プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「北条氏政」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

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敗者烈伝

単行本(ソフトカバー) > 歴史・時代小説
実業之日本社
伊東 潤(著)

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慎重さが足枷となった名家の四代目

北条氏政

一五三八年〈天文七年〉~一五九〇年〈天正十八年〉

北条氏政といえば、軍記物に見られる「汁かけ飯」の逸話がつとに有名だ。

小田原北条氏三代当主の氏康と、その嫡男の氏政が、小田原城内で一緒に食事を取っていた時のことだ。氏政は飯に汁をかけて食べようとするのだが、かける分量をうまく見積もれず、食べてはかけてを繰り返していた。それを見た氏康が、「飯にかける汁の量も測れんとは、わしの代で当家も終わりか」と言って嘆いたという。目先のことしか考えず長期的展望に欠ける氏政を揶揄した逸話だが、よく考えれば、氏政の慎重さを物語っている逸話とも言える。

確かに氏政は、「思い切りのよさ」に欠けていた。それが最後には命取りになるのだが、それまでは慎重で周到な一面が功を奏した時もあった。

それでは氏政の生涯を俯瞰しながら、彼は何を成し、また何に敗れ去ったのか見ていくことにしよう。

氏政の全権掌握と上杉謙信との手切れ

Houjou Ujimasa.jpg
By 不明 - 箱根早雲寺所蔵, パブリック・ドメイン, Link

天文七年(一五三八)、氏康の次男として生まれた氏政は、長男の氏親が早世したことで嫡男とされ(これまで新九郎とだけ呼ばれてきた氏康長男の実名は氏親と判明)、永禄二年(一五五九)、二十二歳で家督を継いだ。だが実権はなきに等しく、家督継承から十二年を経た三十四歳の元亀二年(一五七一)十月、氏康の死によって、名実ともに北条氏の全権を握った。

最初の仕事は、越後の上杉謙信との間に結ばれた越相同盟を解消し、甲斐の武田信玄との同盟を復活させることだった。

そもそも北条・武田両氏が手切れとなったのは永禄十一年十二月、信玄が一方的に甲相駿三国同盟を破棄し、駿河に攻め入って今川氏を滅ぼしたことにある。これに怒った氏康が武田氏との同盟を破棄し、上杉氏と越相同盟を締結したのだ。だが越相同盟は条件面での不一致から機能せず、信玄を抑止することにはならなかった。そのため信玄の侵攻を受けた北条氏は、領内に深刻な打撃を受ける。

その結果、氏政は戦略・地勢・血縁(氏政の正室は信玄の娘・黄梅院)面から、武田氏との再同盟を模索する。

元亀二年十二月、北条・武田両氏は正式に攻守同盟を締結する。これにより両氏の共通の敵は、越後の上杉謙信となった。氏政と謙信は「手切之一札」という国交断絶状を送り合い、再び敵対関係となる。

とかく優柔不断というイメージがつきまとう氏政だが、氏康の死を機として、迅速に外交政策の転換を行ったのは評価に値する。全関東を領国化するという北条氏の戦略目標を念頭に置けば、隣国の武田氏と敵対するのは得策ではない。その点、氏政は、大局的見地から物事を判断できる人物だった。

上杉・武田との対立

image by PIXTA / 7643952

しかし元亀四年四月、上洛戦の途上にあった武田信玄が死去することで、上野・下野・下総・武蔵を舞台に、北条・上杉両氏の衝突が頻繁になる。

紆余曲折の末、天正二年(一五七四)十一月、謙信が武蔵国から全面撤退することで、北条氏の武蔵・下総両国の完全領有が成し遂げられた。華々しい大合戦で勝利したわけではないが(臼井城攻防戦はあるが)、氏政は硬軟取り混ぜた外交と、粘り強く小戦を繰り返した末、謙信との戦いに勝ったのだ。

それでも佐竹・宇都宮・結城氏らを中心にした「東方衆一統勢力」は根強い抵抗を示し、謙信に越山を要請し続けていた。これに応えた謙信は、天正六年四月に大規模な関東侵攻作戦を行うと宣言する。

ところが同年三月九日、謙信は春日山城内で倒れ、そのまま意識が戻らず、十三日に死去する。これにより「東方衆一統勢力」は、自力で北条方勢力と戦わねばならなくなった。

実は謙信の生前、北条・上杉両氏が同盟を締結した際、氏康は七男の三郎を証人(人質)として越後に送っていた。この三郎が謙信に気に入られ、証人から後継候補に格上げされていた。三郎は謙信の初名である景虎という諱までもらうが、正式な指名を受ける前に謙信が死去したため、同じく後継候補の景勝と跡目争いが始まった。

御館の乱である。

天正七年三月、この戦いに敗れた景虎が敗死することで、北条氏の行く末に暗雲が垂れ込め始める。この乱の最中、信玄の後継者の勝頼が景勝に与したため、氏政は上杉・武田両氏を同時に敵に回してしまい、窮地に立たされることになる。

氏政の生涯を俯瞰してみると、御館の乱での景虎の敗死がいかに大きかったかが分かる。この戦いで弟の景虎が勝っていれば、越後も同盟国となり、武田氏も交えた強固な三国同盟が成立したからだ。しかも御館の乱の結果、武田勝頼とも手切れとなったのは実に痛かった。

織田・徳川・北条連合軍による武田攻撃

image by PIXTA / 36356055

勝頼は「東方衆一統勢力」と結んで関東を席巻し、天正三年の長篠合戦で受けた痛手から回復したかのような攻勢を取り、氏政は「当方終には可滅亡候哉」と嘆くに至る。そこで氏政は徳川家康に接近し、織田信長にまで誼を通じる。

織田氏側の史料によると、氏政は「関東八国御分国に参る(関八州を差し出します)」と信長に告げたとされ、嫡男の氏直の正室に、信長の娘を迎える約束までした。

攻める武田方、守る北条方という流れが変わったのは、天正九年三月の家康による遠江国の高天神城攻略からだ。

氏政は八月、駿河と伊豆の国境を守っていた武田方の長久保城を落とした。家康による高天神城攻略に比べて目立たないが、武田氏の衰勢を決定付ける事件として、同等の価値がある。

天正十年三月、織田・徳川・北条連合軍は武田領へ同時侵攻を開始する。勝頼は後退に後退を重ね、甲斐東端の天目山麓田野において自刃、ここに武田氏は滅亡する。

ところが戦後、信長は上野一国を滝川一益に、駿河一国を徳川家康に、また信濃国を戦功のあった家臣たちに分け与えたにもかかわらず、氏政には何も与えなかった。北条氏は戦勝国に名を連ねたにもかかわらず、何の恩恵にも与れないどころか、自力で回復した上野一国まで取り上げられたのだ。信長は武田領侵攻作戦における北条氏の貢献度が、なきに等しいと判断したのだ。

この時の中央政権に対する不信感が、後に氏政が、豊臣政権を容易に認められない遠因になる。

それにしても、ここまでの前半生における氏政の外交・軍事手腕は、もっと評価されてもいいと思う。上杉謙信を関東から駆逐し、四十有余年にわたって戦いを続けてきた里見氏と和睦し、さらに御館の乱後の苦境を巧妙な外交策で乗り切り、武田氏滅亡の一端を担ったのだから、これまでの氏政に対する愚将ないしは凡庸という評価は当たらない。

また氏照・氏邦・氏規といった有能な弟たちとの間に良好な関係を築き、それぞれに軍管区司令官的立場を与え、領国統治や軍事指揮権を委任するというのは、度量が大きいだけでなく大組織の運営術にも長けていた証拠だ。

\次のページで「孤立化する北条氏」を解説!/

孤立化する北条氏

image by PIXTA / 22483693

天正十年六月、信長が本能寺に斃れることで、再び時代の風向きが変わる。この機に上野国奪還を期した氏政は(指揮官は氏直だが)、上野国を治める織田政権の関東総奉行・滝川一益と一戦に及び、これを撃破する。神流川合戦だ。

これにより関東から織田勢力を駆逐した北条氏は、信濃から甲斐への進出を策す。信濃北部には上杉景勝、甲斐には徳川家康も侵入し、三者間で武田旧領争奪戦が繰り広げられることになる。

しかし真田昌幸の裏切りなどによって、北条氏の作戦は齟齬を来し、結局、甲信の地を家康に明け渡す代わりに、上野一国の領有を認めてもらうという線に落ち着く。これが天正壬午の乱だが、この機に敵だった家康と堅固な同盟を結べたことは、いい意味でも悪い意味でも実に大きかった。

ところが家康傘下に収まっていた真田昌幸が、上野国の所領(吾妻・沼田両郡)を北条氏に引き渡さず、上杉傘下に転じたため、またしても関東は戦雲に覆われる。

これに怒った家康は天正十三年、真田昌幸の本拠の上田城まで兵を送るが、逆に昌幸に翻弄されて惨敗を喫する(神川合戦)。結局、北条氏の念願だった上野国完全領有は叶わぬ夢となる。

その前年の天正十二年、家康は小牧・長久手合戦で秀吉と衝突していたが、その時、北条氏は徳川氏に与して豊臣方の佐竹義重と沼尻合戦を戦っている。氏政と家康の信頼関係は堅固だったらしく、秀吉陣営に付け入る隙を与えなかった。

小牧・長久手合戦を優勢のまま終わらせた家康だったが、前述の神川合戦で辛酸をなめ、さらに秀吉が、紀州雑賀・根来一党、四国の長宗我部元親、越中の佐々成政を次々と切り従えた上、家康股肱の石川数正の寝返りをも成功させたため、一転して窮地に立たされる。その結果、家康は秀吉に臣従するしか手がなくなり、北条氏は梯子を外された格好になった。

なぜ氏政は(滅亡時の当主は氏直だが)、さっさと秀吉に臣従しなかったのかという疑問がよく出されるが、定説に従えば、上杉景勝、佐竹義重、真田昌幸ら利害の対立する東国の武将たちが先に秀吉に臣従していたため、不利な条件をのまされるのを嫌い、秀吉に素直に従えなかったとされる。しかし秀吉にとって北条氏を滅ぼすことは、信長政権以来の既定路線であり、それを薄々感じ取っていた氏政は、「和戦両様」の構えを取りつつ、外交交渉を続けるしかなかったのだ。

豊臣秀吉による小田原攻め

image by PIXTA / 14714693

その方針も、天正十六年初頭くらいまではうまくいきそうだった。つまり臣従しても領国を削られることなく、現状維持に近い線で話がまとまる見込みが濃くなってきたのだ。しかし後陽成 天皇の聚楽第行幸の頃から、秀吉の方針は北条氏討伐に変更されたらしく、いろいろと難癖を付けてくるようになる。

こうした状況から、一戦は避け難い状況となった北条氏では、商人町や農耕地を小田原城内に取り込み、半永久的に籠城戦を行うことを目指した外周九キロの「惣構」を構築した。

氏政は拠点戦略にも長けており、これまでも緻密な城郭網の構築を進めてきた。それは一見、消極的に思われがちなのだが、こうした方針は、「領民とその生活を守っていく」という初代早雲以来の理念を実践していることを忘れてはならない。

かくして北条氏を滅ぼしたい秀吉と、「和戦両様」の構えを取りつつ、有利な条件で臣従を勝ち取ろうとする氏政の間で駆け引きが続く。その結果、真田昌幸との間でこじれていた上州沼田領問題の裁定を秀吉に仰ぐという形で、双方は手打ちとなる。

天正十七年春、めでたく沼田領問題も解決し、七月には、真田氏が占拠していた沼田城が北条氏に明け渡され、上州では名胡桃領一万石が真田氏に残された。

ところが十月、北条氏の家臣が名胡桃城を奪取したことで秀吉は激怒し、北条氏は討伐を受けることになる。むろん秀吉の謀略にはまったのだ。

かくして北条氏は滅亡することになるのだが、その後の外交交渉や戦闘の経緯については、下山治久著『小田原合戦 豊臣秀吉の天下統一』(角川学芸出版)、森田善明著『北条氏滅亡と秀吉の策謀 小田原合戦・敗北の真相とは?』(洋泉社)、また拙著『戦国北条記』(PHP文芸文庫)をお読みいただきたい。

なぜ、氏政は北条氏を滅亡させてしまったのか

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さて、氏政が凡庸ゆえに北条氏は滅亡してしまったというのが、いかに俗説であるか、お分かりいただけたと思う。

氏政という人間は、軍才では家康に及ばないものの、外交面では家康を上回った手腕を発揮しており、慎重で周到な人物だったと思われる。しかも家康以上に領国統治に力を注ぎ、国人や農民から収奪しようというのではなく、彼らとの共存共栄を目指したという点で、現代的価値観からも評価できる。

また氏政は、北条氏を戦国最大級の大名(二百三十~二百八十万石)へと躍進させた上、検地と所領役帳を基盤とした領国統治システムを完成させた(発案は氏康)。

初代早雲の理念を引き継ぎ、それを実現した氏政は、政治家としても一流だったと言えるだろう。

それではなぜ氏政は、北条氏を滅亡に導いてしまったのか。その理由を強いて探せば、氏政は何事にも慎重で手堅くなりすぎるきらいがあり、ここ一番の果断さに欠けていたことが挙げられる。氏康や家康の持っていた「思い切りのよさ」が、氏政に少しでもあれば、滅亡という最悪の事態からは免れられたのではないだろうか。やはり滅亡という結果を招いてしまったことは、氏政にそうした人格的欠点があったからなのだろう。

人には一長一短があるが、戦国大名や企業経営者ともなれば、自分の短所を是正する努力をせねばならない。氏政にはそれができなかった。

氏政は慎重で石橋を叩いても渡らない性格が災いし、勝負どころを見失い、最後には豊臣軍と戦わねばならなくなった。

飯にかける汁は、やはり一気にかけるべきだったのだ。

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安土桃山時代室町時代戦国時代敗者烈伝日本史歴史

【3分でわかる】北条氏政はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる北条氏政の歴史

プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「北条氏政」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

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慎重さが足枷となった名家の四代目

北条氏政

一五三八年〈天文七年〉~一五九〇年〈天正十八年〉

北条氏政といえば、軍記物に見られる「汁かけ飯」の逸話がつとに有名だ。

小田原北条氏三代当主の氏康と、その嫡男の氏政が、小田原城内で一緒に食事を取っていた時のことだ。氏政は飯に汁をかけて食べようとするのだが、かける分量をうまく見積もれず、食べてはかけてを繰り返していた。それを見た氏康が、「飯にかける汁の量も測れんとは、わしの代で当家も終わりか」と言って嘆いたという。目先のことしか考えず長期的展望に欠ける氏政を揶揄した逸話だが、よく考えれば、氏政の慎重さを物語っている逸話とも言える。

確かに氏政は、「思い切りのよさ」に欠けていた。それが最後には命取りになるのだが、それまでは慎重で周到な一面が功を奏した時もあった。

それでは氏政の生涯を俯瞰しながら、彼は何を成し、また何に敗れ去ったのか見ていくことにしよう。

氏政の全権掌握と上杉謙信との手切れ

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天文七年(一五三八)、氏康の次男として生まれた氏政は、長男の氏親が早世したことで嫡男とされ(これまで新九郎とだけ呼ばれてきた氏康長男の実名は氏親と判明)、永禄二年(一五五九)、二十二歳で家督を継いだ。だが実権はなきに等しく、家督継承から十二年を経た三十四歳の元亀二年(一五七一)十月、氏康の死によって、名実ともに北条氏の全権を握った。

最初の仕事は、越後の上杉謙信との間に結ばれた越相同盟を解消し、甲斐の武田信玄との同盟を復活させることだった。

そもそも北条・武田両氏が手切れとなったのは永禄十一年十二月、信玄が一方的に甲相駿三国同盟を破棄し、駿河に攻め入って今川氏を滅ぼしたことにある。これに怒った氏康が武田氏との同盟を破棄し、上杉氏と越相同盟を締結したのだ。だが越相同盟は条件面での不一致から機能せず、信玄を抑止することにはならなかった。そのため信玄の侵攻を受けた北条氏は、領内に深刻な打撃を受ける。

その結果、氏政は戦略・地勢・血縁(氏政の正室は信玄の娘・黄梅院)面から、武田氏との再同盟を模索する。

元亀二年十二月、北条・武田両氏は正式に攻守同盟を締結する。これにより両氏の共通の敵は、越後の上杉謙信となった。氏政と謙信は「手切之一札」という国交断絶状を送り合い、再び敵対関係となる。

とかく優柔不断というイメージがつきまとう氏政だが、氏康の死を機として、迅速に外交政策の転換を行ったのは評価に値する。全関東を領国化するという北条氏の戦略目標を念頭に置けば、隣国の武田氏と敵対するのは得策ではない。その点、氏政は、大局的見地から物事を判断できる人物だった。

上杉・武田との対立

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しかし元亀四年四月、上洛戦の途上にあった武田信玄が死去することで、上野・下野・下総・武蔵を舞台に、北条・上杉両氏の衝突が頻繁になる。

紆余曲折の末、天正二年(一五七四)十一月、謙信が武蔵国から全面撤退することで、北条氏の武蔵・下総両国の完全領有が成し遂げられた。華々しい大合戦で勝利したわけではないが(臼井城攻防戦はあるが)、氏政は硬軟取り混ぜた外交と、粘り強く小戦を繰り返した末、謙信との戦いに勝ったのだ。

それでも佐竹・宇都宮・結城氏らを中心にした「東方衆一統勢力」は根強い抵抗を示し、謙信に越山を要請し続けていた。これに応えた謙信は、天正六年四月に大規模な関東侵攻作戦を行うと宣言する。

ところが同年三月九日、謙信は春日山城内で倒れ、そのまま意識が戻らず、十三日に死去する。これにより「東方衆一統勢力」は、自力で北条方勢力と戦わねばならなくなった。

実は謙信の生前、北条・上杉両氏が同盟を締結した際、氏康は七男の三郎を証人(人質)として越後に送っていた。この三郎が謙信に気に入られ、証人から後継候補に格上げされていた。三郎は謙信の初名である景虎という諱までもらうが、正式な指名を受ける前に謙信が死去したため、同じく後継候補の景勝と跡目争いが始まった。

御館の乱である。

天正七年三月、この戦いに敗れた景虎が敗死することで、北条氏の行く末に暗雲が垂れ込め始める。この乱の最中、信玄の後継者の勝頼が景勝に与したため、氏政は上杉・武田両氏を同時に敵に回してしまい、窮地に立たされることになる。

氏政の生涯を俯瞰してみると、御館の乱での景虎の敗死がいかに大きかったかが分かる。この戦いで弟の景虎が勝っていれば、越後も同盟国となり、武田氏も交えた強固な三国同盟が成立したからだ。しかも御館の乱の結果、武田勝頼とも手切れとなったのは実に痛かった。

織田・徳川・北条連合軍による武田攻撃

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勝頼は「東方衆一統勢力」と結んで関東を席巻し、天正三年の長篠合戦で受けた痛手から回復したかのような攻勢を取り、氏政は「当方終には可滅亡候哉」と嘆くに至る。そこで氏政は徳川家康に接近し、織田信長にまで誼を通じる。

織田氏側の史料によると、氏政は「関東八国御分国に参る(関八州を差し出します)」と信長に告げたとされ、嫡男の氏直の正室に、信長の娘を迎える約束までした。

攻める武田方、守る北条方という流れが変わったのは、天正九年三月の家康による遠江国の高天神城攻略からだ。

氏政は八月、駿河と伊豆の国境を守っていた武田方の長久保城を落とした。家康による高天神城攻略に比べて目立たないが、武田氏の衰勢を決定付ける事件として、同等の価値がある。

天正十年三月、織田・徳川・北条連合軍は武田領へ同時侵攻を開始する。勝頼は後退に後退を重ね、甲斐東端の天目山麓田野において自刃、ここに武田氏は滅亡する。

ところが戦後、信長は上野一国を滝川一益に、駿河一国を徳川家康に、また信濃国を戦功のあった家臣たちに分け与えたにもかかわらず、氏政には何も与えなかった。北条氏は戦勝国に名を連ねたにもかかわらず、何の恩恵にも与れないどころか、自力で回復した上野一国まで取り上げられたのだ。信長は武田領侵攻作戦における北条氏の貢献度が、なきに等しいと判断したのだ。

この時の中央政権に対する不信感が、後に氏政が、豊臣政権を容易に認められない遠因になる。

それにしても、ここまでの前半生における氏政の外交・軍事手腕は、もっと評価されてもいいと思う。上杉謙信を関東から駆逐し、四十有余年にわたって戦いを続けてきた里見氏と和睦し、さらに御館の乱後の苦境を巧妙な外交策で乗り切り、武田氏滅亡の一端を担ったのだから、これまでの氏政に対する愚将ないしは凡庸という評価は当たらない。

また氏照・氏邦・氏規といった有能な弟たちとの間に良好な関係を築き、それぞれに軍管区司令官的立場を与え、領国統治や軍事指揮権を委任するというのは、度量が大きいだけでなく大組織の運営術にも長けていた証拠だ。

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