プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「天草四郎」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

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敗者烈伝

単行本(ソフトカバー) > 歴史・時代小説
実業之日本社
伊東 潤(著)

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勝算なき戦いに駆り出された美少年

天草四郎
一六二一年〈元和七年〉? 〜一六三八年〈寛永十五年〉

島原・天草の乱においては、乱を鎮圧した松平伊豆守信綱以外の者は、すべて敗者だと言える。

蜂起に失敗した一揆衆は討滅されてしまうので、言うまでもなく敗者だが、この戦いで討ち死にした上使(征討軍司令官)の板倉重昌(正使)、重傷を負った石谷貞清(副使)、失政の罪を問われて四万石を召し上げられた上、大名としては異例の斬首刑に処された松倉勝家、同じく天草領四万石を収公された寺沢堅高(後に自害)、また功を焦った突撃で合計一千百十五人もの犠牲を出した鍋島勝茂・有馬豊氏・立花宗茂・細川忠利ら肥前・肥後・筑後の諸大名、さらに家康から三代かけてもキリシタンを根絶できず、鎖国という退嬰的な政策を取らざるを得なくなった三代将軍家光を含めて敗者続出の状態だ(鎖国について異論はあるが、それは置いておく)。

それでは、これだけの敗者を輩出したこの戦いは、どのように始まり、どのように終わり、その中で本項の主役である天草四郎は、どのような存在だったのだろうか。

島原・天草一揆の始まり

image by PIXTA / 47622183

寛永十四年(一六三七)十月、島原半島南部の有馬村で、村人たちがキリストの絵を掲げて祈りを捧げていたところ、代官が現れて絵を引き裂いた。これが、この大事件の発端となる。ここ数年、凶作であったにもかかわらず、年貢の取り立てが厳しかったことも相まって、農民たちは蜂起に踏み切った。

こうした蜂起を、ひたすら待っていた一派があった。天草四郎を奉じた小西家旧臣たちだ。

後に捕まった幹部の一人・山田右衛門作の供述によると、「島原各地の代官、僧侶、神官、キリシタンに転宗しない者は皆殺しにし、諸所(要害らしき場所)に引き籠もるように」という触れをキリシタン農民たちに出し、迅速に臨戦態勢を整えたという。

一揆軍は寺社や一揆に加わらない者の家を焼き払い、無実の僧侶や武士の首を竹槍の先に刺し、旗指物代わりに掲げて島原城を包囲した。

一千余(鉄砲三百五十余)となった一揆軍の要求は「信仰の自由」だが、幕府の禁教令に反するようなことを、領主の松倉氏が認めるはずはない。

守る松倉軍は八十人余の武士、百人余の足軽、五百人余の非キリシタン農民だった(鉄砲二百七十五)。この時、領主の松倉勝家が参勤交代で江戸在府中のため、松倉軍はこれだけの兵力しか動員できなかった。それでも鉄砲装備率が高かったのは不幸中の幸いだった。

しかも島原城は微高地に築かれた長方形の連郭式平城で、四囲に堀をめぐらせているのはもちろん、隅櫓が大小四十九もある上、屛風折りを駆使した複雑な横矢掛かりがあり、屈指の防御力を誇っていた。つまり島原城が四万石の領主の城とは思えないほど堅固な城だったことが、一揆たちの緒戦のつまずきの原因となる。

しかもこの籠城戦の場合、凌いでいれば、いくらでも外部から救援がやってくるので、城を守る松倉軍の士気は高い。

結局、一揆勢は三十日もかけて攻め立てたものの、島原城を落とせなかった。

天草四郎とは何者か

image by PIXTA / 13532824

天草四郎とは何者なのか。

その本名は益田四郎。乱当時の年齢は十五〜十八歳だったらしい。父の名は甚兵衛といい、彼が一揆勢の実質的な指揮官となる。甚兵衛は天草諸島の生まれで、後に肥後国宇土に移り、島原や天草にキリシタン信仰を広めたという。むろん甚兵衛も小西家旧臣だった。

天草のキリシタン有力者によると、甚兵衛は「島原領でキリシタン一揆を起こせば、九州の隠れキリシタンが一斉に蜂起する」と語ったという。つまり甚兵衛の勝算はそこにしかなく、あくまで他力本願的蜂起だったと分かる。

これは後の西南戦争と酷似しており、この二つの大乱が同じ九州で起こったことは、九州人の同胞意識が他地域よりも強く、「皆、同じ思いだろう」と容易に信じてしまうことの証左にほかならない。しかも天草四郎と西郷隆盛という、カリスマ的リーダーがいることで、それに拍車が掛かったと考えるのが妥当だろう。

かくして四郎は、甚兵衛たち小西家旧臣団によって「デウスの再誕者」「天の使」に祭り上げられた。

甚兵衛たちは、イエスがローマ帝国に迫害されて処刑されたにもかかわらず、キリスト教が広がっていったことから、自分たちは捨て石となっても、布教に貢献できればいいと思っていたのかもしれない。すなわち自分や四郎は死んでも、自分たちが起こした波紋は日本全土に広がり、やがてローマ時代のキリスト教が成功したように、日本を「デウスの国」にできると思っていたに違いない。

ここに、勝ち目が極めて薄いこの乱を起こした動機が隠されている。

天草への一揆拡大

image by PIXTA / 15609293

乱は島原だけでなく天草にも波及した。天草一揆衆は、十五歳以下の子供を自らの手で殺した上で蜂起するという凄まじさである。しかし残された子供も多くいたようで、後に生け捕られ、幕府の命によって、ことごとく火あぶり刑に処されている。皮肉なことだが、殺しておいた方がよかったわけだ。

十一月十日、天草領主の寺沢堅高は唐津から三千の兵を差し向けた。松倉氏と違って堅高と主力軍が本国にいたので、すぐに動員できたのは大きかった。

一方、一揆方は島原から加勢が駆け付けて三千六百となり、十四日に天草上島で寺沢軍と衝突した。この戦いで一揆方は寺沢方を圧倒し、下島の富岡城に追い込んだ。

十八日、一揆軍は富岡城攻めを開始するが、寺沢軍三千は城から打って出て、一揆軍を蹴散らした。

そんな折、肥後の細川軍が出陣してくるという情報が入り、天草・島原両一揆は合流し、有明海を渡って島原半島に移った。一揆軍は廃城となっていた原城を拠点と定め、急いで防御施設の普請作事を行って籠城戦に備えた。

ここまでの戦いを通して見ると、やはり一揆方は島原・富岡両城の攻略に失敗したことが大きかった。どちらかでも落とせていれば、一揆方の意気は大いに騰がり、その噂は九州中に広まったはずだ。

このあたりも、熊本城を落とせず、全国の不平士族の決起を誘発できなかった西郷軍と酷似している。

それでも一揆方は粘り強く戦うことで、この蜂起を九州全土から本州まで知らしめ、他地域でのキリシタン農民の蜂起に結び付けたいと思っていた。

\次のページで「一揆軍の原城籠城」を解説!/

一揆軍の原城籠城

image by PIXTA / 41636114

話は前後するが、幕府に乱の第一報が入ったのは十一月九日だった。幕府は上使に板倉重昌を指名し、九州の諸大名と共に鎮圧に当たるよう命じた。

周辺大名から成る征討軍は、当事者となる松倉と寺沢をはじめ鍋島勝茂・有馬豊氏・立花宗茂・細川忠利ら肥前・肥後・筑後の諸大名総勢十二万四千である。

征討軍の総指揮官となった板倉重昌は京都所司代・板倉勝重の三男で、譜代とはいえ三河深溝一万五千石の小身大名だ。この知行高は、指揮下に入る九州の外様大名に比べてあまりに小さく、それが後に多くの軍法違反や抜け駆けを生むことになる。

この当時は戦国の気風を色濃く残しており、今日のわれわれが考える以上に、小身が大身を指揮することに、強い抵抗があったと言われる。

しかも功を挙げる機会が減り、武士の中でも身分が固定化されつつあるこの頃、武士たちは焦っており、板倉ごときの軍令など聞いている場合ではなかったに違いない。

しかも寄手には多くの浪人が陣借りしており、功を焦って捨て身の突撃を敢行した。彼らはこの機に仕官できないなら、死んだ方がましだと思っていたに違いない。

ともあれ十一月二十六日、小倉に到着した板倉たちは、肥後の高瀬まで行って諸大名の使者と打ち合わせた後、十二月五日、島原半島に渡って原城に向かった。

この頃、幕府は一揆の広がりを懸念し、二の手勢の派遣を決定していた。その指揮官には、知恵伊豆こと松平伊豆守信綱が内定した。

一方、一揆軍は村々に保管されていた糧秣を原城に運び入れ、十二月五日には籠城準備を終わらせた。城に籠もった人々は二万五千から三万七千と言われる。

その原城だが、東南が海に面している後ろ堅固の要害で、ほかの三方は陸続きだが泥田に覆われていた。またその枡形虎口は、本丸の二分の一にも及ぶ巨大さで、そこに敵を集めて殲滅するキル・ゾーンを形成していた。

こうした大要害に平寄せすればどうなるかは寄手諸将にも分かっていたはずだが、農民を馬鹿にし、さらに「功を挙げる機会は今しかない」と焦っている浪人たちにとっては、そんなことを考慮している暇はない。

幕府軍による力攻めの失敗

image by PIXTA / 47103084

かくして攻撃は十日から開始された。

ひた押しに押す寄手に対し、一揆方は正確な射撃で応戦し、屍の山を築いていった。寄手の兵たちは、城の前面に広がる泥田に足を取られるところを狙い撃たれたのだ。

これを目にした板倉は、確実に攻め崩す方法を取ろうとする。すなわち仕寄と呼ばれる土俵や竹束を並べ、井楼を築き、大筒を撃ち掛けつつ、じわじわと包囲陣を狭めていこうというのだ。

さらに原城を二重の柵で取り囲むことで、一揆方の陣前逆襲を防ぎ、築山という小山をいくつも築いて城内の様子を見られるようにすると、諸大名の陣所から最前線の仕寄までの交通壕として、ジグザグ状の塹壕まで掘った。

しかし敵の射撃に晒されながらの作業ははかどらず、板倉を苛立たせる。

そんな最中の二十日頃、板倉の許に松平伊豆守率いる第二陣が来援するという一報が届く。知恵伊豆が来てしまえば、板倉は彼の下に付けられる。もちろん城を落としても、功は知恵伊豆に持っていかれ、板倉は「農民に勝てなかった男」として千載に名が残る。

この情報は征討軍諸大名の間にも広がり、指揮官が交代すると察した諸大名は、知恵伊豆が来るのを待つ雰囲気になった。いわゆる板倉のレームダック化である。これにより板倉に焦りが生じる。板倉はじわじわ攻める戦術を捨て、一気に勝敗を決しようとした。むろん死ぬ気でいる。

寛永十五年元日、総攻撃が始まった。むろん勝算などなく、板倉は先頭をきって城に取り付いた。

三の丸の塀際まで迫った寄手だったが、どうしても城を攻め落とせず、四千四百もの死傷者を出して撤退する(即死は六百余)。板倉は眉間を撃ち抜かれて討ち死にし、副使の石谷も重傷を負った。一方、一揆方の死傷者は、信じ難いことに十七だったという。

一揆の鎮圧

image by PIXTA / 10812403

正月四日、知恵伊豆が島原に到着した。知恵伊豆は力攻めを中止し、築山の普請と井楼の築造を急がせた。

二月に入り、築山や井楼からの砲撃が可能となり、城内にも、ちらほらと被害が出始めた。二月半ばになると、一揆方の弾薬不足が深刻になり、さらに兵糧も欠乏し、籠城戦は限界に近づきつつあった。

そして十六日、四郎の住む小屋に被弾があり、四郎が負傷する。これにより四郎に神通力がないと知れわたり、一揆衆の士気は、みるみる落ちていったという。

そして二十七日、翌日に総攻めと決まっていたにもかかわらず、鍋島勢が抜け駆けを図り、期せずして総攻撃が始まった。これまでとは一変し、一揆方の抵抗は微弱で、三の丸と二の丸を次々と放棄して本丸に追い込まれていった。

最後は、本丸に乗り入れた幕府軍と一揆方の白兵戦が展開された。それは次第に殲滅戦の様相を呈し、そこかしこで凄惨な虐殺が行われた。

一揆方は投降した女子供も含め、ほぼ全員が殺された。天草四郎と父の甚兵衛も討ち取られた。捕虜となった者の中には、生きたまま胴を断ち切られる「生胴」に処された者もいた(発掘調査の結果より)。これはキリシタンを復活させないために行われたもので、キリシタンという存在が、武士たちに恐怖を植え付けていた証左となる。

一方、幕府軍全体の即死者は、合計一千百十五人とされるが、この時の傷が元で後に死した者を含めると、かなりの数に上ったはずだ。

敗れはしたものの一揆方は善戦した。農民が武士に対してこれほど戦えたのは、ひとえに鉄砲のおかげだった。農民とはいえ、普段から鉄砲を使って鳥や小動物の狩りを行っていたので、武士(実際は足軽)よりもはるかに腕がよかった。豊臣政権以来の「刀狩令」が、徳川政権下となって有名無実化していたことが、ここからも分かる。

乱後、幕府はキリシタンへの締め付けを強め、鎖国政策を推し進めていく。つまり逆説的だが、天草の乱こそ日本にキリスト教が広まらなかった遠因となったのだ。

一揆方の敗因は、以下の三点にある。

・島原城と富岡城の攻略に失敗した(城攻めの準備不足)

・九州本土や本州のキリシタン熱を読み誤った

・蜂起の情報が九州全土や本州に知れわたる前に、原城に追い込まれた

ここから学べることは、事をなす時には周到な準備が要る。他力本願ではうまくいかない。情報の伝達手段を誤ると失敗の可能性が高まるといったことだろうか。とくにSNSが広告宣伝の主たる武器になった今日、様々な仮説検証を経た上で最も効果的な方法を考えておかないと、プロジェクトは失敗すると肝に銘じるべきだろう。

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敗者烈伝日本史歴史江戸時代

【3分でわかる】天草四郎はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる天草四郎の歴史

プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「天草四郎」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

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勝算なき戦いに駆り出された美少年

天草四郎
一六二一年〈元和七年〉? 〜一六三八年〈寛永十五年〉

島原・天草の乱においては、乱を鎮圧した松平伊豆守信綱以外の者は、すべて敗者だと言える。

蜂起に失敗した一揆衆は討滅されてしまうので、言うまでもなく敗者だが、この戦いで討ち死にした上使(征討軍司令官)の板倉重昌(正使)、重傷を負った石谷貞清(副使)、失政の罪を問われて四万石を召し上げられた上、大名としては異例の斬首刑に処された松倉勝家、同じく天草領四万石を収公された寺沢堅高(後に自害)、また功を焦った突撃で合計一千百十五人もの犠牲を出した鍋島勝茂・有馬豊氏・立花宗茂・細川忠利ら肥前・肥後・筑後の諸大名、さらに家康から三代かけてもキリシタンを根絶できず、鎖国という退嬰的な政策を取らざるを得なくなった三代将軍家光を含めて敗者続出の状態だ(鎖国について異論はあるが、それは置いておく)。

それでは、これだけの敗者を輩出したこの戦いは、どのように始まり、どのように終わり、その中で本項の主役である天草四郎は、どのような存在だったのだろうか。

島原・天草一揆の始まり

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寛永十四年(一六三七)十月、島原半島南部の有馬村で、村人たちがキリストの絵を掲げて祈りを捧げていたところ、代官が現れて絵を引き裂いた。これが、この大事件の発端となる。ここ数年、凶作であったにもかかわらず、年貢の取り立てが厳しかったことも相まって、農民たちは蜂起に踏み切った。

こうした蜂起を、ひたすら待っていた一派があった。天草四郎を奉じた小西家旧臣たちだ。

後に捕まった幹部の一人・山田右衛門作の供述によると、「島原各地の代官、僧侶、神官、キリシタンに転宗しない者は皆殺しにし、諸所(要害らしき場所)に引き籠もるように」という触れをキリシタン農民たちに出し、迅速に臨戦態勢を整えたという。

一揆軍は寺社や一揆に加わらない者の家を焼き払い、無実の僧侶や武士の首を竹槍の先に刺し、旗指物代わりに掲げて島原城を包囲した。

一千余(鉄砲三百五十余)となった一揆軍の要求は「信仰の自由」だが、幕府の禁教令に反するようなことを、領主の松倉氏が認めるはずはない。

守る松倉軍は八十人余の武士、百人余の足軽、五百人余の非キリシタン農民だった(鉄砲二百七十五)。この時、領主の松倉勝家が参勤交代で江戸在府中のため、松倉軍はこれだけの兵力しか動員できなかった。それでも鉄砲装備率が高かったのは不幸中の幸いだった。

しかも島原城は微高地に築かれた長方形の連郭式平城で、四囲に堀をめぐらせているのはもちろん、隅櫓が大小四十九もある上、屛風折りを駆使した複雑な横矢掛かりがあり、屈指の防御力を誇っていた。つまり島原城が四万石の領主の城とは思えないほど堅固な城だったことが、一揆たちの緒戦のつまずきの原因となる。

しかもこの籠城戦の場合、凌いでいれば、いくらでも外部から救援がやってくるので、城を守る松倉軍の士気は高い。

結局、一揆勢は三十日もかけて攻め立てたものの、島原城を落とせなかった。

天草四郎とは何者か

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天草四郎とは何者なのか。

その本名は益田四郎。乱当時の年齢は十五〜十八歳だったらしい。父の名は甚兵衛といい、彼が一揆勢の実質的な指揮官となる。甚兵衛は天草諸島の生まれで、後に肥後国宇土に移り、島原や天草にキリシタン信仰を広めたという。むろん甚兵衛も小西家旧臣だった。

天草のキリシタン有力者によると、甚兵衛は「島原領でキリシタン一揆を起こせば、九州の隠れキリシタンが一斉に蜂起する」と語ったという。つまり甚兵衛の勝算はそこにしかなく、あくまで他力本願的蜂起だったと分かる。

これは後の西南戦争と酷似しており、この二つの大乱が同じ九州で起こったことは、九州人の同胞意識が他地域よりも強く、「皆、同じ思いだろう」と容易に信じてしまうことの証左にほかならない。しかも天草四郎と西郷隆盛という、カリスマ的リーダーがいることで、それに拍車が掛かったと考えるのが妥当だろう。

かくして四郎は、甚兵衛たち小西家旧臣団によって「デウスの再誕者」「天の使」に祭り上げられた。

甚兵衛たちは、イエスがローマ帝国に迫害されて処刑されたにもかかわらず、キリスト教が広がっていったことから、自分たちは捨て石となっても、布教に貢献できればいいと思っていたのかもしれない。すなわち自分や四郎は死んでも、自分たちが起こした波紋は日本全土に広がり、やがてローマ時代のキリスト教が成功したように、日本を「デウスの国」にできると思っていたに違いない。

ここに、勝ち目が極めて薄いこの乱を起こした動機が隠されている。

天草への一揆拡大

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乱は島原だけでなく天草にも波及した。天草一揆衆は、十五歳以下の子供を自らの手で殺した上で蜂起するという凄まじさである。しかし残された子供も多くいたようで、後に生け捕られ、幕府の命によって、ことごとく火あぶり刑に処されている。皮肉なことだが、殺しておいた方がよかったわけだ。

十一月十日、天草領主の寺沢堅高は唐津から三千の兵を差し向けた。松倉氏と違って堅高と主力軍が本国にいたので、すぐに動員できたのは大きかった。

一方、一揆方は島原から加勢が駆け付けて三千六百となり、十四日に天草上島で寺沢軍と衝突した。この戦いで一揆方は寺沢方を圧倒し、下島の富岡城に追い込んだ。

十八日、一揆軍は富岡城攻めを開始するが、寺沢軍三千は城から打って出て、一揆軍を蹴散らした。

そんな折、肥後の細川軍が出陣してくるという情報が入り、天草・島原両一揆は合流し、有明海を渡って島原半島に移った。一揆軍は廃城となっていた原城を拠点と定め、急いで防御施設の普請作事を行って籠城戦に備えた。

ここまでの戦いを通して見ると、やはり一揆方は島原・富岡両城の攻略に失敗したことが大きかった。どちらかでも落とせていれば、一揆方の意気は大いに騰がり、その噂は九州中に広まったはずだ。

このあたりも、熊本城を落とせず、全国の不平士族の決起を誘発できなかった西郷軍と酷似している。

それでも一揆方は粘り強く戦うことで、この蜂起を九州全土から本州まで知らしめ、他地域でのキリシタン農民の蜂起に結び付けたいと思っていた。

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