣ではあるが、闇雲に幕藩体制護持を叫び、旧幕勢力の既得権益を守ろうとしたわけではない。
それゆえ蝦夷地に渡ってからの榎本は、「屯田兵として認めてほしい」と新政府に何度も嘆願している。そこには新政府に対抗しようというよりも、妥協点を見出そうという姿勢が感じられる。
榎本には蝦夷地を開拓することで、食べていけなくなった旧幕臣を養っていくという大義があり、それが国家への貢献になると信じていたのだ。
話は戻るが慶応四年四月、薩長を中心とした新政府軍が江戸城に入った。これにより、海軍総裁の矢田堀景蔵も船を下りたため、榎本が幕府海軍を率いることになった。榎本艦隊は品川沖に停泊し、新政府に無言の圧力をかけ続ける。
この時の榎本は、幕府の海軍力が徳川家存続のための圧力になると信じていたのだろう。四月には品川沖から館山沖に移動し、脱走の気配を見せたりもしたが、結局、勝海舟に説得されて品川沖に戻っている。
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