
そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「北条氏政」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。
北条氏政
一五三八年〈天文七年〉~一五九〇年〈天正十八年〉
北条氏政といえば、軍記物に見られる「汁かけ飯」の逸話がつとに有名だ。
小田原北条氏三代当主の氏康と、その嫡男の氏政が、小田原城内で一緒に食事を取っていた時のことだ。氏政は飯に汁をかけて食べようとするのだが、かける分量をうまく見積もれず、食べてはかけてを繰り返していた。それを見た氏康が、「飯にかける汁の量も測れんとは、わしの代で当家も終わりか」と言って嘆いたという。目先のことしか考えず長期的展望に欠ける氏政を揶揄した逸話だが、よく考えれば、氏政の慎重さを物語っている逸話とも言える。
確かに氏政は、「思い切りのよさ」に欠けていた。それが最後には命取りになるのだが、それまでは慎重で周到な一面が功を奏した時もあった。
それでは氏政の生涯を俯瞰しながら、彼は何を成し、また何に敗れ去ったのか見ていくことにしよう。
氏政の全権掌握と上杉謙信との手切れ
By 不明 – 箱根早雲寺所蔵, パブリック・ドメイン, Link
天文七年(一五三八)、氏康の次男として生まれた氏政は、長男の氏親が早世したことで嫡男とされ(これまで新九郎とだけ呼ばれてきた氏康長男の実名は氏親と判明)、永禄二年(一五五九)、二十二歳で家督を継いだ。だが実権はなきに等しく、家督継承から十二年を経た三十四歳の元亀二年(一五七一)十月、氏康の死によって、名実ともに北条氏の全権を握った。
最初の仕事は、越後の上杉謙信との間に結ばれた越相同盟を解消し、甲斐の武田信玄との同盟を復活させることだった。
そもそも北条・武田両氏が手切れとなったのは永禄十一年十二月、信玄が一方的に甲相駿三国同盟を破棄し、駿河に攻め入って今川氏を滅ぼしたことにある。これに怒った氏康が武田氏との同盟を破棄し、上杉氏と越相同盟を締結したのだ。だが越相同盟は条件面での不一致から機能せず、信玄を抑止することにはならなかった。そのため信玄の侵攻を受けた北条氏は、領内に深刻な打撃を受ける。
その結果、氏政は戦略・地勢・血縁(氏政の正室は信玄の娘・黄梅院)面から、武田氏との再同盟を模索する。
元亀二年十二月、北条・武田両氏は正式に攻守同盟を締結する。これにより両氏の共通の敵は、越後の上杉謙信となった。氏政と謙信は「手切之一札」という国交断絶状を送り合い、再び敵対関係となる。
とかく優柔不断というイメージがつきまとう氏政だが、氏康の死を機として、迅速に外交政策の転換を行ったのは評価に値する。全関東を領国化するという北条氏の戦略目標を念頭に置けば、隣国の武田氏と敵対するのは得策ではない。その点、氏政は、大局的見地から物事を判断できる人物だった。
上杉・武田との対立

しかし元亀四年四月、上洛戦の途上にあった武田信玄が死去することで、上野・下野・下総・武蔵を舞台に、北条・上杉両氏の衝突が頻繁になる。
紆余曲折の末、天正二年(一五七四)十一月、謙信が武蔵国から全面撤退することで、北条氏の武蔵・下総両国の完全領有が成し遂げられた。華々しい大合戦で勝利したわけではないが(臼井城攻防戦はあるが)、氏政は硬軟取り混ぜた外交と、粘り強く小戦を繰り返した末、謙信との戦いに勝ったのだ。
それでも佐竹・宇都宮・結城氏らを中心にした「東方衆一統勢力」は根強い抵抗を示し、謙信に越山を要請し続けていた。これに応えた謙信は、天正六年四月に大規模な関東侵攻作戦を行うと宣言する。
ところが同年三月九日、謙信は春日山城内で倒れ、そのまま意識が戻らず、十三日に死去する。これにより「東方衆一統勢力」は、自力で北条方勢力と戦わねばならなくなった。
実は謙信の生前、北条・上杉両氏が同盟を締結した際、氏康は七男の三郎を証人(人質)として越後に送っていた。この三郎が謙信に気に入られ、証人から後継候補に格上げされていた。三郎は謙信の初名である景虎という諱までもらうが、正式な指名を受ける前に謙信が死去したため、同じく後継候補の景勝と跡目争いが始まった。
御館の乱である。
天正七年三月、この戦いに敗れた景虎が敗死することで、北条氏の行く末に暗雲が垂れ込め始める。この乱の最中、信玄の後継者の勝頼が景勝に与したため、氏政は上杉・武田両氏を同時に敵に回してしまい、窮地に立たされることになる。
氏政の生涯を俯瞰してみると、御館の乱での景虎の敗死がいかに大きかったかが分かる。この戦いで弟の景虎が勝っていれば、越後も同盟国となり、武田氏も交えた強固な三国同盟が成立したからだ。しかも御館の乱の結果、武田勝頼とも手切れとなったのは実に痛かった。
織田・徳川・北条連合軍による武田攻撃

勝頼は「東方衆一統勢力」と結んで関東を席巻し、天正三年の長篠合戦で受けた痛手から回復したかのような攻勢を取り、氏政は「当方終には可滅亡候哉」と嘆くに至る。そこで氏政は徳川家康に接近し、織田信長にまで誼を通じる。
織田氏側の史料によると、氏政は「関東八国御分国に参る(関八州を差し出します)」と信長に告げたとされ、嫡男の氏直の正室に、信長の娘を迎える約束までした。
攻める武田方、守る北条方という流れが変わったのは、天正九年三月の家康による遠江国の高天神城攻略からだ。
氏政は八月、駿河と伊豆の国境を守っていた武田方の長久保城を落とした。家康による高天神城攻略に比べて目立たないが、武田氏の衰勢を決定付ける事件として、同等の価値がある。
天正十年三月、織田・徳川・北条連合軍は武田領へ同時侵攻を開始する。勝頼は後退に後退を重ね、甲斐東端の天目山麓田野において自刃、ここに武田氏は滅亡する。
ところが戦後、信長は上野一国を滝川一益に、駿河一国を徳川家康に、また信濃国を戦功のあった家臣たちに分け与えたにもかかわらず、氏政には何も与えなかった。北条氏は戦勝国に名を連ねたにもかかわらず、何の恩恵にも与れないどころか、自力で回復した上野一国まで取り上げられたのだ。信長は武田領侵攻作戦における北条氏の貢献度が、なきに等しいと判断したのだ。
この時の中央政権に対する不信感が、後に氏政が、豊臣政権を容易に認められない遠因になる。
それにしても、ここまでの前半生における氏政の外交・軍事手腕は、もっと評価されてもいいと思う。上杉謙信を関東から駆逐し、四十有余年にわたって戦いを続けてきた里見氏と和睦し、さらに御館の乱後の苦境を巧妙な外交策で乗り切り、武田氏滅亡の一端を担ったのだから、これまでの氏政に対する愚将ないしは凡庸という評価は当たらない。
また氏照・氏邦・氏規といった有能な弟たちとの間に良好な関係を築き、それぞれに軍管区司令官的立場を与え、領国統治や軍事指揮権を委任するというのは、度量が大きいだけでなく大組織の運営術にも長けていた証拠だ。
\次のページで「孤立化する北条氏」を解説!/