そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「松平容保」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。
松平容保
一八三五年〈天保六年〉〜一八九三年〈明治二十六年〉
その任にあらずとも歴史の表舞台に立たされ、大きな役割を担わされた人物がいる。後白河法皇、足利尊氏、織田信雄、小早川秀秋、徳川慶喜などは、その典型だろう。どう贔屓目に見ても、彼らは賢者や知将とは言えず、凡庸ないしは小才子の域を出ていない。
しかしここに、ある程度の頭脳と勇気を持っていながら、歴史の渦に巻き込まれ、図らずも家臣や領民に塗炭の苦しみを味わわせてしまった人物がいる。
幕末の会津藩主・松平容保だ。
ただし、彼もまた犠牲者ではある。幕末になっても、殿様への教育というのは江戸中期のものを基本にしているので、突然、殿様から政治家になれと言われても、どうしていいか分からないのは当然だろう。
京都守護職就任
ここに高須松平家(美濃高須藩三万石)四兄弟の写真がある。右から次男の元尾張藩主・徳川慶勝(五十五歳)、五男の一橋茂徳(四十八歳)、六男の松平容保(四十四歳)、七男の元桑名藩主・松平定敬(三十三歳)の四兄弟だ(年齢は明治十一年(一八七八)の撮影時のもの)。
この写真には、激動の時代を生きてきた四人の姿が写されている。しかし同時代の志士出身者のような迫力は、写真から感じられない。彼らの印象を一言で言うと、「戸惑い」だろうか。その顔を見ていると、時代の奔流に流されに流され、ようやく河畔に這い上がったという感がある。
左から二人目が、本項の主人公の松平容保だが、この写真だけ見ると、四人の中で最も聡明で温厚そうに見える。
容保の人生とは、いかなるものだったのか。
天保六年(一八三五)、美濃高須藩主・松平義建の六男として、容保は生まれた。
弘化三年(一八四六)には、叔父にあたる会津藩主・松平容敬の養子とされ、嘉永五年(一八五二)にその家督を継ぐ。会津藩は、三代将軍家光の弟・保科正之を祖とする二十三万石の親藩大名だ(実質石高四十万石)。
家光は早くから正之の才を見抜き、死に際して四代将軍家綱の後見を託すほどに信頼した。
これにより家光を神のごとく尊崇した正之は、その死に際し、「将軍家に忠勤を尽くすことだけを考え、他藩を見て己の身の振り方を判断するな。もし二心を抱く藩主がいれば、わが子孫ではない。家臣たちは従うな」という遺訓を残した。この遺訓が仇になるとは、この時の正之は考えもしなかっただろう。
それから二百有余年の歳月が流れる。
容保が家督を継いだ翌年にあたる嘉永六年、ペリー艦隊の来航により、江戸湾の防衛強化が声高に叫ばれるようになった。幕府は品川沖に台場を構築し、有力諸藩に守備を委ねることにする。この時、会津藩は品川第二台場を任された。
安政元年(一八五四)には、日米・日露の両和親条約が結ばれ、安政六年、会津藩は台場の守備を解かれ、代わりに蝦夷地の開拓と警備を任される。
こうしたことが相次いだため会津藩の財政は窮迫し、藩士の生活も次第に苦しくなっていった。
そんな折、京都では尊王攘夷派の志士たちによる天誅が頻発し、無政府状態に陥る。
幕府は京都所司代と町奉行所では志士たちを取り締まれないと判断し、その上位に京都守護職という新たな職を設け、警察力ではなく軍事力によって治安を維持しようとした。
文久二年(一八六二)七月、幕府は容保に京都守護職就任を要請する。容保は財政難を理由に固辞するが、将軍後見職に任じられた一橋(徳川)慶喜から執拗に要請され、遂に受けてしまう。この時、慶喜は保科正之の遺訓を持ち出して説得に当たったというから、人が悪い。
これを聞いて驚いた国家老の西郷頼母や田中土佐は江戸藩邸に馳せ参じ、辞退するよう懇願するが、容保の意志は変わらなかった。
幕府は会津藩に会津南山五万石を下賜し、さらに一時金として三万両を貸与し、翌年からは米三万俵を毎年支給することにした。だが財政的に火の車の会津藩にとっては焼け石に水だった。
八月十八日の政変と蛤御門の変
同年十二月、容保は一千の兵を率いて上洛する。
翌文久三年一月には孝明天皇に拝謁し、三月の将軍家茂上洛の際も、つつがなく警護した容保は、天皇と将軍双方の信頼を勝ち取った。
また薩摩藩と軍事同盟を結び(会薩同盟)、佐幕派公家を操り、朝廷を牛耳る尊攘派公家と長州藩の追い落としを図る。これが八月十八日の政変へとつながっていく。
この政変によって、長州藩は七人の尊攘派公家と共に国元に落ちていった(七卿落ち)。
翌元治元年(一八六四)には、会津藩御預の新選組が、尊攘派志士たちが謀議中の池田屋に押し入り、長州藩士や志士たちを惨殺または逮捕した。これにより長州藩は、会津藩を不俱戴天の敵と見なすようになる。
池田屋の変の一報が長州にもたらされるや、長州藩では三家老に千六百の兵を率いさせ、上洛させることにした。その名目は「攘夷の嘆願」「三条実美ら長州派公家と藩主父子の名誉回復」だが、実際には武力に物を言わせ、政治的主導権を回復することにあった。
七月十九日、長州が御所の蛤御門に攻め込むことで、会津藩との間に戦端が開かれる。当初、押され気味だった会津藩は、薩摩藩の参戦によって窮地を脱し、激戦の末、長州藩を京洛の地から追い払うことに成功する。
この結果、第一次長州征伐が実施され、長州藩は三家老の首を差し出し、恭順の姿勢を取ることになる。
京都政局に翻弄される会津藩
ところがこの頃から、政局は混迷を極めていく。
まず会津藩の全く与り知らぬところで、薩摩藩が長州藩に接近し始めており、その政治工作によって、再度の長州征伐がうやむやになった。そんな折、将軍家茂が病死し、慶喜が将軍職に就く。慶喜は水戸藩出身で勤王の志が強い。それが後に、容保と会津藩の悲劇を助長することになる。
こうした情勢変化に会津藩は対応しきれていなかった。会津藩には公用方という情報収集担当官がおり、彼らが機能していれば、政治的にも後手に回ることはなかったはずだ。だが、容保本人にも問題があった。
この難局にあたり、容保は慶喜に追随するだけで、意見することも距離を置くこともしない。その結果、一会桑勢力の主導権を慶喜に委託する形になり、薩長同盟を探知することも、それを妨害することもできなかった。
幕末の政局全体を通して言えることだが、会津藩には「バックには幕府がある」という安心感があるためか、危機意識が乏しく、それが動きの緩慢さにつながっていた。
ところが慶応三年(一八六七)十月、慶喜は大政奉還してしまう。もちろん事前に容保も知っていただろうが、実際にどれほど相談に与り、この決定に影響力を持ったかは定かでない。というよりも慶喜にとって、容保と会津藩は忠実な番犬でしかなく、相談相手とはならなかったのだろう。
慶喜としては、王政復古となっても雄藩連合の盟主的地位に君臨するつもりでいたが、岩倉具視や大久保利通の画策により、盟主どころか辞官納地を迫られてしまう。慶喜の政治的敗北である。
このあたりの高度な政治的駆け引きに、全く容保は加わっていない。会津藩がかかわると、再び京が戦乱に見舞われると思った慶喜により、蚊帳の外に置かれたというのが定説だが、慶喜が真に容保を片腕として信頼していれば、疎外されるはずはない。
かつての味方だった薩摩からは仮想敵とされ、味方の将軍からも疎んじられるようになった会津藩は、徐々に窮地に追い込まれていく。
よく会津藩士は純朴で、京での政治的駆け引きに慣れていなかったと言われるが、薩摩も長州も政治的な駆け引きをしてきた歴史などない。これは、ひとえに会津藩士が不器用なのではなく、慶喜という身勝手な人間に利用され、振り回され、結局、スケープゴートにされたのだ。
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