そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「武田勝頼」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。
武田勝頼
一五四六年〈天文十五年〉~一五八二年〈天正十年〉
「戦国時代最強の武将は誰だと思いますか」という質問をよくされる。そんな時は、必ず「戦国大名ではなく武将ですね」と確かめる。
しかし、たいていの人はきょとんとしているので、「戦国大名は大戦略の下に何万という軍勢を動かし、武将は多くて数千、少なくて数十の兵を、命じられた作戦目標を達成するために動かします。それゆえ両者の立場には、大きな隔たりがあります」と付け加える。
そこまで言えば、たいていの人は「大名では」と問うてくるので、そんな時は北条氏康と答えている。「それでは武将は」と突っ込まれると、迷わず武田勝頼と答えることにしている。
信玄の跡を継いだ勝頼
信玄四男の勝頼は当初、武田家の家督を継ぐとは思われていなかった。それゆえ信玄が乗っ取ったも同然の信濃国の諏訪家に養子入りさせられる。しかし信玄と折り合いの悪かった長男義信が自害を強要され、次男は失明、三男は早世と不幸が重なり、四男で側室腹の勝頼に家督が回ってきた。
ところが勝頼は、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀といった宿老たちから、当主となることを必ずしも歓迎されていなかった。
その理由の第一は、すでに勝頼が諏訪家に養子入りしていることで、それを武田家に戻すことは諏訪神の怒りを買うという理由からだった。これは、当時の神仏に対する信仰心の厚さからすれば十分に考えられる話だ。しかも信玄は家臣たちに諏訪信仰を奨励しており、それと矛盾するようなことをしては、諏訪信仰自体が眉唾になり、半ば神格化された信玄の権威さえ危うくなる。
むろん宿老たちに、「勝頼では危なっかしい」という思いがなかったとは言いきれない。なぜかと言えば、勝頼は元服した十七歳から当主を継いだ二十八歳まで宿老たちと幾多の戦場を共にしてきており、もしも勝頼が猪武者にとどまらない有能さを発揮していれば、宿老たちも勝頼の当主就任に反対することはなかったはずだ。
信玄生前の書状にも、「例式四郎、左馬助聊爾故、無紋に城に攻め上り候、まことに恐怖候の処、不思議に乗り崩し(後略)」とある。これは永禄十二年(一五六九)、駿河国の蒲原城を攻略した際に書かれたもので、「いつものように勝頼と信豊(勝頼の従兄弟)は考えがないから、無謀に城に攻め寄せ、ひやひやしていたが、不思議と城を攻略できた」という意味だ。
また『甲陽軍鑑』では勝頼を「強すぎたる大将」と呼び、勝頼の側近・安倍宗貞に、「ただ強すぎて今明年の内に討死なさるべきかと存ずる」と案じさせ、勝頼の謀臣・長坂釣閑斎には、「勝頼様の武辺形儀は信玄公よりも謙信公に似ている」と言わせている。軍記物には、勝頼が自ら槍を取って戦ったという記載も多く残っているが、それらもあながち偽りとは思えない。つまり勝頼は、度を越すほど勇猛果敢な若武者だったのだ。
ほかに選択肢がないこともあり、信玄は家督を勝頼に譲ることにする(当主ではなく息子の陣代という説もある)。尤も信玄は勝頼に不安を抱いていたらしく、その遺言で、宿老たちの合議制で事を進めるよう言い残していた。
勝頼の攻勢
元亀三年(一五七二)、満を持して信玄は上洛の兵を興す。怒濤の勢いで遠江を席巻した武田軍は、三方ヶ原で徳川軍を一蹴し、織田信長と決戦すべく岐阜に向かおうとしていた。しかしその途次、信玄が急逝する。
これにより勝頼が家督を継いだものの、合議制を強いられていたため、当主としての権限を行使するのは容易でなかった。
となれば実績を積み上げ、当主としての権威を確立せねばならない。それが戦国の掟でもある。つまり勝頼は、単に父を越えたいという一心から戦い続けたのではなく、自らの権力基盤確立のために戦い続け、常に勝利し続ける必要があったのだ。
こうした武田家中の混乱に付け入り、天正元年(一五七三)九月、三河国の徳川家康が、武田方の支城となっていた奥三河の長篠城を奪還した。
この時点まで徳川領における武田方の拠点城は、遠江の犬居・二俣両城、三河の長篠・田峯・作手の三城で、とくに二俣・長篠両城は、それぞれ浜松城と吉田城という家康の生命線に、白刃を突き立てる形になっていた。その一角が崩されたのだ。
翌天正二年正月、反攻態勢の整った勝頼は東美濃への侵攻を開始、正月から四月にかけて明知城をはじめとした十八城を攻略すると、五月には遠江の要衝・高天神城を囲んだ。
高天神城主の小笠原氏助は寄親の家康に後詰を請うが、九里ほど西方の浜松城に詰めている八千の徳川勢(総兵力一万五千)だけでは、侵攻軍だけで二万から成る武田軍に挑むべくもない。それゆえ家康は同盟している織田信長に後詰を要請する。
ところが信長は越前一向一揆と交戦中のため、後詰軍の編制に手間取り、ようやく六月になって出陣したものの、浜名湖まで来たところで「高天神城降伏」を知らされる。
これに気をよくした勝頼は天正三年に入り、さらに積極的な攻勢に出る。
三州街道を使って三河国に入った勝頼は、足助城を落とすと、さらに岡崎城を突くと見せかけて南東に進み、野田城を攻略した。
勝頼は、浜松・岡崎と並ぶ徳川方の拠点城の一つである吉田城を手に入れることにより、徳川領国を東西に分断しようとしていた。しかしこの時、勝頼は吉田城の東北二十四キロ余にある長篠城を落とさず、残してきていた(別働隊二千で包囲中)。
定説では落とせなかったとなっているが、勝頼は長篠城を囮にして家康をおびき出し、無二の一戦に及ぼうとしていたのではないだろうか。
ここまで追い込んでしまえば、野戦で家康と雌雄を決し、一気に徳川家を滅亡に追い込みたい、と勝頼は思っていたに違いない。
むろん家康が後詰に来ないと分かれば、長篠城を落とせばよい。前年に降伏開城させた高天神城同様、家康が傘下国衆の城に後詰できないことを満天下に示し、信用を失墜させるだけでも十分だ。
織田・徳川連合軍との対峙
一方、家康から後詰要請を受けた信長は、すぐに動いた。五月十三日に岐阜城を出陣すると、浜松で家康と落ち合い、十八日には長篠城の西方三キロほどにある設楽ヶ原に着陣した。
ところが信長は長篠城を囲む武田勢に打ち掛からず、設楽ヶ原に馬防柵をめぐらし、「待ち戦」の態勢を取った。
常識的に考えれば、武田方は織田・徳川連合軍の攻撃に備えつつ、長篠城を力ずくで落とすべきだろう。つまり主目的を長篠城攻略に置き、設楽ヶ原の押さえに些少の兵を割く程度でいい。
ところが勝頼は長篠城を落とさず、二十一日、主力勢を率いて設楽ヶ原に向かい、連吾川を挟んで連合軍と対峙した。
この時点で、囮としてあえて落とさなかった長篠城は、武田方の足枷となった。勝頼は長篠城の包囲に兵力を割かねばならず、背後を脅かされた状態で決戦に臨むことになる。
いかなる理由から、勝頼がこうした挙に出たかは謎だ。むろん長篠城囮説は仮説で、通説通りに落とせなかったのかもしれない。だがそれならそれで、撤退すれば惨敗せずに済んだはずだ。
セオリーからしても、長篠城を落とせていたら決戦もありだが、落とせていなければ持久戦の構えを取るか、慎重に退き陣(撤退戦)に移るべきだろう。
勝頼の退路は迂回路のない山中の一本道であり、退き陣にはさほど困難を伴わない。しかも途中にある城は武田方のものなので、宿老の誰かを籠城させて敵を防がせれば、勝頼は悠然と引き揚げられる。
それでは勝頼は、なぜ不利な態勢で決戦することにしたのか。
一つには、織田・徳川連合軍との決戦は亡き信玄の悲願であり、遺言に等しいものだったという説がある。また武田方の将兵には、「決戦すれば勝てる」という盲信があったのも否めない事実だろう。
一方、信長も無二の一戦を望んでいた。信長は勝頼の性格を調べ上げ(古文書がある)、餌を投げれば必ず食らい付いてくるというその性格を知り抜いていた、むろん餌とは自分自身である。
かくして勝頼は倍する敵に打ち掛かり、戦国時代でもまれなほどの惨敗を喫した。
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