プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「足利義政」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

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敗者烈伝

単行本(ソフトカバー) > 歴史・時代小説
実業之日本社
伊東 潤(著)

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戦国時代を招いた無気力将軍

足利義政

一四三六年〈永享八年〉~一四九〇年〈延徳二年〉

世の中には、優柔不断で「事なかれ主義」を絵に描いたような人がいる。一般人であれば笑い話で済ませられるのだが、そんな人が政権のトップにいたらどうだろう。あらゆることが先送りされ、政務が滞り、周囲に混乱を巻き起こし、後世にまで波及するほどの大きな問題を生んでしまうかもしれない。そうした人は、概して八方美人という人格も兼ね備えている。言い換えれば、この二つはセットになっていると言ってもいいだろう。

政権が安定か衰退かの岐路に立たされた時、一人の男が将軍になった。その男によって日本に未曽有の混乱が巻き起こり、やがて戦国という大乱を招いてしまう。

その男こそ、あの銀閣寺を造った室町幕府八代将軍・足利義政である。

脆弱だった義政の権力基盤

image by PIXTA / 54705932

その成り立ちからして室町幕府は、統一政権としての存在意義が希薄だった。法令は北条泰時が貞永元年(一二三二)に定めた御成敗式目に倣っているだけで、組織も鎌倉幕府を踏襲したものにすぎない(大江広元のような博覧強記で政治的創造性を持つ人材を欠いていた)。言うなれば室町幕府とは、北条一族に成り代わり足利一族が武士たちの所領と権益を守るために樹立した政権にすぎないのだ。

その勝因も、後醍醐天皇の親政に失望した武士たちが「これなら鎌倉幕府の方がましだった」と思い、御家人筆頭だった足利氏に、北条氏に代わる首長の役割を託したという消極的なものだった。

三代義満の頃、曲がりなりにも政権基盤ができ上がり、室町幕府は一応の安定を見る。しかしそれも束の間で雲散霧消し、政権は「三管領」と呼ばれる足利氏親類衆の細川・斯波・畠山三氏と、「四職」と呼ばれる山名・赤松・一色・京極の四氏が運営するようになっていく。

それでも四代将軍の義持は有力者たちを巧みに操り、二十八年間に及ぶ在位期間中に大きな問題を起こさなかった。

ところが嘉吉元年(一四四一)、六代将軍義教が、赤松満祐によって弑逆されるという大事件が起こることで、室町幕府の迷走が始まる。この乱は侍所の山名持豊(後の宗全)らが満祐を討伐することでけりがつくが、将軍権力の衰弱を露呈する結果となった。

管領の細川持之は九歳の義勝を将軍位に就けるが、義勝も翌年には病死し、義教次男の義政の出番となる。

とは言っても次期将軍に決定した時、義政は八歳にすぎなかった。そのためか将軍に就任できたのは、五年九カ月後の文安六年(一四四九)四月である。これだけ長い期間、権力の空白期間が生じても問題にならなかったのは、すでに将軍がお飾りだった証になる。

しかも義政の周囲は、政所執事の伊勢貞親や管領の細川勝元らが取り巻き、箸の上げ下げまで監視される始末だった。

政治への失望

Ashikaga Yoshimasa.jpg
By 伝土佐光信 - [1], パブリック・ドメイン, Link

それゆえ義政は長じると、六代将軍だった父の義教に倣い、将軍権力の強化を図ろうとした。しかし三管領四職や守護大名たちは、義教に独裁を許したのと同じ轍を踏むことを恐れ、言うことを聞かなくなっていた。とくに一族で全国六十六カ国のうち十一カ国の守護職を務めていたことから、「六分の一殿」と呼ばれていた山名宗全は、圧倒的な経済力と軍事力を背景に、義政をないがしろにした。

やがて義政と宗全の間に隙間風が吹くようになり、享徳三年(一四五四)十一月、義政は宗全の討伐を命じた。しかし、この場は細川勝元が間を取り持ち、宗全は隠居して起請文を差し出すことで罪を免じられる。将軍親政を目指す義政としては、忸怩たる思いだったろう。

長禄・寛正年間(一四五七~一四六六)、畿内を中心に激しい飢饉が襲った。人々は飢えに苦しみ、徳政を求めて一揆を起こすようになる。

こうした状況下で義政は、数万人はいたとされる流民たち一人に六文、さらに五十文という銭を与えた。一文の価値は現在の百円に相当するので、当時の物価を考えれば、大盤振る舞いだ。また勧進僧の願阿弥に百貫文(現在価値で約一千万円)を寄進し、救恤策を取らせた。これにより願阿弥は疫病の蔓延を防ぎ、困窮した人々に食べ物と住処を与えることができた。

若き日の義政には、こうした民思いの撫民仁政主義者という一面もあった。しかし幕府の目が届かない地方では、守護たちが農民に対して課役の負担を強い、段銭(税金)を厳しく取り立てるので、農民たちの多くは農地を捨てて流民化していった。それが絶え間なく京都に流れ込んでくるので、いかに救恤策を取ろうが効果は少ない。

こうした悪循環を根元から絶てず、いつまで経っても貧民や流民の数が減らないため、義政は政治に嫌気が差してきた。やがて義政は花の御所(室町殿)という巨大な邸宅に大改装を施し、そこで遊興にふけるようになる。見たくない現実から逃避したのだ。

将軍家の後継者問題

image by PIXTA / 43614173

それだけならまだしも、この後、義政は家督争いの火種を蒔いてしまう。

義政とその正室・日野富子の間には女子しかいなかった。それゆえ寛正五年(一四六四)十二月、義政は弟の僧・義尋を還俗させて義視と名乗らせ、自らの後継予定者に据えた。ところが翌年、富子が男子(後の義尚)を産むことで、将軍家の後継者争いが勃発する。

これに畠山氏や斯波氏の家督争いも絡み、二つの陣営が形成され始めた。両陣営の旗頭は細川勝元と山名宗全である。

紆余曲折を経た後の文正二年(一四六七)一月、家督争いを続けていた畠山義就と同政長が、上京の上御霊神社で激突することにより、応仁・文明の乱が始まった。

この直前にあたる前年、義政は諸大名に対し、「義就と政長のどちらにも合力してはならない。二人は互いに戦って勝負をつければよい」という将軍にあるまじき命令を発していた。

事態が収拾できなくなり、将軍が問題の解決を「自力救済」に委ねてしまっては、統一政権の存在意義はなくなる。これにより将軍自ら、「自力救済」だけが通用する戦国時代の到来を認めたことになる。

畠山氏の内訌に、勝元と宗全が参戦するのを阻止しようとした義政だが、勝元方の赤松政則が山名領播磨国に乱入し、同じく勝元方の斯波義敏が同義廉の越前国に攻め入るなどして、乱は地方に飛び火し、消し止めることが困難になっていった。

義政の言うことなど、もはや誰も聞かなくなっていたのだ。

\次のページで「応仁・文明の乱」を解説!/

応仁・文明の乱

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By 掃部助久国 Kamonnosuke Hisakuni - 国宝 大絵巻展, パブリック・ドメイン, Link

義政ほど将軍という自覚を持たない将軍はいなかった。もはや大乱が避け難いと知ると、打開策など考えもせずに現実から逃避し、花の御所で遊興にふけっていたというのだから恐れ入る。

義政の正室の日野富子は、利殖と蓄財を好む悪評の高い人物だが、彼女は彼女なりに、財力によって世の中を安定させようとしていた節がある。すべての根源に経済があると知っていた富子は、聡明な女性だったのだろう。

弟の義視は義政よりは政治に積極的だったが、かつて自らを殺そうとして流罪にされていた政所執事の伊勢貞親が、義政によって幕政に復帰させられると、それを恐れて伊勢国に出奔してしまった。現実逃避したがる点においては兄とさして変わらない。

東西両陣営は義政を味方に引き入れようと様々な工作を行う。その結果、義政は勝元の東軍寄りとなり、宗全の西軍は不利になった。だが宗全は義視を押し立て、さらに南朝の後胤や権門勢家の庶家筋まで担ぎ出し、東軍と相似形の組織を構築する。

こうして東幕府と西幕府と呼ばれる二重体制ができ上がった。双方の勢力は拮抗しており、決着が付くめどは立たない。結局、双方は目的も定かでない戦いを続けることになる。

ようやく文明五年(一四七三)になり、宗全と勝元が相次いで病死することで乱は下火になる。だが、その後も大小の戦いが各地で繰り広げられ、そうした中から足軽階級が生まれ、やがて切り取り自由の戦国時代がやってくる。

戦国時代の幕開け

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応仁・文明の乱は、大義や理想のない欲得だけの戦いだった。直接の相手は同族で家督争いをしている者であり、ひたすら先代の所領と権益を己の物としたいがために相争ったのだ。

もちろん、そうした戦乱を法の力で止められるのは将軍だけだ。しかし義政は無気力で、積極的に乱を終息させようとしなかった。

こうなると将軍や幕府の権威は失墜し、守護も守護代も、また新たに勃興しつつある在地勢力(国人・土豪)も、それぞれが「自力救済」を旨として戦わざるを得なくなる。いわゆる戦国時代の幕開けである。

文明五年十二月、義政と日野富子の間に生まれた義尚が、九代将軍の座に就いた。この時、義尚はわずか九歳だった。

かといって父の義政が全権を握るわけではなく、日野富子の兄の日野勝光が政治権力を掌握する。文明八年に勝光が没すると、富子が執政役となるが政権を運営できるはずがない。結局、三管領四職や守護たちは、それぞれの国元に戻って、同族どうしの戦いを繰り広げた。

致し方なく義政が再び政権を掌握するが、その時には成長した義尚との確執が激しくなり、父子はいがみ合うようになる。義政は政治などどうでもよかったが、それぞれの取り巻きどうしの権益をめぐる争いが激化し、容易に権力の座から降りられなくなっていたのだ。

権力を移譲しない父に痺れを切らした名目将軍の義尚は、二度も髻を落とすなどして抗議するが効果はなく、しばらくの間、双方の確執が続く。

そんな時、近江国の守護大名である六角氏が、寺社の所領を横領するという事件が起こった。義尚は幕府の威権を回復すべく、六角氏の本拠の近江に出征する。

しかし長享三年(一四八九)三月、義尚は酒色におぼれた末、陣中で病死してしまう。二十五歳の若さだった。さらに延徳二年(一四九〇)一月には、義政も五十五歳で病死し、ただでさえ無力化しつつあった将軍権力は形骸化する。

その後は義視、日野富子、勝元の跡を継いだ政元らが、それぞれの推す後継者を立てて権力争いを繰り広げるが、もはや将軍どころか幕府自体が統一政権の体を成さなくなっていた。そうした坩堝の中から現れた北条早雲(伊勢新九郎盛時)は、東国で新たな秩序を創っていく。

こうして室町時代を中期から後期にかけて俯瞰すると、義政の存在がいかに大きかったかが分かってくる。むろんそれはマイナスの意味においてだが。

決断力を欠いた義政

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それでは義政には、いかなる人格的欠点があったのだろうか。

まず優柔不断にすぎる。自ら主体的に物事を考え、決定の主導権を握るということがなく、周りにいる側近の言に極めて左右されやすい。

また基本的に「いい人」だったらしく、眼前の者から何かを頼まれると断れない。そうした妥協を続けていくうちに様々な矛盾が生じ、将軍のお墨付きが敵味方に出されてしまうといった混乱が生じた。すなわち、家督争いをしている者たち双方に正統性を与えてしまったのだ。

ビジネス社会にも同じような人は多い。しかも経営者だったり起業家だったりする。なぜかと言えば、こうした人は、人当たりがいいので誰からも好かれる。和の精神で会社をうまくまとめてくれると信じ、後継者に指名されることが多いからだ。

ベンチャーなどの起業家にも、義政のような人は少なくない。これは、社外とのコラボレーションなくしてビジネスが立ち行かなくなり、その結果、銀行や株主がこうした人材を推すからだ。

必ずしもこうした人材が悪いわけではないが、義政には優柔不断で「事なかれ主義」という負の面が強すぎた。そのため腰を据えて火を消すといった努力を放棄し、それが結局、室町幕府の命脈を縮めていくことになる。むろんそんなことは、彼にとってどうでもいいことだったに違いない。

三代義満と六代義教以外、〝強い〟将軍を輩出できなかった室町幕府だが、中でも義政は、最も将軍に向いていない器だったと言えるだろう。

応仁・文明の乱の火種を蒔き、それを終息させる手立てを何も講じなかった義政のおかげで、戦国時代はすぐそこまで迫っていた。やはり「事なかれ主義」は、後世にまで波及するほどの大きな問題を生じさせてしまったのだ。

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室町時代戦国時代敗者烈伝日本史歴史

【3分でわかる】足利義政はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる足利義政の歴史

プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「足利義政」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

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戦国時代を招いた無気力将軍

足利義政

一四三六年〈永享八年〉~一四九〇年〈延徳二年〉

世の中には、優柔不断で「事なかれ主義」を絵に描いたような人がいる。一般人であれば笑い話で済ませられるのだが、そんな人が政権のトップにいたらどうだろう。あらゆることが先送りされ、政務が滞り、周囲に混乱を巻き起こし、後世にまで波及するほどの大きな問題を生んでしまうかもしれない。そうした人は、概して八方美人という人格も兼ね備えている。言い換えれば、この二つはセットになっていると言ってもいいだろう。

政権が安定か衰退かの岐路に立たされた時、一人の男が将軍になった。その男によって日本に未曽有の混乱が巻き起こり、やがて戦国という大乱を招いてしまう。

その男こそ、あの銀閣寺を造った室町幕府八代将軍・足利義政である。

脆弱だった義政の権力基盤

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その成り立ちからして室町幕府は、統一政権としての存在意義が希薄だった。法令は北条泰時が貞永元年(一二三二)に定めた御成敗式目に倣っているだけで、組織も鎌倉幕府を踏襲したものにすぎない(大江広元のような博覧強記で政治的創造性を持つ人材を欠いていた)。言うなれば室町幕府とは、北条一族に成り代わり足利一族が武士たちの所領と権益を守るために樹立した政権にすぎないのだ。

その勝因も、後醍醐天皇の親政に失望した武士たちが「これなら鎌倉幕府の方がましだった」と思い、御家人筆頭だった足利氏に、北条氏に代わる首長の役割を託したという消極的なものだった。

三代義満の頃、曲がりなりにも政権基盤ができ上がり、室町幕府は一応の安定を見る。しかしそれも束の間で雲散霧消し、政権は「三管領」と呼ばれる足利氏親類衆の細川・斯波・畠山三氏と、「四職」と呼ばれる山名・赤松・一色・京極の四氏が運営するようになっていく。

それでも四代将軍の義持は有力者たちを巧みに操り、二十八年間に及ぶ在位期間中に大きな問題を起こさなかった。

ところが嘉吉元年(一四四一)、六代将軍義教が、赤松満祐によって弑逆されるという大事件が起こることで、室町幕府の迷走が始まる。この乱は侍所の山名持豊(後の宗全)らが満祐を討伐することでけりがつくが、将軍権力の衰弱を露呈する結果となった。

管領の細川持之は九歳の義勝を将軍位に就けるが、義勝も翌年には病死し、義教次男の義政の出番となる。

とは言っても次期将軍に決定した時、義政は八歳にすぎなかった。そのためか将軍に就任できたのは、五年九カ月後の文安六年(一四四九)四月である。これだけ長い期間、権力の空白期間が生じても問題にならなかったのは、すでに将軍がお飾りだった証になる。

しかも義政の周囲は、政所執事の伊勢貞親や管領の細川勝元らが取り巻き、箸の上げ下げまで監視される始末だった。

政治への失望

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それゆえ義政は長じると、六代将軍だった父の義教に倣い、将軍権力の強化を図ろうとした。しかし三管領四職や守護大名たちは、義教に独裁を許したのと同じ轍を踏むことを恐れ、言うことを聞かなくなっていた。とくに一族で全国六十六カ国のうち十一カ国の守護職を務めていたことから、「六分の一殿」と呼ばれていた山名宗全は、圧倒的な経済力と軍事力を背景に、義政をないがしろにした。

やがて義政と宗全の間に隙間風が吹くようになり、享徳三年(一四五四)十一月、義政は宗全の討伐を命じた。しかし、この場は細川勝元が間を取り持ち、宗全は隠居して起請文を差し出すことで罪を免じられる。将軍親政を目指す義政としては、忸怩たる思いだったろう。

長禄・寛正年間(一四五七~一四六六)、畿内を中心に激しい飢饉が襲った。人々は飢えに苦しみ、徳政を求めて一揆を起こすようになる。

こうした状況下で義政は、数万人はいたとされる流民たち一人に六文、さらに五十文という銭を与えた。一文の価値は現在の百円に相当するので、当時の物価を考えれば、大盤振る舞いだ。また勧進僧の願阿弥に百貫文(現在価値で約一千万円)を寄進し、救恤策を取らせた。これにより願阿弥は疫病の蔓延を防ぎ、困窮した人々に食べ物と住処を与えることができた。

若き日の義政には、こうした民思いの撫民仁政主義者という一面もあった。しかし幕府の目が届かない地方では、守護たちが農民に対して課役の負担を強い、段銭(税金)を厳しく取り立てるので、農民たちの多くは農地を捨てて流民化していった。それが絶え間なく京都に流れ込んでくるので、いかに救恤策を取ろうが効果は少ない。

こうした悪循環を根元から絶てず、いつまで経っても貧民や流民の数が減らないため、義政は政治に嫌気が差してきた。やがて義政は花の御所(室町殿)という巨大な邸宅に大改装を施し、そこで遊興にふけるようになる。見たくない現実から逃避したのだ。

将軍家の後継者問題

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それだけならまだしも、この後、義政は家督争いの火種を蒔いてしまう。

義政とその正室・日野富子の間には女子しかいなかった。それゆえ寛正五年(一四六四)十二月、義政は弟の僧・義尋を還俗させて義視と名乗らせ、自らの後継予定者に据えた。ところが翌年、富子が男子(後の義尚)を産むことで、将軍家の後継者争いが勃発する。

これに畠山氏や斯波氏の家督争いも絡み、二つの陣営が形成され始めた。両陣営の旗頭は細川勝元と山名宗全である。

紆余曲折を経た後の文正二年(一四六七)一月、家督争いを続けていた畠山義就と同政長が、上京の上御霊神社で激突することにより、応仁・文明の乱が始まった。

この直前にあたる前年、義政は諸大名に対し、「義就と政長のどちらにも合力してはならない。二人は互いに戦って勝負をつければよい」という将軍にあるまじき命令を発していた。

事態が収拾できなくなり、将軍が問題の解決を「自力救済」に委ねてしまっては、統一政権の存在意義はなくなる。これにより将軍自ら、「自力救済」だけが通用する戦国時代の到来を認めたことになる。

畠山氏の内訌に、勝元と宗全が参戦するのを阻止しようとした義政だが、勝元方の赤松政則が山名領播磨国に乱入し、同じく勝元方の斯波義敏が同義廉の越前国に攻め入るなどして、乱は地方に飛び火し、消し止めることが困難になっていった。

義政の言うことなど、もはや誰も聞かなくなっていたのだ。

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