プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「織田信長」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

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敗者烈伝

単行本(ソフトカバー) > 歴史・時代小説
実業之日本社
伊東 潤(著)

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己を克服できなかった史上最強の英傑

織田信長

一五三四年〈天文三年〉~一五八二年〈天正十年〉

歴史上、敗者という称号が最もふさわしくない敗者こそ、織田信長だろう。

想定外の謀反によって殺されたので、信長を敗者と呼ぶのは酷かもしれない。信長は最終段階まで明智光秀を敵と認識しておらず、その点でほかの敗者たちと、その立場が大きく異なるからだ。

それでも信長は敗者だと筆者は主張したい。信長は、光秀など足元にも及ばない敵に敗れたからだ。それは己自身である。

織田家の内紛に勝利

image by PIXTA / 14383830

天文三年(一五三四)、信長は尾張国で生まれた。父の信秀は尾張守護代・織田大和守家の一奉行(家老)にすぎなかったが、次第に力を蓄え、守護代家はもとより、守護の斯波氏をも凌駕するほどの勢力基盤を築いていった。その理由は、津島や熱田といった尾張国有数の港を拠点として伊勢湾交易網を掌握したことにある。

後のことだが、信長は上洛してすぐに摂州堺を支配下に置き、さらに大坂から本願寺を追い出そうとするなどして、海上交易の要衝に強い関心を示したのも、幼い頃から、交易と運上金(関税)の生み出す富の大きさを知っていたからだろう。

尾張半国の領有までは順調だった信長の父信秀も、美濃の斎藤道三や駿河の今川義元といった強敵との戦いでは苦戦を強いられ、勢力の拡大は頭打ちとなっていく。そのため天文十七年、道三と和議を結び、道三の娘の濃姫を信長の嫁にもらうことにする。

ところが天文二十年、信秀が四十二歳という若さで病死してしまう。これにより十八歳で家督を継いだ信長と、尾張国内の織田家諸勢力との衝突が始まる。ただし、天文年間の末頃から弘治年間にかけての内訌は正確な史料を欠き、定かなことは分からない。はっきりしているのは弟信行との確執で、弘治二年(一五五六)、稲生の戦いで信行を破った信長は、翌年、信行を本拠の清洲城に招いて殺害している。

信長を支えた側近の馬廻衆

image by PIXTA / 49828720

さらに永禄元年(一五五八)に尾張を統一した信長は翌年、上洛して将軍足利義輝に拝謁した。この時、室町幕府の衰退ぶりを目の当たりにし、天下取りないしは、何らかの形で中央政治に関与できるという手応えを摑んだのではないだろうか。そして永禄三年、いよいよ桶狭間合戦が勃発する。

少年期から青年期にかけての信長は、家臣の子弟たちと徒党を組み、裸馬に乗って領内を走り回る「大うつけ」として有名だった。生来、反抗心が強く、慣習や仕来りに縛られることを嫌った信長は、大人たちの常識や固定観念に囚われず自由に振る舞ったとされる。

信長は「わが道を往く」ことで若者たちの支持を得ていった。信長の取り巻きは、将来に不安を抱く家臣の次・三男層から成っており、現状に対する不満や鬱屈を抱える彼らが、命知らずの近習や馬廻衆に育っていった。

この時代、こうした軍団ほど頼もしい味方はない。村木、稲生、桶狭間などの初期の合戦に見られるように、数的には劣勢にありながらも、それを打ち破れる信長軍の強さは、彼らの捨て身の勇気のおかげと言ってもいいだろう。

『信長公記』における村木合戦の描写によると、「若武者たちは我劣らずと(塁壁を)登り、(敵に)突き落とされてもまた登り、手負い死人は、その数が分からない」というほどの命知らずぶりを見せた。いくら戦国時代でも、こうした戦い方のできる軍団はまれで、信長のカリスマ性が、彼らに死をも厭わぬ勇気を与えたのではないだろうか。

こうした戦いを通じて、信長も自らのカリスマ的リーダーシップに気づいたはずだ。

足利義昭を奉じて上洛

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永禄三年五月、二十七歳の信長は桶狭間で今川義元を討ち、歴史の表舞台に登場する。この戦いは、二千の織田軍に二万五千の今川軍が敗れただけでも不思議だが、信長が迷うことなく義元の本陣を突いたことこそ、第一の謎に挙げられるだろう。

奇襲だろうが強襲だろうが、信長は義元が「その時」どこにいるかの正確な情報を摑んでおり、一直線でそこを突くことにより、一気に勝敗を決したのだ。そうした思い切りのよさこそ信長の真骨頂であり、義元の心理的隙を突いたのは見事の一語に尽きる。桶狭間合戦の詳細については、「今川義元」の項を参照してほしい。

永禄十年、信長は美濃国を平定し、伊勢国にも進出を果たした。翌永禄十一年には、流浪の身の足利義昭を奉じて上洛を遂げる。尾張と美濃の領国統治も不十分な出来星大名の信長が、この機を逃さず上洛を果たしたことも、無類の決断力の賜物だろう。

人生においてチャンスは何度もめぐってこない。チャンスだと思った時、それをグイと引き寄せられるかどうかが、その人の生涯を決定する。たいていの人は言い訳を考えて自分を納得させ、リスクのある道に踏み出さない。しかし信長ほどになると、勝負どころと見極めれば、ためらわず踏み出していける。そこが凡人と違うのだ。

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浅井長政の反逆

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ところが上洛後、信長と義昭の関係は悪化の一途をたどる。自らが傀儡将軍に過ぎないと覚った義昭は、越前国の朝倉義景に御内書を出して信長討伐を命じた。

この動きを知った信長は元亀元年(一五七〇)、義昭に「五箇条の条書」を突きつけて警告すると、機先を制すべく越前に出陣する。しかし越前の奥深くまで進撃したところで、背後の北近江を押さえる義弟の浅井長政に寝返られ、一転して窮地に陥る。この時は恥も外聞もなく逃げ出すことで危機を脱するが、浅井家を敵に回したのは痛恨事だった。

長政は織田家との同盟締結にあたり、すでに浅井家と同盟関係にあった朝倉家を攻めないという条件を付けていたという(異説あり)。それを踏みにじって越前に攻め入ったのだから信長が悪い。いかに義弟とはいえ、事前に話し合うなどして、懐柔に努めねばならないのを怠ったのが原因だろう。そうした布石を打たずに危険な敵地に踏み入ったことは、軽率のそしりを免れない。

これは後の本能寺の変にも通じることだが、猜疑心が強い割には根回しを行わず、慎重さに欠けるのも信長の欠点だった。その萌芽が、すでにこの時期に生まれている。

また、よく裏切られるのも信長の特徴の一つで、上洛後だけでも、足利義昭、浅井長政、本願寺、松永久秀、三好義継、富田長繁、荻野直正(赤井悪右衛門)、波多野秀治、内藤定政、別所長治、荒木村重ら、いったん信長に服属した有名無名の者たちが次々と反旗を翻している。彼らが離反した要因を自責で考えず、個々のケースごとに他責で考えていたがために、信長は本能寺の変で横死するに至ったと言えるだろう。つまり本能寺の変は、経験から学んでいれば防げた可能性が高いのだ。

相手の気持ちを洞察すること、失敗から学ぶこと(学習能力)、自責で考えることがいかに大切かを、信長はわれわれに教えてくれている。

反信長包囲網と武田信玄の脅威

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元亀元年は信長にとって苦難の始まりの年だった。足利義昭、浅井長政、朝倉義景、比叡山、三好三人衆、松永久秀、伊勢長島一向一揆、雑賀衆、毛利一族、石山本願寺といった敵に囲まれた上、武田信玄が上洛の機をうかがっているという四面楚歌の状況に置かれたのだ。

ただしこれは、ひとえに信長の外交戦略に一貫性がなかったからで、後の秀吉や家康が備えていた外交手腕が、信長には欠けていたと断じざるを得ない。

元亀三年、武田信玄が西上作戦を開始する。この時、信玄が天下取りを目指していたかどうかは不明だが、上洛まで考えていたのは明らかで、岐阜辺りで信長と決戦するつもりでいたのではないだろうか。ところが上洛途中に信玄が病没してしまう。

この僥倖を信長は逃さない。信玄に呼応して挙兵した足利義昭を降伏に追い込み、越前の朝倉義景を屠り、返す刀で北近江の浅井長政を攻め滅ぼした。

ここでよく話題に上るのは、信玄が死ななかったら信長はどうなっていたかだ。「それでも信長は信玄を破っていた」という意見もあるが、私はそう思わない。これは、信長対信玄という一元論で考えてはいけない。もし信玄が岐阜辺りに進出してきたら、周辺の敵対勢力が一斉に蜂起するはずで、おそらく信長は滅亡していたことだろう。それほど信玄が営々と築いてきたブランドには効力があり、その影響力は実像の何倍も増幅していたのだ。

いずれにせよ最大最強の敵・信玄は、戦う前に信長の眼前から消えていった。

旭日の勢いの信長

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天正二年(一五七四)、三好義継を自害に追い込み、松永久秀を降し、頑強な伊勢長島一向一揆さえも壊滅に追い込んだ信長は、天正三年、三河国の長篠で、信玄亡き後の武田軍を完膚なきまでに打ち破る。さらに越前一向一揆を討滅、丹波・丹後両国を平定、戦国最強の傭兵集団・雑賀党をも降伏に追い込んだ。まさに快進撃である。

信玄の死を境に、信長に勝運が舞い込んだわけだが、こうした運を逃さないのも信長の強さの秘訣だ。流れを見極め、「今だ」と思った時に全力を投入する。これこそが、信長が他に抜きん出ることができた最大の要因だろう。

ところが、そこに落とし穴がある。

これだけ何もかもうまく回り始めると、人間は増長する。現代の成功した起業家にもよく見られる「相次ぐ成功」→「自信過剰」→「自己肥大化」→「無反省」という負のスパイラルに陥るのだ。信長もこの罠にはまった。

さて、武田家に壊滅的打撃を与えたものの、越後の上杉謙信は健在だった。これまで武田家という共通の敵があったため、友好関係にあった両者だが、室町幕府の扱いをめぐって対立する。謙信は室町幕府の外護者たらんとし、信長の前に立ちはだかったのだ。

天正五年、柴田勝家に率いられた織田軍が加賀国手取川で上杉謙信と決戦に及び、大敗を喫した。ところが、その直後に謙信が死ぬという僥倖に恵まれる。またしても信長に幸運が舞い込んだのだ。これにより信長は、畿内周辺の敵を各個撃破するだけとなる。

天正八年に難敵の石山本願寺を大坂から退去させた信長は翌年、伊賀惣国一揆を掃討し、天正十年、いよいよ武田領への侵攻を開始する。当初、相当の抵抗を示すと思われた武田軍だったが、旭日の勢いの織田軍の前に、なす術もなく滅んでいった。

これにより信長の自己肥大化は極まり、戦勝記念の祝賀会で明智光秀の些細な言葉を聞きとがめ、欄干に頭を叩き付けたり(軍記物の記載だが)、同行させていた現職太政大臣の近衛前久に罵詈雑言を浴びせたりと、歯止めが利かなくなる。そして、いよいよ本能寺の変となる。

本能寺の変については「明智光秀」の項を参照してほしい。

信長の最終目標とは

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それでは、信長の最終目標はどこにあったのか。むろん人は、寿命との闘いも視野に入れて目標を立てねばならない。信長とて例外ではない。それを踏まえて考えると、やはり信長の最終目標は、海外進出だった気がしてならない。

信長は、秀吉のように朝鮮半島や大陸を面で押さえ、全土を支配しようなどと考えてはいなかったはずだ。おそらく寧波・厦門・広州(香港)・澳門など、大陸にある有数の港町を点で押さえ、そこに城郭都市を築き、西洋諸国との交易が生み出す利益を独占するつもりでいたのではないだろうか。

むろん、それを史実として証明することはできない。しかし、伊勢湾交易網の生み出す利益を知っていたこと、上洛するや堺を押さえ、また大坂を得るべく本願寺と十年戦争を繰り広げたこと、宣教師から欧州事情を聞いていたこと、さらに琵琶湖畔などに舟入を城内に取り込んだ水陸両用の城を築いていたこと(後に秀吉が、この技術を倭城に利用した)、水軍と造船技術に強い関心を示したこと(鉄甲船という湾内防御用の大型船を造っていた)、などを考えると、あり得ない話ではない。

信長の人格から敗因を探る

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それでは信長の人格面から、その敗因を探っていこう。

信長には長所と短所が共存しており、そのどちらもが極端な点に特徴がある。

長所は、決断力や行動力に秀で、問題を先送りせずに積極的に対処する。ビジョン構築力やカリスマ的リーダーシップがあり、部下から絶大な信頼を寄せられる。目標達成意欲や上昇志向が強く、実力主義人事を徹底できる。問題が発生した際の即応力や俊敏性にも優れている。

短所は、独断専行が行きすぎて周囲のアドバイスを聞かない。共感性に乏しい。自信過剰に陥り、相手をなめて掛かる。外交や調略で味方を増やそうとしない。権力欲や支配欲が旺盛に過ぎる。せっかちで我慢ができない。気分屋なので方針に首尾一貫性がない。感情的で怒りっぽい。無反省な上に意固地で、物事を自責で考えられない。見切りが早く、長い目で人材を育てられない。多様な価値観を否定し、自分だけが正しいと思い込む。猜疑心が強く、過去の恨みを忘れない。

中でも最大の欠点は、人間洞察力の不足だろう。とにかく信長は、他人の気持ちを考えようとしない。それを見ていた秀吉が「人たらし」になったのも当然だと言える。

こうして書き連ねてみると、信長には、長所の倍くらい短所がある。これでは安国寺恵瓊が、「(今は勢いがあるが、いつか)高転びに、あおのけに転ぶ」と言ったのも当然のように思えてくる。つまり本能寺の変の遠因は、信長自身が肥大化する己を抑えきれなくなったことにあったのではないだろうか。

かくして信長は志半ばにしてこの世を去った。その無念は察して余りある。だが、それが身から出た錆なのは、こうして信長の生涯を俯瞰してみると分かるはずだ。

やはり人にとって最大の敵は己であり、己を克服した者だけが人生の勝者になれるのだ。

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安土桃山時代室町時代戦国時代敗者烈伝日本史歴史

【3分でわかる】織田信長はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる織田信長の歴史

プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「織田信長」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

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己を克服できなかった史上最強の英傑

織田信長

一五三四年〈天文三年〉~一五八二年〈天正十年〉

歴史上、敗者という称号が最もふさわしくない敗者こそ、織田信長だろう。

想定外の謀反によって殺されたので、信長を敗者と呼ぶのは酷かもしれない。信長は最終段階まで明智光秀を敵と認識しておらず、その点でほかの敗者たちと、その立場が大きく異なるからだ。

それでも信長は敗者だと筆者は主張したい。信長は、光秀など足元にも及ばない敵に敗れたからだ。それは己自身である。

織田家の内紛に勝利

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天文三年(一五三四)、信長は尾張国で生まれた。父の信秀は尾張守護代・織田大和守家の一奉行(家老)にすぎなかったが、次第に力を蓄え、守護代家はもとより、守護の斯波氏をも凌駕するほどの勢力基盤を築いていった。その理由は、津島や熱田といった尾張国有数の港を拠点として伊勢湾交易網を掌握したことにある。

後のことだが、信長は上洛してすぐに摂州堺を支配下に置き、さらに大坂から本願寺を追い出そうとするなどして、海上交易の要衝に強い関心を示したのも、幼い頃から、交易と運上金(関税)の生み出す富の大きさを知っていたからだろう。

尾張半国の領有までは順調だった信長の父信秀も、美濃の斎藤道三や駿河の今川義元といった強敵との戦いでは苦戦を強いられ、勢力の拡大は頭打ちとなっていく。そのため天文十七年、道三と和議を結び、道三の娘の濃姫を信長の嫁にもらうことにする。

ところが天文二十年、信秀が四十二歳という若さで病死してしまう。これにより十八歳で家督を継いだ信長と、尾張国内の織田家諸勢力との衝突が始まる。ただし、天文年間の末頃から弘治年間にかけての内訌は正確な史料を欠き、定かなことは分からない。はっきりしているのは弟信行との確執で、弘治二年(一五五六)、稲生の戦いで信行を破った信長は、翌年、信行を本拠の清洲城に招いて殺害している。

信長を支えた側近の馬廻衆

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さらに永禄元年(一五五八)に尾張を統一した信長は翌年、上洛して将軍足利義輝に拝謁した。この時、室町幕府の衰退ぶりを目の当たりにし、天下取りないしは、何らかの形で中央政治に関与できるという手応えを摑んだのではないだろうか。そして永禄三年、いよいよ桶狭間合戦が勃発する。

少年期から青年期にかけての信長は、家臣の子弟たちと徒党を組み、裸馬に乗って領内を走り回る「大うつけ」として有名だった。生来、反抗心が強く、慣習や仕来りに縛られることを嫌った信長は、大人たちの常識や固定観念に囚われず自由に振る舞ったとされる。

信長は「わが道を往く」ことで若者たちの支持を得ていった。信長の取り巻きは、将来に不安を抱く家臣の次・三男層から成っており、現状に対する不満や鬱屈を抱える彼らが、命知らずの近習や馬廻衆に育っていった。

この時代、こうした軍団ほど頼もしい味方はない。村木、稲生、桶狭間などの初期の合戦に見られるように、数的には劣勢にありながらも、それを打ち破れる信長軍の強さは、彼らの捨て身の勇気のおかげと言ってもいいだろう。

『信長公記』における村木合戦の描写によると、「若武者たちは我劣らずと(塁壁を)登り、(敵に)突き落とされてもまた登り、手負い死人は、その数が分からない」というほどの命知らずぶりを見せた。いくら戦国時代でも、こうした戦い方のできる軍団はまれで、信長のカリスマ性が、彼らに死をも厭わぬ勇気を与えたのではないだろうか。

こうした戦いを通じて、信長も自らのカリスマ的リーダーシップに気づいたはずだ。

足利義昭を奉じて上洛

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永禄三年五月、二十七歳の信長は桶狭間で今川義元を討ち、歴史の表舞台に登場する。この戦いは、二千の織田軍に二万五千の今川軍が敗れただけでも不思議だが、信長が迷うことなく義元の本陣を突いたことこそ、第一の謎に挙げられるだろう。

奇襲だろうが強襲だろうが、信長は義元が「その時」どこにいるかの正確な情報を摑んでおり、一直線でそこを突くことにより、一気に勝敗を決したのだ。そうした思い切りのよさこそ信長の真骨頂であり、義元の心理的隙を突いたのは見事の一語に尽きる。桶狭間合戦の詳細については、「今川義元」の項を参照してほしい。

永禄十年、信長は美濃国を平定し、伊勢国にも進出を果たした。翌永禄十一年には、流浪の身の足利義昭を奉じて上洛を遂げる。尾張と美濃の領国統治も不十分な出来星大名の信長が、この機を逃さず上洛を果たしたことも、無類の決断力の賜物だろう。

人生においてチャンスは何度もめぐってこない。チャンスだと思った時、それをグイと引き寄せられるかどうかが、その人の生涯を決定する。たいていの人は言い訳を考えて自分を納得させ、リスクのある道に踏み出さない。しかし信長ほどになると、勝負どころと見極めれば、ためらわず踏み出していける。そこが凡人と違うのだ。

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