敗者烈伝日本史

【3分でわかる】榎本武揚はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる榎本武揚の歴史

プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「榎本武揚」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

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薩長政府に徹底抗戦した気骨の人

榎本武揚
一八三六年〈天保七年〉~一九〇八年〈明治四十一年〉

日本人の美意識からすると、敗者は壮絶な最期を遂げねばならない。それでこそ敗者の美学が成り立ち、誰もが納得する。ところが敗者の持つ知識や技術が、敗者の命を救うという珍しい時代があった。明治維新である。

幕末の徳川家というと、保守的で退嬰的なイメージで捉えられがちだが、実は勝海舟や栗本鋤雲に代表されるように、積極的に海外の科学技術を学び、それを取り入れていこうという人材に事欠かなかった。つまり開明的で進歩的だったのだ。

彼らはいち早く開国し、日本を欧米諸国に伍していける近代国家にしていこうという気概に満ちていた。そのためには、柔軟な考えを持つ有為の若者たちを登用せねばならない。そうした英才の中に、榎本武揚という男がいた。

 

オランダ留学

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榎本武揚は天保七年(一八三六)、幕臣の次男として江戸で生まれた。

父の武規は伊能忠敬の門弟で、伊能が「大日本沿海輿地全図」を作成した際、共に蝦夷地を歩いて測量などを手伝ったという。

武揚は幼い頃から優秀で、十六歳の時に昌平黌に入学し、十八歳で卒業した。しかし余暇を使って蘭語と英語を学び、洋学に傾倒したため、儒学と漢学を主要科目としていた昌平黌での成績は悪く、エリート官吏への道は閉ざされた。

榎本の転機となったのは安政元年(一八五四)、十九歳の時、箱館奉行の堀織部正の従者として蝦夷地を探検したことだ。この時、榎本は蝦夷地の無限の可能性を知ることになり、それが後に箱館戦争を起こす遠因となる。

安政二年、江戸に戻った榎本は、長崎に海軍伝習所ができると同時に入学し、オランダ人講師から航海術や海軍戦術を学んだ。この時、後に箱館戦争を共に戦うことになる多くの同志を得ることになる。

安政六年、長崎海軍伝習所が閉鎖されたため、榎本は江戸に戻り、海軍操練所の教授方に採用される。この頃の幕府は、外圧よりも尊王攘夷を唱える西南諸藩に軍事力で対抗すべく、海軍力の充実を図っていた。

文久二年(一八六二)、幕府は当時としては世界最大にして最強の軍艦・開陽丸をオランダに発注し、榎本をはじめとする十五名の留学生を派遣した。

翌文久三年九月にオランダに着いた一行は、それぞれの専門分野に進むが、学究心旺盛な榎本は、航海術、蒸気機関学、機械工学、電信技術、国際法、化学、数学など多くの分野を習得した。

慶応二年(一八六六)、完成した開陽丸に乗った榎本らは、十月にオランダを出港し、翌年三月、横浜に到着した。

鳥羽・伏見の戦いと阿波沖海戦

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ところが国内の情勢は、榎本らが出発した頃とは一変していた。

文久二年の生麦事件をきっかけに、尊王攘夷を掲げる志士たちの活動は活発化し、翌文久三年の薩英戦争で戦った薩摩藩と英国が歩み寄り、近代化に邁進していた。

一方の長州藩は、元治元年(一八六四)の禁門の変で一時的に追い込まれたものの、慶応二年の第二次長州征伐(長州側からすると四境戦争)で勝利すると、息を吹き返して土佐藩の仲介で薩摩藩と手を結ぶまでになっていた。薩長土三藩に三条実美や岩倉具視といった公家も呼応し、一大倒幕勢力が形成されつつあった。

こうした最中に帰国した榎本は、異例の出世を遂げ、最終的には海軍副総裁にまで上り詰める(海軍総裁は矢田堀景蔵)。

ところが慶応三年、将軍の慶喜は大政を奉還し、明治天皇によって王政復古の大号令が発せられる。慶喜としては小手先の駆け引きでこの難局を乗り切り、大政を奉還しても新政府の議定の座に残ることで、徳川家の所領と権益を守ろうとした。しかしそれでは、新政府の財源が生まれない。そのため岩倉具視や薩摩藩の西郷隆盛らは、慶喜に辞官納地を命じた。

慶応四年正月、巻き返しを期した慶喜は軍事力で朝廷を威圧し、辞官納地を取り下げさせようとした。しかし、これが裏目に出て幕府は朝敵となり、鳥羽・伏見の戦いで惨敗を喫してしまう。

一方の榎本はこの時、幕府海軍を率いて大坂湾にいた。

正月四日、榎本は停船命令を無視した薩摩藩の春日丸と翔鳳丸に砲撃を加えた。これにより、わが国初の洋式艦船による砲撃戦が勃発する。阿波沖海戦である。

双方合わせて四十発以上の砲弾を撃ち合ったが、互いに命中弾はなく、榎本は春日丸を取り逃がしてしまった。しかし翔鳳丸は機関が故障したことから、わざと座礁し、拿捕を免れるべく自焼する。これにより、この海戦は幕府海軍の勝利となり、榎本はそのデビュー戦を白星で飾った。

しかし大坂湾に戻ってみると、幕府軍は鳥羽・伏見の戦いで大敗を喫していた。

榎本は大坂城に伺候し、慶喜に籠城戦を勧めようとするが、すでにこの時、慶喜は城を脱出しており、榎本と入れ違うようにして艦長不在の開陽丸に乗り込み、無理やり出帆させてしまう。

致し方なく敗残兵をまとめた榎本は、富士山丸で江戸に帰り着く。この時、榎本は、大坂城の金蔵にあった金銀財宝を富士山丸に移送する作業を指揮した。その中には、十八万両もの慶長小判が含まれていたという。これが後に、榎本艦隊の燃料費や蝦夷共和国の建国資金となる。

江戸に戻った榎本は徹底抗戦を唱えるが、慶喜は恭順の姿勢を崩さず、三月には江戸城の無血開城が決まった。

榎本のパーソナリティ

榎本という男には、どことなく弱々しいイメージが付きまとう。

エリート幕臣という出自、長身でハンサムな風貌、また洋学に精通した才人といったことから、そんなイメージが形作られているのだろう。箱館戦争を共に戦った土方歳三、伊庭八郎、中島三郎助、古屋佐久左衛門らが、いかにも武人然としているため、ひ弱に見られてしまうのかもしれない。

しかも箱館戦争末期、自決しようとして、それを止められたことがある。この時、榎本がどれだけ本気だったのか、よく取り沙汰される。しかし、その自決を止めようとした大塚霍之丞が、左手の指を三本も失ったことを思えば、本気だったとしか思えない(榎本は大塚の死まで、その面倒を見る)。

榎本は己の美学を持つインテリで、降伏という屈辱に耐えられなかったのだ。

つまり榎本という男の実像は、その優秀さの陰に隠れがちだが、武士としての矜持を持った意志堅固な人物だったと思われる。そうでなければ、幕臣が草木もなびくように恭順する中、幕府海軍を率いて戦おうなどとは思わなかったはずだ。

それでは、なぜ榎本は戦いに踏み切ったのか。勝算はどこにあったのか。

榎本の自信の源は海軍力にあった。しかも旗艦の開陽丸は当代無双の軍艦だった。

もう一つ忘れてならないのは、榎本には蝦夷地開拓という大きな夢があった。榎本は蝦夷地の無尽蔵の資源を開発し、新政府に対抗しようとしたのだ。

ここからも分かるように、榎本は徳川家に忠節を尽くした忠臣ではあるが、闇雲に幕藩体制護持を叫び、旧幕勢力の既得権益を守ろうとしたわけではない。

それゆえ蝦夷地に渡ってからの榎本は、「屯田兵として認めてほしい」と新政府に何度も嘆願している。そこには新政府に対抗しようというよりも、妥協点を見出そうという姿勢が感じられる。

榎本には蝦夷地を開拓することで、食べていけなくなった旧幕臣を養っていくという大義があり、それが国家への貢献になると信じていたのだ。

話は戻るが慶応四年四月、薩長を中心とした新政府軍が江戸城に入った。これにより、海軍総裁の矢田堀景蔵も船を下りたため、榎本が幕府海軍を率いることになった。榎本艦隊は品川沖に停泊し、新政府に無言の圧力をかけ続ける。

この時の榎本は、幕府の海軍力が徳川家存続のための圧力になると信じていたのだろう。四月には品川沖から館山沖に移動し、脱走の気配を見せたりもしたが、結局、勝海舟に説得されて品川沖に戻っている。

品川沖脱走

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五月に徳川家の存続が決まり、駿府七十万石が残されることになった。これにより榎本は、徳川家の恩義に報いたと感じたのではないだろうか。

それでも榎本は、艦隊を新政府に差し出して陸に上がろうとはしなかった。というのも、これまで四百三十万石で六万人の家臣を養っていた徳川家が、七十万石に減らされたということは、八割方の幕臣やその家族が困窮することになる。彼らを救済する手立てを講じねばならないからだ。

この時、榎本は蝦夷地開拓を思いついたに違いない。折しもロシアの南下が重大な懸案となっており、いざという時は、旧幕臣を屯田兵として使える。

七月、慶喜が謹慎先の水戸から駿府に移り、八月、その名跡を継いだ家達が駿府入りするのを見届けた榎本は、いよいよ脱走を実行に移す。

実はここまで、江戸湾に居座り続けたのには、もう一つの理由があった。

旧幕府が、かつて米国に購入を申し入れていたストーンウォール号(以下、甲鉄)が、横浜港に回航され、榎本が引き渡しを要求していたからだ。

甲鉄を入手できれば旧幕府艦隊の優位は絶対的なものとなり、蝦夷地に行ってからも、腰を落ち着けて開拓にいそしめる。しかし米国は中立を宣言し、引き渡してくれる様子がない。その間も、奥羽越列藩同盟から来援を請う使者が引きも切らず現れ、榎本は遂に甲鉄をあきらめる。

おそらくこの時の榎本は、開陽丸があれば甲鉄と十分に渡り合えると思ったに違いない。しかも乗組員は練度の高い精鋭ぞろいで、新政府の海軍など物の数ではない。

八月十九日、遂に榎本艦隊は太平洋に出るが、折悪しく暴風雨に見舞われ、艦隊は四散する。それでも何とか石巻に入港したものの、損傷はひどく修理には時間がかかる。それでも、その間に各地を転戦してきた大鳥圭介や土方歳三が合流することで、榎本らは元気を取り戻した。

短命に終わった蝦夷共和国

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いったん奥羽越列藩同盟を支援しようとした榎本だが、時すでに遅く、列藩同盟は瓦解して会津藩は孤立しており、勝ち目は全くなくなっていた。そうした状況を鑑み、榎本は蝦夷地に向かう決断を下す。

甲鉄も入手できず、列藩同盟も救えず、台風の季節に太平洋に出てしまったのは、結果論ではなく、榎本の判断ミスと認めねばなるまい。榎本には、決断のタイミングを見極められる勝負勘がなかったように思われる。

明治元年(一八六八)十月、榎本らは蝦夷地に上陸し、十一月には蝦夷地全土を占領する。しかし悲劇は目前に迫っていた。

蝦夷地最後の抵抗勢力である松前藩を駆逐すべく、江差に向かった開陽丸が江差湾に停泊中、暴風雨に見舞われて座礁してしまうのだ。開陽丸の喪失は、実質的な戦力の低下はもとより、榎本をはじめとした海軍士官全体に精神的な衝撃を与えた。開陽丸こそ、榎本艦隊の自信の源だったからだ。

そこで榎本は、かねてから考えていた策を実行に移す。蝦夷共和国の樹立である。

これは、蝦夷政権を国際法上の国家として諸外国に認めてもらい、交戦権を持つ独立国として新政府に対抗しようという榎本ならではの秘策だった。この時、わが国初の選挙(入れ札)により、榎本が総裁に選ばれた。

だが、こんなことを新政府が許すはずはない。

明治二年四月、新政府軍は蝦夷地へ上陸し、怒濤の進撃を開始する。最後に五稜郭に追い詰められた榎本らは、遂に降伏開城を申し入れ、蝦夷共和国はその短い生涯に終止符を打った。

明治以降も活躍した榎本武揚

降伏直前の五月十六日、榎本は自決を図った。前述のように、これは寸前で阻まれ、榎本は命を長らえることになる。

降伏後、榎本をはじめとした八人の幹部は東京に送られて収監された。この頃の榎本は死を覚悟していたらしく、自らが学んできたことを書き残そうとした。

しかし牢の外では、箱館戦争を敵として戦った薩摩藩の黒田清隆が助命に奔走し、明治五年、榎本らは赦免される。その後、請われて新政府に仕官した榎本は、黒田政権下で何度も大臣を務めるなどして活躍した。

その生き様は福澤諭吉などの批判の対象ともなったが、榎本がその後の人生を国家のために捧げたのは、紛れもない事実である。

よく箱館戦争で多くの兵士が戦死したにもかかわらず、榎本や大鳥が生き残り、後に政府の顕官になったことを批判する人たちがいる。これは全くの誤解で、この時代の兵士一人ひとりには、それぞれ志があり、いわば志士として戦ったことを忘れてはならない。しかも榎本たちは、脱走や離脱を大目に見ていた節もある。つまり兵士たちは、自らの意志で戦って死んでいったのだ。

榎本の幸運は、その学識を惜しまれたことに尽きる。新政府の要人たちは尊攘志士上がりばかりであり、科学知識など持ち合わせていない。榎本の持つ知識や技術が、新国家建設に必要とされたのだ。これほど幸運な敗者は歴史上にもまれだろう。

だがその一方、榎本がリーダーとして適任だったとは思えない。榎本の決断が後手に回ることが多かったのは、否めない事実なのだ。

榎本の座右の銘は、「学びて後、足らざるを知る」だったという。

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