江戸幕府の成立と豊臣家の内紛
関ヶ原合戦は、徳川方の一方的勝利に終わった。
よく「秀頼が出馬していれば」という意見を聞くが、大坂城にいては前線の状況もよく分からず、よもや一日で決着がつくなど、城内の誰もが思わなかったはずだ。
関ヶ原でにらみ合いが続き、戦線が膠着した上、賤ヶ岳合戦や小牧・長久手合戦のように、陣城戦に移行していくことも十分に考えられるのだ。
いずれにせよ関ヶ原合戦によって、豊臣家は天下人から摂河泉六十五万七千石の一大名に格下げされた。それでも秀吉恩顧の大名たちが生きていれば、彼らが抑止力になり、さしもの家康も、容易には秀頼と大坂城に手が出せなかったはずだ。
ところが秀頼と家康が二条城で対面を果たした慶長十六年、浅野長政、堀尾吉晴、加藤清正が相次いで没した。彼らは家康より若く、それまで病気がちとも伝えられていない。つまり家康の手の者による毒殺説というのも、あながち偽りとは思えない。何と言っても、家康は残り時間が少ないのだ。
慶長八年、六十二歳の家康は征夷大将軍となり、江戸幕府を開いた。同年八月には秀頼(十一歳)と千姫(七歳)の婚約を決める。千姫は家康の孫で秀忠の娘にあたる。
家康としては、時間切れ(急死)という事態を迎えた場合のリスクヘッジをしたのだろう。
幕府を開いた家康だが、西国支配の脆弱性と豊臣政権の権威を重んじたことから、この時期は「二重公儀」体制と呼ばれる。しかし関ヶ原合戦の痛手は大きく、すでに豊臣家は、政治的にも軍事的にも家康に対抗できなくなっていた。
実は、ここが一つの転機だった。もしも秀頼が大坂城を出て完全な公家となるなら、家康は秀頼の関白就任を許さずとも、豊臣家を残した可能性がなくもない。
一方、家康の立場も苦しい。後継者として将軍位を譲った秀忠は、豊臣恩顧の諸大名を従わせるほどの器量と実績を持ち合わせていない。そうなれば自分が元気なうちに、軍事力で豊臣家を滅ぼすしかないと思うのは当然だろう。
ところが天下の兵を動かすには、それなりの大義が要る。そうした中、苦肉の策として考え出されたのが、慶長十九年七月の「方広寺鐘銘事件」だった。
それに端を発し、豊臣方の内部では、何とか戦を回避しようとする宿老の片桐且元と、一戦も辞せずという構えの大野治長の対立がひどくなっていった。だが片桐且元の退去後は、治長が慎重になる一方、浪人衆の力を背景にした弟の治房が主戦論を唱え始める。最終的に大坂城内は、穏健派、中間派、主戦派の三つに分裂していくことになる。若い秀頼には酷かもしれないが、こうした分裂を抑えられなかった秀頼にも責任はある。
結局、大坂冬の陣と夏の陣が勃発し、豊臣家は滅ぼされ、秀頼は二十二年の生涯を閉じることになる。
関ヶ原の戦い後、秀頼が生き延びる方法はあったのか
歴史を後世から見ると、豊臣家の滅亡は必然だったように思えてくる。しかし統一政権としての存続は難しくても、豊臣家が生き延びる可能性がなかったとは言いきれない。その鍵は家康の年齢だった。それがある限り、豊臣家は勝つための戦をする必要はなく、負けない戦をすればよかったのだ。つまり秀頼は生きているだけで活路が見出せるので、時間を稼ぐことに徹すればよかったのだ。
それでは私が豊臣家の執政なら、関ヶ原合戦の敗戦後に何をやったか。
ずばり城郭ネットワークの構築である。城というのは、いかに難攻不落の名城とて、一城では守るにも限界がある。しかしネットワーク化することにより、敵兵力を分散させることができ、そこに付け入る隙も出てくる。
とくに大坂城は南面が弱点なので、四天王寺の辺りに、ある程度の規模の城を築いておく。こうしておけば、家康が大軍を催してきても(結局、そうなったのだが)、大坂城一つに籠もるよりも時間が稼げる。
大坂方も、上町台地南西部の船場周辺に土佐堀・阿波座・博労ヶ淵・木津川などの砦群を築いている。しかしこれらは、木津川からの物資荷揚げ時に安全を確保するためのもので、大坂城と連携し合って防御する目的で築かれる支城とは性格を異にしている。
むろん申し分のない支城ネットワークを築いたからといって、それで万全というわけではない。現に小田原合戦でこの戦略を実践した北条氏は、支城が相次いで降伏してしまい、ネットワークが機能しなかった。しかも遠征軍の最大の弱みの補給の問題も、支城が降伏すると、そこに蓄えられている兵糧や武具が敵のものとなるので、容易に解決されてしまう。それでも大坂城だけで戦うよりは、作戦に多くの選択肢が得られるはずだ。
最後になったが、豊臣家滅亡の原因が秀吉にあったことは明らかだろう。すなわち、家康と決着を付けておかなかったこと、秀次を自害に追い込んだこと、朝鮮出兵を断行したこと、この三点によって豊臣家の没落は見えていた。結果論ではなく、朝鮮出兵にかけた経費を家康討伐に使い、秀次に中継ぎを託していれば、少なくとも豊臣家は、秀頼の代では滅びなかったはずだ。
秀頼は天下の統治者としての大きな可能性を秘めながら、それを開花させることなく滅んでいった。歴史というのは時に残酷なものだ。
豊臣家と大坂の陣が、ポピュリズムと覇権主義に席巻された現代を生きるわれわれにとって他人事でないのは、もはや言うまでもないだろう。
