
そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「徳川慶喜」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。
徳川慶喜
一八三七年〈天保八年〉~一九一三年〈大正二年〉
徳川慶喜ほど、評価の難しい敗者はいないだろう。大物なのか小物なのか、果断なのか優柔不断なのか、深慮遠謀があるのかないのか、その時によって全く違った顔を見せるので、今でも評価が一定しない。
慶喜はなまじ頭がいいので、何事もすぐに理解できる。しかし何か閃くと、反射的に判断してしまう。そうした思いつきの繰り返しが、後で取り返しのつかないことになっていくのだが、慶喜は生涯、その性癖を顧みようとはしなかった。
常人であれば、そうした性癖を周囲から批判されて矯正するものだが、慶喜は貴種の上に幼少の頃から優秀という定評があったため、それを批判する人は現れず、結局、政局を混迷に陥れた挙句、徳川家を滅亡の淵にまで追い込んでしまう。
慶喜とはいったい、何者だったのだろうか。
将軍継嗣問題での敗北と慶喜の復活

天保八年(一八三七)九月、慶喜は水戸徳川家九代藩主・斉昭の七男として生まれた。弘化四年(一八四七)には、後嗣の絶えた一橋家十万石を相続する。
この少し前から、日本には外国船の来航が相次いでいたが、嘉永六年(一八五三)にやってきたペリー艦隊は、幕府に開国要求を突き付けてきた。日本国内は攘夷か開国かで沸騰する。それでも幕閣はペリー艦隊の圧力に抗しきれず、翌年には日米和親条約を締結する。
こうした情勢変化により、次期将軍候補を早めに決めておこうとなる。そこで一橋慶喜の名が浮上してくる。対立候補は紀州和歌山藩主の慶福だが、慶福は八歳にすぎず、十七歳の慶喜が有力視された。
ところが安政五年(一八五八)四月、老中首座に就いた井伊直弼により、日米修好通商条約の締結と慶福の継嗣決定が発表される。六月には米国との間で調印も行われ、七月に十三代将軍家定が死去したことを受けて、慶福が家茂と改名して将軍となった。
これに対し、勅許を得ずして条約に調印したことを怒った孝明天皇とその廷臣たちは、これまで幕府を通して諸藩に通達していた勅書を直接、水戸藩に下す(戊午の密勅)。これが井伊の怒りに火をつけて安政の大獄が始まった。
この時、慶喜は朝廷に対する井伊の非礼を詰問したため、謹慎に処せられた。ところが安政七年三月、江戸城桜田門外で井伊大老が暗殺される。これを引き継いだ老中の久世広周と安藤信正は、孝明天皇の妹の和宮を将軍家茂に降嫁させ、朝廷との融和を図ろうとするが、その代償として日米修好通商条約の破棄と攘夷実行を約束させられた。
すでにこの頃、慶喜は謹慎を解かれており、再び注目を集め始める。
文久二年(一八六二)四月、薩摩藩主の父・島津久光は率兵上京の上、勅使を連れて江戸に下り、慶喜の将軍後見職就任と松平春嶽の政事総裁職就任を幕府に認めさせた。これにより慶喜は政治の表舞台に登場する。
一会桑政権の成立

文久三年一月、慶喜は初めて上洛を果たすが、朝廷は長州・土佐両藩に牛耳られており、逆に攘夷実行を迫られる始末だった。これに慶喜と春嶽は抗しきれず、上洛予定の将軍家茂に対して攘夷を要請すると約束させられた。しかも悪いことに、こうした状況を悲観した春嶽が、政事総裁職を辞任して国元に帰ってしまった。
結局、家茂も五月十日を攘夷期限とすることに同意したが、これでは開国の方針で一致していた幕府の面子は丸つぶれとなる。
その後、江戸に戻った慶喜は老中たちから突き上げを食らい、将軍後見職を辞すことになる。
五月十日には予定通り、長州藩が下関海峡を通る外国船を砲撃した。
こうした危機に際して六月、家茂は慶喜に復職を迫る。これを受けた慶喜は、幕政に復帰すると横浜鎖港を貫き、幕閣内の開国派の追放に努める。この奉勅攘夷路線を貫く限り、朝廷は幕府を否定できず、幕府は延命できると思われた。
一方、京都守護職の会津藩と共に公武合体を貫こうとする薩摩藩は、これを苦々しく思っていた。そこで双方が手を組んで実行したのが、八月十八日の政変(文久の政変)だった。これにより長州藩とその与党は、尊攘派公家七人と共に京都を追い落とされる(七卿落ち)。
こうした風向きの変化に敏感に反応した慶喜は十一月、上洛を果たし、島津久光、伊達宗城、松平春嶽らと共に参与会議を催した。
かくして新たな政治体制を発足させた慶喜だったが、長州藩の措置をめぐって島津久光と対立した挙句、泥酔した慶喜がほかの参与たちを罵倒するに至り、呆気なく参与会議は崩壊してしまう。この一件で薩摩藩は公武合体策を捨て、倒幕へと傾いていくのだから慶喜の罪は重い。
慶喜にとって、この時点で参与会議を崩壊させるメリットは全くない。明治になってから、「このままでは薩摩藩に朝廷を牛耳られるので、あれはわざとやった」などと言っているが、言い訳なのは明らかだろう。厳しい見方だが、諸侯と駆け引きするプレッシャーに堪えきれず酒に逃避し、自ら拠って立つべき体制を崩したのだ。
それでも元治元年(一八六四)三月、慶喜は朝廷に擦り寄り、禁裏御守衛総督という新設の役職に任命された。幕府と距離を取った慶喜は、京都守護職の会津藩と同所司代の桑名藩の軍事力を背景に、京都政界を支配する。これは後に一会桑勢力と呼ばれる(一とは一橋家のこと)。
幕末を分かりにくくしていることの一つに、幕閣とこの頃の一会桑勢力が、一枚岩でなかったことが挙げられる。加賀藩などは、幕府と距離を取る慶喜のことを「幕府の食客」と呼んでいた(『葉原日記』)。
水戸天狗党事件

こうした流れを挽回すべく巻き返しに出た長州藩だったが、同年六月の池田屋事件と七月の禁門の変で、有為の士の多くを失い、京都政局からの後退を余儀なくされる。
これにより慶喜の権力基盤は盤石になるかと思われたが、この頃、別の問題が発生していた。水戸天狗党事件である。
同年三月、横浜の即時鎖港を求め、筑波山で挙兵した水戸藩尊攘派の天狗党だったが、幕府軍の攻撃を受けたため、慶喜に嘆願するという名目で上洛の途に就いた。
途次の諸藩は天狗党を止められず、越前まで至ったところで、力尽きた天狗党は加賀藩に投降する。この時、諸藩の兵で構成された追討軍を率いていたのが慶喜だった。
当初、慶喜は天狗党の扱いをめぐり、寛大な沙汰を下すつもりでいた。ところが江戸から天狗党を追ってきた田沼玄蕃頭に引き渡しを要求されると、その場ですんなり了解してしまった。
維新後、慶喜は史談会の席上でこう語っている。
「どうせ何と言っても助からぬのだ。助からぬ者を救おうと言い出しても何にもならぬ。それをやると自分自身がやられる。(中略)降伏した者は今日受け取ります。お渡しします。さようなら、それっきりだ。それですぐに首を斬った」
その思いやりのなさや、自己保身しか考えない無責任さには呆れるばかりだが、これが「殿様育ち」の慶喜の実像なのだ。
慶喜の側用人の原市之進は、「此度の一件は主人の一存で決めたことで、実のところ自分も困惑している」と、投げやりな態度で詰問に来た加賀藩の使者に応じている。つまり田沼と会う前の打ち合わせで、慶喜とその幕僚は「天狗党を幕府に渡さない」ことで一致していたのだ。ところが慶喜は田沼の説得に応じてしまった。その結果、天狗党三百五十二人の斬首刑が執行された。これにより慶喜は、諸国の尊攘派志士たちの信望を失うことになる。
この時、天狗党を投降先の加賀藩預かりにするなどして時を過ごさせてしまえば、後に天狗党は、慶喜の強力な旗本になったはずだ。
薩摩藩の大久保利通は、その日記に「実に聞くに堪えざる次第なり、是を以て幕滅亡のしるしと察せられ候」と記している。ここでの「幕」とは幕府のことだ。
その後も長州処分問題や条約勅許問題などで、慶喜は政治的暗躍を繰り広げるが、朝廷、幕閣、薩摩藩などから「変説漢(変節ではない)」「二心殿」などと呼ばれるようになり、会津・桑名両藩なくして、その政治基盤は危ういものとなっていった。慶喜が小知恵を働かせて動けば動くほど状況は悪化し、周囲は慶喜から離れていくのだ。
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