
秀頼の誕生と謀反の疑い

そんな折、秀吉の側室・淀殿が懐妊し、文禄二年(一五九三)八月、後の秀頼を産んだ。
秀吉は五十七歳にもなっており、天にも昇る気持ちだったろう。しかしその反面、自らの死後、秀頼の行く末を案じたはずだ。
折しも秀次は持病の喘息が悪化し、熱海で湯治していた。その帰途、生まれたばかりの秀頼と、七歳になる秀次の娘の婚約話を秀吉から持ち掛けられた。
これを聞いた秀次は、自らの立場が危うくなったと覚ったに違いない。邪魔者は消されるのが独裁政権の常だからだ。
ここで取るべき最上の手は、関白職を返上することだろう。しかし秀次は、それをやらなかった。実は小田原合戦の直後、大幅な加増をされて移封を命じられた織田信雄が、それを拒絶したため改易に処されていた。秀吉の真意が分からない限り、下手に動いてその怒りを買うこともないと思ったのではないだろうか。
しかも秀頼がいつ死ぬとも限らない。当時の乳幼児死亡率はかなり高かった。仮に秀次が関白職を返上してしまうと、秀頼が死んだとしても、秀吉が元の地位に戻すことはないはずだ。となれば弟の秀保か、秀次と同じく秀吉の養子の秀俊(後の小早川秀秋)あたりが関白の座に就くことになる。弟や虚けにかしずくなど、秀次は真っ平だったに違いない。しかしそれ以上に、「自分が立たなければ豊臣家は危うい」と思っていたに違いない。
ところが関白職を返上しない秀次に、秀吉は疑念を抱き始める。
秀吉は秀頼の地位を固めるべく、文禄四年三月、三歳になったばかりの秀頼の叙爵を朝廷に奏請したり、大坂城と伏見城の大規模な拡張をしたりと、秀次にとって不安材料をまき散らしていく。
こうしたことに不満を抱きながらも、日常業務に精を出していた秀次だったが、同年七月三日、予想もしなかった事態を迎える。
突然、聚楽第に乗り込んできた秀吉の奉行たちが、「謀反の疑いありや」と秀次に詰め寄ったのだ。
秀次にとって青天の霹靂であり、早速、誓詞を差し出して潔白を訴えた。
それから五日後の八日、秀吉から伏見へ来るよう命じられた秀次は急いで駆け付けるが、秀吉は面談せず、一方的に高野山行きを命じてきた。伏見への呼び出しは、秀次を聚楽第にいる家臣団と切り離すための工作だったのだ。つまりこれは、独裁者による逆クーデターだろう。
この時点で秀次は死を覚悟したと思われる。というのも以後、秀次が抗議したり哀訴したりした形跡がないからだ。それもまた、秀吉を怒らせる要因になった。
秀次の死
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十三日には秀次の宿老や直臣の処刑が行われ、十五日、秀次は切腹を命じられた(自ら切ったという説もある)。家康などの有力者に取り成しを頼む暇もないほどの迅速な措置だった。
しかし『御湯殿上日記』七月十六日条に「無実だと判明したので、斬首ではなく切腹となった」と明記されており、謀反は冤罪だったと証明されている。
しかし、冤罪とされたにもかかわらず切腹となったのはなぜだろう。吉川広家あて秀吉書状によると、「相届かざる子細」によって切腹を申し付けたことになっている。
具体的なことは一切、分からないが、秀次愚人説の元となった、正親町上皇の服喪期間中の狩りや、比叡山の寺域に入っての狩りを指すのではないかと言われているが、要は千利休の賜死と同様、さしたる理由などないのだ。
秀次の死後、秀吉は秀次の妻子ら三十九人を処刑し、秀次の住処だった聚楽第や八幡山城を徹底的に破却している。この一事は、老耄した独裁者の恐ろしさを如実に物語っている。
秀次は愚鈍でも凡庸でもなかった。その点、秀吉の眼力に狂いはなかったと言えるだろう。だが逆に、それが秀吉の猜疑心を煽ってしまったのだ。
秀吉がその晩年、疑心暗鬼に囚われさえしなければ、秀次が豊臣政権を安定に導いた可能性は高い。しかし秀吉にとっても秀次にとっても、鶴松の誕生と死、そして秀頼の誕生は、あまりにタイミングが悪かった。すなわち、豊臣家に運がなかったとしか言いようがないのだ。
秀次の辞世の歌と伝わるものは以下である。
月花を心のままに見つくしぬ なにか浮世に思ひ残さむ
(月や花を心のままに見てきたのだから、浮世に何の未練もない)
秀次は「殺生関白」というレッテルを貼られ、歴史の闇の中に消えていった。そして豊臣家は、秀頼の代で滅びることになる。
秀次の人生は秀吉に操られ、秀吉によって終わりを迎えさせられた。おそらく秀次は死の瞬間、「なんと馬鹿馬鹿しい人生だったか」と嘆いたに違いない。