
そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「蘇我入鹿」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。
豊臣秀頼
一五九三年〈文禄二年〉〜一六一五年〈慶長二十年〉
二〇一五年二月七日、司馬遼太郎氏を偲ぶ「第十九回菜の花忌」にパネリストとして参加した。この年は大坂の陣から四百年にあたり、司馬氏の代表作の一つである『城塞』が、パネルディスカッションのテーマとなった。
この作品の現代的意義について、私は昨今の国際情勢が十九世紀に戻りつつあることを指摘し、「われわれ日本人にとっての関ヶ原合戦が第二次世界大戦であるなら、今は、かりそめの平和を謳歌する大坂の陣前夜にあたる」と述べると、千四百人余の観客の間から、どよめきが起こった。
第二次世界大戦で敗れた相手の米国が、今は同盟国という違いはあるにしても、状況は大坂の陣前夜と酷似している。
秀頼の誕生と秀次の排除

大坂の陣と言えば、この戦いに勝利した徳川家康よりも、敗れ去った豊臣秀頼を思い出す方が多いのではないだろうか。その実像がはっきりしていないにもかかわらず、秀頼は後世に鮮烈な印象を残していったからだ。
文禄二年(一五九三)八月、多くの人々の祝福を受け、一人の赤子が生まれた。父の豊臣秀吉は「拾った赤子は元気に育つ」という格言から、赤子の名を拾とつけた。これが後の秀頼である。
秀頼の母は側室の浅井氏(本名:茶々、通称:淀殿)で、兄の鶴松が早世しているため、二人にとって拾は次男にあたる。
秀頼が生まれた時、豊臣家の後継予定者は秀吉の甥の秀次だった。秀次は永禄十一年(一五六八)生まれで、秀吉との年齢差は三十一、秀頼との差は二十五もある。つまり秀吉と秀頼の年齢差五十六を勘案すれば、中継ぎとして絶好の位置にあった。
秀次は叔父の秀吉から関白職を譲られており、後継者指名もされていた。これにより秀吉は関白職を譲った人物を指す太閤となり、豊臣家による太閤・関白両殿下体制が確立された。
秀吉は両職を豊臣家で独占すべく、その家職化を図ろうとしていたのだ。
ところが実子の秀頼ができたことで、秀吉に疑心が生まれる。自分の死後、秀次によって天下が簒奪され、秀頼が殺されるのではないかと危惧し始めたのだ。
それなら、秀次から秀頼に関白職を譲らせればいいものだが、関白は天皇を補佐する執政のため、十六歳以下で就いた者はいない。先例をことさら重んじる朝廷としては、それより若い年齢での関白就任には難色を示すに違いない。
豊臣家にとっても赤子の関白では、朝廷工作がうまく運ばなくなる恐れがある。それゆえ秀吉は秀次を関白のままとし、秀頼(生後二カ月)と秀次の娘(七歳)を婚約させ、秀次の後継者に秀頼を立ててもらおうとした。
ところが秀吉は急速に老耄が進んだのか、疑心暗鬼に陥り、秀次を除くという方針に切り替えていく。確かに、秀次が関白の地位にとどまっている間に自分が死んでしまえば、秀頼の立場や生命が守られる保証はない。
結局、秀吉は秀次にありもしない罪を着せ、高野山に追放し、秀頼が成長するまで飼い殺しにしようとした。自害を命じなかったのは(自害を命じたという説もあり)、太閤・関白両職を豊臣家で独占するため、秀頼が十六歳になるまで生きていてもらわねばならなかったからだ。
しかし秀次もそれに気づいたのか、あてつけのように自害してしまった。
これにより関白職を朝廷に返上せざるを得なくなった秀吉は、己の政権構想に狂いが生じたことに激怒し、秀次の妻子眷属を皆殺しにする。
揺らぐ豊臣政権

文禄五年五月、秀吉は四歳の秀頼を参内させ、従五位下左近衛権中将に任官させた。また秀頼の傅役として前田利家を取り立て、仮想敵である徳川家康の対抗馬に仕立て上げた。
慶長三年(一五九八)八月、秀頼が六歳の時に秀吉は死去するが、この時すでに、朝鮮出兵による国内の疲弊と中継ぎ後継者の不在から、豊臣政権の基盤は揺らいでいた。
一方、天下簒奪を狙う家康は(異説はあるが)、諸大名家との間に婚姻関係を結ぶなど、秀吉の遺言で禁じられていたことを平然と行い、豊臣家の権威に揺さぶりをかけてきた。
慶長四年正月、石田三成ら奉行衆による家康の弾劾が始まる。三成は前田利家の力を借りて現状維持を図ろうとするが、同年閏三月の利家の死によって、そのパワーバランスは一気に崩れる。
利家死去後、三成に恨みを持つ加藤清正や福島正則といった豊臣家武断派大名たちは三成を襲撃し、喧嘩両成敗の掟から三成を失脚させてしまう。これにより五大老(傅役)と五奉行(年寄)という、秀吉が設置した秀頼を守護する体制は崩れ去り、家康は豊臣政権を牛耳ることに成功する。
しかも利家の後任に指名された息子の利長は、秀頼を守る気などさらさらなく、八月には本拠の加賀に帰ってしまう。この行為は、利家の「自分の死後、三年は上方から離れるな」という遺言を無視したものだった。ほぼ同時に上杉景勝も帰国し、秀頼は有力者たちから見捨てられた状態となる(毛利輝元と宇喜多秀家も帰国中)。
翌九月、家康の画策によって利長に謀反の嫌疑がかけられるが、利長は母の芳春院(まつ)を江戸に送ることで(異説あり)、この嫌疑を解いた。これにより前田家は、家康に服従を誓ったことになる。さらに家康は大坂城西ノ丸に入り、「家康は伏見にいること」という秀吉の遺言を踏みにじった。
新たな政治秩序を築くためには、何かのきっかけが必要となる。家康は利長に続き、上杉景勝に上洛を促す。ところが景勝は、慶長三年正月に越後から会津に国替えになったばかりで、同年八月に秀吉が死去したため上洛し、その約一年後に帰国したばかりだった。
このような状況なので、景勝は上洛を断ったが、家康はそれを謀反と断定し、上杉討伐の兵を挙げた。ここから家康の出陣、その留守を突く三成の挙兵、そして関ヶ原の戦いへと、事態は一気に進んでいく。
才気あふれる秀頼

秀頼に関する一級史料は極めて少なく、その言説もほとんど伝わっていない。しかし雄渾で勢いのある書風、自筆書状での流麗な文字と破綻のない文意、細部まで行き届いた書札礼などを見ると、常識をわきまえた優秀な人物像が浮かんでくる。
慶長十六年に十九歳の秀頼と家康は、二条城で会見をするが、それが終わった後、家康は腹心の本多正純に「秀頼は賢き人なり」と言ったとされる(『明良洪範』)。このことから秀頼が、家康を前にしても物怖じしない堂々たる人物だったと分かる。
よくここで、秀頼は「能ある鷹は爪を隠す」ことができなかったのかと言われるが、暗愚を装えば、家康はさらに踏み込んだ行動を起こすに違いない。しかし有能さをアピールしておけば、それが抑止力となり、家康は慎重になる。とにかく時間を味方に付けているのは秀頼なのだ。
また秀頼の体軀だが、「六尺五寸(約百九十七センチメートル)の大兵」だったと記されている(同書)。当時の人の平均身長(男性百五十七〜百五十九センチメートル)からすれば見上げるばかりの巨人だが、むろん白髪三千丈の類いだろう。とはいえ父の秀吉とは似ても似つかない、堂々たる体軀の持ち主だったことは確かだろう。
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