プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「石田三成」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

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敗者烈伝

単行本(ソフトカバー) > 歴史・時代小説
実業之日本社
伊東 潤(著)

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有能でありながらも狭量な困った人

石田三成

一五六〇年〈永禄三年〉~一六〇〇年〈慶長五年〉

どこの世界にも困った人はいる。

困った人にはいろいろあれど、最も困るのが、頭が固くて融通の利かない人だ。

こうした人は、自分が正しいと思えば何を言っても聞かず、とにかく自分の正義を押し通そうとする。しかも、こうした人に限って戦闘的な上に感情的で、意見の異なる相手の話を聞かないから、なおさら厄介だ。つまり「自分は常に正しい」と頭から信じ込んでいるため、それを部分的にでも否定しようものなら、「あなたは悪い人」となってしまうのだ。

こうした人は大局的見地に立ち、相手の面子や立場を思いやることもない。痛み分けだとか、妥協点を見つけて譲歩するとか、落としどころを探るということもしない。

こうした人物の典型こそ石田三成だろう。

その生き様には一貫性があり、一途に清廉潔白だった。しかし、その頑ななまでの姿勢が豊臣家を滅ぼしたのだから、正義とは何とも罪なものだ。

秀吉に見いだされた三成

image by PIXTA / 5341718

永禄三年(一五六〇)、尾張国の桶狭間で歴史を変える一戦があった年、三成は近江国坂田郡石田村で生まれた。石田村は琵琶湖と伊吹山の間にあり、比較的開けている近江国の中では僻地と言っていいだろう。生家はその地を押さえる土豪だった。

幼少年期の挿話は何も残っていないが、観音寺という近くの寺で寺小姓をやっていたというのは本当らしい。その時の逸話は、あまりに有名だろう。

『武将感状記』によると、江北三郡十二万石の主として長浜城に入った羽柴秀吉が、鷹狩りの帰途に喉が渇いたので、近くの寺に寄って茶を所望した。すると姿を現した寺小姓は、ぬるい上に碗に溢れるほどの茶を運んできた。それを一気に飲み干した秀吉がおかわりを所望すると、小姓は二杯目に少し熱くて碗半分ほどの茶を、さらに三杯目を所望すると、小さな茶碗に熱い茶を淹れてきた。

この気配りに感心した秀吉は、佐吉という名のその寺小姓をもらい受けた。それが後の石田三成である。

これほど三成の人となりを端的に表したエピソードはなく、たとえ作り話だったとしても、恐ろしいほどのリアリティがある。

以後、秀吉の小姓となった三成は、常に秀吉の傍らにあり、その才をいかんなく発揮し、秀吉お気に入りの一人になっていく。

このまま何も起こらなければ、織田家の一大名・羽柴家の家宰として三成は辣腕を振るい、直江兼続のように名声に包まれたまま、その生涯を閉じていたことだろう。

ところが運命は、秀吉・三成主従をそのままにしておかなかった。

天下人秀吉の補佐役

image by PIXTA / 40818347

天正十年(一五八二)六月、秀吉の主君の織田信長が本能寺で斃れる。これを聞いて中国大返しを成し遂げた秀吉は、信長の仇の明智光秀を討ち、次代の天下人候補の筆頭に躍り出る。

翌天正十一年には賤ヶ岳合戦で柴田勝家を破り、自刃に追い込むと、天正十二年から翌十三年にかけての政治的駆け引きにより、徳川家康を封じ込めることに成功する。

こうしてライバルを次々と退けた秀吉は天正十三年、関白に任官する。この時、二十六歳の三成も、従五位下治部少輔に叙せられた。

続いて三成は奉行の地位に就く。豊臣家の立法・行政機関の長の一人になったのだ。この時、共に奉行の座に上ったのは、前田玄以・浅野長政・増田長盛・長束正家という将来の豊臣政権を支えていく面々だった。以後、彼らは五奉行と呼ばれることになり、秀吉最晩年の五大老・五奉行体制へと移行していく(厳密には大老=「御奉行衆」と奉行=「年寄」という呼称)。

ここで秀吉は三成に堺奉行を兼務させる。日本最大の貿易港・堺の生み出す富は莫大で、豊臣政権の主たる財源と言っても過言ではない。いまだ三十路に届かないにもかかわらず、堺の差配を任せられたのだから、三成の才が図抜けていた証拠だろう。

天正十五年、九州の島津氏討伐にあたって兵站を担当した三成は、八万にも及ぶ兵の兵糧や武器弾薬を切らすことなく戦場に送り込むという難題をクリアする。しかも戦後処理にも手腕を発揮し、秀吉をなだめて島津氏を滅亡の淵から救うと、兵火によって焼亡した博多の町奉行に就き、瞬く間に復興を成し遂げた。こうして三成は、豊臣家の経済基盤を整えていく。

天正十八年(一五九〇)の小田原合戦では、兵站を同僚の長束正家に任せ、武将としての実績を積むべく武蔵国を転戦した。ところが忍城の水攻めでは失策を重ね、必ずしも武名を高めることにはつながらなかった。実は、この水攻めは現地に来ていない秀吉の指示によるもので、親心が仇となったのだ。

文禄元年(一五九二)に始まる朝鮮出兵では、漢城まで出張るなどして困難な兵站を支え続ける。さらに秀吉の死去に伴って半島から撤退と決まれば、艦船を迅速に派遣して最低限の損害で撤退作戦を成功させた。

三成の増長

image by PIXTA / 53894692

ただしこの頃から、三成にも増長が始まっていた。

本来、外征に反対だった三成は、同じく反対派の小西行長らと組み、この戦争を終わらせるために様々な策謀をめぐらせた。「戦争を終わらせようとすることのどこが悪い」と言うなかれ。軍事作戦というのは最高司令官(この場合は秀吉)の意に反する動きを部下がすれば、その被害は味方全体に及ぶ。つまり方針が決定したからには、それに従うのが軍人の義務なのだ。

小田原合戦における北条氏規(氏康五男)は、豊臣方との開戦に反対し続けた。だが一度開戦と決まれば、伊豆韮山城に籠もって奮戦し、敵を寄せ付けなかった。

また太平洋戦争時の話だが、米国との開戦に最も強く反対したのは山本五十六だった。しかし開戦と決まれば全力で敵に当たる。これが軍人の基本的心得だろう。

こうした点から考えると、三成も行長も真の軍人ではなかった。それゆえ味方の和を乱し、味方を危機に陥らせることを平気でやった。それに加藤清正や黒田長政が腹を立てたのは当然だろう。

この時、三成たちは、和睦条件を日明双方に都合のいいものに変えて秀吉に報告したり、主戦派の加藤清正を讒言で陥れたり、勝手に撤退を図ったりと、秀吉の老耄に付け込み、日本軍の足並みを乱した。

これにより勝てる戦も全面撤退という結果に終わり、清正ら豊臣家武断派との溝は修復し難いほど広がった。それが豊臣家の分裂(関ヶ原合戦)、そして滅亡(大坂の陣)へとつながっていく。

秀吉の最晩年、三成は五奉行の中の一人とはいえ、実質的には豊臣家の執政的立場に就いていた。しかし、そうした立場ゆえ様々な事件の嫌疑をかけられていく。

蒲生氏郷の毒殺疑惑、関白秀次の失脚と自害、千利休の自害、小早川秀秋の失脚工作等だ。これらの事件に三成がかかわったという証拠はなく、冤罪の可能性が高いものの、嫌疑をかけられるほどの権力を握っていたのは事実だろう。つまり三成が逆らえないのは秀吉だけ、という状況だったのだ。

しかし秀吉にも死が訪れる。これにより三成は微妙な立場に追い込まれていく。

\次のページで「三成の読み違い」を解説!/

三成の読み違い

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もしも三成が、同じ五奉行の浅野長政や増田長盛、または片桐且元程度の人物だったら、豊臣家は一大名として江戸期も続いていたというのが私の持論だ。

もちろん武田家のように、家康の息子の一人を養子入りさせられ、実質的には乗っ取られるか、織田家、今川家、関東足利家(喜連川藩)等のように、数万石程度の高家扱いになるといったことは避けられないかもしれない。

つまり浅野たちのような「大人」であれば、秀吉亡き後の豊臣家をソフトランディングさせるべく、家康との間に妥協点を見出せていたに違いない。そうなれば豊臣家滅亡の悲劇もなく、表向きは「禅譲」が行われることになり、秀吉や家康の歴史的評価は、今よりもはるかに高いものになったはずだ。

しかし秀吉の死後、三成は何とも困った存在になっていく。

秀吉生前と同様、三成は妥協よりも正義を優先し、大局的見地から豊臣家全体の利益を考えようとしない。武断派に対して、声高に「太閤殿下の御恩」を叫んだところで、これまで対立関係にあった武断派諸大名たちが、三成の求めに応じるわけがないことに気づかないのだ。

統一政権としての豊臣家を後世に伝えていきたいなら、秀吉の生前、辞を低くして清正らに歩み寄っておくべきだった。その時間的余裕はあったはずだ。

秀吉死後の豊臣家を見据えられなかった時点で、残念ながら三成は大政治家ではなかったと断じざるを得ない。

三成の挙兵と敗北

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慶長四年(一五九九)閏三月、家康と三成の間に立ち、衝突抑止力となっていた前田利家が病没する。事態は突然、動き始める。

早くもその夜、清正や長政に池田輝政、福島正則、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明ら武断派大名が三成を襲うという事件が起こった。

襲撃は未遂に終わったが、「喧嘩両成敗」を持ち出した家康によって、三成は失脚させられ、本拠の近江佐和山城に退隠させられる。

秀吉死後だけでなく、利家死後のシミュレーションができていないことを取っても、三成に先見性がなかったことは否めない事実だろう。二人とも急死ではないのだ。

一方、武断派の決起を利用し、家康は豊臣政権の実質的執政となる。この時点で公儀は家康となり、それが後々まで三成の足枷となっていく。

それにしても慶長五年時点で、五大老のうち家康を除く四人が国元に帰っていたというのは、どういうことだろうか。おそらくこの時点では、群雄割拠の戦国時代に戻るというのが大方の予想であり、各自、領国統治と防備に余念がなかったのだろう。しかしこれでは、家康の専横を許すことになる。

徳川家の行く末のために、家康は自らの仮想敵となり得る勢力を各個撃破していく段階に入った。というのも、すでに家康は五十九歳となり、残された時間がさほどないからだ。

一方、ここまで不利な状況にありながら、五大老のうち、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家が西軍に与し、さらに島津義弘、小早川秀秋、鍋島勝茂、立花宗茂ら有力大名も、いったんは味方に付けたのだから、三成の外交努力は評価せねばならない。

慶長五年四月、家康が上杉景勝に対して上洛命令を発し、景勝がこれを拒絶することで事態は再び動き出す。

この時、三成と景勝(実質的には執政の直江兼続)との間に、東西呼応しての挟撃作戦があったかどうかについて昔からよく議論されるが、私は十分にあり得たと思っている。

結局、家康は会津討伐を決定する。この時、前田利家の跡を継いだ利長は、生母を人質として家康に差し出し、忠節を誓っている。これにより前田家は中立的な立場を貫くことになるが、戦力的に見て家康としては「中立で十分」だが、三成としては何としても味方に付けておきたかったに違いない。

いずれにせよ六月、家康は諸大名を率いて大坂城を出陣した。むろん背後で三成が挙兵するのは、予想の範疇だったろう。

一方の三成は、いったん江戸城に入っていた家康が、会津目指して出陣したという報告を受けて挙兵した。

この後の展開は、白峰旬氏の『新解釈 関ケ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い』(宮帯出版社)と高橋陽介氏と乃至政彦氏共著の『天下分け目の関ケ原合戦はなかった : 一次史料が伝える〝通説を根底から覆す〟真実とは』(河出書房新社)の二冊を推薦しておく。

三成の弱点

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いずれにせよ三成は関ヶ原で大敗し、処刑されることになった。そして豊臣家は、その十五年後の大坂の陣において息の根を止められる。

三成の敗因は奈辺にあったのか。戦略・戦術論を横に置き、残された記録などから、その性格的弱点だけを考えてみよう。

・管理統制指向が強く、何事にも厳格で、融通が利かない

・嫌悪の情が激しく、いったん嫌いになると歩み寄らない

・自分の正義を信じて疑わず、自分の考えに反する者はすべて悪になる

・場の空気が読めず、相手の気持ちに対する洞察力に欠ける

・対症療法的発想から脱せられず、先手が取れない

・交渉事では完全勝利を目指し、妥協点を見出そうとしない

・何かに失敗しても自責で考えることはなく、他責で考える

・思い込みが激しく、自負心が強いため方針の修正もしない

この中で面白いのは深慮遠謀に欠ける点で、三成には、とくにその機能が欠落しているため、予想外の事態が起こっても、対症療法的にしか動くことができないのだ。つまり豊臣政権では、それを考えるのは秀吉の仕事で、三成はあくまで執行官という立場だったのだろう。

もしも真田昌幸あたりが五奉行の一人にいたら、三成と能力を補完し合うことができ、豊臣家も安泰だったかもしれない。その点、三成は最高の実務家であって、優れた経営者ではなかった。

敗者には、必然的に敗者となり得る欠落部分がある。三成の場合、戦略策定&深慮遠謀パートを秀吉に委ねてきたことが後々まで響き、自らがリーダーとして矢面に立たされても、それを補えなかった。それが三成と豊臣家の悲劇につながっていく。

秀吉は、何とも罪な人材を残していったことになる。

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【3分でわかる】石田三成はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる石田三成の歴史

プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「石田三成」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

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有能でありながらも狭量な困った人

石田三成

一五六〇年〈永禄三年〉~一六〇〇年〈慶長五年〉

どこの世界にも困った人はいる。

困った人にはいろいろあれど、最も困るのが、頭が固くて融通の利かない人だ。

こうした人は、自分が正しいと思えば何を言っても聞かず、とにかく自分の正義を押し通そうとする。しかも、こうした人に限って戦闘的な上に感情的で、意見の異なる相手の話を聞かないから、なおさら厄介だ。つまり「自分は常に正しい」と頭から信じ込んでいるため、それを部分的にでも否定しようものなら、「あなたは悪い人」となってしまうのだ。

こうした人は大局的見地に立ち、相手の面子や立場を思いやることもない。痛み分けだとか、妥協点を見つけて譲歩するとか、落としどころを探るということもしない。

こうした人物の典型こそ石田三成だろう。

その生き様には一貫性があり、一途に清廉潔白だった。しかし、その頑ななまでの姿勢が豊臣家を滅ぼしたのだから、正義とは何とも罪なものだ。

秀吉に見いだされた三成

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永禄三年(一五六〇)、尾張国の桶狭間で歴史を変える一戦があった年、三成は近江国坂田郡石田村で生まれた。石田村は琵琶湖と伊吹山の間にあり、比較的開けている近江国の中では僻地と言っていいだろう。生家はその地を押さえる土豪だった。

幼少年期の挿話は何も残っていないが、観音寺という近くの寺で寺小姓をやっていたというのは本当らしい。その時の逸話は、あまりに有名だろう。

『武将感状記』によると、江北三郡十二万石の主として長浜城に入った羽柴秀吉が、鷹狩りの帰途に喉が渇いたので、近くの寺に寄って茶を所望した。すると姿を現した寺小姓は、ぬるい上に碗に溢れるほどの茶を運んできた。それを一気に飲み干した秀吉がおかわりを所望すると、小姓は二杯目に少し熱くて碗半分ほどの茶を、さらに三杯目を所望すると、小さな茶碗に熱い茶を淹れてきた。

この気配りに感心した秀吉は、佐吉という名のその寺小姓をもらい受けた。それが後の石田三成である。

これほど三成の人となりを端的に表したエピソードはなく、たとえ作り話だったとしても、恐ろしいほどのリアリティがある。

以後、秀吉の小姓となった三成は、常に秀吉の傍らにあり、その才をいかんなく発揮し、秀吉お気に入りの一人になっていく。

このまま何も起こらなければ、織田家の一大名・羽柴家の家宰として三成は辣腕を振るい、直江兼続のように名声に包まれたまま、その生涯を閉じていたことだろう。

ところが運命は、秀吉・三成主従をそのままにしておかなかった。

天下人秀吉の補佐役

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天正十年(一五八二)六月、秀吉の主君の織田信長が本能寺で斃れる。これを聞いて中国大返しを成し遂げた秀吉は、信長の仇の明智光秀を討ち、次代の天下人候補の筆頭に躍り出る。

翌天正十一年には賤ヶ岳合戦で柴田勝家を破り、自刃に追い込むと、天正十二年から翌十三年にかけての政治的駆け引きにより、徳川家康を封じ込めることに成功する。

こうしてライバルを次々と退けた秀吉は天正十三年、関白に任官する。この時、二十六歳の三成も、従五位下治部少輔に叙せられた。

続いて三成は奉行の地位に就く。豊臣家の立法・行政機関の長の一人になったのだ。この時、共に奉行の座に上ったのは、前田玄以・浅野長政・増田長盛・長束正家という将来の豊臣政権を支えていく面々だった。以後、彼らは五奉行と呼ばれることになり、秀吉最晩年の五大老・五奉行体制へと移行していく(厳密には大老=「御奉行衆」と奉行=「年寄」という呼称)。

ここで秀吉は三成に堺奉行を兼務させる。日本最大の貿易港・堺の生み出す富は莫大で、豊臣政権の主たる財源と言っても過言ではない。いまだ三十路に届かないにもかかわらず、堺の差配を任せられたのだから、三成の才が図抜けていた証拠だろう。

天正十五年、九州の島津氏討伐にあたって兵站を担当した三成は、八万にも及ぶ兵の兵糧や武器弾薬を切らすことなく戦場に送り込むという難題をクリアする。しかも戦後処理にも手腕を発揮し、秀吉をなだめて島津氏を滅亡の淵から救うと、兵火によって焼亡した博多の町奉行に就き、瞬く間に復興を成し遂げた。こうして三成は、豊臣家の経済基盤を整えていく。

天正十八年(一五九〇)の小田原合戦では、兵站を同僚の長束正家に任せ、武将としての実績を積むべく武蔵国を転戦した。ところが忍城の水攻めでは失策を重ね、必ずしも武名を高めることにはつながらなかった。実は、この水攻めは現地に来ていない秀吉の指示によるもので、親心が仇となったのだ。

文禄元年(一五九二)に始まる朝鮮出兵では、漢城まで出張るなどして困難な兵站を支え続ける。さらに秀吉の死去に伴って半島から撤退と決まれば、艦船を迅速に派遣して最低限の損害で撤退作戦を成功させた。

三成の増長

image by PIXTA / 53894692

ただしこの頃から、三成にも増長が始まっていた。

本来、外征に反対だった三成は、同じく反対派の小西行長らと組み、この戦争を終わらせるために様々な策謀をめぐらせた。「戦争を終わらせようとすることのどこが悪い」と言うなかれ。軍事作戦というのは最高司令官(この場合は秀吉)の意に反する動きを部下がすれば、その被害は味方全体に及ぶ。つまり方針が決定したからには、それに従うのが軍人の義務なのだ。

小田原合戦における北条氏規(氏康五男)は、豊臣方との開戦に反対し続けた。だが一度開戦と決まれば、伊豆韮山城に籠もって奮戦し、敵を寄せ付けなかった。

また太平洋戦争時の話だが、米国との開戦に最も強く反対したのは山本五十六だった。しかし開戦と決まれば全力で敵に当たる。これが軍人の基本的心得だろう。

こうした点から考えると、三成も行長も真の軍人ではなかった。それゆえ味方の和を乱し、味方を危機に陥らせることを平気でやった。それに加藤清正や黒田長政が腹を立てたのは当然だろう。

この時、三成たちは、和睦条件を日明双方に都合のいいものに変えて秀吉に報告したり、主戦派の加藤清正を讒言で陥れたり、勝手に撤退を図ったりと、秀吉の老耄に付け込み、日本軍の足並みを乱した。

これにより勝てる戦も全面撤退という結果に終わり、清正ら豊臣家武断派との溝は修復し難いほど広がった。それが豊臣家の分裂(関ヶ原合戦)、そして滅亡(大坂の陣)へとつながっていく。

秀吉の最晩年、三成は五奉行の中の一人とはいえ、実質的には豊臣家の執政的立場に就いていた。しかし、そうした立場ゆえ様々な事件の嫌疑をかけられていく。

蒲生氏郷の毒殺疑惑、関白秀次の失脚と自害、千利休の自害、小早川秀秋の失脚工作等だ。これらの事件に三成がかかわったという証拠はなく、冤罪の可能性が高いものの、嫌疑をかけられるほどの権力を握っていたのは事実だろう。つまり三成が逆らえないのは秀吉だけ、という状況だったのだ。

しかし秀吉にも死が訪れる。これにより三成は微妙な立場に追い込まれていく。

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