
そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「天草四郎」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。
天草四郎
一六二一年〈元和七年〉? 〜一六三八年〈寛永十五年〉
島原・天草の乱においては、乱を鎮圧した松平伊豆守信綱以外の者は、すべて敗者だと言える。
蜂起に失敗した一揆衆は討滅されてしまうので、言うまでもなく敗者だが、この戦いで討ち死にした上使(征討軍司令官)の板倉重昌(正使)、重傷を負った石谷貞清(副使)、失政の罪を問われて四万石を召し上げられた上、大名としては異例の斬首刑に処された松倉勝家、同じく天草領四万石を収公された寺沢堅高(後に自害)、また功を焦った突撃で合計一千百十五人もの犠牲を出した鍋島勝茂・有馬豊氏・立花宗茂・細川忠利ら肥前・肥後・筑後の諸大名、さらに家康から三代かけてもキリシタンを根絶できず、鎖国という退嬰的な政策を取らざるを得なくなった三代将軍家光を含めて敗者続出の状態だ(鎖国について異論はあるが、それは置いておく)。
それでは、これだけの敗者を輩出したこの戦いは、どのように始まり、どのように終わり、その中で本項の主役である天草四郎は、どのような存在だったのだろうか。
島原・天草一揆の始まり

寛永十四年(一六三七)十月、島原半島南部の有馬村で、村人たちがキリストの絵を掲げて祈りを捧げていたところ、代官が現れて絵を引き裂いた。これが、この大事件の発端となる。ここ数年、凶作であったにもかかわらず、年貢の取り立てが厳しかったことも相まって、農民たちは蜂起に踏み切った。
こうした蜂起を、ひたすら待っていた一派があった。天草四郎を奉じた小西家旧臣たちだ。
後に捕まった幹部の一人・山田右衛門作の供述によると、「島原各地の代官、僧侶、神官、キリシタンに転宗しない者は皆殺しにし、諸所(要害らしき場所)に引き籠もるように」という触れをキリシタン農民たちに出し、迅速に臨戦態勢を整えたという。
一揆軍は寺社や一揆に加わらない者の家を焼き払い、無実の僧侶や武士の首を竹槍の先に刺し、旗指物代わりに掲げて島原城を包囲した。
一千余(鉄砲三百五十余)となった一揆軍の要求は「信仰の自由」だが、幕府の禁教令に反するようなことを、領主の松倉氏が認めるはずはない。
守る松倉軍は八十人余の武士、百人余の足軽、五百人余の非キリシタン農民だった(鉄砲二百七十五)。この時、領主の松倉勝家が参勤交代で江戸在府中のため、松倉軍はこれだけの兵力しか動員できなかった。それでも鉄砲装備率が高かったのは不幸中の幸いだった。
しかも島原城は微高地に築かれた長方形の連郭式平城で、四囲に堀をめぐらせているのはもちろん、隅櫓が大小四十九もある上、屛風折りを駆使した複雑な横矢掛かりがあり、屈指の防御力を誇っていた。つまり島原城が四万石の領主の城とは思えないほど堅固な城だったことが、一揆たちの緒戦のつまずきの原因となる。
しかもこの籠城戦の場合、凌いでいれば、いくらでも外部から救援がやってくるので、城を守る松倉軍の士気は高い。
結局、一揆勢は三十日もかけて攻め立てたものの、島原城を落とせなかった。
天草四郎とは何者か

天草四郎とは何者なのか。
その本名は益田四郎。乱当時の年齢は十五〜十八歳だったらしい。父の名は甚兵衛といい、彼が一揆勢の実質的な指揮官となる。甚兵衛は天草諸島の生まれで、後に肥後国宇土に移り、島原や天草にキリシタン信仰を広めたという。むろん甚兵衛も小西家旧臣だった。
天草のキリシタン有力者によると、甚兵衛は「島原領でキリシタン一揆を起こせば、九州の隠れキリシタンが一斉に蜂起する」と語ったという。つまり甚兵衛の勝算はそこにしかなく、あくまで他力本願的蜂起だったと分かる。
これは後の西南戦争と酷似しており、この二つの大乱が同じ九州で起こったことは、九州人の同胞意識が他地域よりも強く、「皆、同じ思いだろう」と容易に信じてしまうことの証左にほかならない。しかも天草四郎と西郷隆盛という、カリスマ的リーダーがいることで、それに拍車が掛かったと考えるのが妥当だろう。
かくして四郎は、甚兵衛たち小西家旧臣団によって「デウスの再誕者」「天の使」に祭り上げられた。
甚兵衛たちは、イエスがローマ帝国に迫害されて処刑されたにもかかわらず、キリスト教が広がっていったことから、自分たちは捨て石となっても、布教に貢献できればいいと思っていたのかもしれない。すなわち自分や四郎は死んでも、自分たちが起こした波紋は日本全土に広がり、やがてローマ時代のキリスト教が成功したように、日本を「デウスの国」にできると思っていたに違いない。
ここに、勝ち目が極めて薄いこの乱を起こした動機が隠されている。
天草への一揆拡大

乱は島原だけでなく天草にも波及した。天草一揆衆は、十五歳以下の子供を自らの手で殺した上で蜂起するという凄まじさである。しかし残された子供も多くいたようで、後に生け捕られ、幕府の命によって、ことごとく火あぶり刑に処されている。皮肉なことだが、殺しておいた方がよかったわけだ。
十一月十日、天草領主の寺沢堅高は唐津から三千の兵を差し向けた。松倉氏と違って堅高と主力軍が本国にいたので、すぐに動員できたのは大きかった。
一方、一揆方は島原から加勢が駆け付けて三千六百となり、十四日に天草上島で寺沢軍と衝突した。この戦いで一揆方は寺沢方を圧倒し、下島の富岡城に追い込んだ。
十八日、一揆軍は富岡城攻めを開始するが、寺沢軍三千は城から打って出て、一揆軍を蹴散らした。
そんな折、肥後の細川軍が出陣してくるという情報が入り、天草・島原両一揆は合流し、有明海を渡って島原半島に移った。一揆軍は廃城となっていた原城を拠点と定め、急いで防御施設の普請作事を行って籠城戦に備えた。
ここまでの戦いを通して見ると、やはり一揆方は島原・富岡両城の攻略に失敗したことが大きかった。どちらかでも落とせていれば、一揆方の意気は大いに騰がり、その噂は九州中に広まったはずだ。
このあたりも、熊本城を落とせず、全国の不平士族の決起を誘発できなかった西郷軍と酷似している。
それでも一揆方は粘り強く戦うことで、この蜂起を九州全土から本州まで知らしめ、他地域でのキリシタン農民の蜂起に結び付けたいと思っていた。
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