プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「今川義元」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

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敗者烈伝

単行本(ソフトカバー) > 歴史・時代小説
実業之日本社
伊東 潤(著)

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一瞬の油断が命取りになった海道一の弓取り

今川義元

一五一九年〈永正十六年〉〜一五六〇年〈永禄三年〉

人に運不運は付き物だ。しかし、たった一度のミスが取り返しのつかないものになってしまった人物は、歴史上でもまれだろう。

今川義元といえば、織田信長がその存在を世に知らしめた桶狭間合戦を思い浮かべる人が大半だと思われる。これまで小説やドラマで多く取り上げられてきた桶狭間合戦だが、義元は勝者となった織田信長の引き立て役にすぎず、それもあってか、その歴史的評価は高いとは言えない。

本稿では義元の事績を振り返りつつ、その実像に迫り、桶狭間合戦の結果は偶然の産物だったのか、それとも必然の帰結だったのかを探っていきたいと思う。

花倉の乱

image by PIXTA / 35879101

永正十六年(一五一九)、義元は駿河国の駿府で生まれた。

父は、北条早雲こと伊勢新九郎盛時の支援によって家督に就いた氏親だ。

義元は五男で(正室腹三男)、当初は家督を継ぐと思われていなかった。そのため四歳の時、地元の禅寺の善得寺に入れられた。

この時、氏親は京都の建仁寺から太原雪斎を招き、義元の師に据えた。これが、後々まで義元の運命を左右することになる。

雪斎は今川家重臣の庵原家の出身で、京都建仁寺で修行し、その優秀さは故郷の駿河国まで鳴り響いていた。

享禄三年(一五三〇)、十二歳の時、義元は出家得度し、栴岳承芳と名乗った。この時、すでに父の氏親はなく、家督は長兄の氏輝が継いでいた。

雪斎の指導の下、承芳は京都に二度も留学するなどして、様々な学問を学んだ。

当時の禅寺は学問の中心であり、種々雑多な渡来学問が禅門をくぐっていた。それゆえ有力武家の子弟は皆、少年時代を禅寺で過ごすのが常だった。渡来した書物の中には、『論語』『孟子』などの四書五経のみならず『孫子』『呉子』といった武経七書も含まれていた。

雪斎は京都にいた頃、建仁寺や妙心寺で、こうした大陸渡来の兵法書に接していたに違いなく、仏教よりも政治と軍事に強い関心があったと思われる。

承芳の運命を変えたのは、天文五年(一五三六)の長兄氏輝の死だった。しかも同日に、次兄の彦五郎も死去しており、この時、今川家中で何らかの異変が起こったのは間違いない。

実は、この辺の経緯については史料を欠いており、全く詳細は分かっていない。しかしその後の動きから、今川家中で独立的勢力を保持していた福島正成が、クーデターを起こしたというのが定説になっている。

正成は氏親三男の玄広恵探の岳父にあたり、恵探を家督に就けるべく、氏輝と彦五郎を殺したというのだ。

一方、氏輝、彦五郎、承芳三人の実母である寿桂尼は、当然のことながら承芳の擁立を図る(異説あり)。この時、大きかったのは、将軍の足利義晴が承芳への家督継承を承認したことだ。

承芳は少年時代、京都に留学していたことで義晴や幕閣と面識があり、また雪斎には朝廷や公家に強い人脈があったようで、将軍家の承認を得るのは容易だったと思われる。これにより、後に花蔵の乱と呼ばれるこの内訌は、十八歳の承芳が一方的な勝利を収めた。その結果、恵探は自害して福島一族も没落する。

強固な今川・武田同盟

image by PIXTA / 8953996

今川家の家督を実力で勝ち取った承芳は、還俗して今川義元となる。

義元の義の一字は、義晴から偏諱として拝領したものだが、常の場合、偏諱は下の字が与えられる。同様に義晴から偏諱を賜った武田晴信(後の信玄)の場合、晴の字をもらい、それを上に置いているが、今川氏は将軍家親類衆ということもあり、別格の待遇を受けたのだ。

すなわち義元個人としても将軍家とのつながりは、常の今川家当主よりも強いものがあり、義元の政治ビジョンが幕府再興へと向かうのは自然な流れだった。それが、後の執拗な西進策へとつながっていく。

家督を継いで間もない頃は、どの大名家でも新当主の力量が不明なため、外敵は侵攻を図ってくる。この時の義元にとって最も恐れるべきは、北に国境を接する武田信虎だった。しかしこの点についても、雪斎はぬかりがない。

翌天文六年、義元は甲斐の武田信虎と攻守同盟を締結し、その娘を正室に迎えた。つまり氏親・氏輝時代の外交方針である「親北条・反武田」路線を「親武田・反北条」に改めたのだ。

これに怒ったのが小田原北条氏二代当主の氏綱だった。氏綱は駿河国に出兵し、富士川以東を占拠する。天文十四年まで続く河東一乱の勃発である。

しかし箱根の天険があるため、北条方は補給が追いつかず、それ以上の西進ができない。そうした北条氏の限界を雪斎は見切っていた。

何の落ち度もない北条氏を袖にしても、直接の脅威となっていた武田氏と結ぶという、この時の雪斎の判断は正しかった。

そんな時、信虎の嫡男の晴信からの密使が着き、謀反に協力してほしいという。

甲斐の守護・武田信虎は、飢饉で領民が困窮しているにもかかわらず信濃国に進出し、領民に多大なる犠牲を強いてきた。これを憂慮した晴信はクーデターを計画していたのだ。むろん義元と雪斎に否はない。

信虎が義元に嫁いでいる娘の許を訪れている隙に、晴信は甲斐国から信虎を締め出し、政変を成功させた。この政変を成功させるには、今川氏側の協力が不可欠だ。史実として確定はしていないものの、実際にそれを臭わせる書状も残っている。これにより、今川・武田両氏の同盟は堅固なものとなり、晴信は当面、信濃への進出を図ることになる。

甲相駿三国同盟と軍師雪斎の死

image by PIXTA / 45162540

その後、今川・北条両氏の関係は悪化したままになっていたが、一応の安定を見たので、義元は西進策を取り始める。三河国への進出である。ところが小国人乱立状態の三河を狙っていたのは、尾張の南半分を制していた織田信秀も同じだった。

天文十七年、三河小豆坂の戦いで織田軍を破った義元は、三河国に覇権を確立する。この時、西三河の盟主だった松平家も否応なくその傘下に入り、後の徳川家康は人質として駿河に連れていかれる。

三河進出を果たした義元は武田氏との絆をいっそう深めるべく、天文二十一年、息女を晴信嫡男の義信に嫁がせる。ところが、この頃から武田・北条両氏にも融和の雰囲気ができつつあり、天文二十三年には、晴信の娘と北条氏三代氏康の嫡男氏政の婚姻が成り、甲相同盟が締結される。つまり晴信を軸として、甲相・甲駿両同盟が成立したのだ。そうなれば自然の流れとして、今川・北条両氏も手を結ぶことになる。

天文二十三年、両氏の同盟が成り、ここに甲相駿三国同盟が成立した。

これにより北の武田と東の北条と同盟を結んだ義元は、西進策に集中できるようになった。おそらく義元には、室町幕府と足利将軍家に対する恩義と足利家親類衆としての義務感があり、京への経路を確保しておこうと思ったに違いない。さらにもう一つ、義元の西進策には大きな理由があるのだが、それは後述する。

義元にとって、上洛時に邪魔になるのは尾張国の織田氏だけであり、織田氏さえ屠れば、幕府に一朝事ある時、すぐに上洛の途に就ける。

つまり義元は上洛を指向していても、自らが将軍職に就く、すなわち天下を取るというつもりはなく、室町幕府の外護者として将軍を支えていくつもりでいたのではないだろうか。後の上杉謙信のように。

いずれにせよ桶狭間合戦直前の義元は、「海道一の弓取り」とたたえられ、駿河・遠江・三河、さらに尾張の一部の四カ国にまたがる広大な版図を築いていた。

しかし弘治元年(一五五五)、ここまで二人三脚で今川氏の栄光を築いてきた太原雪斎が没する。これにより義元は、独断で物事を進めていかねばならなくなる。

義元の場合、単独でも十分に優秀だったと思われるが、幼少の頃から様々な判断を雪斎に依存してきたことから、その没後のことを考えていなかった節がある。それが後の悲劇を生む。

現代の企業でも、二人三脚や三人四脚でうまくいっていた経営陣の一人が、退職などで欠けることで、うまく回らなくなることがある。それを防ぐには次代を担う人材の育成が必須となる。

\次のページで「義元の上洛開始」を解説!/

義元の上洛開始

image by PIXTA / 49365355

さて、いよいよ桶狭間合戦を語る段となった。

桶狭間とは、知多半島の付け根にあたる一帯のことで、厳密には東から西に流れる手越川の造り出す狭間を、そう呼んだとされる。

この辺りは、なだらかな丘陵が幾重にも連なる田園地帯で、その間を縫うようにして、北から鎌倉往還、東海道、大高道という三本の街道が、ほぼ東西に走っている。

鎌倉往還と東海道が伊勢湾に達しようとするところに鳴海城が、同じく大高道の出口に大高城が築かれていた。つまりこの二城は、畿内と三河国を結ぶ伊勢湾交易網を掌握する舟運拠点だった。

永禄三年(一五六〇)、義元はこの二城を策源地として織田方の経済力を封じ、それを自らのものとすることで優位に立とうとした。

信長の父信秀は尾張半国を制していたにすぎないが、伊勢湾交易網を掌握したことで、その財力は大大名クラスとなり、伊勢神宮に移築資金七百貫文を寄進したり、禁裏修理料として朝廷に四千貫文を上納したりするほどだった。

一貫文を現在価値の十万円とすれば、四千貫文は四億円に相当し、とても尾張半国の大名が出せる額ではない。義元の食指が動くのも、むべなるかなである。

まず義元は、調略によって在地国人の山口教継・教吉父子を傘下に収め、その拠点である鳴海・大高両城と内陸部にある沓掛城を手に入れた。

義元がいかに両城を重視していたかは、山口父子を敵に通じた廉で粛清した上、鳴海城には岡部元信、大高城には鵜殿長照といった譜代の大身を入れていることからも、うかがい知れる。

こうした事態に危機感を抱いた信長は、鳴海・大高両城の奪還を期し、五つの付城を築いて両城を包囲した。

こうした信長の動きに、義元は即座に反応した。

駿河を出陣した今川方は二万五千、一方の織田方は二千とも三千とも言われているが、おおよそ十分の一程度の兵力だったというのが定説だ(さほど兵力差はなかったという説もある)。

しかし沓掛城から大高城に向けて進軍する途次、織田方の襲撃を受けた義元は呆気なく討ち死にを遂げる。そこには、どのような落とし穴があったのか。

桶狭間の戦い

image by PIXTA / 15310936

よく言われるのは、大軍を擁していることから生じた義元の「慢心」だ。むろんこれも一因だろう。また、「兵力の少ない信長は、野戦など仕掛けてこないだろう」という戦術的な「油断」もあったはずだ。

一般的に兵力差がある場合、正面から野戦を挑んでくる敵などいないというのが、兵法の常識だ。とくに武経七書に精通した義元は、敵将もセオリーを知っていると思い込んでいたのではないか。豊富な知識とそうした思い込みが、逆に墓穴を掘ってしまったのだ。

また、小さな丘陵が幾重にも連なるこの辺りは、かつては低地にも低丘や凹凸が多く見られ、人の背丈など隠してしまうのは、たやすいことだった。

つまり迂回奇襲か正面攻撃かで議論されている桶狭間合戦の真相だが、正面奇襲という策も取り得たのだ。

戦後、信長は義元の首を取った毛利新介よりも、的確に義元側の情報を伝えてきた簗田政綱を功第一としたが、政綱は義元の居場所を摑み、敵に知られず、そこに至るルートを知っていたのではないだろうか。

それにしても不思議なのは義元の積極性だ。大将たる者、後方に陣取り、最前線が安全なものとなってから陣を進めるべきだろう。この場合、鳴海・大高両城付近から敵が掃討された後、沓掛城を出ればよいわけで、義元の進軍は性急に過ぎる感がある。

おそらく義元は、何かを早急に得たいがために焦っていたのではないだろうか。

それが何か分かった時、この合戦の実像が見えてくる。

義元が手にしたかったのは、織田家の財源になっている伊勢湾交易網だが、その交易によって最も手にしたかったのは、焰硝(硝石)ではなかったか。

すなわち、この頃から合戦における鉄砲の重要性が高まり、東国の大名たちも鉄砲や弾丸を求め始めている。鉄砲や弾丸だけなら内製化という道もあるのだが、問題は内製できない焰硝だ。義元は伊勢湾を押さえることで、堺を経由して流入する焰硝を入手したかったのではないだろうか。

義元は、これからの戦の勝敗は鉄砲が決すると見抜いていた。それが「焦り」を生んでしまったのだろう。

いずれにせよ義元が討ち取られることで今川軍は崩壊し、今川家は滅亡への道をひた走ることになる。

人の運命とは過酷だ。義元ほどの名将でも「慢心」「油断」「焦り」によって、すべてを失うことになってしまった。

この時、今川軍の先手大将の一人として徳川家康も参陣している。家康が生涯を通じて、この三点を戒めとしていたのは、その後の戦いぶりからして歴然だろう。

つまり義元は後の天下人を生んだことになり、家康はその恩義に報いるべく、没落した義元の息子氏真を厚遇したのも当然だったのだ。江戸幕府によって今川本家は高家として遇され、明治の世まで続くことになる。

それが「海道一の弓取り」とたたえられた義元の、わずかながらの慰めだろう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

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室町時代戦国時代敗者烈伝日本史歴史

【3分でわかる】今川義元はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる今川義元の歴史

プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「今川義元」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

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一瞬の油断が命取りになった海道一の弓取り

今川義元

一五一九年〈永正十六年〉〜一五六〇年〈永禄三年〉

人に運不運は付き物だ。しかし、たった一度のミスが取り返しのつかないものになってしまった人物は、歴史上でもまれだろう。

今川義元といえば、織田信長がその存在を世に知らしめた桶狭間合戦を思い浮かべる人が大半だと思われる。これまで小説やドラマで多く取り上げられてきた桶狭間合戦だが、義元は勝者となった織田信長の引き立て役にすぎず、それもあってか、その歴史的評価は高いとは言えない。

本稿では義元の事績を振り返りつつ、その実像に迫り、桶狭間合戦の結果は偶然の産物だったのか、それとも必然の帰結だったのかを探っていきたいと思う。

花倉の乱

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永正十六年(一五一九)、義元は駿河国の駿府で生まれた。

父は、北条早雲こと伊勢新九郎盛時の支援によって家督に就いた氏親だ。

義元は五男で(正室腹三男)、当初は家督を継ぐと思われていなかった。そのため四歳の時、地元の禅寺の善得寺に入れられた。

この時、氏親は京都の建仁寺から太原雪斎を招き、義元の師に据えた。これが、後々まで義元の運命を左右することになる。

雪斎は今川家重臣の庵原家の出身で、京都建仁寺で修行し、その優秀さは故郷の駿河国まで鳴り響いていた。

享禄三年(一五三〇)、十二歳の時、義元は出家得度し、栴岳承芳と名乗った。この時、すでに父の氏親はなく、家督は長兄の氏輝が継いでいた。

雪斎の指導の下、承芳は京都に二度も留学するなどして、様々な学問を学んだ。

当時の禅寺は学問の中心であり、種々雑多な渡来学問が禅門をくぐっていた。それゆえ有力武家の子弟は皆、少年時代を禅寺で過ごすのが常だった。渡来した書物の中には、『論語』『孟子』などの四書五経のみならず『孫子』『呉子』といった武経七書も含まれていた。

雪斎は京都にいた頃、建仁寺や妙心寺で、こうした大陸渡来の兵法書に接していたに違いなく、仏教よりも政治と軍事に強い関心があったと思われる。

承芳の運命を変えたのは、天文五年(一五三六)の長兄氏輝の死だった。しかも同日に、次兄の彦五郎も死去しており、この時、今川家中で何らかの異変が起こったのは間違いない。

実は、この辺の経緯については史料を欠いており、全く詳細は分かっていない。しかしその後の動きから、今川家中で独立的勢力を保持していた福島正成が、クーデターを起こしたというのが定説になっている。

正成は氏親三男の玄広恵探の岳父にあたり、恵探を家督に就けるべく、氏輝と彦五郎を殺したというのだ。

一方、氏輝、彦五郎、承芳三人の実母である寿桂尼は、当然のことながら承芳の擁立を図る(異説あり)。この時、大きかったのは、将軍の足利義晴が承芳への家督継承を承認したことだ。

承芳は少年時代、京都に留学していたことで義晴や幕閣と面識があり、また雪斎には朝廷や公家に強い人脈があったようで、将軍家の承認を得るのは容易だったと思われる。これにより、後に花蔵の乱と呼ばれるこの内訌は、十八歳の承芳が一方的な勝利を収めた。その結果、恵探は自害して福島一族も没落する。

強固な今川・武田同盟

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今川家の家督を実力で勝ち取った承芳は、還俗して今川義元となる。

義元の義の一字は、義晴から偏諱として拝領したものだが、常の場合、偏諱は下の字が与えられる。同様に義晴から偏諱を賜った武田晴信(後の信玄)の場合、晴の字をもらい、それを上に置いているが、今川氏は将軍家親類衆ということもあり、別格の待遇を受けたのだ。

すなわち義元個人としても将軍家とのつながりは、常の今川家当主よりも強いものがあり、義元の政治ビジョンが幕府再興へと向かうのは自然な流れだった。それが、後の執拗な西進策へとつながっていく。

家督を継いで間もない頃は、どの大名家でも新当主の力量が不明なため、外敵は侵攻を図ってくる。この時の義元にとって最も恐れるべきは、北に国境を接する武田信虎だった。しかしこの点についても、雪斎はぬかりがない。

翌天文六年、義元は甲斐の武田信虎と攻守同盟を締結し、その娘を正室に迎えた。つまり氏親・氏輝時代の外交方針である「親北条・反武田」路線を「親武田・反北条」に改めたのだ。

これに怒ったのが小田原北条氏二代当主の氏綱だった。氏綱は駿河国に出兵し、富士川以東を占拠する。天文十四年まで続く河東一乱の勃発である。

しかし箱根の天険があるため、北条方は補給が追いつかず、それ以上の西進ができない。そうした北条氏の限界を雪斎は見切っていた。

何の落ち度もない北条氏を袖にしても、直接の脅威となっていた武田氏と結ぶという、この時の雪斎の判断は正しかった。

そんな時、信虎の嫡男の晴信からの密使が着き、謀反に協力してほしいという。

甲斐の守護・武田信虎は、飢饉で領民が困窮しているにもかかわらず信濃国に進出し、領民に多大なる犠牲を強いてきた。これを憂慮した晴信はクーデターを計画していたのだ。むろん義元と雪斎に否はない。

信虎が義元に嫁いでいる娘の許を訪れている隙に、晴信は甲斐国から信虎を締め出し、政変を成功させた。この政変を成功させるには、今川氏側の協力が不可欠だ。史実として確定はしていないものの、実際にそれを臭わせる書状も残っている。これにより、今川・武田両氏の同盟は堅固なものとなり、晴信は当面、信濃への進出を図ることになる。

甲相駿三国同盟と軍師雪斎の死

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その後、今川・北条両氏の関係は悪化したままになっていたが、一応の安定を見たので、義元は西進策を取り始める。三河国への進出である。ところが小国人乱立状態の三河を狙っていたのは、尾張の南半分を制していた織田信秀も同じだった。

天文十七年、三河小豆坂の戦いで織田軍を破った義元は、三河国に覇権を確立する。この時、西三河の盟主だった松平家も否応なくその傘下に入り、後の徳川家康は人質として駿河に連れていかれる。

三河進出を果たした義元は武田氏との絆をいっそう深めるべく、天文二十一年、息女を晴信嫡男の義信に嫁がせる。ところが、この頃から武田・北条両氏にも融和の雰囲気ができつつあり、天文二十三年には、晴信の娘と北条氏三代氏康の嫡男氏政の婚姻が成り、甲相同盟が締結される。つまり晴信を軸として、甲相・甲駿両同盟が成立したのだ。そうなれば自然の流れとして、今川・北条両氏も手を結ぶことになる。

天文二十三年、両氏の同盟が成り、ここに甲相駿三国同盟が成立した。

これにより北の武田と東の北条と同盟を結んだ義元は、西進策に集中できるようになった。おそらく義元には、室町幕府と足利将軍家に対する恩義と足利家親類衆としての義務感があり、京への経路を確保しておこうと思ったに違いない。さらにもう一つ、義元の西進策には大きな理由があるのだが、それは後述する。

義元にとって、上洛時に邪魔になるのは尾張国の織田氏だけであり、織田氏さえ屠れば、幕府に一朝事ある時、すぐに上洛の途に就ける。

つまり義元は上洛を指向していても、自らが将軍職に就く、すなわち天下を取るというつもりはなく、室町幕府の外護者として将軍を支えていくつもりでいたのではないだろうか。後の上杉謙信のように。

いずれにせよ桶狭間合戦直前の義元は、「海道一の弓取り」とたたえられ、駿河・遠江・三河、さらに尾張の一部の四カ国にまたがる広大な版図を築いていた。

しかし弘治元年(一五五五)、ここまで二人三脚で今川氏の栄光を築いてきた太原雪斎が没する。これにより義元は、独断で物事を進めていかねばならなくなる。

義元の場合、単独でも十分に優秀だったと思われるが、幼少の頃から様々な判断を雪斎に依存してきたことから、その没後のことを考えていなかった節がある。それが後の悲劇を生む。

現代の企業でも、二人三脚や三人四脚でうまくいっていた経営陣の一人が、退職などで欠けることで、うまく回らなくなることがある。それを防ぐには次代を担う人材の育成が必須となる。

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