プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「松平容保」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

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敗者烈伝

単行本(ソフトカバー) > 歴史・時代小説
実業之日本社
伊東 潤(著)

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価格・情報の取得:2020-06-19

将軍に利用されて捨てられたお殿様

松平容保
一八三五年〈天保六年〉〜一八九三年〈明治二十六年〉

その任にあらずとも歴史の表舞台に立たされ、大きな役割を担わされた人物がいる。後白河法皇、足利尊氏、織田信雄、小早川秀秋、徳川慶喜などは、その典型だろう。どう贔屓目に見ても、彼らは賢者や知将とは言えず、凡庸ないしは小才子の域を出ていない。

しかしここに、ある程度の頭脳と勇気を持っていながら、歴史の渦に巻き込まれ、図らずも家臣や領民に塗炭の苦しみを味わわせてしまった人物がいる。

幕末の会津藩主・松平容保だ。

ただし、彼もまた犠牲者ではある。幕末になっても、殿様への教育というのは江戸中期のものを基本にしているので、突然、殿様から政治家になれと言われても、どうしていいか分からないのは当然だろう。

京都守護職就任

image by PIXTA / 38926092

ここに高須松平家(美濃高須藩三万石)四兄弟の写真がある。右から次男の元尾張藩主・徳川慶勝(五十五歳)、五男の一橋茂徳(四十八歳)、六男の松平容保(四十四歳)、七男の元桑名藩主・松平定敬(三十三歳)の四兄弟だ(年齢は明治十一年(一八七八)の撮影時のもの)。

この写真には、激動の時代を生きてきた四人の姿が写されている。しかし同時代の志士出身者のような迫力は、写真から感じられない。彼らの印象を一言で言うと、「戸惑い」だろうか。その顔を見ていると、時代の奔流に流されに流され、ようやく河畔に這い上がったという感がある。

左から二人目が、本項の主人公の松平容保だが、この写真だけ見ると、四人の中で最も聡明で温厚そうに見える。

容保の人生とは、いかなるものだったのか。

天保六年(一八三五)、美濃高須藩主・松平義建の六男として、容保は生まれた。

弘化三年(一八四六)には、叔父にあたる会津藩主・松平容敬の養子とされ、嘉永五年(一八五二)にその家督を継ぐ。会津藩は、三代将軍家光の弟・保科正之を祖とする二十三万石の親藩大名だ(実質石高四十万石)。

家光は早くから正之の才を見抜き、死に際して四代将軍家綱の後見を託すほどに信頼した。

これにより家光を神のごとく尊崇した正之は、その死に際し、「将軍家に忠勤を尽くすことだけを考え、他藩を見て己の身の振り方を判断するな。もし二心を抱く藩主がいれば、わが子孫ではない。家臣たちは従うな」という遺訓を残した。この遺訓が仇になるとは、この時の正之は考えもしなかっただろう。

それから二百有余年の歳月が流れる。

容保が家督を継いだ翌年にあたる嘉永六年、ペリー艦隊の来航により、江戸湾の防衛強化が声高に叫ばれるようになった。幕府は品川沖に台場を構築し、有力諸藩に守備を委ねることにする。この時、会津藩は品川第二台場を任された。

安政元年(一八五四)には、日米・日露の両和親条約が結ばれ、安政六年、会津藩は台場の守備を解かれ、代わりに蝦夷地の開拓と警備を任される。

こうしたことが相次いだため会津藩の財政は窮迫し、藩士の生活も次第に苦しくなっていった。

そんな折、京都では尊王攘夷派の志士たちによる天誅が頻発し、無政府状態に陥る。

幕府は京都所司代と町奉行所では志士たちを取り締まれないと判断し、その上位に京都守護職という新たな職を設け、警察力ではなく軍事力によって治安を維持しようとした。

文久二年(一八六二)七月、幕府は容保に京都守護職就任を要請する。容保は財政難を理由に固辞するが、将軍後見職に任じられた一橋(徳川)慶喜から執拗に要請され、遂に受けてしまう。この時、慶喜は保科正之の遺訓を持ち出して説得に当たったというから、人が悪い。

これを聞いて驚いた国家老の西郷頼母や田中土佐は江戸藩邸に馳せ参じ、辞退するよう懇願するが、容保の意志は変わらなかった。

幕府は会津藩に会津南山五万石を下賜し、さらに一時金として三万両を貸与し、翌年からは米三万俵を毎年支給することにした。だが財政的に火の車の会津藩にとっては焼け石に水だった。

八月十八日の政変と蛤御門の変

image by PIXTA / 54482190

同年十二月、容保は一千の兵を率いて上洛する。

翌文久三年一月には孝明天皇に拝謁し、三月の将軍家茂上洛の際も、つつがなく警護した容保は、天皇と将軍双方の信頼を勝ち取った。

また薩摩藩と軍事同盟を結び(会薩同盟)、佐幕派公家を操り、朝廷を牛耳る尊攘派公家と長州藩の追い落としを図る。これが八月十八日の政変へとつながっていく。

この政変によって、長州藩は七人の尊攘派公家と共に国元に落ちていった(七卿落ち)。

翌元治元年(一八六四)には、会津藩御預の新選組が、尊攘派志士たちが謀議中の池田屋に押し入り、長州藩士や志士たちを惨殺または逮捕した。これにより長州藩は、会津藩を不俱戴天の敵と見なすようになる。

池田屋の変の一報が長州にもたらされるや、長州藩では三家老に千六百の兵を率いさせ、上洛させることにした。その名目は「攘夷の嘆願」「三条実美ら長州派公家と藩主父子の名誉回復」だが、実際には武力に物を言わせ、政治的主導権を回復することにあった。

七月十九日、長州が御所の蛤御門に攻め込むことで、会津藩との間に戦端が開かれる。当初、押され気味だった会津藩は、薩摩藩の参戦によって窮地を脱し、激戦の末、長州藩を京洛の地から追い払うことに成功する。

この結果、第一次長州征伐が実施され、長州藩は三家老の首を差し出し、恭順の姿勢を取ることになる。

京都政局に翻弄される会津藩

image by PIXTA / 48890567

ところがこの頃から、政局は混迷を極めていく。

まず会津藩の全く与り知らぬところで、薩摩藩が長州藩に接近し始めており、その政治工作によって、再度の長州征伐がうやむやになった。そんな折、将軍家茂が病死し、慶喜が将軍職に就く。慶喜は水戸藩出身で勤王の志が強い。それが後に、容保と会津藩の悲劇を助長することになる。

こうした情勢変化に会津藩は対応しきれていなかった。会津藩には公用方という情報収集担当官がおり、彼らが機能していれば、政治的にも後手に回ることはなかったはずだ。だが、容保本人にも問題があった。

この難局にあたり、容保は慶喜に追随するだけで、意見することも距離を置くこともしない。その結果、一会桑勢力の主導権を慶喜に委託する形になり、薩長同盟を探知することも、それを妨害することもできなかった。

幕末の政局全体を通して言えることだが、会津藩には「バックには幕府がある」という安心感があるためか、危機意識が乏しく、それが動きの緩慢さにつながっていた。

ところが慶応三年(一八六七)十月、慶喜は大政奉還してしまう。もちろん事前に容保も知っていただろうが、実際にどれほど相談に与り、この決定に影響力を持ったかは定かでない。というよりも慶喜にとって、容保と会津藩は忠実な番犬でしかなく、相談相手とはならなかったのだろう。

慶喜としては、王政復古となっても雄藩連合の盟主的地位に君臨するつもりでいたが、岩倉具視や大久保利通の画策により、盟主どころか辞官納地を迫られてしまう。慶喜の政治的敗北である。

このあたりの高度な政治的駆け引きに、全く容保は加わっていない。会津藩がかかわると、再び京が戦乱に見舞われると思った慶喜により、蚊帳の外に置かれたというのが定説だが、慶喜が真に容保を片腕として信頼していれば、疎外されるはずはない。

かつての味方だった薩摩からは仮想敵とされ、味方の将軍からも疎んじられるようになった会津藩は、徐々に窮地に追い込まれていく。

よく会津藩士は純朴で、京での政治的駆け引きに慣れていなかったと言われるが、薩摩も長州も政治的な駆け引きをしてきた歴史などない。これは、ひとえに会津藩士が不器用なのではなく、慶喜という身勝手な人間に利用され、振り回され、結局、スケープゴートにされたのだ。

\次のページで「鳥羽・伏見での敗戦」を解説!/

鳥羽・伏見での敗戦

image by PIXTA / 9166292

慶応四年一月三日、鳥羽・伏見の戦いが勃発する。

どうしても戦端を切りたい薩長方に対し、「政治的圧力をかける」(慶喜談)、つまり威嚇行動のために進軍を開始した幕府方との思惑のギャップが、この戦いの結果を左右することになる。

すでにこの時点で、慶喜が小才子なのは分かっていたはずで、また相手方に玉(天皇)を握られている限り、いつか錦旗が揚がるのも明らかだろう。

いかに藩祖の遺訓があろうが、藩士や領民の命と財産を守るのが藩主の義務だ。容保の立場なら慶喜に「勝手になされよ」と言って、兵を出さないこともできたのだ。しかも幕府方は兵力で勝っているだけで、兵器や陣取りの面で優位には立っていない。淀藩や彦根藩のように旗幟不鮮明な味方もいる。

徳川方こそ相手を力でねじ伏せねばならないのに、軍事力を使った政治的駆け引きだけで辞官納地を撤回させ、政治的立場の回復を図ろうとしたところに慶喜の甘さがある。

こうした方針に容保が反対した形跡はない。

容保と定敬(桑名藩主)の兄弟は慶喜に丸め込まれていたのか、いいように使われていたとしか思えないのだ。つまり主体的に動くことをせず、ただ命じられるままに走り回るだけなのだ。軍事力を持っていれば、いかようにも影響力を行使できるのだが、容保はそれをしなかった。

容保の判断ミスの極め付けが、鳥羽・伏見の戦いが終わらぬうちに慶喜と共に開陽丸に乗って江戸に逃げ帰ったことだ。この時、会津藩士の大半が置き去りにされ、会津藩は死者だけで百三十余も出し、なけなしの金で買った最新兵器の大半を、京洛の地に置いていかざるを得なかった。

江戸に帰った後、慶喜は勝手に謹慎恭順し、これまで頼りにしてきたことが噓のように、容保の登城を差し止めるという挙に出る。つまり容保・定敬兄弟は、土壇場になって梯子を外されたのだ。

会津戦争での敗北

image by PIXTA / 44698804

致し方なく会津に帰った容保は、和戦両様の構えを取りつつも、仙台藩や米沢藩の外交力に頼って何とか戦いを避けようとする。しかし新政府軍は有無を言わさず押し寄せてきた。

結局、奥羽越列藩同盟を頼りに戦うことに決した会津藩だったが、薩長政府の巧みな外交交渉によって列藩同盟は瓦解し、会津藩領に攻め込まれる。それでも会津藩は一カ月余にわたる籠城戦を完遂した末、降伏開城する。

小藩から養子で入った容保を当主として最後まで奉戴し、一丸となって忠節を尽くした藩士たちは実に立派だった。水戸・桑名・結城諸藩の例を見るまでもなく、他藩では内部分裂が起こり、藩主さえ追い出されかねない状況だったのだ(容保の弟の定敬は、桑名藩から追い出されたも同然となった)。

その後の会津藩についても触れておきたい。降伏後、滅藩処分とされて二十八万石を取り上げられた会津藩は、籠城戦の直前、家老兼軍事総督に就いた二十四歳の山川大蔵の下、藩の再建に取り組むことになった。朝廷から「猪苗代か陸奥国の北部・斗南の地で三万石のどちらがいいか」と選択権を与えられた大蔵は、「故郷に恋々する時にあらず」と主張し、斗南を選んだ。斗南藩となった旧会津藩士たちは厳しい自然環境の中、農地開墾にいそしむことになる。しかし斗南の実質石高は七千五百石にすぎず、栄養失調などで病死する者が相次いだ(移住者の十三パーセント)。しまいには贋金造りに精を出して斬罪に処される者や、地元商人の妾や売春婦に落ちた上級家臣の婦女子もいた。

結局、廃藩置県となって移動自由となったことで、藩士たちは斗南の地を捨て、それぞれどこかに移り住んだので、軌道に乗り始めていた大蔵の「士族授産」の道は閉ざされ、斗南の地は再び荒蕪地に戻っていった。

松平容保の敗因

image by PIXTA / 45463532

それでは、会津藩士たちにこれほどの苦しみを与えてしまった容保の失敗は、どこにあったのか。

まず幕府の力を過信しすぎたこと、将軍慶喜を信用しすぎたこと、保科正之の遺訓に縛られたことが挙げられる。

では、仮に結果が予測できていたとしたら、容保は別の道を選択できたのだろうか。

私はできないと思う。容保は巨視的観点から物事を考えるような教育を受けておらず、「徳川家追従」という方針以外、取りようがないからだ。

幕末の荒波に翻弄された容保は、悲劇の主人公とされる。しかし、その大半は己が招いたことであり、歴史の転換点に立つべき器量の持ち主ではなかったと断じざるを得ない。

容保が死したのは明治二十六年(一八九三)十二月で、享年は五十九だった。すでに幕末維新は彼方に去り、日本は工業立国への道をひた走っていた。

維新後、高須四兄弟は、誰一人として歴史の表舞台に登場することなく、ひっそりとこの世を去っていく。容保にも活躍の場はなかった。

ダイヤモンドの原石も、教育次第では石ころと変わらないことを容保は証明した。

何事もそうだが、分不相応な地位に就くことや仕事を引き受けることは、本人にとっても悲劇なのだ。普段から自分の力量を見極めておくことがいかに大切か、彼は教えてくれている。

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敗者烈伝

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幕末敗者烈伝日本史歴史江戸時代

【3分でわかる】松平容保はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる松平容保の歴史

プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「松平容保」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

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将軍に利用されて捨てられたお殿様

松平容保
一八三五年〈天保六年〉〜一八九三年〈明治二十六年〉

その任にあらずとも歴史の表舞台に立たされ、大きな役割を担わされた人物がいる。後白河法皇、足利尊氏、織田信雄、小早川秀秋、徳川慶喜などは、その典型だろう。どう贔屓目に見ても、彼らは賢者や知将とは言えず、凡庸ないしは小才子の域を出ていない。

しかしここに、ある程度の頭脳と勇気を持っていながら、歴史の渦に巻き込まれ、図らずも家臣や領民に塗炭の苦しみを味わわせてしまった人物がいる。

幕末の会津藩主・松平容保だ。

ただし、彼もまた犠牲者ではある。幕末になっても、殿様への教育というのは江戸中期のものを基本にしているので、突然、殿様から政治家になれと言われても、どうしていいか分からないのは当然だろう。

京都守護職就任

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ここに高須松平家(美濃高須藩三万石)四兄弟の写真がある。右から次男の元尾張藩主・徳川慶勝(五十五歳)、五男の一橋茂徳(四十八歳)、六男の松平容保(四十四歳)、七男の元桑名藩主・松平定敬(三十三歳)の四兄弟だ(年齢は明治十一年(一八七八)の撮影時のもの)。

この写真には、激動の時代を生きてきた四人の姿が写されている。しかし同時代の志士出身者のような迫力は、写真から感じられない。彼らの印象を一言で言うと、「戸惑い」だろうか。その顔を見ていると、時代の奔流に流されに流され、ようやく河畔に這い上がったという感がある。

左から二人目が、本項の主人公の松平容保だが、この写真だけ見ると、四人の中で最も聡明で温厚そうに見える。

容保の人生とは、いかなるものだったのか。

天保六年(一八三五)、美濃高須藩主・松平義建の六男として、容保は生まれた。

弘化三年(一八四六)には、叔父にあたる会津藩主・松平容敬の養子とされ、嘉永五年(一八五二)にその家督を継ぐ。会津藩は、三代将軍家光の弟・保科正之を祖とする二十三万石の親藩大名だ(実質石高四十万石)。

家光は早くから正之の才を見抜き、死に際して四代将軍家綱の後見を託すほどに信頼した。

これにより家光を神のごとく尊崇した正之は、その死に際し、「将軍家に忠勤を尽くすことだけを考え、他藩を見て己の身の振り方を判断するな。もし二心を抱く藩主がいれば、わが子孫ではない。家臣たちは従うな」という遺訓を残した。この遺訓が仇になるとは、この時の正之は考えもしなかっただろう。

それから二百有余年の歳月が流れる。

容保が家督を継いだ翌年にあたる嘉永六年、ペリー艦隊の来航により、江戸湾の防衛強化が声高に叫ばれるようになった。幕府は品川沖に台場を構築し、有力諸藩に守備を委ねることにする。この時、会津藩は品川第二台場を任された。

安政元年(一八五四)には、日米・日露の両和親条約が結ばれ、安政六年、会津藩は台場の守備を解かれ、代わりに蝦夷地の開拓と警備を任される。

こうしたことが相次いだため会津藩の財政は窮迫し、藩士の生活も次第に苦しくなっていった。

そんな折、京都では尊王攘夷派の志士たちによる天誅が頻発し、無政府状態に陥る。

幕府は京都所司代と町奉行所では志士たちを取り締まれないと判断し、その上位に京都守護職という新たな職を設け、警察力ではなく軍事力によって治安を維持しようとした。

文久二年(一八六二)七月、幕府は容保に京都守護職就任を要請する。容保は財政難を理由に固辞するが、将軍後見職に任じられた一橋(徳川)慶喜から執拗に要請され、遂に受けてしまう。この時、慶喜は保科正之の遺訓を持ち出して説得に当たったというから、人が悪い。

これを聞いて驚いた国家老の西郷頼母や田中土佐は江戸藩邸に馳せ参じ、辞退するよう懇願するが、容保の意志は変わらなかった。

幕府は会津藩に会津南山五万石を下賜し、さらに一時金として三万両を貸与し、翌年からは米三万俵を毎年支給することにした。だが財政的に火の車の会津藩にとっては焼け石に水だった。

八月十八日の政変と蛤御門の変

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同年十二月、容保は一千の兵を率いて上洛する。

翌文久三年一月には孝明天皇に拝謁し、三月の将軍家茂上洛の際も、つつがなく警護した容保は、天皇と将軍双方の信頼を勝ち取った。

また薩摩藩と軍事同盟を結び(会薩同盟)、佐幕派公家を操り、朝廷を牛耳る尊攘派公家と長州藩の追い落としを図る。これが八月十八日の政変へとつながっていく。

この政変によって、長州藩は七人の尊攘派公家と共に国元に落ちていった(七卿落ち)。

翌元治元年(一八六四)には、会津藩御預の新選組が、尊攘派志士たちが謀議中の池田屋に押し入り、長州藩士や志士たちを惨殺または逮捕した。これにより長州藩は、会津藩を不俱戴天の敵と見なすようになる。

池田屋の変の一報が長州にもたらされるや、長州藩では三家老に千六百の兵を率いさせ、上洛させることにした。その名目は「攘夷の嘆願」「三条実美ら長州派公家と藩主父子の名誉回復」だが、実際には武力に物を言わせ、政治的主導権を回復することにあった。

七月十九日、長州が御所の蛤御門に攻め込むことで、会津藩との間に戦端が開かれる。当初、押され気味だった会津藩は、薩摩藩の参戦によって窮地を脱し、激戦の末、長州藩を京洛の地から追い払うことに成功する。

この結果、第一次長州征伐が実施され、長州藩は三家老の首を差し出し、恭順の姿勢を取ることになる。

京都政局に翻弄される会津藩

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ところがこの頃から、政局は混迷を極めていく。

まず会津藩の全く与り知らぬところで、薩摩藩が長州藩に接近し始めており、その政治工作によって、再度の長州征伐がうやむやになった。そんな折、将軍家茂が病死し、慶喜が将軍職に就く。慶喜は水戸藩出身で勤王の志が強い。それが後に、容保と会津藩の悲劇を助長することになる。

こうした情勢変化に会津藩は対応しきれていなかった。会津藩には公用方という情報収集担当官がおり、彼らが機能していれば、政治的にも後手に回ることはなかったはずだ。だが、容保本人にも問題があった。

この難局にあたり、容保は慶喜に追随するだけで、意見することも距離を置くこともしない。その結果、一会桑勢力の主導権を慶喜に委託する形になり、薩長同盟を探知することも、それを妨害することもできなかった。

幕末の政局全体を通して言えることだが、会津藩には「バックには幕府がある」という安心感があるためか、危機意識が乏しく、それが動きの緩慢さにつながっていた。

ところが慶応三年(一八六七)十月、慶喜は大政奉還してしまう。もちろん事前に容保も知っていただろうが、実際にどれほど相談に与り、この決定に影響力を持ったかは定かでない。というよりも慶喜にとって、容保と会津藩は忠実な番犬でしかなく、相談相手とはならなかったのだろう。

慶喜としては、王政復古となっても雄藩連合の盟主的地位に君臨するつもりでいたが、岩倉具視や大久保利通の画策により、盟主どころか辞官納地を迫られてしまう。慶喜の政治的敗北である。

このあたりの高度な政治的駆け引きに、全く容保は加わっていない。会津藩がかかわると、再び京が戦乱に見舞われると思った慶喜により、蚊帳の外に置かれたというのが定説だが、慶喜が真に容保を片腕として信頼していれば、疎外されるはずはない。

かつての味方だった薩摩からは仮想敵とされ、味方の将軍からも疎んじられるようになった会津藩は、徐々に窮地に追い込まれていく。

よく会津藩士は純朴で、京での政治的駆け引きに慣れていなかったと言われるが、薩摩も長州も政治的な駆け引きをしてきた歴史などない。これは、ひとえに会津藩士が不器用なのではなく、慶喜という身勝手な人間に利用され、振り回され、結局、スケープゴートにされたのだ。

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