プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「徳川慶喜」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

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敗者烈伝

単行本(ソフトカバー) > 歴史・時代小説
実業之日本社
伊東 潤(著)

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思いつきで動き回って自滅した小才子

徳川慶喜
一八三七年〈天保八年〉~一九一三年〈大正二年〉

徳川慶喜ほど、評価の難しい敗者はいないだろう。大物なのか小物なのか、果断なのか優柔不断なのか、深慮遠謀があるのかないのか、その時によって全く違った顔を見せるので、今でも評価が一定しない。

慶喜はなまじ頭がいいので、何事もすぐに理解できる。しかし何か閃くと、反射的に判断してしまう。そうした思いつきの繰り返しが、後で取り返しのつかないことになっていくのだが、慶喜は生涯、その性癖を顧みようとはしなかった。

常人であれば、そうした性癖を周囲から批判されて矯正するものだが、慶喜は貴種の上に幼少の頃から優秀という定評があったため、それを批判する人は現れず、結局、政局を混迷に陥れた挙句、徳川家を滅亡の淵にまで追い込んでしまう。

慶喜とはいったい、何者だったのだろうか。

将軍継嗣問題での敗北と慶喜の復活

image by PIXTA / 54893402

天保八年(一八三七)九月、慶喜は水戸徳川家九代藩主・斉昭の七男として生まれた。弘化四年(一八四七)には、後嗣の絶えた一橋家十万石を相続する。

この少し前から、日本には外国船の来航が相次いでいたが、嘉永六年(一八五三)にやってきたペリー艦隊は、幕府に開国要求を突き付けてきた。日本国内は攘夷か開国かで沸騰する。それでも幕閣はペリー艦隊の圧力に抗しきれず、翌年には日米和親条約を締結する。

こうした情勢変化により、次期将軍候補を早めに決めておこうとなる。そこで一橋慶喜の名が浮上してくる。対立候補は紀州和歌山藩主の慶福だが、慶福は八歳にすぎず、十七歳の慶喜が有力視された。

ところが安政五年(一八五八)四月、老中首座に就いた井伊直弼により、日米修好通商条約の締結と慶福の継嗣決定が発表される。六月には米国との間で調印も行われ、七月に十三代将軍家定が死去したことを受けて、慶福が家茂と改名して将軍となった。

これに対し、勅許を得ずして条約に調印したことを怒った孝明天皇とその廷臣たちは、これまで幕府を通して諸藩に通達していた勅書を直接、水戸藩に下す(戊午の密勅)。これが井伊の怒りに火をつけて安政の大獄が始まった。

この時、慶喜は朝廷に対する井伊の非礼を詰問したため、謹慎に処せられた。ところが安政七年三月、江戸城桜田門外で井伊大老が暗殺される。これを引き継いだ老中の久世広周と安藤信正は、孝明天皇の妹の和宮を将軍家茂に降嫁させ、朝廷との融和を図ろうとするが、その代償として日米修好通商条約の破棄と攘夷実行を約束させられた。

すでにこの頃、慶喜は謹慎を解かれており、再び注目を集め始める。

文久二年(一八六二)四月、薩摩藩主の父・島津久光は率兵上京の上、勅使を連れて江戸に下り、慶喜の将軍後見職就任と松平春嶽の政事総裁職就任を幕府に認めさせた。これにより慶喜は政治の表舞台に登場する。

一会桑政権の成立

image by PIXTA / 46534333

文久三年一月、慶喜は初めて上洛を果たすが、朝廷は長州・土佐両藩に牛耳られており、逆に攘夷実行を迫られる始末だった。これに慶喜と春嶽は抗しきれず、上洛予定の将軍家茂に対して攘夷を要請すると約束させられた。しかも悪いことに、こうした状況を悲観した春嶽が、政事総裁職を辞任して国元に帰ってしまった。

結局、家茂も五月十日を攘夷期限とすることに同意したが、これでは開国の方針で一致していた幕府の面子は丸つぶれとなる。

その後、江戸に戻った慶喜は老中たちから突き上げを食らい、将軍後見職を辞すことになる。

五月十日には予定通り、長州藩が下関海峡を通る外国船を砲撃した。

こうした危機に際して六月、家茂は慶喜に復職を迫る。これを受けた慶喜は、幕政に復帰すると横浜鎖港を貫き、幕閣内の開国派の追放に努める。この奉勅攘夷路線を貫く限り、朝廷は幕府を否定できず、幕府は延命できると思われた。

一方、京都守護職の会津藩と共に公武合体を貫こうとする薩摩藩は、これを苦々しく思っていた。そこで双方が手を組んで実行したのが、八月十八日の政変(文久の政変)だった。これにより長州藩とその与党は、尊攘派公家七人と共に京都を追い落とされる(七卿落ち)。

こうした風向きの変化に敏感に反応した慶喜は十一月、上洛を果たし、島津久光、伊達宗城、松平春嶽らと共に参与会議を催した。

かくして新たな政治体制を発足させた慶喜だったが、長州藩の措置をめぐって島津久光と対立した挙句、泥酔した慶喜がほかの参与たちを罵倒するに至り、呆気なく参与会議は崩壊してしまう。この一件で薩摩藩は公武合体策を捨て、倒幕へと傾いていくのだから慶喜の罪は重い。

慶喜にとって、この時点で参与会議を崩壊させるメリットは全くない。明治になってから、「このままでは薩摩藩に朝廷を牛耳られるので、あれはわざとやった」などと言っているが、言い訳なのは明らかだろう。厳しい見方だが、諸侯と駆け引きするプレッシャーに堪えきれず酒に逃避し、自ら拠って立つべき体制を崩したのだ。

それでも元治元年(一八六四)三月、慶喜は朝廷に擦り寄り、禁裏御守衛総督という新設の役職に任命された。幕府と距離を取った慶喜は、京都守護職の会津藩と同所司代の桑名藩の軍事力を背景に、京都政界を支配する。これは後に一会桑勢力と呼ばれる(一とは一橋家のこと)。

幕末を分かりにくくしていることの一つに、幕閣とこの頃の一会桑勢力が、一枚岩でなかったことが挙げられる。加賀藩などは、幕府と距離を取る慶喜のことを「幕府の食客」と呼んでいた(『葉原日記』)。

水戸天狗党事件

image by PIXTA / 40760120

こうした流れを挽回すべく巻き返しに出た長州藩だったが、同年六月の池田屋事件と七月の禁門の変で、有為の士の多くを失い、京都政局からの後退を余儀なくされる。

これにより慶喜の権力基盤は盤石になるかと思われたが、この頃、別の問題が発生していた。水戸天狗党事件である。

同年三月、横浜の即時鎖港を求め、筑波山で挙兵した水戸藩尊攘派の天狗党だったが、幕府軍の攻撃を受けたため、慶喜に嘆願するという名目で上洛の途に就いた。

途次の諸藩は天狗党を止められず、越前まで至ったところで、力尽きた天狗党は加賀藩に投降する。この時、諸藩の兵で構成された追討軍を率いていたのが慶喜だった。

当初、慶喜は天狗党の扱いをめぐり、寛大な沙汰を下すつもりでいた。ところが江戸から天狗党を追ってきた田沼玄蕃頭に引き渡しを要求されると、その場ですんなり了解してしまった。

維新後、慶喜は史談会の席上でこう語っている。

「どうせ何と言っても助からぬのだ。助からぬ者を救おうと言い出しても何にもならぬ。それをやると自分自身がやられる。(中略)降伏した者は今日受け取ります。お渡しします。さようなら、それっきりだ。それですぐに首を斬った」

その思いやりのなさや、自己保身しか考えない無責任さには呆れるばかりだが、これが「殿様育ち」の慶喜の実像なのだ。

慶喜の側用人の原市之進は、「此度の一件は主人の一存で決めたことで、実のところ自分も困惑している」と、投げやりな態度で詰問に来た加賀藩の使者に応じている。つまり田沼と会う前の打ち合わせで、慶喜とその幕僚は「天狗党を幕府に渡さない」ことで一致していたのだ。ところが慶喜は田沼の説得に応じてしまった。その結果、天狗党三百五十二人の斬首刑が執行された。これにより慶喜は、諸国の尊攘派志士たちの信望を失うことになる。

この時、天狗党を投降先の加賀藩預かりにするなどして時を過ごさせてしまえば、後に天狗党は、慶喜の強力な旗本になったはずだ。

薩摩藩の大久保利通は、その日記に「実に聞くに堪えざる次第なり、是を以て幕滅亡のしるしと察せられ候」と記している。ここでの「幕」とは幕府のことだ。

その後も長州処分問題や条約勅許問題などで、慶喜は政治的暗躍を繰り広げるが、朝廷、幕閣、薩摩藩などから「変説漢(変節ではない)」「二心殿」などと呼ばれるようになり、会津・桑名両藩なくして、その政治基盤は危ういものとなっていった。慶喜が小知恵を働かせて動けば動くほど状況は悪化し、周囲は慶喜から離れていくのだ。

\次のページで「一貫性を欠く慶喜の行動」を解説!/

一貫性を欠く慶喜の行動

image by PIXTA / 29011949

慶喜と一会桑勢力が断固として譲らなかった長州征伐だが、慶応二年(一八六六)の第二次征伐は無残な敗北に終わり、幕府の権威は失墜する。

こうした最中に将軍家茂が病死する。板倉勝静や小笠原長行ら老中は慶喜に将軍職就任を願い出るが、慶喜はこれを拒んだ。確かに、ここで将軍に就任するのは火中の栗を拾うに等しい。だがほかに適任者がいないのだから、すぐに受けるべきだろう。

慶喜としては、諸方面からの熱望によって「致し方なく」という形を取ろうとしたらしい。しかし西郷や大久保が、これを機に将軍職そのものを廃し、政体を雄藩諸侯の合議制に移行しようとしているという情報を摑み、慌てて受諾した。

ここまで読めば分かると思うが、慶喜という男は頭の回転は速いのだが、一貫したビジョンや政治方針はなく、その時々の状況に応じ、方針をころころ変えていくだけなのだ。

四カ月間の将軍空位期間を経た慶応二年(一八六六)十二月、慶喜は十五代将軍に就く。ところが慶喜を高く評価していた孝明天皇が、慶喜の将軍就任から、わずか二十日後に崩御してしまう。これにより庇護者を失った慶喜は、反幕勢力を抑え込むことができなくなる。

致し方なく慶喜は、長州藩に対して寛大な措置を求める春嶽や宗城らと妥協する。ところが今度は、対長州強硬論を唱える会津藩との関係が険悪になってしまう。

一方、長らく公武合体論を唱えてきた薩摩藩だが、この頃になると、長州藩と手を組んで秘密裏に倒幕計画を進めていた(まだ討幕ではない)。

こうした最中、土佐藩の後藤象二郎が慶喜に大政奉還を勧めてきた。会津藩と距離ができて立場が不安定になっていた慶喜は、この話に乗った。慶喜としては、あえて政権を放り出すことで徳川家の領土と権益を守るつもりでいた。結果として、この判断は日本国の将来という大局的見地に立った英断とされ、この一事をもって慶喜の評価は高くなるのだが、実際には、それしか手がなかったからそうしただけなのだ。

慶喜としては大政奉還までしたのだから、自分が新政府の中心の座(議定職)に就くことは当然だと思っていた。ところが薩摩藩の大久保利通や西郷隆盛は、慶喜に辞官納地を申し渡す。慶喜はいきり立つ会津藩士らをなだめて大坂城に移ったので、双方の武力衝突はなくなったかに見えた。この時の慶喜は、交渉によって事態の打開を図ろうとしていたのだろう。

ところが江戸から急使が入り、庄内藩による薩摩藩邸焼き討ちが知らされた。この事件は、江戸を混乱に陥れようとする薩摩藩によって画策された挑発に、幕府と江戸警備に当たっていた庄内藩が乗ってしまったことによる。

それでも慶喜は新政府の議定職の一人に内定しており、まだ妥協の余地はあった。ところが慶喜は、いきり立つ会津藩などに担がれ、「討薩表」を掲げて数千の兵と共に京を目指すのだ。これだけ方針に一貫性がない人物は、歴史上でも希有だろう。

徳川幕府を滅ぼした慶喜

image by PIXTA / 5975004

後に慶喜は、あれは軍事力による威嚇行動だったと言い訳しているが、慶喜が会津藩に「威嚇だから戦うな」と通達した形跡はなく、明らかな後付けの言い訳だろう。

これにより鳥羽・伏見の戦いが勃発し、この戦いに敗れた慶喜は大坂城を捨て、江戸で謹慎恭順を貫くことになる。

結局、四百三十万石あった徳川家の家禄は、駿河七十万石に減らされ、六万人いた幕臣とその家族の八割方が食えなくなった。その原因のすべてを慶喜に帰すのは酷だが、幕府の舵取りを担った者として、相応の責任があるのは言うまでもない。

それでは慶喜は、なぜ敗者となったのか。

慶喜という男は根っからの利己主義者で、何かを判断する時、いつも自分というものを考えてしまう。つまり大局観や自己犠牲の気持ちが欠如しており、天下国家という観点に立てないのだ。その上、「いらち(京都弁でせっかち)」なため、小知恵を働かせた策動に終始し、目先の帳尻を合わせているうちに信望を失っていくという悪循環に陥ってしまう。

この時代は、吉田松陰、西郷隆盛、勝海舟のように利己心を捨てられる大人物が多いので、慶喜の自己愛ぶりが、いっそう目立ってしまう。

もしも明治維新がソフトランディングし、慶喜のような人物に政局の中心に居座り続けられたら、日本はどうなっていたか分からない。歴史の流れ次第では、初代総理大臣ということも考えられたのだ。

明治五年(一八七二)、従四位に叙されて復権した慶喜は、何不自由ない隠居生活を満喫し、馬齢を重ねた末、大正二年(一九一三)、七十七歳という歴代将軍最高齢で死去する。

その長い晩年において、慶喜は趣味の狩猟や写真撮影を楽しむこと以外、何もしなかった。天狗党はもとより、徳川家のために死んでいった者たちの墓に花の一つを手向けるでもなく、自費で碑を建てるでもなく、全くと言っていいほど、維新の犠牲者たちを追悼する姿勢を見せなかった。史談会に招かれても自己弁護を展開し、己の名誉を守ることに終始した。私が調べた限り、徳川家のために死んでいった者たちに追悼の意を述べたことは、一度としてない。

慶喜は失敗を自責で考えることなく、反省や追悼の姿勢を示すこともせず、生涯を小才子のまま終わらせた。人の上に立つ者は頭がいいだけでは務まらないことを、慶喜はわれわれに教えてくれている。

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敗者烈伝

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幕末敗者烈伝日本史歴史江戸時代

【3分でわかる】徳川慶喜はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる徳川慶喜の歴史

プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「徳川慶喜」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

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思いつきで動き回って自滅した小才子

徳川慶喜
一八三七年〈天保八年〉~一九一三年〈大正二年〉

徳川慶喜ほど、評価の難しい敗者はいないだろう。大物なのか小物なのか、果断なのか優柔不断なのか、深慮遠謀があるのかないのか、その時によって全く違った顔を見せるので、今でも評価が一定しない。

慶喜はなまじ頭がいいので、何事もすぐに理解できる。しかし何か閃くと、反射的に判断してしまう。そうした思いつきの繰り返しが、後で取り返しのつかないことになっていくのだが、慶喜は生涯、その性癖を顧みようとはしなかった。

常人であれば、そうした性癖を周囲から批判されて矯正するものだが、慶喜は貴種の上に幼少の頃から優秀という定評があったため、それを批判する人は現れず、結局、政局を混迷に陥れた挙句、徳川家を滅亡の淵にまで追い込んでしまう。

慶喜とはいったい、何者だったのだろうか。

将軍継嗣問題での敗北と慶喜の復活

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天保八年(一八三七)九月、慶喜は水戸徳川家九代藩主・斉昭の七男として生まれた。弘化四年(一八四七)には、後嗣の絶えた一橋家十万石を相続する。

この少し前から、日本には外国船の来航が相次いでいたが、嘉永六年(一八五三)にやってきたペリー艦隊は、幕府に開国要求を突き付けてきた。日本国内は攘夷か開国かで沸騰する。それでも幕閣はペリー艦隊の圧力に抗しきれず、翌年には日米和親条約を締結する。

こうした情勢変化により、次期将軍候補を早めに決めておこうとなる。そこで一橋慶喜の名が浮上してくる。対立候補は紀州和歌山藩主の慶福だが、慶福は八歳にすぎず、十七歳の慶喜が有力視された。

ところが安政五年(一八五八)四月、老中首座に就いた井伊直弼により、日米修好通商条約の締結と慶福の継嗣決定が発表される。六月には米国との間で調印も行われ、七月に十三代将軍家定が死去したことを受けて、慶福が家茂と改名して将軍となった。

これに対し、勅許を得ずして条約に調印したことを怒った孝明天皇とその廷臣たちは、これまで幕府を通して諸藩に通達していた勅書を直接、水戸藩に下す(戊午の密勅)。これが井伊の怒りに火をつけて安政の大獄が始まった。

この時、慶喜は朝廷に対する井伊の非礼を詰問したため、謹慎に処せられた。ところが安政七年三月、江戸城桜田門外で井伊大老が暗殺される。これを引き継いだ老中の久世広周と安藤信正は、孝明天皇の妹の和宮を将軍家茂に降嫁させ、朝廷との融和を図ろうとするが、その代償として日米修好通商条約の破棄と攘夷実行を約束させられた。

すでにこの頃、慶喜は謹慎を解かれており、再び注目を集め始める。

文久二年(一八六二)四月、薩摩藩主の父・島津久光は率兵上京の上、勅使を連れて江戸に下り、慶喜の将軍後見職就任と松平春嶽の政事総裁職就任を幕府に認めさせた。これにより慶喜は政治の表舞台に登場する。

一会桑政権の成立

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文久三年一月、慶喜は初めて上洛を果たすが、朝廷は長州・土佐両藩に牛耳られており、逆に攘夷実行を迫られる始末だった。これに慶喜と春嶽は抗しきれず、上洛予定の将軍家茂に対して攘夷を要請すると約束させられた。しかも悪いことに、こうした状況を悲観した春嶽が、政事総裁職を辞任して国元に帰ってしまった。

結局、家茂も五月十日を攘夷期限とすることに同意したが、これでは開国の方針で一致していた幕府の面子は丸つぶれとなる。

その後、江戸に戻った慶喜は老中たちから突き上げを食らい、将軍後見職を辞すことになる。

五月十日には予定通り、長州藩が下関海峡を通る外国船を砲撃した。

こうした危機に際して六月、家茂は慶喜に復職を迫る。これを受けた慶喜は、幕政に復帰すると横浜鎖港を貫き、幕閣内の開国派の追放に努める。この奉勅攘夷路線を貫く限り、朝廷は幕府を否定できず、幕府は延命できると思われた。

一方、京都守護職の会津藩と共に公武合体を貫こうとする薩摩藩は、これを苦々しく思っていた。そこで双方が手を組んで実行したのが、八月十八日の政変(文久の政変)だった。これにより長州藩とその与党は、尊攘派公家七人と共に京都を追い落とされる(七卿落ち)。

こうした風向きの変化に敏感に反応した慶喜は十一月、上洛を果たし、島津久光、伊達宗城、松平春嶽らと共に参与会議を催した。

かくして新たな政治体制を発足させた慶喜だったが、長州藩の措置をめぐって島津久光と対立した挙句、泥酔した慶喜がほかの参与たちを罵倒するに至り、呆気なく参与会議は崩壊してしまう。この一件で薩摩藩は公武合体策を捨て、倒幕へと傾いていくのだから慶喜の罪は重い。

慶喜にとって、この時点で参与会議を崩壊させるメリットは全くない。明治になってから、「このままでは薩摩藩に朝廷を牛耳られるので、あれはわざとやった」などと言っているが、言い訳なのは明らかだろう。厳しい見方だが、諸侯と駆け引きするプレッシャーに堪えきれず酒に逃避し、自ら拠って立つべき体制を崩したのだ。

それでも元治元年(一八六四)三月、慶喜は朝廷に擦り寄り、禁裏御守衛総督という新設の役職に任命された。幕府と距離を取った慶喜は、京都守護職の会津藩と同所司代の桑名藩の軍事力を背景に、京都政界を支配する。これは後に一会桑勢力と呼ばれる(一とは一橋家のこと)。

幕末を分かりにくくしていることの一つに、幕閣とこの頃の一会桑勢力が、一枚岩でなかったことが挙げられる。加賀藩などは、幕府と距離を取る慶喜のことを「幕府の食客」と呼んでいた(『葉原日記』)。

水戸天狗党事件

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こうした流れを挽回すべく巻き返しに出た長州藩だったが、同年六月の池田屋事件と七月の禁門の変で、有為の士の多くを失い、京都政局からの後退を余儀なくされる。

これにより慶喜の権力基盤は盤石になるかと思われたが、この頃、別の問題が発生していた。水戸天狗党事件である。

同年三月、横浜の即時鎖港を求め、筑波山で挙兵した水戸藩尊攘派の天狗党だったが、幕府軍の攻撃を受けたため、慶喜に嘆願するという名目で上洛の途に就いた。

途次の諸藩は天狗党を止められず、越前まで至ったところで、力尽きた天狗党は加賀藩に投降する。この時、諸藩の兵で構成された追討軍を率いていたのが慶喜だった。

当初、慶喜は天狗党の扱いをめぐり、寛大な沙汰を下すつもりでいた。ところが江戸から天狗党を追ってきた田沼玄蕃頭に引き渡しを要求されると、その場ですんなり了解してしまった。

維新後、慶喜は史談会の席上でこう語っている。

「どうせ何と言っても助からぬのだ。助からぬ者を救おうと言い出しても何にもならぬ。それをやると自分自身がやられる。(中略)降伏した者は今日受け取ります。お渡しします。さようなら、それっきりだ。それですぐに首を斬った」

その思いやりのなさや、自己保身しか考えない無責任さには呆れるばかりだが、これが「殿様育ち」の慶喜の実像なのだ。

慶喜の側用人の原市之進は、「此度の一件は主人の一存で決めたことで、実のところ自分も困惑している」と、投げやりな態度で詰問に来た加賀藩の使者に応じている。つまり田沼と会う前の打ち合わせで、慶喜とその幕僚は「天狗党を幕府に渡さない」ことで一致していたのだ。ところが慶喜は田沼の説得に応じてしまった。その結果、天狗党三百五十二人の斬首刑が執行された。これにより慶喜は、諸国の尊攘派志士たちの信望を失うことになる。

この時、天狗党を投降先の加賀藩預かりにするなどして時を過ごさせてしまえば、後に天狗党は、慶喜の強力な旗本になったはずだ。

薩摩藩の大久保利通は、その日記に「実に聞くに堪えざる次第なり、是を以て幕滅亡のしるしと察せられ候」と記している。ここでの「幕」とは幕府のことだ。

その後も長州処分問題や条約勅許問題などで、慶喜は政治的暗躍を繰り広げるが、朝廷、幕閣、薩摩藩などから「変説漢(変節ではない)」「二心殿」などと呼ばれるようになり、会津・桑名両藩なくして、その政治基盤は危ういものとなっていった。慶喜が小知恵を働かせて動けば動くほど状況は悪化し、周囲は慶喜から離れていくのだ。

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