
そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「織田信長」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。
織田信長
一五三四年〈天文三年〉~一五八二年〈天正十年〉
歴史上、敗者という称号が最もふさわしくない敗者こそ、織田信長だろう。
想定外の謀反によって殺されたので、信長を敗者と呼ぶのは酷かもしれない。信長は最終段階まで明智光秀を敵と認識しておらず、その点でほかの敗者たちと、その立場が大きく異なるからだ。
それでも信長は敗者だと筆者は主張したい。信長は、光秀など足元にも及ばない敵に敗れたからだ。それは己自身である。
織田家の内紛に勝利

天文三年(一五三四)、信長は尾張国で生まれた。父の信秀は尾張守護代・織田大和守家の一奉行(家老)にすぎなかったが、次第に力を蓄え、守護代家はもとより、守護の斯波氏をも凌駕するほどの勢力基盤を築いていった。その理由は、津島や熱田といった尾張国有数の港を拠点として伊勢湾交易網を掌握したことにある。
後のことだが、信長は上洛してすぐに摂州堺を支配下に置き、さらに大坂から本願寺を追い出そうとするなどして、海上交易の要衝に強い関心を示したのも、幼い頃から、交易と運上金(関税)の生み出す富の大きさを知っていたからだろう。
尾張半国の領有までは順調だった信長の父信秀も、美濃の斎藤道三や駿河の今川義元といった強敵との戦いでは苦戦を強いられ、勢力の拡大は頭打ちとなっていく。そのため天文十七年、道三と和議を結び、道三の娘の濃姫を信長の嫁にもらうことにする。
ところが天文二十年、信秀が四十二歳という若さで病死してしまう。これにより十八歳で家督を継いだ信長と、尾張国内の織田家諸勢力との衝突が始まる。ただし、天文年間の末頃から弘治年間にかけての内訌は正確な史料を欠き、定かなことは分からない。はっきりしているのは弟信行との確執で、弘治二年(一五五六)、稲生の戦いで信行を破った信長は、翌年、信行を本拠の清洲城に招いて殺害している。
信長を支えた側近の馬廻衆

さらに永禄元年(一五五八)に尾張を統一した信長は翌年、上洛して将軍足利義輝に拝謁した。この時、室町幕府の衰退ぶりを目の当たりにし、天下取りないしは、何らかの形で中央政治に関与できるという手応えを摑んだのではないだろうか。そして永禄三年、いよいよ桶狭間合戦が勃発する。
少年期から青年期にかけての信長は、家臣の子弟たちと徒党を組み、裸馬に乗って領内を走り回る「大うつけ」として有名だった。生来、反抗心が強く、慣習や仕来りに縛られることを嫌った信長は、大人たちの常識や固定観念に囚われず自由に振る舞ったとされる。
信長は「わが道を往く」ことで若者たちの支持を得ていった。信長の取り巻きは、将来に不安を抱く家臣の次・三男層から成っており、現状に対する不満や鬱屈を抱える彼らが、命知らずの近習や馬廻衆に育っていった。
この時代、こうした軍団ほど頼もしい味方はない。村木、稲生、桶狭間などの初期の合戦に見られるように、数的には劣勢にありながらも、それを打ち破れる信長軍の強さは、彼らの捨て身の勇気のおかげと言ってもいいだろう。
『信長公記』における村木合戦の描写によると、「若武者たちは我劣らずと(塁壁を)登り、(敵に)突き落とされてもまた登り、手負い死人は、その数が分からない」というほどの命知らずぶりを見せた。いくら戦国時代でも、こうした戦い方のできる軍団はまれで、信長のカリスマ性が、彼らに死をも厭わぬ勇気を与えたのではないだろうか。
こうした戦いを通じて、信長も自らのカリスマ的リーダーシップに気づいたはずだ。
足利義昭を奉じて上洛

永禄三年五月、二十七歳の信長は桶狭間で今川義元を討ち、歴史の表舞台に登場する。この戦いは、二千の織田軍に二万五千の今川軍が敗れただけでも不思議だが、信長が迷うことなく義元の本陣を突いたことこそ、第一の謎に挙げられるだろう。
奇襲だろうが強襲だろうが、信長は義元が「その時」どこにいるかの正確な情報を摑んでおり、一直線でそこを突くことにより、一気に勝敗を決したのだ。そうした思い切りのよさこそ信長の真骨頂であり、義元の心理的隙を突いたのは見事の一語に尽きる。桶狭間合戦の詳細については、「今川義元」の項を参照してほしい。
永禄十年、信長は美濃国を平定し、伊勢国にも進出を果たした。翌永禄十一年には、流浪の身の足利義昭を奉じて上洛を遂げる。尾張と美濃の領国統治も不十分な出来星大名の信長が、この機を逃さず上洛を果たしたことも、無類の決断力の賜物だろう。
人生においてチャンスは何度もめぐってこない。チャンスだと思った時、それをグイと引き寄せられるかどうかが、その人の生涯を決定する。たいていの人は言い訳を考えて自分を納得させ、リスクのある道に踏み出さない。しかし信長ほどになると、勝負どころと見極めれば、ためらわず踏み出していける。そこが凡人と違うのだ。
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