そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「太田道灌」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。
太田道灌
一四三二年〈永享四年〉〜一四八六年〈文明十八年〉
歴史上、油断や慢心が招いた悲劇は数えきれないほどある。
その典型例として挙げられるのが本能寺の変だろう。織田信長は少ない供回りだけで京に入り、明智光秀の謀反によって殺された。ただしこの場合、光秀の謀反を予想できなかったのは、それまでの信長と光秀の関係からして致し方なかったとも言える。
しかし太田道灌の場合は、やや事情が異なる。
文明十八年(一四八六)七月、扇谷上杉氏の本拠の相模国の糟屋館を訪れた道灌は、主である扇谷上杉定正によって暗殺された。享年は五十五だった。
この事件は、道灌の過剰なまでの自負心が招いたものと言ってもいいだろう。つまり政治・外交・軍事のあらゆる面で、関東に並ぶ者とてない状態になった道灌は、「自分がいなければ扇谷上杉家は立ち行かず、関東の静謐は保てない」とまで考えていた。しかし、それは賢者にだけ通じる考え方で、愚者は感情で動く。それを見誤ったがゆえに、道灌は命を絶たれ、関東は長享の乱という、何が目的とも分からない戦乱に突入する。
本書の読者には「賢者は理屈で動き、愚者は感情で動く」という言葉を忘れないでほしい。つまりたとえ賢者であっても、愚者の考えが読めずに敗者となることがあるのだ。
いずれにせよ『敗者烈伝』に名を連ねるのが最もそぐわない男は、なぜ敗者となったのか。それを探ることは、人間というものの根源に迫れるような気がする。
少年時代から才能を発揮
太田道灌は永享四年(一四三二)、相模守護・扇谷上杉氏の家宰(執事)を務める太田氏の嫡男として生まれた。実名は資長を名乗ったというが、確かな史料では確認できない。その後、出家して静勝軒道灌と号した。
幼少時より道灌の才は傑出し、九歳から十五歳まで預けられていた鎌倉五山の学所では、「五山無双」(『永享記』)と謳われるほどだった。また文学にも造詣が深く、とくに和歌や漢詩にその才を発揮した。
鷹狩りの最中に雨に降られ、民家に蓑を借りようと立ち寄ったところ、「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞかなしき(山吹という花は七重にも八重にも美しい花を咲かせますが、私の家は貧しいために蓑の一つもありません)」という古歌を示され、その意味が分からず、それを後に教えられて恥じ入り、歌道に専念したという「山吹の里」のエピソードは、道灌を貶める説話にすぎない。彼の才は少年時代から傑出していた。
少年期から青年期にかけて、永享の乱、結城合戦、享徳の乱が相次いで勃発し、関東には戦火が絶えなかった。室町幕府の権威はすでに失墜し、関東は西国に先駆けて戦国時代に入っていた。その混沌の中で道灌は成長する。
関東で相次ぐ動乱
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道灌が七歳の永享十年、永享の乱が勃発した。この戦いは、関東公方の足利持氏と関東管領の山内上杉憲実の対立に幕府が介入し、幕府を味方に付けた上杉方が勝利を収め、持氏と嫡男の義久が自刃に追い込まれた事件である。
ところが二年後の永享十二年、持氏次男の安王丸と三男の春王丸が、結城氏朝・持朝父子ら北関東国衆の支援を受け、結城城に拠って反旗を翻した。結城合戦である。
幕府のお墨付きを得た上杉方は、この鎮圧に成功、安王丸と春王丸は処刑され、関東にようやく静謐が訪れたかに思われた。ところが文安四年(一四四七)、持氏四男で十四歳の成氏が関東公方の座に就くことで、再び対立の火種がまかれる。
享徳三年(一四五四)、山内上杉憲実の跡を継いで関東管領となっていた憲忠が、成氏によって謀殺されることで享徳の乱が勃発する。
享徳の乱は関東を二分する戦いとなり、道灌が当主の座を継ぐ享徳四年(一四五五)、成氏は鎌倉から下総古河に本拠を移した。古河公方の誕生である。
長禄元年(一四五七)、古河公方への対抗措置として、幕府は将軍義政の異母弟・政知を還俗させ、翌年、新関東公方として関東に下向させた。しかし政知は、関東の混乱を目の当たりにして鎌倉に入れず、伊豆の堀越に本拠を定めた。これが堀越公方である。これにより、古河と堀越に関東公方が並立するという異常事態が起こる。
以後、「古河公方と北関東国衆陣営」対「堀越公方と両上杉陣営」という対立の図式ができ上がり、双方は、利根川を挟んで武力衝突を繰り返すことになる。
寛正二年(一四六一)、父の道真が退隠した。すでに家督を継いでいた道灌は、これにより名実共に太田家の全権を掌握する。
寛正から文明年間初頭にかけて、両陣営の衝突は激化の一途をたどった。しかしそこに、新たな対立の構図が生まれる。
文明五年(一四七三)、山内上杉氏の家宰職にあった白井長尾景信が死去する。道灌の太田氏が扇谷上杉氏の家宰であるのと同様、白井長尾氏は二代続けて、山内上杉氏の家宰を務めてきた。
家宰とは、守護大名の職務をこなすために組織された奉行人の頭のことで、守護代職を兼ねることが多く、絶大な権限を有していた。そのため白井長尾氏の勢力は、主家を凌ぐばかりになっていた。
これに危惧を抱いた関東管領・山内上杉顕定は、家宰職を景信嫡男の景春に継がせず、景信の弟の惣社長尾忠景に継がせた。
しかしこの措置は、家宰職は世襲と思い込んでいた景春にとって、極めて心外だった。これを容認すれば、様々な権益が剝奪された上、白井長尾家の収入も激減する。
これにより長尾景春の乱が勃発する。
長尾景春の乱
文明八年(一四七六)六月、景春が北武蔵の五十子陣を襲撃した。
五十子陣とは、対古河公方戦に備えた上杉方の最前線拠点のことだ。
この頃、道灌は駿河今川氏の家督争いを収めるため駿府に赴いており、景春は道灌の留守を狙って蜂起したのだ。
同年十月、道灌は江戸に帰還したが、顕定との間に不和が生じて事態を静観していた。しかし翌文明九年一月、景春が再び五十子陣を襲い、これを攻略することで事態は緊迫する。
五十子陣から東上野まで敗走した顕定と定正は、江戸城にいる道灌に景春征伐を懇請した。これにより三月に入り、ようやく道灌も重い腰を上げる。
しかし当然、景春もそれを予期している。景春方の基本戦略は、「通路切り」と呼ばれる兵站破壊兼後詰妨害作戦だった。
まず、景春率いる主力は五十子陣を攻略する。同時にその与党が相模国の溝呂木要害、小沢城、小磯要害で旗揚げし、相模国の上杉方与党を引き付ける。
さらに豊島泰明が練馬城で、豊島泰経は石神井城で、江戸城から出撃してくるはずの道灌を食い止め、その間に、小机城の景春与党が河越城を攻略するという、この時代ではまれな広域連携作戦だった。
この作戦の要諦は、関東を中央で南北に分断し、上杉方の兵力移動を妨害し、東上野に逃亡している顕定らと、江戸城の道灌との連絡を断つことにある。道灌の動きが豊島氏らに牽制されている間に、景春自ら顕定と定正を討ち取るという目論見だった。
しかし相手は道灌なのだ。
三月十八日、江戸城から相模国に侵攻した道灌が溝呂木・小磯両要害を落とすと、四月十日、河越城攻略を期して進出してきた小机城の軍勢を、弟の太田資忠らが撃破し、河越城と江戸城の連絡を確保した。これを確認した道灌は四月十三日、豊島泰明の籠もる練馬城に迫った。
この機を捉えて、泰明の兄・泰経は石神井城を出撃し、道灌を挟撃しようとした。道灌は練馬城周辺を焼き払って反転した上、まず泰経に当たろうとしたが、今度は練馬城を出撃してきた泰明が、道灌の後備に襲い掛かった。しかし道灌はこの危機にも動じず、泰明を江古田原と沼袋で撃破し、返す刀で石神井城に押し寄せ同月二十八日、これを攻略した。この合戦で泰明は討ち死にし、泰経は逃亡した。
戦の主導権を握った道灌は、五十子陣を回復した上、顕定と定正を呼び寄せた。
一方、長尾景春は本拠の鉢形城に逃げ込んだ。
五月、道灌は用土原と針谷原の野戦で景春を破り、その勢いで景春の籠もる鉢形城を囲むものの、七月、古河公方足利成氏が景春支援に乗り出し、八千騎を率いて上野国に進出してきた。
これにより道灌を含めた上杉勢五千は白井城に撤退し、一転して守勢に転じた。
ところが翌文明十年正月、顕定と定正は、幕府に古河公方を認めさせることを条件に和睦を成立させ、戦いの第一幕は終わる。これが都鄙和睦である。
面目を失った上杉定正
かくして関東に一時の平和が訪れたかに見えた。しかし逃亡している豊島泰経が武蔵国の平塚城(豊島城)で蜂起したため、道灌はこれを鎮圧し、さらに泰経が小机城に逃げ込むと、道灌は小机城に総懸かりして泰経を討ち取った。これにより、平安時代後期から西東京地域に根を張っていた豊島一族は滅亡する。
小机城を攻略した道灌は敵方となっていた二宮城・磯部城・小沢城を落城に追い込むと、七月、鉢形城を激しく攻めて攻略を果たし、景春を奥秩父に追いやった。
十二月、江戸城を出撃した道灌は、景春最後の支持勢力である千葉孝胤を、下総国の境根原で撃破。さらに、翌文明十一年一月、千葉氏の下総臼井城を攻めた。この戦いでは、弟の資忠を討ち取られるほどの苦戦を強いられるが、七月、道灌は臼井城を落とした。
一方、秩父の山岳地帯に逃れた景春は、なおも抵抗を続けるが、文明十二年六月、道灌によって最後の拠点・秩父の日野城(熊倉城)を落とされると、古河公方の懐に逃げ込んだ。
道灌の東奔西走の活躍により、強勢を誇った景春とその与党は壊滅した。しかし奔走する道灌の陰に隠れ、脇役に徹せざるを得なかった定正の心は鬱屈した。
しかも、千葉孝胤との戦いは境目争いにすぎず、顕定と定正が制止したにもかかわらず、道灌が強行したという経緯がある。これでは主君としての定正の面目は丸つぶれだ。かくして道灌は、疑心暗鬼に陥った定正によって殺される。
慢心による死
ざっと道灌の戦いを俯瞰してみたが、その強さの秘訣は、決断の早さと機動力にある。道灌は勝負所を心得ており、ここ一番で全軍を投入して勝ち切ろうとする。
武将にとって「勝負所を見極める」ことは重要な才能の一つで、それまで慎重な戦いを続けていた武将が、ここぞという時に損害を顧みない戦をすることがある。
織田信長の桶狭間合戦、北条氏康の河越合戦、毛利元就の厳島合戦、徳川家康の関ヶ原合戦などは好例だが、とくに氏康は、道灌の戦い方から学んでいたに違いない。
おそらく道灌は、「兵は拙速を尊ぶ」や「激水の疾くして石を漂わすに至る者は、勢なり」といった『孫子』の故事を実践していたのだろう。
しかしいくら戦に強くても、自信過剰になって政治的配慮を欠いてしまうと、墓穴を掘ることになる。
これは、信長や現代の成功した起業家にも通じる症状で、「相次ぐ成功」→「自信過剰」→「自己肥大化」→「無反省」という負のスパイラルに、道灌も陥ってしまったのだ。
暗殺の直接原因は、相次ぐ勝利に増長した道灌が、主人の定正や関東管領である顕定の立場に対する配慮を欠いたことにあった。つまり関東の秩序を守れるのは自分だけであり、いくら反目しても、二人が自分を殺すことなどあり得ないと踏んでいたのだろう。これが増長した賢者の考え方だ。ところが感情で動く者たちは予想もしない判断を下す。
軍記物によると、「糟屋館で軍議を開くので来てほしい」という定正の誘いに疑いを持った重臣たちが道灌を押しとどめたが、道灌は「定正に何ができる」と鼻で笑って向かったという。
その結果、道灌は殺された。
最後に道灌が叫んだ言葉は「当方滅亡」だったというが、「自分がいなければ扇谷上杉家は滅亡するぞ」というその言葉からも、道灌の自負心の強さがうかがえる。そしてその通り、この約六十年後、国人レベルにまで勢力の衰退した扇谷上杉家は滅亡することになる。
自負心や自信を飼い慣らすことは、人にとって極めて難しい。人というのはささやかな成功でも、それを肥大化させてしまう動物であり、自分の実力を大きく見積もってしまう。とくに道灌の場合、暗殺されるまで挫折というものを全く知らないできた。そういう人こそ、慎重に物事を考えねばならないのだが、人というのは、どうしてもそれができないのだ。
唯一、戦国時代の天下人で、それができたのは徳川家康だが、その家康とて、信長や秀吉が自己肥大化していく様を見ていなかったら、どうだったかは分からない。
「挫折なき成功の連続」こそ人生において最も恐ろしく、成功に溺れることなく自己を保ち続けることがいかに難しいかを、道灌の最期が教えてくれている。