プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「豊臣秀次」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

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敗者烈伝

単行本(ソフトカバー) > 歴史・時代小説
実業之日本社
伊東 潤(著)

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独裁者に操られた悲劇の後継者

豊臣秀次

一五六八年〈永禄十一年〉〜一五九五年〈文禄四年〉

戦国史上、最も悲惨な敗者という点では、豊臣秀次の右に出る者はいないだろう。

しかも秀次は冤罪被害者でもある。信じ難いことに、取り調べの末、無罪が確定していたにもかかわらず、独裁者の振り上げた拳を振り下ろす場所がなくなり、秀次は切腹させられた、ないしは自ら腹を切った。しかも、その係累の復讐を恐れた独裁者から、一切の血脈を断つという仕打ちまで受けたのだ。

その死後も悪行の数々が捏造され、独裁者の正当化の材料にされた秀次は、その生きた痕跡さえも、徹底的に消し去られることになる。

死後に至るまで、ここまで鞭打たれた敗者を私は知らない。否、秀次は誰とも戦っていないので、敗者と呼ぶのもおかしいのだが。

秀吉の「手駒」として使われた秀次

image by PIXTA / 14714693

秀次は永禄十一年(一五六八)、尾張国知多郡大高村で生まれた。父は弥助(後の三好吉房)という苗字も持たない百姓だった。

本来であれば、秀次は労働に明け暮れ、生きるだけで精一杯の生涯を送るはずだった。ところが幸か不幸か母親が羽柴秀吉の姉だったことから、その運命は、よくも悪くも大きく変転していく。

秀次が生まれた頃、すでに織田信長に仕えていた秀吉は、姉婿の弥助を家臣にし、その息子の秀次を手駒にすることを思い付いた。

秀次が四歳か五歳の時、秀次は宮部継潤という武将に養子入りさせられる。この頃、信長と近江の戦国大名・浅井長政が戦っており、その調略の一環として、浅井方から寝返った継潤を織田方に引き留める駒に使われたのだ。

天正元年(一五七三)、浅井家は滅亡し、秀吉は近江三郡の大名になった。しかし、子のできない秀吉に手駒は少ない。そのため天正二年頃、秀次は継潤との養子縁組を解消させられ、秀吉の許に戻された。

続いて秀吉は、秀次を四国の国人・三好康長に養子入りさせた。その年次ははっきりしないが、天正四年から九年の間とされる。

三好康長は三好三人衆や松永久秀と共に信長に抵抗した一人だが、天正三年、信長に降伏した後は、四国攻略作戦の嚮導役のような立場に就いていた。

秀次は三好孫七郎信吉と名乗り、養父と一緒に行動することが多くなる。康長は文化人としても一流で、秀次も康長に連れられ、しばしば茶会や連歌会に出席していた記録も残っている。後の文化や芸術への関心の高さは、この頃に培われたものだろう。

しかし天正十年、本能寺の変によって秀次の運命も一変する。

長宗我部氏との決戦を控え、阿波国で信長の援軍を待っていた康長は、信長の死を聞いて堺に逃げ戻る。その後、一切の記録から名が消えるので、遁世してしまったか、すぐに亡くなった可能性が高い。これにより、康長の勢力基盤と家臣団が秀次のものとなった。

一方、信長の死により、秀吉に天下人への道が開けてきた。

秀吉の当面の狙いは、信長の後継者の選定や遺領の分配を思うままに進めることにあった。そのためには、信長股肱の臣である池田恒興を自陣営に取り込む必要がある。

秀吉は恒興の娘を秀次に娶らせる約束をし、清洲会議を優位に運ぶことに成功する。

天正十一年、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破った秀吉は、いよいよ天下取りの野心を剝き出しにしていく。

こうなっては秀次も三好姓を名乗る必要はない。天正十二年半ば、秀次は羽柴姓を名乗るようになる。この時、秀吉の養子にされたというが定かなことは分からない。 

ところが天正十二年、秀次に大きな挫折が待っていた。小牧・長久手の戦いである。

小牧長久手の戦いでの敗北

image by PIXTA / 50516615

秀次はその死後、ありもしない話を捏造されたことから、馬鹿殿の一人と見られがちだが、その文化・芸術面での功績や、本拠となる近江八幡での為政者としての業績は、秀次が凡庸でなかったことの証だろう。

秀次は古典籍や古人の墨跡(古筆)の収集、足利学校の保護や五山文学の復興などに取り組み、学問に対する造詣の深さは、他に比肩する大名がいないほどだった。

もちろん収集や保護だけでなく、自らも王朝古典文学に親しみ、和歌もよく詠んだ。その腕前もなかなかのもので、いくつか残るものは、気取った公家の歌などよりも味わい深い。おそらく秀次は、自らの心象風景を直截に歌える素直な人だったのだろう。

小牧・長久手の戦いについての詳述は避けるが、三河攻撃隊一万六千の主将に任命された秀次は、徳川家康の巧妙な駆け引きに翻弄され、惨敗を喫する。

実は、三河奇襲策は池田恒興から提案されたもので、秀次は、その主将に自ら名乗りを上げたという。恒興からの進言によるものか、岳父を助けるべく共に戦場に赴きたかったのかは分からないが、秀次も時代の空気を十分に吸っており、武人としての名を挙げるためには、リスクを取ることが必要だと分かっていたのだろう。

この戦いに負けた秀吉方は、池田恒興、その嫡男の元助、恒興の娘婿の森長可をはじめとした二千五百もの将兵の命を失った。秀吉の戦歴の中でも、これほどの惨敗はない。

戦後、秀吉が秀次に出した?責状の中には、秀次を身内と認識しているからこその厳しさが見られる。

「秀吉の甥であることを鼻に掛け、傲慢な態度が見られる」から始まり、「進退の儀を取り上げる(勘当する)」「今後、行いを改めないなら首を切る」といった警告を発することで、秀吉は秀次を一廉の武将に育てようとした。

これは秀次暗愚説の傍証として、よく引き合いに出される書状だが、秀次はこの敗戦によって急速に影が薄くなったわけではない。おそらく、大将としての敗戦の責を問われただけで、能力を疑われることはなかったのだろう。すでにこの頃から、秀吉は後継者と考えていたのかもしれない。

秀次の絶頂期

image by PIXTA / 46079264

天正十三年は、前年に小牧・長久手の戦いで家康に苦汁を飲まされた秀吉が、得意の外交と調略によって家康を追い詰めた年でもあった。

紀州雑賀一揆、土佐の長宗我部元親、越中の佐々成政らを軍事的に屈服させた秀吉は、家康陣営に対して積極的な調略作戦を行い、小牧・長久手の戦いで家康が担いでいた織田信雄、三河刈谷城主の水野忠重、信濃の木曾福島城主の木曾義昌に続いて、十一月には、家康股肱の臣である石川数正をも籠絡した。こうしたことが、家康を臣従させる布石となる。

同年、信吉から秀次へと改名した秀次は、秀吉が関白に任官するとほぼ同時に、近江八幡二十万石(重臣の石高を合わせると四十三万石)を拝領した。

秀次は、その居城の八幡山城やその城下町の建設に手腕を発揮する。その完成後は商人たちを安土から誘致することにも成功し、近江八幡は著しい発展を遂げていく。

天正十八年の小田原合戦において、秀次は緒戦で山中城を一日で落とすなどの武功を挙げたことで、尾張清洲に移封され、尾張一国五十七万石の大名となる。

一方、天正十七年、秀吉は待望の男子を授かり、鶴松と名付けた。この鶴松が育っていれば豊臣政権は安定し、秀次も幸せな人生を送れたかもしれない。しかし鶴松は、わずか三歳で夭折してしまう。これにより秀吉から関白職を譲られた二十四歳の秀次は、晴れて秀吉の後継者となった。

この頃が秀次の絶頂期だった。

秀吉としては苦渋の選択だったが、自分が急死するリスクを考えれば、秀次の後継者指名は致し方ない措置だった。しかし心のどこかで、「鶴松の死によって幸運が舞い込んだ男」として秀次を見ていたのは間違いない。しかもこの後、官位叙任などの制度的な面で、形式的とはいえ関白秀次の「御同意」を仰がねばならないことも多くなり、秀吉としては忸怩たる思いを抱くようになっていく。この頃になると、秀吉にも衰えが目立ち始め、理性よりも感情が勝りがちになっていた。

関白職を秀次に譲ったものの、秀吉は軍事指揮権を渡すつもりはなかった。秀次に与えたのは、訴訟決裁権や朝廷・公家との交渉権、そして豊臣政権の政庁にあたる聚楽第くらいだった。

この時、秀吉は秀次に訓戒を与えているが、そこには何ら秀次の無能を証明するものはない。逆に秀吉は、「茶の湯、鷹、女狂い、秀吉のまねをするな」と自らを卑下しており、養父としての温かみを感じるほどだ。

秀吉も五十五歳になり、身内の後継者にアドバイスしたくなったのだろう。 

\次のページで「秀頼の誕生と謀反の疑い」を解説!/

秀頼の誕生と謀反の疑い

image by PIXTA / 12231899

そんな折、秀吉の側室・淀殿が懐妊し、文禄二年(一五九三)八月、後の秀頼を産んだ。

秀吉は五十七歳にもなっており、天にも昇る気持ちだったろう。しかしその反面、自らの死後、秀頼の行く末を案じたはずだ。

折しも秀次は持病の喘息が悪化し、熱海で湯治していた。その帰途、生まれたばかりの秀頼と、七歳になる秀次の娘の婚約話を秀吉から持ち掛けられた。

これを聞いた秀次は、自らの立場が危うくなったと覚ったに違いない。邪魔者は消されるのが独裁政権の常だからだ。

ここで取るべき最上の手は、関白職を返上することだろう。しかし秀次は、それをやらなかった。実は小田原合戦の直後、大幅な加増をされて移封を命じられた織田信雄が、それを拒絶したため改易に処されていた。秀吉の真意が分からない限り、下手に動いてその怒りを買うこともないと思ったのではないだろうか。

しかも秀頼がいつ死ぬとも限らない。当時の乳幼児死亡率はかなり高かった。仮に秀次が関白職を返上してしまうと、秀頼が死んだとしても、秀吉が元の地位に戻すことはないはずだ。となれば弟の秀保か、秀次と同じく秀吉の養子の秀俊(後の小早川秀秋)あたりが関白の座に就くことになる。弟や虚けにかしずくなど、秀次は真っ平だったに違いない。しかしそれ以上に、「自分が立たなければ豊臣家は危うい」と思っていたに違いない。

ところが関白職を返上しない秀次に、秀吉は疑念を抱き始める。

秀吉は秀頼の地位を固めるべく、文禄四年三月、三歳になったばかりの秀頼の叙爵を朝廷に奏請したり、大坂城と伏見城の大規模な拡張をしたりと、秀次にとって不安材料をまき散らしていく。

こうしたことに不満を抱きながらも、日常業務に精を出していた秀次だったが、同年七月三日、予想もしなかった事態を迎える。

突然、聚楽第に乗り込んできた秀吉の奉行たちが、「謀反の疑いありや」と秀次に詰め寄ったのだ。

秀次にとって青天の霹靂であり、早速、誓詞を差し出して潔白を訴えた。

それから五日後の八日、秀吉から伏見へ来るよう命じられた秀次は急いで駆け付けるが、秀吉は面談せず、一方的に高野山行きを命じてきた。伏見への呼び出しは、秀次を聚楽第にいる家臣団と切り離すための工作だったのだ。つまりこれは、独裁者による逆クーデターだろう。

この時点で秀次は死を覚悟したと思われる。というのも以後、秀次が抗議したり哀訴したりした形跡がないからだ。それもまた、秀吉を怒らせる要因になった。

秀次の死

『聚楽第図屏風』部分(三井記念美術館所蔵)
By 三井文庫蔵 - http://www.pauch.com/kss/g007.html, パブリック・ドメイン, Link

十三日には秀次の宿老や直臣の処刑が行われ、十五日、秀次は切腹を命じられた(自ら切ったという説もある)。家康などの有力者に取り成しを頼む暇もないほどの迅速な措置だった。

しかし『御湯殿上日記』七月十六日条に「無実だと判明したので、斬首ではなく切腹となった」と明記されており、謀反は冤罪だったと証明されている。

しかし、冤罪とされたにもかかわらず切腹となったのはなぜだろう。吉川広家あて秀吉書状によると、「相届かざる子細」によって切腹を申し付けたことになっている。

具体的なことは一切、分からないが、秀次愚人説の元となった、正親町上皇の服喪期間中の狩りや、比叡山の寺域に入っての狩りを指すのではないかと言われているが、要は千利休の賜死と同様、さしたる理由などないのだ。

秀次の死後、秀吉は秀次の妻子ら三十九人を処刑し、秀次の住処だった聚楽第や八幡山城を徹底的に破却している。この一事は、老耄した独裁者の恐ろしさを如実に物語っている。

秀次は愚鈍でも凡庸でもなかった。その点、秀吉の眼力に狂いはなかったと言えるだろう。だが逆に、それが秀吉の猜疑心を煽ってしまったのだ。

秀吉がその晩年、疑心暗鬼に囚われさえしなければ、秀次が豊臣政権を安定に導いた可能性は高い。しかし秀吉にとっても秀次にとっても、鶴松の誕生と死、そして秀頼の誕生は、あまりにタイミングが悪かった。すなわち、豊臣家に運がなかったとしか言いようがないのだ。

秀次の辞世の歌と伝わるものは以下である。

月花を心のままに見つくしぬ なにか浮世に思ひ残さむ

 (月や花を心のままに見てきたのだから、浮世に何の未練もない)

秀次は「殺生関白」というレッテルを貼られ、歴史の闇の中に消えていった。そして豊臣家は、秀頼の代で滅びることになる。

秀次の人生は秀吉に操られ、秀吉によって終わりを迎えさせられた。おそらく秀次は死の瞬間、「なんと馬鹿馬鹿しい人生だったか」と嘆いたに違いない。

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安土桃山時代室町時代戦国時代敗者烈伝日本史歴史

【3分でわかる】豊臣秀次はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる豊臣秀次の歴史

プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「豊臣秀次」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

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独裁者に操られた悲劇の後継者

豊臣秀次

一五六八年〈永禄十一年〉〜一五九五年〈文禄四年〉

戦国史上、最も悲惨な敗者という点では、豊臣秀次の右に出る者はいないだろう。

しかも秀次は冤罪被害者でもある。信じ難いことに、取り調べの末、無罪が確定していたにもかかわらず、独裁者の振り上げた拳を振り下ろす場所がなくなり、秀次は切腹させられた、ないしは自ら腹を切った。しかも、その係累の復讐を恐れた独裁者から、一切の血脈を断つという仕打ちまで受けたのだ。

その死後も悪行の数々が捏造され、独裁者の正当化の材料にされた秀次は、その生きた痕跡さえも、徹底的に消し去られることになる。

死後に至るまで、ここまで鞭打たれた敗者を私は知らない。否、秀次は誰とも戦っていないので、敗者と呼ぶのもおかしいのだが。

秀吉の「手駒」として使われた秀次

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秀次は永禄十一年(一五六八)、尾張国知多郡大高村で生まれた。父は弥助(後の三好吉房)という苗字も持たない百姓だった。

本来であれば、秀次は労働に明け暮れ、生きるだけで精一杯の生涯を送るはずだった。ところが幸か不幸か母親が羽柴秀吉の姉だったことから、その運命は、よくも悪くも大きく変転していく。

秀次が生まれた頃、すでに織田信長に仕えていた秀吉は、姉婿の弥助を家臣にし、その息子の秀次を手駒にすることを思い付いた。

秀次が四歳か五歳の時、秀次は宮部継潤という武将に養子入りさせられる。この頃、信長と近江の戦国大名・浅井長政が戦っており、その調略の一環として、浅井方から寝返った継潤を織田方に引き留める駒に使われたのだ。

天正元年(一五七三)、浅井家は滅亡し、秀吉は近江三郡の大名になった。しかし、子のできない秀吉に手駒は少ない。そのため天正二年頃、秀次は継潤との養子縁組を解消させられ、秀吉の許に戻された。

続いて秀吉は、秀次を四国の国人・三好康長に養子入りさせた。その年次ははっきりしないが、天正四年から九年の間とされる。

三好康長は三好三人衆や松永久秀と共に信長に抵抗した一人だが、天正三年、信長に降伏した後は、四国攻略作戦の嚮導役のような立場に就いていた。

秀次は三好孫七郎信吉と名乗り、養父と一緒に行動することが多くなる。康長は文化人としても一流で、秀次も康長に連れられ、しばしば茶会や連歌会に出席していた記録も残っている。後の文化や芸術への関心の高さは、この頃に培われたものだろう。

しかし天正十年、本能寺の変によって秀次の運命も一変する。

長宗我部氏との決戦を控え、阿波国で信長の援軍を待っていた康長は、信長の死を聞いて堺に逃げ戻る。その後、一切の記録から名が消えるので、遁世してしまったか、すぐに亡くなった可能性が高い。これにより、康長の勢力基盤と家臣団が秀次のものとなった。

一方、信長の死により、秀吉に天下人への道が開けてきた。

秀吉の当面の狙いは、信長の後継者の選定や遺領の分配を思うままに進めることにあった。そのためには、信長股肱の臣である池田恒興を自陣営に取り込む必要がある。

秀吉は恒興の娘を秀次に娶らせる約束をし、清洲会議を優位に運ぶことに成功する。

天正十一年、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破った秀吉は、いよいよ天下取りの野心を剝き出しにしていく。

こうなっては秀次も三好姓を名乗る必要はない。天正十二年半ば、秀次は羽柴姓を名乗るようになる。この時、秀吉の養子にされたというが定かなことは分からない。 

ところが天正十二年、秀次に大きな挫折が待っていた。小牧・長久手の戦いである。

小牧長久手の戦いでの敗北

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秀次はその死後、ありもしない話を捏造されたことから、馬鹿殿の一人と見られがちだが、その文化・芸術面での功績や、本拠となる近江八幡での為政者としての業績は、秀次が凡庸でなかったことの証だろう。

秀次は古典籍や古人の墨跡(古筆)の収集、足利学校の保護や五山文学の復興などに取り組み、学問に対する造詣の深さは、他に比肩する大名がいないほどだった。

もちろん収集や保護だけでなく、自らも王朝古典文学に親しみ、和歌もよく詠んだ。その腕前もなかなかのもので、いくつか残るものは、気取った公家の歌などよりも味わい深い。おそらく秀次は、自らの心象風景を直截に歌える素直な人だったのだろう。

小牧・長久手の戦いについての詳述は避けるが、三河攻撃隊一万六千の主将に任命された秀次は、徳川家康の巧妙な駆け引きに翻弄され、惨敗を喫する。

実は、三河奇襲策は池田恒興から提案されたもので、秀次は、その主将に自ら名乗りを上げたという。恒興からの進言によるものか、岳父を助けるべく共に戦場に赴きたかったのかは分からないが、秀次も時代の空気を十分に吸っており、武人としての名を挙げるためには、リスクを取ることが必要だと分かっていたのだろう。

この戦いに負けた秀吉方は、池田恒興、その嫡男の元助、恒興の娘婿の森長可をはじめとした二千五百もの将兵の命を失った。秀吉の戦歴の中でも、これほどの惨敗はない。

戦後、秀吉が秀次に出した?責状の中には、秀次を身内と認識しているからこその厳しさが見られる。

「秀吉の甥であることを鼻に掛け、傲慢な態度が見られる」から始まり、「進退の儀を取り上げる(勘当する)」「今後、行いを改めないなら首を切る」といった警告を発することで、秀吉は秀次を一廉の武将に育てようとした。

これは秀次暗愚説の傍証として、よく引き合いに出される書状だが、秀次はこの敗戦によって急速に影が薄くなったわけではない。おそらく、大将としての敗戦の責を問われただけで、能力を疑われることはなかったのだろう。すでにこの頃から、秀吉は後継者と考えていたのかもしれない。

秀次の絶頂期

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天正十三年は、前年に小牧・長久手の戦いで家康に苦汁を飲まされた秀吉が、得意の外交と調略によって家康を追い詰めた年でもあった。

紀州雑賀一揆、土佐の長宗我部元親、越中の佐々成政らを軍事的に屈服させた秀吉は、家康陣営に対して積極的な調略作戦を行い、小牧・長久手の戦いで家康が担いでいた織田信雄、三河刈谷城主の水野忠重、信濃の木曾福島城主の木曾義昌に続いて、十一月には、家康股肱の臣である石川数正をも籠絡した。こうしたことが、家康を臣従させる布石となる。

同年、信吉から秀次へと改名した秀次は、秀吉が関白に任官するとほぼ同時に、近江八幡二十万石(重臣の石高を合わせると四十三万石)を拝領した。

秀次は、その居城の八幡山城やその城下町の建設に手腕を発揮する。その完成後は商人たちを安土から誘致することにも成功し、近江八幡は著しい発展を遂げていく。

天正十八年の小田原合戦において、秀次は緒戦で山中城を一日で落とすなどの武功を挙げたことで、尾張清洲に移封され、尾張一国五十七万石の大名となる。

一方、天正十七年、秀吉は待望の男子を授かり、鶴松と名付けた。この鶴松が育っていれば豊臣政権は安定し、秀次も幸せな人生を送れたかもしれない。しかし鶴松は、わずか三歳で夭折してしまう。これにより秀吉から関白職を譲られた二十四歳の秀次は、晴れて秀吉の後継者となった。

この頃が秀次の絶頂期だった。

秀吉としては苦渋の選択だったが、自分が急死するリスクを考えれば、秀次の後継者指名は致し方ない措置だった。しかし心のどこかで、「鶴松の死によって幸運が舞い込んだ男」として秀次を見ていたのは間違いない。しかもこの後、官位叙任などの制度的な面で、形式的とはいえ関白秀次の「御同意」を仰がねばならないことも多くなり、秀吉としては忸怩たる思いを抱くようになっていく。この頃になると、秀吉にも衰えが目立ち始め、理性よりも感情が勝りがちになっていた。

関白職を秀次に譲ったものの、秀吉は軍事指揮権を渡すつもりはなかった。秀次に与えたのは、訴訟決裁権や朝廷・公家との交渉権、そして豊臣政権の政庁にあたる聚楽第くらいだった。

この時、秀吉は秀次に訓戒を与えているが、そこには何ら秀次の無能を証明するものはない。逆に秀吉は、「茶の湯、鷹、女狂い、秀吉のまねをするな」と自らを卑下しており、養父としての温かみを感じるほどだ。

秀吉も五十五歳になり、身内の後継者にアドバイスしたくなったのだろう。 

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