プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「足利直義」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

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敗者烈伝

単行本(ソフトカバー) > 歴史・時代小説
実業之日本社
伊東 潤(著)

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愚兄への甘えから墓穴を掘った賢弟

足利直義

一三〇六年〈徳治元年〉〜一三五二年〈正平七年/観応三年〉

兄弟の対立というのは悲劇的な最後を迎えるのが常だ。平安時代末期の藤原忠通と頼長兄弟の対立は保元の乱に発展し、摂関政治の終焉を招いた。奥州藤原一族は三代秀衡の死後、兄弟間で対立した末、勢力の衰退を招き、鎌倉幕府によって滅ぼされた。源頼朝と義経の対立は河内源氏を脆弱なものとし、執権の北条氏に鎌倉幕府を乗っ取られる遠因となった。

これらのケースは腹違いの兄弟なので、さもありなんとも思う。腹違いの兄弟は関係がこじれると、赤の他人よりも始末に負えないと言われているからだ。

しかしここに、同腹の上に極めて仲がよかったにもかかわらず、最終的には対立し、悲劇的な最後を迎えた兄弟がいる。

足利高氏(後の尊氏)と直義である。

しかも弟の直義は、退勢を挽回する逆転勝利を収めながら、詰めの甘さから兄に再逆転を許し、暗殺されるという悲劇的な最期を迎える。

兄と二人三脚で動乱に立ち向かう

image by PIXTA / 57790945

徳治元年(一三〇六)、直義は足利家の三男として生まれた。次男の高氏とは年子の同腹兄弟となる。別腹長男の高義の早世によって高氏が嫡男になると、直義は兄を助け、まさに二人三脚で足利家を守り立てていった。

というのも兄の高氏には躁鬱病の気があったらしく、豪放磊落で気前がよく、人望と人徳を兼ね備えたカリスマ性を持つ反面、ふさぎ込むことも多く、安定した情緒を保つことが難しかったらしい。

そもそも足利氏は源義家を祖とし、義家の孫にあたる義康以来、下野国の足利荘に根を下ろし、足利姓を名乗った一族だ。つまり頼朝の源氏嫡流に最も近い一族となる。

鎌倉幕府の忠実な御家人として源氏三代に仕え、さらに執権北条氏とも代々縁組をしてきた足利氏は、執権北条氏の手で有力御家人が次々と滅ぼされていく鎌倉時代中期を生き残り、北条一族を除いて最大の所領を有するようになっていく。

しかし高氏が足利氏の家督を継いだこの頃、各地で騒乱が相次ぎ、悪党や溢者が公家や寺社の荘園を押領するようになり、それに対して何ら有効な手を打てない鎌倉幕府の威信は、低下の一途をたどっていた。

こうした最中の元亨元年(一三二一)、帝位に就いていた大覚寺統(後の南朝)の後醍醐天皇は、天皇親政・公家一統の世を築くべく鎌倉幕府打倒を画策し始める。しかし後醍醐天皇の野望は未然に摘み取られ、元弘二年(一三三二)三月、隠岐に配流となる。

それでも討幕の火は消えず、護良親王と楠木正成らによって再び畿内は混乱に陥り、後醍醐天皇も隠岐を脱出した。この知らせを聞いた幕府は元弘三年三月、名越高家を総大将にした五万七千の追討軍を京に派遣する。この中には足利兄弟もいた。ところが緒戦で名越高家が討ち死にすることで、状況が一変する。たまたま別働隊として動いていた足利兄弟は、すぐさま宮方に寝返った。

『太平記』によると、実は東海道を西進する途次、続々と入ってくる情報を吟味し、直義が高氏に寝返りを勧めたことになっている。すなわち直義が背を押すことで、高氏も幕府へ弓引く決意ができたというが、この後のことを考えると、それが軍記物の作り話とは思えない。

鎌倉に赴任する直義

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四月二十九日、丹波国篠村八幡宮に着いたところで軍を反転させた高氏は京に討ち入り、六波羅探題(鎌倉幕府の出先機関)を落とし、宮方最大の功を挙げる。

その半月後、こちらも宮方に転じた新田義貞が鎌倉に攻め入ると、呆気なく鎌倉幕府は滅亡した。これにより後醍醐天皇による建武の新政が始まる。

その論功行賞において、高氏は功第一とされ、多くの守護国と地頭職を賜っただけでなく、後醍醐天皇から尊の字をもらって尊氏と改名した。しかし王政復古を目指す天皇と武士たちの輿望を担うことになった尊氏が、うまくいくはずがない。

とくに足利氏討伐を強く訴えたのが、新たに征夷大将軍の座に就いた護良親王だ。しかし護良は焦った。天皇に内密で諸国の武士に令旨(親王の命令書)を出し、尊氏追討を図ろうとしたのはまずかった。この書状の一つを入手した足利陣営は、これを天皇に提出する。これが綸旨(天皇の命令書)絶対主義を貫こうとする天皇の逆鱗に触れ、護良は失脚した。

足利陣営の打った次なる手は、鎌倉将軍府の創設である。鎌倉幕府滅亡後、武士の都・鎌倉の権力は空白になっており、関東十カ国(関八州に甲斐と伊豆)を束ねる鎌倉将軍府の創設は急務だった。それは天皇も考えていたことで、上奏は容易に受け入れられた。

東国に勢力を扶植しておけば、今後の戦いを優位に運べる。すでにこの時点で、尊氏と直義、そして家宰の高師直の頭には、天皇との対決と幕府の創設という図式が浮かんでいたに違いない。

これにより直義は、鎌倉将軍府の長となった成良親王の補佐役として、元弘三年(一三三三)十二月、鎌倉に赴くことになる。しかしこれは、結果論ではなく、明らかに直義のミスだった。

後醍醐天皇と足利氏の対立

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By known - The japanese Book "Miru Yomu Wakaru Nihon No Rekishi 2 Chusei", 1993, Asahi Shinbun-sha, パブリック・ドメイン, Link

直義は、後醍醐陣営以外にも内なる敵を抱えていたからだ。家宰の高師直である。

師直は、足利家中で折り合いが悪い直義を体よく鎌倉に送り出すことができ、尊氏を独占することに成功する。かくして直義は、成良を供奉して鎌倉に下向した。

一方、公家重視の論功行賞や諸国の疲弊を顧みない大内裏の造営などにより、建武新政府に対する武士階級の不満が鬱積し始めていた。

そんな最中の建武二年(一三三五)七月、鎌倉幕府の最後の執権だった北条高時の遺児・時行が鎌倉に討ち入り、一時的に鎌倉を回復するという事件が起こる。中先代の乱である。鎌倉を守っていた直義は、建武元年十一月に配流されていた護良を殺して鎌倉を脱出し、京に戻る途次の三河国矢作宿に陣を布いて尊氏の来援を待った。

弟の危機に尊氏は東下しようとするが、後醍醐天皇は尊氏の要求する征夷大将軍職を下賜しない。天皇としては尊氏を武士の頂点に押し上げ、幕府を開く権限を与えるなどという愚を犯すつもりはなかった。だが、それでは尊氏を怒らせることになると感じたのか、征東将軍という臨時職を与えた。これにより尊氏は追討の大義を得る。

直義と合流した尊氏は敵を矢作宿で破ると、その後も破竹の進撃を続けて八月、鎌倉を占領する。しかし北条時行の追討が終わっても、尊氏は鎌倉を動こうとせず、天皇の再三の帰洛命令をも無視し続けた。

\次のページで「室町幕府の創設」を解説!/

室町幕府の創設

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かくして、京の宮方と鎌倉の足利方の対立は明らかとなる。

十一月、天皇の意を受けた新田義貞が、追討軍を率いて東下してきた。これを聞いた尊氏は天皇に弓引くことを嫌がり、髻を落として寺に引き籠もってしまう。鬱状態になったのだ。

致し方なく迎撃に向かった直義だったが、連戦連敗を重ねて箱根まで後退した。

直義は戦がうまくない。表裏なき正直な人間性が、軍事面では裏目に出てしまうのか、戦えば負けの連続となる。おそらくセオリーを重視し、正攻法を取ることを常としたためだろう。それでも尊氏が戦線に復帰することで、新田軍を箱根竹下の戦いで破り、足利軍は上洛の途に就く。尊氏には楠木正成のような軍才があったわけではないが、将兵の士気を高められるという類まれな器を持っていた。軍事の尊氏と実務の直義という関係は、これではっきりしてくる。

建武三年正月、足利軍は上洛を果たすが、奥州勢を引き連れて追尾してきた鎮守府将軍・北畠顕家勢に敗れて九州まで落ちていく。

四月、足利軍は再び勢いを盛り返して上洛戦を展開し、五月には摂津国の湊川で新田・楠木両軍を破り、楠木正成を討ち取った。

上洛を果たした尊氏は八月、持明院統の光明天皇を擁立し、建武式目十七条を制定する。そして暦応元年(一三三八)、征夷大将軍に任じられ、室町幕府を開くことになる。一方、吉野に逼塞する南朝勢力は次第に衰微し、室町幕府を脅かす存在ではなくなっていった。

高師直との対決と敗北

高師直.jpg
By Musuketeer.3 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

暦応二年八月、後醍醐天皇が崩御することにより、南朝方の退潮は明らかとなる。

常であれば、これでめでたしとなり、足利兄弟は手を取り合って新たな武士の世を築くことになるのだが、家中には獅子身中の虫が健在だった。高師直である。

直義というのは清廉潔白・謹厳実直・意志堅固の上、表裏のない真っ正直な男だったと思われる。藤原頼長、石田三成、江藤新平と同じ人格タイプに属すると思うが、彼ら以上に不器用な上に愚直だった。

直義は何事にも杓子定規に対応し、清濁併せ吞むことができない。政治家や軍人というよりも実務官僚や裁判官向きであり、保守的で伝統的なものを好む傾向がある。それゆえ次第に、朝廷や公家社会の魔に取り込まれてしまう。

結局、直義は足利家親類衆や直義の有力与党である上杉一族の軍事力を頼みとしつつ、朝廷・公家・寺社といった既得権益層の利益を守るだけでなく、鎌倉幕府時代からの有力御家人層を保護するという方向に走っていく。

しかし南朝勢力を畿内から駆逐し、室町幕府創設の原動力となったのは、畿内の土豪や地侍といった新興武士層だった。ライバルの師直は実力主義を標榜し、こういった新興武士層を与党化して直義に対抗してきた。

すなわち鎌倉時代からの権益保護を望む既得権益層は、直義をかつぎ上げ、実力次第でのし上がってきた新興武士層は、師直を支持するという図式ができ上がったのだ。

一触即発の危機を迎えつつあった両者の対立が明らかになるのは、貞和五年(一三四九)閏六月だった。直義派の上杉重能と畠山直宗が、師直の謀殺を企てたことに始まる。これは未遂に終わったが、怒った師直は八月、軍勢を呼び寄せて直義を襲撃し、直義は尊氏邸に逃げ込んだ。

結局、師直も下剋上を貫くことはできず、尊氏の顔を立てて直義を赦免する。直義は出家得度させられ、その権力基盤は崩れ去ったかに見えた。

つかのまの逆転

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しかし観応元年(一三五〇)五月、尊氏の子で直義の養子になっていた直冬が、九州で挙兵することで情勢は一変する。直冬を追討すべく、尊氏と師直が京を留守にしようとした同年十月、軟禁状態だった直義は出奔した。

その後、かつての与党の再組織化に成功した直義は、さらに南朝と手を組むという離れ業を演じる。

観応二年二月、反転してきた尊氏と師直を摂津国の打出浜で破った直義は、師直一派を謀殺し、尊氏の無力化に成功する。

ここまでの手際は見事の一言だ。歴史上、逆転劇はあまたあるが、これほど見事なものも珍しい。しかし、ここからがいけない。

後から思えば、直義は尊氏を隠退させた上、嫡男の義詮ともども謀殺し、九州から直冬を呼び寄せて将軍位に就かせるべきだった。直冬は尊氏の実子なので、足利家親類衆や有力家臣も、このシナリオなら納得する。

しかし直義はそうしなかった。師直を取り除くことで、かつての仲のよい兄弟に戻れるとでも思ったのか、尊氏を兄として迎え入れて関係修復に努めるのだ。

一方、尊氏にも言い分はある。実は打出浜で敗れた後、双方合意した降伏条件として、師直一族の助命という一条があった。しかし直義派の上杉能憲は、養父の重能を師直に殺された私怨から師直一族を処刑した。しかも尊氏の要求した能憲の処刑は直義に拒否され、能憲は遠流となった。

これでは尊氏の面目が立たない。この時、尊氏は直義の謀殺を決意したと思われる。

おそらく師直らの粛清は、直義から出ていた命令なのだろう。それゆえ直義は、能憲をかばわざるを得なかったのだ。

直義の敗北

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以後、尊氏の息子の義詮が前面に出てくることで、徐々に直義は追い込まれていく。

同年八月、尊氏・義詮父子に京都を包囲された直義は決戦を避けて越前に逃れるが、すでに昔日の勢いはなかった。なぜかと言えば、再び直義が勝ったとしても尊氏父子を許すに決まっていると、与党勢力は思ったからだ。

同年十一月、いったん鎌倉に落ちていた直義は、わずかな手勢を引き連れて尊氏が陣を布く駿河国薩埵山まで進むものの、留守にした関東で宇都宮氏らに挙兵され、逆に包囲されることになる。結局、直義は尊氏に降伏し、政治生命を終わらせられる。そして観応三年二月二十六日、直義は鎌倉で急死する。享年は四十七だった。

一説に病死とも言われるが、そんなに都合よく病を得て死ぬわけがない。しかも一年前の同月同日、直義は師直一族を粛清しているのだ。

『太平記』の言うように、尊氏が師直一族の鎮魂のために殺したのは明らかだろう。

直義の敗因は、尊氏の降伏条件を反故にしたにもかかわらず、良好な関係を取り戻せると思った点にある。この点だけ見ても、直義の人間洞察力は甘い。敵対勢力は徹底的に叩いておかないと、足をすくわれることになるのは歴史の必然である。それができなかったことだけ取ってみても、直義は天下人の器ではなかったのだ。

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南北朝時代室町時代敗者烈伝日本史歴史鎌倉時代

【3分でわかる】足利直義はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる足利直義の歴史

プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「足利直義」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

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足利直義

一三〇六年〈徳治元年〉〜一三五二年〈正平七年/観応三年〉

兄弟の対立というのは悲劇的な最後を迎えるのが常だ。平安時代末期の藤原忠通と頼長兄弟の対立は保元の乱に発展し、摂関政治の終焉を招いた。奥州藤原一族は三代秀衡の死後、兄弟間で対立した末、勢力の衰退を招き、鎌倉幕府によって滅ぼされた。源頼朝と義経の対立は河内源氏を脆弱なものとし、執権の北条氏に鎌倉幕府を乗っ取られる遠因となった。

これらのケースは腹違いの兄弟なので、さもありなんとも思う。腹違いの兄弟は関係がこじれると、赤の他人よりも始末に負えないと言われているからだ。

しかしここに、同腹の上に極めて仲がよかったにもかかわらず、最終的には対立し、悲劇的な最後を迎えた兄弟がいる。

足利高氏(後の尊氏)と直義である。

しかも弟の直義は、退勢を挽回する逆転勝利を収めながら、詰めの甘さから兄に再逆転を許し、暗殺されるという悲劇的な最期を迎える。

兄と二人三脚で動乱に立ち向かう

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徳治元年(一三〇六)、直義は足利家の三男として生まれた。次男の高氏とは年子の同腹兄弟となる。別腹長男の高義の早世によって高氏が嫡男になると、直義は兄を助け、まさに二人三脚で足利家を守り立てていった。

というのも兄の高氏には躁鬱病の気があったらしく、豪放磊落で気前がよく、人望と人徳を兼ね備えたカリスマ性を持つ反面、ふさぎ込むことも多く、安定した情緒を保つことが難しかったらしい。

そもそも足利氏は源義家を祖とし、義家の孫にあたる義康以来、下野国の足利荘に根を下ろし、足利姓を名乗った一族だ。つまり頼朝の源氏嫡流に最も近い一族となる。

鎌倉幕府の忠実な御家人として源氏三代に仕え、さらに執権北条氏とも代々縁組をしてきた足利氏は、執権北条氏の手で有力御家人が次々と滅ぼされていく鎌倉時代中期を生き残り、北条一族を除いて最大の所領を有するようになっていく。

しかし高氏が足利氏の家督を継いだこの頃、各地で騒乱が相次ぎ、悪党や溢者が公家や寺社の荘園を押領するようになり、それに対して何ら有効な手を打てない鎌倉幕府の威信は、低下の一途をたどっていた。

こうした最中の元亨元年(一三二一)、帝位に就いていた大覚寺統(後の南朝)の後醍醐天皇は、天皇親政・公家一統の世を築くべく鎌倉幕府打倒を画策し始める。しかし後醍醐天皇の野望は未然に摘み取られ、元弘二年(一三三二)三月、隠岐に配流となる。

それでも討幕の火は消えず、護良親王と楠木正成らによって再び畿内は混乱に陥り、後醍醐天皇も隠岐を脱出した。この知らせを聞いた幕府は元弘三年三月、名越高家を総大将にした五万七千の追討軍を京に派遣する。この中には足利兄弟もいた。ところが緒戦で名越高家が討ち死にすることで、状況が一変する。たまたま別働隊として動いていた足利兄弟は、すぐさま宮方に寝返った。

『太平記』によると、実は東海道を西進する途次、続々と入ってくる情報を吟味し、直義が高氏に寝返りを勧めたことになっている。すなわち直義が背を押すことで、高氏も幕府へ弓引く決意ができたというが、この後のことを考えると、それが軍記物の作り話とは思えない。

鎌倉に赴任する直義

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四月二十九日、丹波国篠村八幡宮に着いたところで軍を反転させた高氏は京に討ち入り、六波羅探題(鎌倉幕府の出先機関)を落とし、宮方最大の功を挙げる。

その半月後、こちらも宮方に転じた新田義貞が鎌倉に攻め入ると、呆気なく鎌倉幕府は滅亡した。これにより後醍醐天皇による建武の新政が始まる。

その論功行賞において、高氏は功第一とされ、多くの守護国と地頭職を賜っただけでなく、後醍醐天皇から尊の字をもらって尊氏と改名した。しかし王政復古を目指す天皇と武士たちの輿望を担うことになった尊氏が、うまくいくはずがない。

とくに足利氏討伐を強く訴えたのが、新たに征夷大将軍の座に就いた護良親王だ。しかし護良は焦った。天皇に内密で諸国の武士に令旨(親王の命令書)を出し、尊氏追討を図ろうとしたのはまずかった。この書状の一つを入手した足利陣営は、これを天皇に提出する。これが綸旨(天皇の命令書)絶対主義を貫こうとする天皇の逆鱗に触れ、護良は失脚した。

足利陣営の打った次なる手は、鎌倉将軍府の創設である。鎌倉幕府滅亡後、武士の都・鎌倉の権力は空白になっており、関東十カ国(関八州に甲斐と伊豆)を束ねる鎌倉将軍府の創設は急務だった。それは天皇も考えていたことで、上奏は容易に受け入れられた。

東国に勢力を扶植しておけば、今後の戦いを優位に運べる。すでにこの時点で、尊氏と直義、そして家宰の高師直の頭には、天皇との対決と幕府の創設という図式が浮かんでいたに違いない。

これにより直義は、鎌倉将軍府の長となった成良親王の補佐役として、元弘三年(一三三三)十二月、鎌倉に赴くことになる。しかしこれは、結果論ではなく、明らかに直義のミスだった。

後醍醐天皇と足利氏の対立

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直義は、後醍醐陣営以外にも内なる敵を抱えていたからだ。家宰の高師直である。

師直は、足利家中で折り合いが悪い直義を体よく鎌倉に送り出すことができ、尊氏を独占することに成功する。かくして直義は、成良を供奉して鎌倉に下向した。

一方、公家重視の論功行賞や諸国の疲弊を顧みない大内裏の造営などにより、建武新政府に対する武士階級の不満が鬱積し始めていた。

そんな最中の建武二年(一三三五)七月、鎌倉幕府の最後の執権だった北条高時の遺児・時行が鎌倉に討ち入り、一時的に鎌倉を回復するという事件が起こる。中先代の乱である。鎌倉を守っていた直義は、建武元年十一月に配流されていた護良を殺して鎌倉を脱出し、京に戻る途次の三河国矢作宿に陣を布いて尊氏の来援を待った。

弟の危機に尊氏は東下しようとするが、後醍醐天皇は尊氏の要求する征夷大将軍職を下賜しない。天皇としては尊氏を武士の頂点に押し上げ、幕府を開く権限を与えるなどという愚を犯すつもりはなかった。だが、それでは尊氏を怒らせることになると感じたのか、征東将軍という臨時職を与えた。これにより尊氏は追討の大義を得る。

直義と合流した尊氏は敵を矢作宿で破ると、その後も破竹の進撃を続けて八月、鎌倉を占領する。しかし北条時行の追討が終わっても、尊氏は鎌倉を動こうとせず、天皇の再三の帰洛命令をも無視し続けた。

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