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【3分でわかる】足利直義はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる足利直義の歴史

室町幕府の創設

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かくして、京の宮方と鎌倉の足利方の対立は明らかとなる。

十一月、天皇の意を受けた新田義貞が、追討軍を率いて東下してきた。これを聞いた尊氏は天皇に弓引くことを嫌がり、髻を落として寺に引き籠もってしまう。鬱状態になったのだ。

致し方なく迎撃に向かった直義だったが、連戦連敗を重ねて箱根まで後退した。

直義は戦がうまくない。表裏なき正直な人間性が、軍事面では裏目に出てしまうのか、戦えば負けの連続となる。おそらくセオリーを重視し、正攻法を取ることを常としたためだろう。それでも尊氏が戦線に復帰することで、新田軍を箱根竹下の戦いで破り、足利軍は上洛の途に就く。尊氏には楠木正成のような軍才があったわけではないが、将兵の士気を高められるという類まれな器を持っていた。軍事の尊氏と実務の直義という関係は、これではっきりしてくる。

建武三年正月、足利軍は上洛を果たすが、奥州勢を引き連れて追尾してきた鎮守府将軍・北畠顕家勢に敗れて九州まで落ちていく。

四月、足利軍は再び勢いを盛り返して上洛戦を展開し、五月には摂津国の湊川で新田・楠木両軍を破り、楠木正成を討ち取った。

上洛を果たした尊氏は八月、持明院統の光明天皇を擁立し、建武式目十七条を制定する。そして暦応元年(一三三八)、征夷大将軍に任じられ、室町幕府を開くことになる。一方、吉野に逼塞する南朝勢力は次第に衰微し、室町幕府を脅かす存在ではなくなっていった。

高師直との対決と敗北

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暦応二年八月、後醍醐天皇が崩御することにより、南朝方の退潮は明らかとなる。

常であれば、これでめでたしとなり、足利兄弟は手を取り合って新たな武士の世を築くことになるのだが、家中には獅子身中の虫が健在だった。高師直である。

直義というのは清廉潔白・謹厳実直・意志堅固の上、表裏のない真っ正直な男だったと思われる。藤原頼長、石田三成、江藤新平と同じ人格タイプに属すると思うが、彼ら以上に不器用な上に愚直だった。

直義は何事にも杓子定規に対応し、清濁併せ吞むことができない。政治家や軍人というよりも実務官僚や裁判官向きであり、保守的で伝統的なものを好む傾向がある。それゆえ次第に、朝廷や公家社会の魔に取り込まれてしまう。

結局、直義は足利家親類衆や直義の有力与党である上杉一族の軍事力を頼みとしつつ、朝廷・公家・寺社といった既得権益層の利益を守るだけでなく、鎌倉幕府時代からの有力御家人層を保護するという方向に走っていく。

しかし南朝勢力を畿内から駆逐し、室町幕府創設の原動力となったのは、畿内の土豪や地侍といった新興武士層だった。ライバルの師直は実力主義を標榜し、こういった新興武士層を与党化して直義に対抗してきた。

すなわち鎌倉時代からの権益保護を望む既得権益層は、直義をかつぎ上げ、実力次第でのし上がってきた新興武士層は、師直を支持するという図式ができ上がったのだ。

一触即発の危機を迎えつつあった両者の対立が明らかになるのは、貞和五年(一三四九)閏六月だった。直義派の上杉重能と畠山直宗が、師直の謀殺を企てたことに始まる。これは未遂に終わったが、怒った師直は八月、軍勢を呼び寄せて直義を襲撃し、直義は尊氏邸に逃げ込んだ。

結局、師直も下剋上を貫くことはできず、尊氏の顔を立てて直義を赦免する。直義は出家得度させられ、その権力基盤は崩れ去ったかに見えた。

つかのまの逆転

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しかし観応元年(一三五〇)五月、尊氏の子で直義の養子になっていた直冬が、九州で挙兵することで情勢は一変する。直冬を追討すべく、尊氏と師直が京を留守にしようとした同年十月、軟禁状態だった直義は出奔した。

その後、かつての与党の再組織化に成功した直義は、さらに南朝と手を組むという離れ業を演じる。

観応二年二月、反転してきた尊氏と師直を摂津国の打出浜で破った直義は、師直一派を謀殺し、尊氏の無力化に成功する。

ここまでの手際は見事の一言だ。歴史上、逆転劇はあまたあるが、これほど見事なものも珍しい。しかし、ここからがいけない。

後から思えば、直義は尊氏を隠退させた上、嫡男の義詮ともども謀殺し、九州から直冬を呼び寄せて将軍位に就かせるべきだった。直冬は尊氏の実子なので、足利家親類衆や有力家臣も、このシナリオなら納得する。

しかし直義はそうしなかった。師直を取り除くことで、かつての仲のよい兄弟に戻れるとでも思ったのか、尊氏を兄として迎え入れて関係修復に努めるのだ。

一方、尊氏にも言い分はある。実は打出浜で敗れた後、双方合意した降伏条件として、師直一族の助命という一条があった。しかし直義派の上杉能憲は、養父の重能を師直に殺された私怨から師直一族を処刑した。しかも尊氏の要求した能憲の処刑は直義に拒否され、能憲は遠流となった。

これでは尊氏の面目が立たない。この時、尊氏は直義の謀殺を決意したと思われる。

おそらく師直らの粛清は、直義から出ていた命令なのだろう。それゆえ直義は、能憲をかばわざるを得なかったのだ。

直義の敗北

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以後、尊氏の息子の義詮が前面に出てくることで、徐々に直義は追い込まれていく。

同年八月、尊氏・義詮父子に京都を包囲された直義は決戦を避けて越前に逃れるが、すでに昔日の勢いはなかった。なぜかと言えば、再び直義が勝ったとしても尊氏父子を許すに決まっていると、与党勢力は思ったからだ。

同年十一月、いったん鎌倉に落ちていた直義は、わずかな手勢を引き連れて尊氏が陣を布く駿河国薩埵山まで進むものの、留守にした関東で宇都宮氏らに挙兵され、逆に包囲されることになる。結局、直義は尊氏に降伏し、政治生命を終わらせられる。そして観応三年二月二十六日、直義は鎌倉で急死する。享年は四十七だった。

一説に病死とも言われるが、そんなに都合よく病を得て死ぬわけがない。しかも一年前の同月同日、直義は師直一族を粛清しているのだ。

『太平記』の言うように、尊氏が師直一族の鎮魂のために殺したのは明らかだろう。

直義の敗因は、尊氏の降伏条件を反故にしたにもかかわらず、良好な関係を取り戻せると思った点にある。この点だけ見ても、直義の人間洞察力は甘い。敵対勢力は徹底的に叩いておかないと、足をすくわれることになるのは歴史の必然である。それができなかったことだけ取ってみても、直義は天下人の器ではなかったのだ。

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