プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「大鳥圭介」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

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敗者烈伝

単行本(ソフトカバー) > 歴史・時代小説
実業之日本社
伊東 潤(著)

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価格・情報の取得:2020-06-19

最後まであきらめない理系指揮官

大鳥圭介
一八三三年〈天保四年〉~一九一一年〈明治四十四年〉

どの時代でも敗者に待っているのは、死か没落だ。後世に生きるわれわれは、敗者の潔さに感銘を受け、その死に様に心を打たれる。

「判官びいき」という言葉があるように、とくに日本人は敗者に優しい。

ところがここに、そうした「敗者の美学」に最も似つかわしくない男がいる。

いくら負けてもあきらめずに戦い、もうどうにもならなくなったところで、自決せずに降伏する。それだけならまだしも、いつの間にか新しい時代を担う一人になっている。これも一つの人徳なのだろうが、そのにじみ出るような愛嬌から、この男を嫌う人は少ない。

男の名は大鳥圭介。

幕末における「もう一人の龍馬」である。

故郷、尼崎藩で頭角を現す

image by PIXTA / 54890427

大鳥は天保四年(一八三三)、播州赤穂細念村の医家に生まれた。

尼崎藩の飛び地にあたる細念村は播磨国(兵庫県南西部)の西端にあり、戸数わずか十二の小村だ。大鳥家は代々、ここで医業を営んできた。

少年期、備前国の閑谷学校で勉学に励んだ大鳥は、十九歳の時、医業を継ぐため、赤穂の中島意庵という西洋医学の権威の許で修業した。

大鳥は意庵の塾にあった蘭語で書かれた医学書の翻訳本を読み、初めて西洋文化に触れ、空理に走らないその実証性に魅せられた。

洋学への思いは募り、嘉永五年(一八五二)の春、大坂に出た大鳥は緒方洪庵の適塾に入る。そこで蘭語を学び、蘭語で書かれた兵法書を読み、その面白さに取り憑かれる。

翌嘉永六年六月にはペリーが浦賀に、翌月にはプチャーチンが長崎に来航し、諸藩で海防意識が高まり始めた。こうした情勢下で、大鳥は軍事に関する蘭書を読みふけり、その筆耕と翻訳で学資を稼いだ。筆耕とは本を書き写すことだ。

さらに多くを学びたくなった大鳥は嘉永七年八月、江戸に向かった。

緒方洪庵の紹介で蘭方医・大木忠益の塾に寄宿することになった大鳥は、医学、物理学、兵法、砲術、築城術などの蘭書を乱読し、筆耕や翻訳をした。

大鳥の博識ぶりは江戸中の識者に知れ渡り、二十五歳の時、江川太郎左衛門英敏(坦庵英龍の息子)の塾から教授職への就任を依頼された。

しかし外圧は日増しに高まり、これまで以上に海防の重要性が叫ばれ始めていた。そんな最中の安政五年(一八五八)、大鳥の故郷の領主の尼崎藩は、大鳥を士分に取り立てる。

大鳥は大小砲の鋳造、砲台築造、洋式兵制の伝授と調練などに辣腕を振るったが、尼崎藩は保守的な藩の一つで、とても大鳥の器に合うものではなかった。

それでも大鳥の名は藩外まで鳴り響き、「尼崎に過ぎたるものが二つあり。沓脱石と大鳥圭介」という戯れ歌まで生まれた。

ちなみに尼崎藩鉄砲洲藩邸の沓脱石は、四万石の身代に見合わぬほど立派で、訪れたことのある他藩士は、「分不相応」と陰口を囁いたという。

幕府歩兵奉行としてフランス流兵学を学ぶ

Keisuke Otori.jpg
由published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) - The Japanese book "幕末・明治・大正 回顧八十年史" (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho),公有领域,链接

大鳥の無尽蔵の知識と抜群の指導力を聞きつけた徳島藩蜂須賀家は、大鳥を家臣として召し抱えたいと申し出る。

尼崎藩に義理立てした大鳥はこの話を断るが、両藩の話し合いにより大鳥の移籍が決まった。安政六年、二十七歳の時だった。

さらに同年十二月、幕府は大鳥に臨時の役職を与え、練兵・製銃・築城の責任者とした。

しかし時代は沸騰を続け、安政七年三月には桜田門外の変が、文久二年(一八六二)には生麦事件が、文久四年には攘夷実行(馬関戦争)、元治元年(一八六四)には天狗党の乱、池田屋事件、禁門の変などの事件や争乱が相次いで起こっていた。

陸海軍の洋式化を急ぐ幕府は慶応二年(一八六六)、三十四歳の大鳥を幕臣に取り立てる。旗本の中でも中位に届く破格の待遇だった。

早速、幕府開成所(後の東大)の教授に就任した大鳥は、欧州諸国の兵法書を中心とした翻訳に没頭した。もちろん英語も仏語もすぐにマスターした。

大鳥の学識は幕府開成所内でも飛び抜けており、歩兵差図役から歩兵頭、そして歩兵奉行へと異例の昇進を遂げていく。

この頃から大鳥は、馬丁、陸尺(駕籠かき)、雲助、博徒、火消などを集め、四大隊三千の兵力の伝習隊を組織して有事に備え始める。

慶応三年一月、十五名のフランス軍事顧問団を迎えた大鳥たちは、横浜太田村の練兵場で厳しい訓練を始めたが、幕府の権威と屋台骨は揺らぎ続けていた。

十月、将軍徳川慶喜が突然、大政奉還する。十二月、王政復古の大号令が発せられ、慶喜の辞官納地が決定することで、旧幕府と薩長新政府の衝突は不可避となる。

そして翌慶応四年正月三日、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍は惨敗を喫した。

新政府に抵抗した開明派幕臣たち

image by PIXTA / 8227876

大鳥は幕臣の家に生まれたわけではない。また、政治活動に奔走する思想家や志士たちとも違う。出世を目指した野心家でもなく、根っからの軍人でもない。

大鳥は学究の徒だった。しかも理工系の技術専門家だ。こうした開明的で合理的な男が旧幕臣の意地を見せるなどとは、誰も思わなかったに違いない。それはオランダに留学してきた榎本武揚や、黒船と最初に接触した中島三郎助らにも言えることで、箱館の五稜郭で最後まで戦った面々が、頑迷固陋な保守派や徳川家と重代相恩の大身旗本ではなく、比較的、身分の低い開明派だったところが面白い。

もしも彼らが意地を見せていなかったら、維新後、新政府の顕官の地位は薩長土肥に独占され、敗者の側に身を置いてしまった旧幕藩の俊秀たちが、能力を発揮する場は失われたかもしれない。しかし大鳥たちのがんばりが、黒田清隆や山県有朋といった薩長の軍人たちを瞠目させ、敗者の側に身を置いた者たちの人材登用の門戸を、押し広げることにつながった。

\次のページで「伝習隊を率いて転戦」を解説!/

伝習隊を率いて転戦

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By 不明 - Bakufu panorama kan, by Yoshino, パブリック・ドメイン, Link

慶応四年四月、伝習隊を率いて江戸を脱走した大鳥は、四度にわたる下野小山宿での戦闘にいずれも勝利した。この戦いで大鳥は、フランス式用兵の妙を見せつける。

大鳥は類まれな戦術家であり、「戦下手」という評価は結果論にすぎない。しかし本人に問えば、おそらく「教本に従っただけだ」と、あっさり答えるに違いない。

大鳥とは、そういう男である。

しかし、兵の補充や武器弾薬の補給が受けられる新政府軍と違い、大鳥軍(伝習隊とその他の合流部隊)はそれもままならない。しかも去就に迷っていた北関東諸大名が次々と新政府側に与するに及び、会津に逃れるしか手がなくなる。

それでも同行している土方歳三の活躍で、宇都宮城を奪取したところまでは順調だった。しかしその後、戦慣れした薩長土を中心とした西国雄藩の兵が投入されることで、苦戦を強いられていく。

安塚の戦いで敗退し、二次にわたる今市攻防戦でも敗北した大鳥軍は、会津西街道をふさぐべく、小佐越・藤原での持久戦に転じることになった。小佐越とは、現在の鬼怒川温泉郷のことだ。

白河方面での戦闘が激化する中、大鳥は藤原口の守備を会津藩から任され、大した戦闘もないまま、五月から七月まで百日ほどを過ごした。

しかしその間、新政府軍は白河の線を突破し、七月末には二本松城も落ち、会津藩が恃みとしていた仙台藩は、会津藩領からの引き揚げを始めた、米沢藩も挙動が不審になってきており、いよいよ会津藩の孤立は深まった。

母成峠の戦い

image by PIXTA / 31215270

八月になり、会津藩首脳部の要請を受け、大鳥軍は石筵口(母成峠)の守備に就いた。二本松城が陥落し、東方から敵が押し寄せてくる公算が高まったためだ。

母成峠の防衛陣地は、堡塁砲台(大砲陣地)と胸壁を組み合わせた堅固なものだったが、会津藩二百、仙台藩百、二本松藩百に、大鳥軍の四百を加えても、せいぜい八百ほどでは守りようがない(大鳥軍の多くは、いまだ藤原口等の守備に就いている)。

会津藩首脳部は、敵は白河方面から郡山を経て、中山口からやってくると思っており、そちらに会津藩主力部隊を配置していた。

しかし新政府軍は情報収集を怠らず、八月二十一日、最も脆弱と思われる石筵口を突いてきた。

兵力が三千と豊富な新政府軍は、石筵口に三方から攻め寄せ、激戦の末、母成峠に設けられた三段にわたる防衛陣地を突破し、会津盆地に向かった。

この戦いで大鳥軍は壊滅した。

それでも大鳥は北方の米沢に向かい、兵を再結集し、補給を受けた上で会津に戻ろうとするが、米沢藩は寝返りを決めており、冷たくあしらわれた。

すでに会津城下で戦いが始まったと聞いた大鳥は、死を覚悟で会津に向かう。しかし城内と連絡は取れず、戦うにも戦えない。それでも、衝鋒隊の古屋佐久左衛門らと敵の物資を分捕りながらゲリラ戦を展開したが、それも長くは続かない。

致し方なく大鳥らは仙台に向かったが、すでに仙台藩は恭順に傾いていた。

万事休した大鳥だったが、ここで榎本武揚と出会う。軍艦四隻と輸送船多数から成る榎本艦隊が、ここまで来ていたのだ。

榎本は蝦夷地(北海道)に逃れることを提案し、大鳥も同意した。

かくして大鳥や土方歳三を乗せた榎本艦隊は、一路、蝦夷地を目指すことになる。

彼らの蝦夷地での戦いは、「榎本武揚」の項で書きたいと思う。

好奇心旺盛なもう一人の龍馬

image by PIXTA / 8967146

大鳥という男の本質は学者であり、極めて合理的かつ科学的な発想を持つ。外国の文物に興味を示し、よいと思えば何の偏見もなく取り入れる姿勢は坂本龍馬に似ている。それゆえ冒頭で、「もう一人の龍馬」と書いた。

しかも大鳥は、陽気で快活な性格で誰からも好かれた。何事にも率先垂範を旨とするので、兵の信望も厚く、荒っぽいことこの上ない伝習隊士たちも、大鳥の命令一下、水火も辞さず戦った。

鳥羽・伏見の戦いが終わった後、大鳥は彼我の戦力差を検討し、伝習隊なら勝てると踏んだに違いない。むろん戦力差は流動的なので、大鳥が江戸を脱出した頃と会津から蝦夷地に渡る頃では全く様相を異にする。それでも大鳥はあきらめなかった。

そうした不屈の闘志こそ、今の日本人に必要なのではあるまいか。

五稜郭が落城する寸前、すべてに絶望した榎本が自ら命を断とうとしたのとは対照的に、大鳥は最後まであきらめず、皆を鼓舞しながら次善の策を練っていたという。

それでも時の流れには抗し難く、五稜郭は降伏開城した。

その後、大鳥は東京に連行されて牢に入れられたが、榎本らと共に二年半ほどで釈放され、その後は黒田清隆の引きで新政府の一員となり、清国特命全権公使などの職に就く。並行して大鳥は産業育成にも努め、多くの後進を育てた。とくに工学分野での貢献は大きく、日本を工業国化していくことに多大な貢献を果たした。

ただ大鳥とて、欠点がなかったとは言い難い。北関東から蝦夷地にかけての戦闘では、近代戦の教育を受けていない土方の方が顕著な実績を挙げたのは事実で、大鳥は勝機を見る目や、撤退の決断がワンテンポ遅い気がする。

知識がない分、経験と勘に頼る土方の方が用兵術に優れていた。やはり大鳥の場合、知識が邪魔になってしまったのは否めない事実だろう。とくに仏式用兵術は、平原の多いフランスでは有効でも、山や谷の凹凸が激しく、河川が入り組む日本には向いていない。そうなれば実戦経験や用兵センスが必要になるが、結果論ではなく、大鳥はその点で土方の後塵を拝していた。

現代でも、受験勉強に勝ち抜いた者が上級管理職に就くことで、極めて保守的になってしまう企業が多い。知識の蓄積は必ずしも結果に結び付かないのだ。知識だけで切り抜けられる受験と、知識プラス構想力(創造性)と実行力が必要な経営では、適性が全く異なるからだ。博覧強記というのは、逆に足枷になってしまうこともある。

明治四十四年(一九一一)、大鳥は七十九年の天寿を全うする。

武人として素志を貫徹しただけでなく、助命された後は外交官として、また教育者として日本に貢献した大鳥の生涯は、まさに悔いのないものだったに違いない。

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幕末敗者烈伝日本史明治歴史江戸時代

【3分でわかる】大鳥圭介はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる大鳥圭介の歴史

プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「大鳥圭介」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

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最後まであきらめない理系指揮官

大鳥圭介
一八三三年〈天保四年〉~一九一一年〈明治四十四年〉

どの時代でも敗者に待っているのは、死か没落だ。後世に生きるわれわれは、敗者の潔さに感銘を受け、その死に様に心を打たれる。

「判官びいき」という言葉があるように、とくに日本人は敗者に優しい。

ところがここに、そうした「敗者の美学」に最も似つかわしくない男がいる。

いくら負けてもあきらめずに戦い、もうどうにもならなくなったところで、自決せずに降伏する。それだけならまだしも、いつの間にか新しい時代を担う一人になっている。これも一つの人徳なのだろうが、そのにじみ出るような愛嬌から、この男を嫌う人は少ない。

男の名は大鳥圭介。

幕末における「もう一人の龍馬」である。

故郷、尼崎藩で頭角を現す

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大鳥は天保四年(一八三三)、播州赤穂細念村の医家に生まれた。

尼崎藩の飛び地にあたる細念村は播磨国(兵庫県南西部)の西端にあり、戸数わずか十二の小村だ。大鳥家は代々、ここで医業を営んできた。

少年期、備前国の閑谷学校で勉学に励んだ大鳥は、十九歳の時、医業を継ぐため、赤穂の中島意庵という西洋医学の権威の許で修業した。

大鳥は意庵の塾にあった蘭語で書かれた医学書の翻訳本を読み、初めて西洋文化に触れ、空理に走らないその実証性に魅せられた。

洋学への思いは募り、嘉永五年(一八五二)の春、大坂に出た大鳥は緒方洪庵の適塾に入る。そこで蘭語を学び、蘭語で書かれた兵法書を読み、その面白さに取り憑かれる。

翌嘉永六年六月にはペリーが浦賀に、翌月にはプチャーチンが長崎に来航し、諸藩で海防意識が高まり始めた。こうした情勢下で、大鳥は軍事に関する蘭書を読みふけり、その筆耕と翻訳で学資を稼いだ。筆耕とは本を書き写すことだ。

さらに多くを学びたくなった大鳥は嘉永七年八月、江戸に向かった。

緒方洪庵の紹介で蘭方医・大木忠益の塾に寄宿することになった大鳥は、医学、物理学、兵法、砲術、築城術などの蘭書を乱読し、筆耕や翻訳をした。

大鳥の博識ぶりは江戸中の識者に知れ渡り、二十五歳の時、江川太郎左衛門英敏(坦庵英龍の息子)の塾から教授職への就任を依頼された。

しかし外圧は日増しに高まり、これまで以上に海防の重要性が叫ばれ始めていた。そんな最中の安政五年(一八五八)、大鳥の故郷の領主の尼崎藩は、大鳥を士分に取り立てる。

大鳥は大小砲の鋳造、砲台築造、洋式兵制の伝授と調練などに辣腕を振るったが、尼崎藩は保守的な藩の一つで、とても大鳥の器に合うものではなかった。

それでも大鳥の名は藩外まで鳴り響き、「尼崎に過ぎたるものが二つあり。沓脱石と大鳥圭介」という戯れ歌まで生まれた。

ちなみに尼崎藩鉄砲洲藩邸の沓脱石は、四万石の身代に見合わぬほど立派で、訪れたことのある他藩士は、「分不相応」と陰口を囁いたという。

幕府歩兵奉行としてフランス流兵学を学ぶ

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由published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) – The Japanese book “幕末・明治・大正 回顧八十年史” (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho),公有领域,链接

大鳥の無尽蔵の知識と抜群の指導力を聞きつけた徳島藩蜂須賀家は、大鳥を家臣として召し抱えたいと申し出る。

尼崎藩に義理立てした大鳥はこの話を断るが、両藩の話し合いにより大鳥の移籍が決まった。安政六年、二十七歳の時だった。

さらに同年十二月、幕府は大鳥に臨時の役職を与え、練兵・製銃・築城の責任者とした。

しかし時代は沸騰を続け、安政七年三月には桜田門外の変が、文久二年(一八六二)には生麦事件が、文久四年には攘夷実行(馬関戦争)、元治元年(一八六四)には天狗党の乱、池田屋事件、禁門の変などの事件や争乱が相次いで起こっていた。

陸海軍の洋式化を急ぐ幕府は慶応二年(一八六六)、三十四歳の大鳥を幕臣に取り立てる。旗本の中でも中位に届く破格の待遇だった。

早速、幕府開成所(後の東大)の教授に就任した大鳥は、欧州諸国の兵法書を中心とした翻訳に没頭した。もちろん英語も仏語もすぐにマスターした。

大鳥の学識は幕府開成所内でも飛び抜けており、歩兵差図役から歩兵頭、そして歩兵奉行へと異例の昇進を遂げていく。

この頃から大鳥は、馬丁、陸尺(駕籠かき)、雲助、博徒、火消などを集め、四大隊三千の兵力の伝習隊を組織して有事に備え始める。

慶応三年一月、十五名のフランス軍事顧問団を迎えた大鳥たちは、横浜太田村の練兵場で厳しい訓練を始めたが、幕府の権威と屋台骨は揺らぎ続けていた。

十月、将軍徳川慶喜が突然、大政奉還する。十二月、王政復古の大号令が発せられ、慶喜の辞官納地が決定することで、旧幕府と薩長新政府の衝突は不可避となる。

そして翌慶応四年正月三日、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍は惨敗を喫した。

新政府に抵抗した開明派幕臣たち

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大鳥は幕臣の家に生まれたわけではない。また、政治活動に奔走する思想家や志士たちとも違う。出世を目指した野心家でもなく、根っからの軍人でもない。

大鳥は学究の徒だった。しかも理工系の技術専門家だ。こうした開明的で合理的な男が旧幕臣の意地を見せるなどとは、誰も思わなかったに違いない。それはオランダに留学してきた榎本武揚や、黒船と最初に接触した中島三郎助らにも言えることで、箱館の五稜郭で最後まで戦った面々が、頑迷固陋な保守派や徳川家と重代相恩の大身旗本ではなく、比較的、身分の低い開明派だったところが面白い。

もしも彼らが意地を見せていなかったら、維新後、新政府の顕官の地位は薩長土肥に独占され、敗者の側に身を置いてしまった旧幕藩の俊秀たちが、能力を発揮する場は失われたかもしれない。しかし大鳥たちのがんばりが、黒田清隆や山県有朋といった薩長の軍人たちを瞠目させ、敗者の側に身を置いた者たちの人材登用の門戸を、押し広げることにつながった。

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