伝習隊を率いて転戦
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By 不明 – Bakufu panorama kan, by Yoshino, パブリック・ドメイン, Link
慶応四年四月、伝習隊を率いて江戸を脱走した大鳥は、四度にわたる下野小山宿での戦闘にいずれも勝利した。この戦いで大鳥は、フランス式用兵の妙を見せつける。
大鳥は類まれな戦術家であり、「戦下手」という評価は結果論にすぎない。しかし本人に問えば、おそらく「教本に従っただけだ」と、あっさり答えるに違いない。
大鳥とは、そういう男である。
しかし、兵の補充や武器弾薬の補給が受けられる新政府軍と違い、大鳥軍(伝習隊とその他の合流部隊)はそれもままならない。しかも去就に迷っていた北関東諸大名が次々と新政府側に与するに及び、会津に逃れるしか手がなくなる。
それでも同行している土方歳三の活躍で、宇都宮城を奪取したところまでは順調だった。しかしその後、戦慣れした薩長土を中心とした西国雄藩の兵が投入されることで、苦戦を強いられていく。
安塚の戦いで敗退し、二次にわたる今市攻防戦でも敗北した大鳥軍は、会津西街道をふさぐべく、小佐越・藤原での持久戦に転じることになった。小佐越とは、現在の鬼怒川温泉郷のことだ。
白河方面での戦闘が激化する中、大鳥は藤原口の守備を会津藩から任され、大した戦闘もないまま、五月から七月まで百日ほどを過ごした。
しかしその間、新政府軍は白河の線を突破し、七月末には二本松城も落ち、会津藩が恃みとしていた仙台藩は、会津藩領からの引き揚げを始めた、米沢藩も挙動が不審になってきており、いよいよ会津藩の孤立は深まった。
母成峠の戦い
八月になり、会津藩首脳部の要請を受け、大鳥軍は石筵口(母成峠)の守備に就いた。二本松城が陥落し、東方から敵が押し寄せてくる公算が高まったためだ。
母成峠の防衛陣地は、堡塁砲台(大砲陣地)と胸壁を組み合わせた堅固なものだったが、会津藩二百、仙台藩百、二本松藩百に、大鳥軍の四百を加えても、せいぜい八百ほどでは守りようがない(大鳥軍の多くは、いまだ藤原口等の守備に就いている)。
会津藩首脳部は、敵は白河方面から郡山を経て、中山口からやってくると思っており、そちらに会津藩主力部隊を配置していた。
しかし新政府軍は情報収集を怠らず、八月二十一日、最も脆弱と思われる石筵口を突いてきた。
兵力が三千と豊富な新政府軍は、石筵口に三方から攻め寄せ、激戦の末、母成峠に設けられた三段にわたる防衛陣地を突破し、会津盆地に向かった。
この戦いで大鳥軍は壊滅した。
それでも大鳥は北方の米沢に向かい、兵を再結集し、補給を受けた上で会津に戻ろうとするが、米沢藩は寝返りを決めており、冷たくあしらわれた。
すでに会津城下で戦いが始まったと聞いた大鳥は、死を覚悟で会津に向かう。しかし城内と連絡は取れず、戦うにも戦えない。それでも、衝鋒隊の古屋佐久左衛門らと敵の物資を分捕りながらゲリラ戦を展開したが、それも長くは続かない。
致し方なく大鳥らは仙台に向かったが、すでに仙台藩は恭順に傾いていた。
万事休した大鳥だったが、ここで榎本武揚と出会う。軍艦四隻と輸送船多数から成る榎本艦隊が、ここまで来ていたのだ。
榎本は蝦夷地(北海道)に逃れることを提案し、大鳥も同意した。
かくして大鳥や土方歳三を乗せた榎本艦隊は、一路、蝦夷地を目指すことになる。
彼らの蝦夷地での戦いは、「榎本武揚」の項で書きたいと思う。
好奇心旺盛なもう一人の龍馬
大鳥という男の本質は学者であり、極めて合理的かつ科学的な発想を持つ。外国の文物に興味を示し、よいと思えば何の偏見もなく取り入れる姿勢は坂本龍馬に似ている。それゆえ冒頭で、「もう一人の龍馬」と書いた。
しかも大鳥は、陽気で快活な性格で誰からも好かれた。何事にも率先垂範を旨とするので、兵の信望も厚く、荒っぽいことこの上ない伝習隊士たちも、大鳥の命令一下、水火も辞さず戦った。
鳥羽・伏見の戦いが終わった後、大鳥は彼我の戦力差を検討し、伝習隊なら勝てると踏んだに違いない。むろん戦力差は流動的なので、大鳥が江戸を脱出した頃と会津から蝦夷地に渡る頃では全く様相を異にする。それでも大鳥はあきらめなかった。
そうした不屈の闘志こそ、今の日本人に必要なのではあるまいか。
五稜郭が落城する寸前、すべてに絶望した榎本が自ら命を断とうとしたのとは対照的に、大鳥は最後まであきらめず、皆を鼓舞しながら次善の策を練っていたという。
それでも時の流れには抗し難く、五稜郭は降伏開城した。
その後、大鳥は東京に連行されて牢に入れられたが、榎本らと共に二年半ほどで釈放され、その後は黒田清隆の引きで新政府の一員となり、清国特命全権公使などの職に就く。並行して大鳥は産業育成にも努め、多くの後進を育てた。とくに工学分野での貢献は大きく、日本を工業国化していくことに多大な貢献を果たした。
ただ大鳥とて、欠点がなかったとは言い難い。北関東から蝦夷地にかけての戦闘では、近代戦の教育を受けていない土方の方が顕著な実績を挙げたのは事実で、大鳥は勝機を見る目や、撤退の決断がワンテンポ遅い気がする。
知識がない分、経験と勘に頼る土方の方が用兵術に優れていた。やはり大鳥の場合、知識が邪魔になってしまったのは否めない事実だろう。とくに仏式用兵術は、平原の多いフランスでは有効でも、山や谷の凹凸が激しく、河川が入り組む日本には向いていない。そうなれば実戦経験や用兵センスが必要になるが、結果論ではなく、大鳥はその点で土方の後塵を拝していた。
現代でも、受験勉強に勝ち抜いた者が上級管理職に就くことで、極めて保守的になってしまう企業が多い。知識の蓄積は必ずしも結果に結び付かないのだ。知識だけで切り抜けられる受験と、知識プラス構想力(創造性)と実行力が必要な経営では、適性が全く異なるからだ。博覧強記というのは、逆に足枷になってしまうこともある。
明治四十四年(一九一一)、大鳥は七十九年の天寿を全うする。
武人として素志を貫徹しただけでなく、助命された後は外交官として、また教育者として日本に貢献した大鳥の生涯は、まさに悔いのないものだったに違いない。

