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【3分でわかる】明智光秀はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる明智光秀の歴史

プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「明智光秀」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

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敗者烈伝

単行本(ソフトカバー) > 歴史・時代小説
実業之日本社
伊東 潤(著)

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価格・情報の取得:2020-06-19

白と黒の二面性を併せ持った謀反人

明智光秀

一五二八年〈享禄元年〉? ~一五八二年〈天正十年〉

明智光秀というのは、どうにも捉えどころがない人物だ。残された記録が、両極端な人物像を示しているからだ。これまでの定説では、光秀は穏やかな性格で民に優しく、信心深い上に詩歌文学にも通じた教養人で、仕事に関してはプロ意識が高く、極めて謹厳実直ということになる。

光秀の二面性

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一例を挙げれば、江戸時代初期に書かれた『老人雑話』という随筆に、「明智は外様のやうにて、其上謹厚の人なれは、詞常に慇懃なり」とある。これは、「明智は外様だからか、まじめで慎み深く、言葉は常に礼儀正しく真心が籠もっている」という意味になる。

『老人雑話』は戦国期を生きた儒者の話の聞き書きだが、光秀の一面をよく捉えている。つまり目上の人には好印象を持たれるよう、慇懃なほど丁寧に接していたというのだ。いわゆる白光秀である。

一方、宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』にある光秀像こそ、黒光秀の典型だろう。

「(光秀は)裏切りや密会を好み、刑を処するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった」

信長のことかと勘違いしてしまうほどの描写だが、伝聞の上、光秀がキリスト教に冷淡だったことを差し引いても、かなり事実に近いことを言っているような気がする。

これまでの定説にあるような慈悲深い仏のような白光秀では、いかに吏僚として優れていても、信長家臣団の首座を獲得できるはずがないからだ。

つまりフロイスの言う黒光秀は、かなり実像に近いものではなかったか。

その裏付けとして、比叡山焼き討ちを率先して進めたり、皇族・寺社・幕府関係者の所領を押領したり、あこぎなことも平気でやっている。つまり黒光秀は、白光秀に勝っていると断じざるを得ない。

人というのは、自分が接している面だけでは捉えられないものだ。いつもにこにこしている人が、極めて短気だったという話などは、その典型だろう。

おそらく「己を偽装するのに抜け目がない」という一節に、光秀の二面性ないしは多面性が示されているのではないだろうか。

実際の光秀は、人格的に一貫性のある人物だったのだと思う。しかし、その個性が際立っていたためか、自らを韜晦するのに長けていたためか、白か黒かのステレオタイプの人物像では、とても説明しきれなかったに違いない。そういう意味でも、極めて興味深い人物だ。

信長軍団で出世を重ねた光秀

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光秀は美濃国守護職の土岐氏に連なる出自と伝わっている。生年は不詳だが享禄元年(一五二八)説が有力で、この説が正しければ、本能寺の変の際は五十五歳という分別盛りだったことになる。

彼の登場時期やその行動から推察すると、この推定年齢は極めて真実に近いものと考えられる。天文三年(一五三四)生まれの信長より六~七歳ほど年上だったというのもうなずける。

光秀の青年期の記録はなく、はっきりしたことは分かっていないが、将軍家に出仕し、さらに越前朝倉家に仕えていたとされる。

永禄九年(一五六六)頃、朝倉義景を恃んで逃げてきた足利義昭や細川藤孝らと出会うことで、光秀の人生は開けてくる。それまで鉄砲の専門家として朝倉家に仕えていた光秀だったが、義景が将軍家再興の力にならないと見切り、永禄十一年(一五六八)に朝倉家を辞して、義昭を連れて信長の許に赴いた。

その後、光秀は信長に見込まれ、織田家中の出世街道をひた走っていく。

本能寺の変にまつわる諸説

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本能寺の変にまつわる諸説は、大別すると野望説・突発衝動説・怨恨説・黒幕説に分けられる。これらは複雑に絡み合っており、単独で挙げることの方が難しい。

野望説については、黒光秀の観点からは最も妥当なように思える。しかし変成功後の無計画さから常に疑問が呈されている。

むろん野望説に突発衝動説を加えると、この問題も解決されるのだが、果たして思慮深い光秀が、そんなリスキーな賭けをするだろうか。

黒幕説については、朝廷や足利将軍家、はたまたイエズス会などバラエティに富んでいるが、今日では、様々な根拠からどれもほぼ否定されている。

また怨恨説だが、最近、ここから派生した四国問題説というものが注目を集めている。すなわち長宗我部氏の取次役だった光秀の顔に泥を塗るかのように、信長が「四国の儀は元親手柄次第に切り取り候へ」(『元親記』)という約束を反故にし、四国侵攻作戦を行おうとしていたことで、光秀が恨みを抱いたというものだ。この説は確かに説得力があり、定説化されつつあったが、渡邊大門氏が『信長政権』(河出ブックス)で疑義を呈したことで、にわかに怪しくなってきた。

それでは、本能寺の変に至るまでの経緯を振り返りつつ、光秀が、いかにして勝者から敗者に転落したかを検証していきたいと思う。

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