そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「徳川家康」の勝因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして勝っていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。
徳川家康
一五四三年〈天文十一年〉~一六一六年〈元和二年〉
日本史において最も成功した人物は誰か、と問われれば、多くの人は徳川家康と答えるだろう。家康はその生涯を天下人として終えただけでなく、自らが勝ち取った天下を、実に二百六十年余にわたって子孫たちに伝え、さらに今日に至っても、皇族から一般人まで、その血を分けた者が数えきれないほどいるからだ。
律義者、徳川家康
それでは家康は、いかにしてこれだけの成功を収めたのだろうか。
まず生前から言われていたことだが、家康には「律義」という一面があった。確かに家康は織田信長との清洲同盟を「律義」に遵守し、三方ヶ原合戦では不要とも思える追撃戦を敢行し、武田信玄の織田領への侵攻を防いだ。この戦いでは信玄をやり過ごすこともできただけに、やはり家康が「律義」だったからこそ戦ったと言えるだろう。
また「己を知っていた」「分をわきまえていた」「無理をしなかった」という点も、家康が成功を収めた要因だろう。人というのは成功を重ねると、自らを過大評価したくなる。信長も秀吉も同様で、次第に傲岸不遜になったり、誇大妄想を抱くようになったりする。その結果、信長は謀殺され、秀吉の天下は二代と続かなかった。
この二人を見ていて学んだのか、家康は決して増長せず、一歩一歩、確実に歩を進めていった。むろんそこには、自らの理想を世に問うというよりも、自らとその家臣団が武士の頂点に君臨したいという思いがあったのは事実だろう。そのため江戸幕府は、徳川家の天下を守ることだけを考えた政権になっていく。このあたりの志の低さが、家康らしいと言えばらしいのだが、結局、日本は鎖国(ないしは制限貿易)を行い、世界の発展から取り残されていくことになる。
さらに家康には、「失敗を忘れないようにする」「何事も自責で考える」といった内省的な一面があった。三方ヶ原合戦後、家康はこの敗戦を忘れないために、恐怖で引きつった自分の顔を絵に描かせ、それを生涯の戒めにしたことからも知られる。これが今日まで伝わる「徳川家康三方ヶ原戦役画像」(別名「顰像」)である。
失敗を自責で考えるのは誰にとっても辛い。誰しもが何がしかのプライドを持っており、それを壊されたくないために、環境や他人に責任を転嫁したがるからだ。しかしそれをしていると失敗から学ばなくなり、同じ過ちを繰り返すようになる。つまり、いつまで経っても成長しなくなるのだ。信長などはその典型で、幾度となく傘下国人や同盟相手に裏切られても自責で考えることをせず、遂に明智光秀の謀反で命も天下を失うことになる。
家康の遺訓
家康と言えば、下記の遺訓が有名だ(後世の偽作という説もあるが)。
「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基。怒りを敵と思え。勝つことばかり知りて、負くるを知らざれば、害その身に至る。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるに勝れり」
現代語訳する必要もないほど人口に膾炙している名言だが、要約すると以下のようになる。
・急いては事を仕損じる
・欲望を抑える
・短気を起こすな
・負けや失敗が人を成長させる
・自分を責めて他人を責めない
・何事も行き過ぎは危険
人が生きていく上での基本がちりばめられているこの遺訓こそ、家康という人間のすべてを表している。
こうした家康の遺訓や事績を踏まえ、かつて私は、『峠越え』(講談社)という作品を書いた。この作品は、人間的にも未熟で、能力的にも他人に秀でているわけではない一人の男が、「凡庸でなければ越えられない峠がある」ことを覚るまでの物語だ。
そこには、凡庸だからこそ「己を知り」「自責で考え」「何事も慎重に進めねばならない」という戒めが込められている。だがそれらは、当たり前のようでいて、実際は誰にでもできることではない。
誰でもなれそうでなれない人こそ家康であり、だからこそ家康は天下を取れたと言ってもいいだろう。