
義元の上洛開始

さて、いよいよ桶狭間合戦を語る段となった。
桶狭間とは、知多半島の付け根にあたる一帯のことで、厳密には東から西に流れる手越川の造り出す狭間を、そう呼んだとされる。
この辺りは、なだらかな丘陵が幾重にも連なる田園地帯で、その間を縫うようにして、北から鎌倉往還、東海道、大高道という三本の街道が、ほぼ東西に走っている。
鎌倉往還と東海道が伊勢湾に達しようとするところに鳴海城が、同じく大高道の出口に大高城が築かれていた。つまりこの二城は、畿内と三河国を結ぶ伊勢湾交易網を掌握する舟運拠点だった。
永禄三年(一五六〇)、義元はこの二城を策源地として織田方の経済力を封じ、それを自らのものとすることで優位に立とうとした。
信長の父信秀は尾張半国を制していたにすぎないが、伊勢湾交易網を掌握したことで、その財力は大大名クラスとなり、伊勢神宮に移築資金七百貫文を寄進したり、禁裏修理料として朝廷に四千貫文を上納したりするほどだった。
一貫文を現在価値の十万円とすれば、四千貫文は四億円に相当し、とても尾張半国の大名が出せる額ではない。義元の食指が動くのも、むべなるかなである。
まず義元は、調略によって在地国人の山口教継・教吉父子を傘下に収め、その拠点である鳴海・大高両城と内陸部にある沓掛城を手に入れた。
義元がいかに両城を重視していたかは、山口父子を敵に通じた廉で粛清した上、鳴海城には岡部元信、大高城には鵜殿長照といった譜代の大身を入れていることからも、うかがい知れる。
こうした事態に危機感を抱いた信長は、鳴海・大高両城の奪還を期し、五つの付城を築いて両城を包囲した。
こうした信長の動きに、義元は即座に反応した。
駿河を出陣した今川方は二万五千、一方の織田方は二千とも三千とも言われているが、おおよそ十分の一程度の兵力だったというのが定説だ(さほど兵力差はなかったという説もある)。
しかし沓掛城から大高城に向けて進軍する途次、織田方の襲撃を受けた義元は呆気なく討ち死にを遂げる。そこには、どのような落とし穴があったのか。
桶狭間の戦い

よく言われるのは、大軍を擁していることから生じた義元の「慢心」だ。むろんこれも一因だろう。また、「兵力の少ない信長は、野戦など仕掛けてこないだろう」という戦術的な「油断」もあったはずだ。
一般的に兵力差がある場合、正面から野戦を挑んでくる敵などいないというのが、兵法の常識だ。とくに武経七書に精通した義元は、敵将もセオリーを知っていると思い込んでいたのではないか。豊富な知識とそうした思い込みが、逆に墓穴を掘ってしまったのだ。
また、小さな丘陵が幾重にも連なるこの辺りは、かつては低地にも低丘や凹凸が多く見られ、人の背丈など隠してしまうのは、たやすいことだった。
つまり迂回奇襲か正面攻撃かで議論されている桶狭間合戦の真相だが、正面奇襲という策も取り得たのだ。
戦後、信長は義元の首を取った毛利新介よりも、的確に義元側の情報を伝えてきた簗田政綱を功第一としたが、政綱は義元の居場所を摑み、敵に知られず、そこに至るルートを知っていたのではないだろうか。
それにしても不思議なのは義元の積極性だ。大将たる者、後方に陣取り、最前線が安全なものとなってから陣を進めるべきだろう。この場合、鳴海・大高両城付近から敵が掃討された後、沓掛城を出ればよいわけで、義元の進軍は性急に過ぎる感がある。
おそらく義元は、何かを早急に得たいがために焦っていたのではないだろうか。
それが何か分かった時、この合戦の実像が見えてくる。
義元が手にしたかったのは、織田家の財源になっている伊勢湾交易網だが、その交易によって最も手にしたかったのは、焰硝(硝石)ではなかったか。
すなわち、この頃から合戦における鉄砲の重要性が高まり、東国の大名たちも鉄砲や弾丸を求め始めている。鉄砲や弾丸だけなら内製化という道もあるのだが、問題は内製できない焰硝だ。義元は伊勢湾を押さえることで、堺を経由して流入する焰硝を入手したかったのではないだろうか。
義元は、これからの戦の勝敗は鉄砲が決すると見抜いていた。それが「焦り」を生んでしまったのだろう。
いずれにせよ義元が討ち取られることで今川軍は崩壊し、今川家は滅亡への道をひた走ることになる。
人の運命とは過酷だ。義元ほどの名将でも「慢心」「油断」「焦り」によって、すべてを失うことになってしまった。
この時、今川軍の先手大将の一人として徳川家康も参陣している。家康が生涯を通じて、この三点を戒めとしていたのは、その後の戦いぶりからして歴然だろう。
つまり義元は後の天下人を生んだことになり、家康はその恩義に報いるべく、没落した義元の息子氏真を厚遇したのも当然だったのだ。江戸幕府によって今川本家は高家として遇され、明治の世まで続くことになる。
それが「海道一の弓取り」とたたえられた義元の、わずかながらの慰めだろう。