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【3分でわかる】足利直義はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる足利直義の歴史

プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「足利直義」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

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敗者烈伝

単行本(ソフトカバー) > 歴史・時代小説
実業之日本社
伊東 潤(著)

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価格・情報の取得:2020-06-19

愚兄への甘えから墓穴を掘った賢弟

足利直義

一三〇六年〈徳治元年〉〜一三五二年〈正平七年/観応三年〉

兄弟の対立というのは悲劇的な最後を迎えるのが常だ。平安時代末期の藤原忠通と頼長兄弟の対立は保元の乱に発展し、摂関政治の終焉を招いた。奥州藤原一族は三代秀衡の死後、兄弟間で対立した末、勢力の衰退を招き、鎌倉幕府によって滅ぼされた。源頼朝と義経の対立は河内源氏を脆弱なものとし、執権の北条氏に鎌倉幕府を乗っ取られる遠因となった。

これらのケースは腹違いの兄弟なので、さもありなんとも思う。腹違いの兄弟は関係がこじれると、赤の他人よりも始末に負えないと言われているからだ。

しかしここに、同腹の上に極めて仲がよかったにもかかわらず、最終的には対立し、悲劇的な最後を迎えた兄弟がいる。

足利高氏(後の尊氏)と直義である。

しかも弟の直義は、退勢を挽回する逆転勝利を収めながら、詰めの甘さから兄に再逆転を許し、暗殺されるという悲劇的な最期を迎える。

兄と二人三脚で動乱に立ち向かう

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徳治元年(一三〇六)、直義は足利家の三男として生まれた。次男の高氏とは年子の同腹兄弟となる。別腹長男の高義の早世によって高氏が嫡男になると、直義は兄を助け、まさに二人三脚で足利家を守り立てていった。

というのも兄の高氏には躁鬱病の気があったらしく、豪放磊落で気前がよく、人望と人徳を兼ね備えたカリスマ性を持つ反面、ふさぎ込むことも多く、安定した情緒を保つことが難しかったらしい。

そもそも足利氏は源義家を祖とし、義家の孫にあたる義康以来、下野国の足利荘に根を下ろし、足利姓を名乗った一族だ。つまり頼朝の源氏嫡流に最も近い一族となる。

鎌倉幕府の忠実な御家人として源氏三代に仕え、さらに執権北条氏とも代々縁組をしてきた足利氏は、執権北条氏の手で有力御家人が次々と滅ぼされていく鎌倉時代中期を生き残り、北条一族を除いて最大の所領を有するようになっていく。

しかし高氏が足利氏の家督を継いだこの頃、各地で騒乱が相次ぎ、悪党や溢者が公家や寺社の荘園を押領するようになり、それに対して何ら有効な手を打てない鎌倉幕府の威信は、低下の一途をたどっていた。

こうした最中の元亨元年(一三二一)、帝位に就いていた大覚寺統(後の南朝)の後醍醐天皇は、天皇親政・公家一統の世を築くべく鎌倉幕府打倒を画策し始める。しかし後醍醐天皇の野望は未然に摘み取られ、元弘二年(一三三二)三月、隠岐に配流となる。

それでも討幕の火は消えず、護良親王と楠木正成らによって再び畿内は混乱に陥り、後醍醐天皇も隠岐を脱出した。この知らせを聞いた幕府は元弘三年三月、名越高家を総大将にした五万七千の追討軍を京に派遣する。この中には足利兄弟もいた。ところが緒戦で名越高家が討ち死にすることで、状況が一変する。たまたま別働隊として動いていた足利兄弟は、すぐさま宮方に寝返った。

『太平記』によると、実は東海道を西進する途次、続々と入ってくる情報を吟味し、直義が高氏に寝返りを勧めたことになっている。すなわち直義が背を押すことで、高氏も幕府へ弓引く決意ができたというが、この後のことを考えると、それが軍記物の作り話とは思えない。

鎌倉に赴任する直義

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四月二十九日、丹波国篠村八幡宮に着いたところで軍を反転させた高氏は京に討ち入り、六波羅探題(鎌倉幕府の出先機関)を落とし、宮方最大の功を挙げる。

その半月後、こちらも宮方に転じた新田義貞が鎌倉に攻め入ると、呆気なく鎌倉幕府は滅亡した。これにより後醍醐天皇による建武の新政が始まる。

その論功行賞において、高氏は功第一とされ、多くの守護国と地頭職を賜っただけでなく、後醍醐天皇から尊の字をもらって尊氏と改名した。しかし王政復古を目指す天皇と武士たちの輿望を担うことになった尊氏が、うまくいくはずがない。

とくに足利氏討伐を強く訴えたのが、新たに征夷大将軍の座に就いた護良親王だ。しかし護良は焦った。天皇に内密で諸国の武士に令旨(親王の命令書)を出し、尊氏追討を図ろうとしたのはまずかった。この書状の一つを入手した足利陣営は、これを天皇に提出する。これが綸旨(天皇の命令書)絶対主義を貫こうとする天皇の逆鱗に触れ、護良は失脚した。

足利陣営の打った次なる手は、鎌倉将軍府の創設である。鎌倉幕府滅亡後、武士の都・鎌倉の権力は空白になっており、関東十カ国(関八州に甲斐と伊豆)を束ねる鎌倉将軍府の創設は急務だった。それは天皇も考えていたことで、上奏は容易に受け入れられた。

東国に勢力を扶植しておけば、今後の戦いを優位に運べる。すでにこの時点で、尊氏と直義、そして家宰の高師直の頭には、天皇との対決と幕府の創設という図式が浮かんでいたに違いない。

これにより直義は、鎌倉将軍府の長となった成良親王の補佐役として、元弘三年(一三三三)十二月、鎌倉に赴くことになる。しかしこれは、結果論ではなく、明らかに直義のミスだった。

後醍醐天皇と足利氏の対立

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By known – The japanese Book “Miru Yomu Wakaru Nihon No Rekishi 2 Chusei”, 1993, Asahi Shinbun-sha, パブリック・ドメイン, Link

直義は、後醍醐陣営以外にも内なる敵を抱えていたからだ。家宰の高師直である。

師直は、足利家中で折り合いが悪い直義を体よく鎌倉に送り出すことができ、尊氏を独占することに成功する。かくして直義は、成良を供奉して鎌倉に下向した。

一方、公家重視の論功行賞や諸国の疲弊を顧みない大内裏の造営などにより、建武新政府に対する武士階級の不満が鬱積し始めていた。

そんな最中の建武二年(一三三五)七月、鎌倉幕府の最後の執権だった北条高時の遺児・時行が鎌倉に討ち入り、一時的に鎌倉を回復するという事件が起こる。中先代の乱である。鎌倉を守っていた直義は、建武元年十一月に配流されていた護良を殺して鎌倉を脱出し、京に戻る途次の三河国矢作宿に陣を布いて尊氏の来援を待った。

弟の危機に尊氏は東下しようとするが、後醍醐天皇は尊氏の要求する征夷大将軍職を下賜しない。天皇としては尊氏を武士の頂点に押し上げ、幕府を開く権限を与えるなどという愚を犯すつもりはなかった。だが、それでは尊氏を怒らせることになると感じたのか、征東将軍という臨時職を与えた。これにより尊氏は追討の大義を得る。

直義と合流した尊氏は敵を矢作宿で破ると、その後も破竹の進撃を続けて八月、鎌倉を占領する。しかし北条時行の追討が終わっても、尊氏は鎌倉を動こうとせず、天皇の再三の帰洛命令をも無視し続けた。

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