プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「明智光秀」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

IMAGE

敗者烈伝

単行本(ソフトカバー) > 歴史・時代小説
実業之日本社
伊東 潤(著)

¥1,760Amazonで見る
価格・情報の取得:2020-06-19

白と黒の二面性を併せ持った謀反人

明智光秀

一五二八年〈享禄元年〉? ~一五八二年〈天正十年〉

明智光秀というのは、どうにも捉えどころがない人物だ。残された記録が、両極端な人物像を示しているからだ。これまでの定説では、光秀は穏やかな性格で民に優しく、信心深い上に詩歌文学にも通じた教養人で、仕事に関してはプロ意識が高く、極めて謹厳実直ということになる。

光秀の二面性

image by PIXTA / 10008017

一例を挙げれば、江戸時代初期に書かれた『老人雑話』という随筆に、「明智は外様のやうにて、其上謹厚の人なれは、詞常に慇懃なり」とある。これは、「明智は外様だからか、まじめで慎み深く、言葉は常に礼儀正しく真心が籠もっている」という意味になる。

『老人雑話』は戦国期を生きた儒者の話の聞き書きだが、光秀の一面をよく捉えている。つまり目上の人には好印象を持たれるよう、慇懃なほど丁寧に接していたというのだ。いわゆる白光秀である。

一方、宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』にある光秀像こそ、黒光秀の典型だろう。

「(光秀は)裏切りや密会を好み、刑を処するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった」

信長のことかと勘違いしてしまうほどの描写だが、伝聞の上、光秀がキリスト教に冷淡だったことを差し引いても、かなり事実に近いことを言っているような気がする。

これまでの定説にあるような慈悲深い仏のような白光秀では、いかに吏僚として優れていても、信長家臣団の首座を獲得できるはずがないからだ。

つまりフロイスの言う黒光秀は、かなり実像に近いものではなかったか。

その裏付けとして、比叡山焼き討ちを率先して進めたり、皇族・寺社・幕府関係者の所領を押領したり、あこぎなことも平気でやっている。つまり黒光秀は、白光秀に勝っていると断じざるを得ない。

人というのは、自分が接している面だけでは捉えられないものだ。いつもにこにこしている人が、極めて短気だったという話などは、その典型だろう。

おそらく「己を偽装するのに抜け目がない」という一節に、光秀の二面性ないしは多面性が示されているのではないだろうか。

実際の光秀は、人格的に一貫性のある人物だったのだと思う。しかし、その個性が際立っていたためか、自らを韜晦するのに長けていたためか、白か黒かのステレオタイプの人物像では、とても説明しきれなかったに違いない。そういう意味でも、極めて興味深い人物だ。

信長軍団で出世を重ねた光秀

image by PIXTA / 54343313

光秀は美濃国守護職の土岐氏に連なる出自と伝わっている。生年は不詳だが享禄元年(一五二八)説が有力で、この説が正しければ、本能寺の変の際は五十五歳という分別盛りだったことになる。

彼の登場時期やその行動から推察すると、この推定年齢は極めて真実に近いものと考えられる。天文三年(一五三四)生まれの信長より六~七歳ほど年上だったというのもうなずける。

光秀の青年期の記録はなく、はっきりしたことは分かっていないが、将軍家に出仕し、さらに越前朝倉家に仕えていたとされる。

永禄九年(一五六六)頃、朝倉義景を恃んで逃げてきた足利義昭や細川藤孝らと出会うことで、光秀の人生は開けてくる。それまで鉄砲の専門家として朝倉家に仕えていた光秀だったが、義景が将軍家再興の力にならないと見切り、永禄十一年(一五六八)に朝倉家を辞して、義昭を連れて信長の許に赴いた。

その後、光秀は信長に見込まれ、織田家中の出世街道をひた走っていく。

本能寺の変にまつわる諸説

image by PIXTA / 53628331

本能寺の変にまつわる諸説は、大別すると野望説・突発衝動説・怨恨説・黒幕説に分けられる。これらは複雑に絡み合っており、単独で挙げることの方が難しい。

野望説については、黒光秀の観点からは最も妥当なように思える。しかし変成功後の無計画さから常に疑問が呈されている。

むろん野望説に突発衝動説を加えると、この問題も解決されるのだが、果たして思慮深い光秀が、そんなリスキーな賭けをするだろうか。

黒幕説については、朝廷や足利将軍家、はたまたイエズス会などバラエティに富んでいるが、今日では、様々な根拠からどれもほぼ否定されている。

また怨恨説だが、最近、ここから派生した四国問題説というものが注目を集めている。すなわち長宗我部氏の取次役だった光秀の顔に泥を塗るかのように、信長が「四国の儀は元親手柄次第に切り取り候へ」(『元親記』)という約束を反故にし、四国侵攻作戦を行おうとしていたことで、光秀が恨みを抱いたというものだ。この説は確かに説得力があり、定説化されつつあったが、渡邊大門氏が『信長政権』(河出ブックス)で疑義を呈したことで、にわかに怪しくなってきた。

それでは、本能寺の変に至るまでの経緯を振り返りつつ、光秀が、いかにして勝者から敗者に転落したかを検証していきたいと思う。

\次のページで「本能寺の変の背景」を解説!/

本能寺の変の背景

image by PIXTA / 48265855

天正十年(一五八二)三月十一日、信長は武田勝頼を滅ぼし、天下統一まであと一息というところまで来ていた。

この時、信濃国の諏訪で行われた祝宴の席上、「われらも長年にわたって骨を折ってきたかいがあった」という光秀の言葉を聞きとがめた信長が、「お前がどれほどのことをしてきたのか」と怒り、光秀の頭を欄干に叩きつけたという逸話がある(『祖父物語』)。定説では、『祖父物語』の信用性の低さから、これは創作だとされている。

しかし、常識では考えられない異常な行動だからこそ、真実ではなかったか。信長は常人以上に執念深く、過去のことを根に持つ性格の上、武田家を滅ぼしたことにより、自己肥大化が急速に進んでいたからだ。

いずれにせよ武田家の遺領は、功を挙げた者たちに分け与えられることになった。

この時、徳川家康は駿河一国を拝領する。

甲斐国からの帰途、徳川領を通った信長は、家康を安土城に招きたいとでも言ったのだろう。駿河一国拝領の御礼言上もあり、家康は、その誘いを断ることができない。

実は武田家が滅亡することで、信長にとって家康は不要な存在となっていた。

それを知ってか知らずか五月十五日、家康は少ない供回りだけで安土を訪れる。この時、家康の饗応役に指名されたのが光秀だった。しかし何らかの意見の相違があり、信長から激しい折檻を受ける。この話は、フロイスの『日本史』に書かれていることで、ほぼ事実と思ってよい。こうしたことからも『祖父物語』に書かれた暴力行為が、あながちでたらめとは思えないのだ。

『日本史』には、信長と光秀が密談していたところ、「彼(信長)の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、明智を足蹴にしたということである」と書かれている。

従来、「彼の好みに合わぬ要件」は接待方法とされてきた。しかしいくら短気な信長でも、接待方法の意見の相違くらいで頼むべき家臣を足蹴にするだろうか。

ここからは仮説として読んでほしいが、この時、自己肥大化の極にあった信長は、安土で家康を殺せと光秀に命じたのではないだろうか。しかし光秀は拒否した。当然であろう。信長なら光秀に家康を討たせた後、光秀を殺すことも十分に考えられるからだ。

この時、光秀は代替案を提示したはずだ。これにより矛を収めた信長は、光秀に備中高松城行きを命じる。むろん、示し合わせてのことだ。

実はこの頃、秀吉が高松城で苦戦を強いられていた。その救援要請が安土に届いたのは、家康が安土に到着したのと同じ五月十五日である。

光秀と家康の足跡

image by PIXTA / 14773433

それでは、本能寺の変に至るまでの光秀の足跡を整理してみよう。

五月十七日 備中への援軍を命じられ、安土から坂本城へ

同二十六日 坂本城を発し、丹波亀山城へ

同二十七日 愛宕山に参詣し、一晩籠もる

同二十八日 連歌を興行し、発句を詠む。その後、亀山に帰る

       (天正十年五月は「小の月」なので二十九日まで)

六月一日  亀山城を出陣、山陰道を進む

六月二日  未明に桂川を渡り、本能寺を襲撃

一方、信長の関心は、少ない供回りで安土にやってきた家康をどこで殺すかだ。忠実な同盟者を安土に呼び出した上で殺しては、天下の威信を失う。光秀はこの点を指摘したのではないだろうか。

それゆえ信長は、出陣支度で大わらわの安土では饗応が十分に尽くせないことを理由に、家康に京都行きを勧める。この勧めを家康は拒絶できない。

この頃の家康の行動を整理すると、以下のようになる。

五月十五日 安土入り

同十七日 安土での饗応

同十九日 安土摠見寺で能興行

同二十一日 京都入り

同二十二日~二十七日 京都見物

同二十八日 京都出発、その日のうちに大坂入り

同二十九日 大坂出発、堺入り

六月一日 堺で一日三回の茶会

六月二日 信長の命により京都に向けて出発

信長の命により、家康は畿内を行き来させられた。しかもこの日程は、信長の指示によって頻繁に変えられていた。

家康としては、一刻も早く帰国したかったに違いない。新たに領国となった駿河の統治は緒に就いたばかりで、その東には、甲州征伐における信長の論功行賞に不満を持つ北条氏が健在だからだ。

\次のページで「家康謀殺計画」を解説!/

家康謀殺計画

image by PIXTA / 14822266

家康は、なぜ安土、京、大坂、堺と行き来させられたのか。

信長は家康を殺したいのだが、天下の耳目があるので露骨に討ち取るわけにはいかない。おそらく光秀の提案により、野盗か野伏を装って家康を襲撃し、自らの信用を落とさないようにして、家康を葬り去りたかったのではないだろうか。

ちなみに同行していた武田旧臣の穴山梅雪は、家康と別行動を取ったため野盗の襲撃に遭って命を落としている。この時期の家康と梅雪は体形が似ており(二人の肖像画から)、もしかしたら誤認された可能性もある。

しかし家康とて馬鹿ではない。ある程度、信長の思惑に気づいていたはずだ。それゆえ、なかなか隙を見せない。しかも家康には茶屋四郎次郎という諜報担当者がおり、信長の行動は逐一、家康の耳に入っていた。

それゆえ光秀は、信長本人を囮として家康をおびき出そうとした。

五月二十九日、信長は備中への後詰のために入洛する。しかし供回りはわずかで、馬廻衆ら主力部隊は安土にとどまっている。十五日に救援要請が入ったのだから、十六日には陣触れを出しているはずで、兵農分離しているはずの織田軍団としては、あまりに動きが鈍い。つまり信長から馬廻衆に、安土にとどまるようにという指示が出ていたとしか思えない。

信長から京都に来るよう命じられた家康は、六月二日の朝、京都に向けて出発した。むろん家康は茶屋四郎次郎からの情報により、信長主力軍が安土にとどまっているのを知っている。

危ういのはその途次だ。家康は前触れを出して慎重に進んだ。しかし信長は、その途次を襲おうとは考えていなかった。信長は家康を本能寺に招き入れ、自分が抜け出した後に、明智勢に襲わせようとしたのだ。

しかし、そこで何かの手違いが生じた。ないしは信長がいると知っていながら、光秀は本能寺を襲った ――。

『信長公記』によると、襲撃前日の六月一日、光秀は重臣たちに決意を語っているので、確信犯の可能性もある。そうなれば黒光秀の面目躍如である。

しかし、変後の準備不足を考慮すると、手違いが生じて信長を殺してしまったという線も捨てきれない。

本能寺の変の真相とは

image by PIXTA / 57482234

さて、これが私の考える本能寺の変だ。もちろん史料は重視しているが、史料だけでは分からない部分は状況証拠を積み上げて推測している。つまり仮説であり推論なので、確実な裏付けはない。だが決定的な錯誤や矛盾はない。それだけ本能寺の変には、推理を働かせる余地が残っているのだ。

とくに黒光秀なら、家康を討つと言っておきながら、信長をだまし討ちにした可能性は十分にある。問題は、本能寺の変を成功させた後だ。

信長を討ち取るまでは緻密で用意周到だった光秀だが、その後は人が変わったように後手に回り、勝者から敗者へと転落している。

とくに味方を増やせず困っているうちに、秀吉と山崎合戦を戦い、無残な敗北を喫するのは、いかにもおかしい。しかも敗戦後、光秀は土民に襲われて絶命する。まさに、変の成功でツキを使い尽くしたかのような無残な最期だ。

こうなると光秀という人物の本質が奈辺にあったのか、本当に分からなくなる。

手違い説だとうまく説明できるのだが、それ以外、変後の計画性がないことを説明できないことも付記しておく。

本能寺の変は謎のベールに包まれている。その理由の一つは、光秀という人物の「己を偽装するのに抜け目がない」と言われるほどの捉えどころのなさにある。黒か白か、または二面性を有していたのか。人というのは実に謎に満ちている。

結局、完璧な作戦で勝者となったにもかかわらず、その後の計画性がなく、光秀は敗者に転落した。そこには、何か大きな謎が介在していたとしか思えない。だからこそ本能寺の変は、人の心を摑んで放さないのだろう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

IMAGE

敗者烈伝

単行本(ソフトカバー) > 歴史・時代小説
実業之日本社
伊東 潤(著)

¥1,760Amazonで見る
価格・情報の取得:2020-06-19
" /> 【3分でわかる】明智光秀はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる明智光秀の歴史 – Study-Z
安土桃山時代室町時代戦国時代敗者烈伝日本史歴史

【3分でわかる】明智光秀はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる明智光秀の歴史

プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「明智光秀」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

IMAGE

敗者烈伝

単行本(ソフトカバー) > 歴史・時代小説
実業之日本社
伊東 潤(著)

¥1,760Amazonで見る
価格・情報の取得:2020-06-19

白と黒の二面性を併せ持った謀反人

明智光秀

一五二八年〈享禄元年〉? ~一五八二年〈天正十年〉

明智光秀というのは、どうにも捉えどころがない人物だ。残された記録が、両極端な人物像を示しているからだ。これまでの定説では、光秀は穏やかな性格で民に優しく、信心深い上に詩歌文学にも通じた教養人で、仕事に関してはプロ意識が高く、極めて謹厳実直ということになる。

光秀の二面性

image by PIXTA / 10008017

一例を挙げれば、江戸時代初期に書かれた『老人雑話』という随筆に、「明智は外様のやうにて、其上謹厚の人なれは、詞常に慇懃なり」とある。これは、「明智は外様だからか、まじめで慎み深く、言葉は常に礼儀正しく真心が籠もっている」という意味になる。

『老人雑話』は戦国期を生きた儒者の話の聞き書きだが、光秀の一面をよく捉えている。つまり目上の人には好印象を持たれるよう、慇懃なほど丁寧に接していたというのだ。いわゆる白光秀である。

一方、宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』にある光秀像こそ、黒光秀の典型だろう。

「(光秀は)裏切りや密会を好み、刑を処するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった」

信長のことかと勘違いしてしまうほどの描写だが、伝聞の上、光秀がキリスト教に冷淡だったことを差し引いても、かなり事実に近いことを言っているような気がする。

これまでの定説にあるような慈悲深い仏のような白光秀では、いかに吏僚として優れていても、信長家臣団の首座を獲得できるはずがないからだ。

つまりフロイスの言う黒光秀は、かなり実像に近いものではなかったか。

その裏付けとして、比叡山焼き討ちを率先して進めたり、皇族・寺社・幕府関係者の所領を押領したり、あこぎなことも平気でやっている。つまり黒光秀は、白光秀に勝っていると断じざるを得ない。

人というのは、自分が接している面だけでは捉えられないものだ。いつもにこにこしている人が、極めて短気だったという話などは、その典型だろう。

おそらく「己を偽装するのに抜け目がない」という一節に、光秀の二面性ないしは多面性が示されているのではないだろうか。

実際の光秀は、人格的に一貫性のある人物だったのだと思う。しかし、その個性が際立っていたためか、自らを韜晦するのに長けていたためか、白か黒かのステレオタイプの人物像では、とても説明しきれなかったに違いない。そういう意味でも、極めて興味深い人物だ。

信長軍団で出世を重ねた光秀

image by PIXTA / 54343313

光秀は美濃国守護職の土岐氏に連なる出自と伝わっている。生年は不詳だが享禄元年(一五二八)説が有力で、この説が正しければ、本能寺の変の際は五十五歳という分別盛りだったことになる。

彼の登場時期やその行動から推察すると、この推定年齢は極めて真実に近いものと考えられる。天文三年(一五三四)生まれの信長より六~七歳ほど年上だったというのもうなずける。

光秀の青年期の記録はなく、はっきりしたことは分かっていないが、将軍家に出仕し、さらに越前朝倉家に仕えていたとされる。

永禄九年(一五六六)頃、朝倉義景を恃んで逃げてきた足利義昭や細川藤孝らと出会うことで、光秀の人生は開けてくる。それまで鉄砲の専門家として朝倉家に仕えていた光秀だったが、義景が将軍家再興の力にならないと見切り、永禄十一年(一五六八)に朝倉家を辞して、義昭を連れて信長の許に赴いた。

その後、光秀は信長に見込まれ、織田家中の出世街道をひた走っていく。

本能寺の変にまつわる諸説

image by PIXTA / 53628331

本能寺の変にまつわる諸説は、大別すると野望説・突発衝動説・怨恨説・黒幕説に分けられる。これらは複雑に絡み合っており、単独で挙げることの方が難しい。

野望説については、黒光秀の観点からは最も妥当なように思える。しかし変成功後の無計画さから常に疑問が呈されている。

むろん野望説に突発衝動説を加えると、この問題も解決されるのだが、果たして思慮深い光秀が、そんなリスキーな賭けをするだろうか。

黒幕説については、朝廷や足利将軍家、はたまたイエズス会などバラエティに富んでいるが、今日では、様々な根拠からどれもほぼ否定されている。

また怨恨説だが、最近、ここから派生した四国問題説というものが注目を集めている。すなわち長宗我部氏の取次役だった光秀の顔に泥を塗るかのように、信長が「四国の儀は元親手柄次第に切り取り候へ」(『元親記』)という約束を反故にし、四国侵攻作戦を行おうとしていたことで、光秀が恨みを抱いたというものだ。この説は確かに説得力があり、定説化されつつあったが、渡邊大門氏が『信長政権』(河出ブックス)で疑義を呈したことで、にわかに怪しくなってきた。

それでは、本能寺の変に至るまでの経緯を振り返りつつ、光秀が、いかにして勝者から敗者に転落したかを検証していきたいと思う。

\次のページで「本能寺の変の背景」を解説!/

次のページを読む
1 2 3
Share: