プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「高師直」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

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敗者烈伝

単行本(ソフトカバー) > 歴史・時代小説
実業之日本社
伊東 潤(著)

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建武の新政をぶち壊した婆娑羅者

高 師直

不詳~一三五一年〈正平六年/観応二年〉

世の中には、悪人ないしは悪役が必要だ。物語を書く上でも、「善悪どちらか」という線引きがなされていないと、読者はその人物に感情移入していいのか悪いのか分からず、物語の迷路にはまってしまう。しかし善悪とは、そうした一元的な線引きでは片付けられず、実に分かりにくいものだ。

そこで軍記物の作者たちは、「朝廷に弓引く者」かどうかという観点で善悪の線引きをした。しかも歴史は実にうまくできているもので、「朝廷に弓引く者」のほとんどが、無残な最期を遂げることになっている。

ところが、そうした「勧善懲悪定理」を覆すようにして成立してしまった政権がある。しかもその政権は朝廷(南朝)をないがしろにした挙句、別の皇統(北朝)を担ぎ出し、二百三十七年の長きにわたり続いてしまうのだ。

だがこのままでは、日本人の大好きな「勧善懲悪定理」が成り立たない。

悪役にされた高師直

高師直.jpg
By Musuketeer.3 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

室町幕府の初代将軍となる足利尊氏は、歴史的評価や人気が極めて低い人物だが、どうしたわけか畳の上で死ねただけでなく、その子孫たちも繁栄した。

尊氏の享年は五十四で、決して長寿ではないが、成功者としての生涯を送れたのは間違いない。日本史において、うまく次代以降に天下を引き継げたのは徳川家康くらいで、その点からしても、尊氏は優れた天下人となる。

しかしそれは、結果論に過ぎないのではないか。尊氏には天下人たる器量も「世の中をよくしたい」という確固たる信念や政権ビジョンもなく、周囲の神輿に乗せられ、何となく天下人になったという感が否めない。

だが、その程度の者に正統な朝廷(南朝)が敗れ去ったというのは、どうにも具合が悪い。となれば『太平記』の作者は、神輿を担いだ誰かを悪人に仕立てねばならない。

まず候補として考えられるのは弟の直義だろう。直義は実質的な幕府の首班であり、しかも兄弟対立の末に毒殺されるという悲劇的な最期を遂げている。そのため「勧善懲悪定理」からすれば、悪役にはもってこいとなる。だが直義は政治家として優秀な上、その人格は清廉潔白で、さらに実直で兄思いの俗に言う「いい奴」だったのだ。

『太平記』の作者は困った。ところがそんな折、ちょうどいい男がいた。

高師直である。

足利家臣団一の実力者だった高一族

image by PIXTA / 44417696

高師直の出身母体の高一族は、高市皇子を祖に持つ高階氏の一流で(だから高という名字なのだろう)、平安期に源氏方の武将として東国に進出し、いつの頃からか足利氏の根本被官(重代相恩の側近)となり、家宰職を家職としていった。

足利氏初代の義康に仕えた惟長に始まり、保元の乱で活躍した二代義兼に仕えた惟忠、さらに下って足利尊氏の祖父の家時と父の貞氏に仕えた師氏ら、高一族は常に足利家臣団の筆頭の地位にあった。

家宰とは、当主に提出される報告や陳情を取り次いだり、当主の命令や布告を下達したりする役割で、大きな権力を有していたが、高一族もその例に漏れず、足利家臣団の筆頭として君臨していた。

後年になるが、相模守護・扇谷上杉家の家宰として活躍した太田道灌は、主家を上回る勢力(所領と権益)を有していたと言われる。また長尾景春の乱を起こした長尾景春は、父祖が関東管領・山内上杉氏の家宰として権勢を極めたため、当主の顕定から家宰に指名されず、それに怒って挙兵したほどだ。それほど家宰の権力は大きかった。

足利軍団の中心となった尊氏・直義・師直

image by PIXTA / 16294862

元弘元年(一三三一)八月、かねてからの念願だった政権奪取を目論んで、京都を逃れて笠置山に布陣した後醍醐天皇だったが、大軍を上洛させた鎌倉幕府の前に降伏し、翌元弘二年三月、隠岐に配流された。これが元弘の乱である。

ところが同年末頃から、後醍醐天皇の第一皇子である護良親王が、河内の悪党・楠木正成が、翌年には播磨の土豪・赤松円心(則村)が挙兵することで、反乱は野火のごとく広がった。遂に後醍醐天皇も隠岐を脱出するに及び、鎌倉幕府は武力討伐に乗り出さざるを得なくなる。

元弘三年三月、北条一門の名越高家に率いられた五万七千の大軍が鎌倉を出陣した。この時、尊氏も二千の兵を率いて参陣し、高家らと京都に向かっていた。ところが次々と届く戦況は、鎌倉幕府方にとって不利なものばかりだった。これを聞いた尊氏の弟の直義は、尊氏に寝返りを進言し、宮方となった足利軍は、鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題を落とすという功を挙げた。

やがて新田義貞によって鎌倉が陥落し、鎌倉幕府は滅亡する。これにより建武の新政が始まり、師直は尊氏の名代的立場として政権の中枢を担う一人になった。

しかし師直は、それだけの男ではない。

建武新政権が公家や寺社といった既得権益層を擁護し、さらに新たな権益まで与えることで、武士や民の信望を失っていくのを見て、尊氏らはいち早く建武新政権から離脱し、新たな武家政権の樹立を目指そうとした。武士たちの要求を直接、聞く立場の師直が家宰でいたからこそ、そうした不満の鬱積が大きなものとなりつつあるのを、尊氏も感じ取れたのだ。これは直義も同じで、尊氏・直義・師直による足利家の外交・軍事体制は、うまく回り始めた。

\次のページで「優秀な武将だった高師直」を解説!/

優秀な武将だった高師直

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ここから、いよいよ南北朝の戦いに入っていくわけだが、この一連の戦いを通じての師直の軍事的功績は抜群で、尊氏と直義が出陣していない合戦に限ってみても、建武五年(一三三八)には北畠顕家を、貞和四年(一三四八)には楠木正行(正成の息子)を敗死させている。大将の出陣しない合戦に勝つことがいかにたいへんかは、この時代も戦国時代も変わらない。

また弟の師泰も(兄というのは間違い)、建武四年に越前金ヶ崎城を攻略し、実質的に新田義貞の息の根を止めている。

おそらく尊氏と直義が参加している合戦でも、高兄弟が軍配を預かっていたはずで、その軍事的貢献は計り知れない。

それではなぜ、師直は軍事面で優れていたのだろうか。

これは足利軍に限らないことだが、当時、合戦を主導できる大勢力といえども、一族・直臣・傘下国人から成る独立性の強い軍隊だった。それは「何々家中」と呼ばれ、規模の大小こそあれ、それぞれ棟梁を頂きユニット単位で戦う。すなわち戦うも引くも棟梁次第となる。ところが、こうした体質のままでは、動員兵力が大きくなりつつある南北朝の合戦を勝ち抜けない。

そこで師直は、御家人の庶子層、非御家人、さらに悪党と呼ばれる農民上がりの新興武士層を積極的に引き入れ、独自の武士団を形成していった。

その戦い方も、後の時代に太田道灌や北条早雲が創始し、織田信長が完成させた兵種別編制に近いものだった。なぜかと言えば、軍編制や作戦という概念が未発達な南朝方に対し、師直率いる軍団は、組織、目的、作戦といった軍の要諦が徹底された統一的な軍事行動を取っている形跡があるからだ。

大軍団で何らかの作戦を実行するには、総大将の意のままに軍団全体を動かさねばならず、「功を挙げる機会を奪うことは、親にもできない」という鎌倉時代以来の御家人たちの仕来りに反することになる。しかし師直は、その概念を打破して大軍団を手足のように動かしている。そうした常識を覆したからこそ、師直は、大きな成果を挙げたのではあるまいか。

むろん、こうした作戦的行動は『太平記』の記述を基にしているので、確定した史実とは言えないことは断っておく。

師直が楠木正行を破った四條畷の戦いに関する詳細の分析は、『戦国の陣形』(乃至政彦著 講談社現代新書)を参照してほしい。合戦における陣形の重要性を、師直が意識していたことが分かるはずだ。

実力主義を第一にし、旧来の社会秩序や価値観を破壊

image by PIXTA / 54342161

建武三年(一三三六)、南朝方を吉野に追いやった足利方は北朝を擁立し、その承認の下に幕府を開いた。

足利家の家宰から将軍の執事となり、多くの権限を有するようになった師直は、新興武士層が主張する権益、すなわち実力で奪った公家の荘園や寺社の本所を彼らの所領として認めることで、輿望を集めることに成功する。

その行動から推察すると、師直は実力主義を第一とする人物で、伝統や権威を破壊することに何ら抵抗がなかったのではないかと思われる。

武士階級の垣根を取り払い、誰でも武士になれ、実力次第で土地をも所有できることを知らしめたのは師直だ。すなわち荘園制を崩壊に導いた張本人こそ師直であり、こうした伝統や権威の破壊こそ、後の織田信長に先駆けるものだった。

破壊者としての師直の真骨頂は、神仏への信仰を軽視していた点にも如実に表れている。

この頃の武士は神仏に畏敬の念を抱く者が多く、敗軍が寺社に籠もってしまうと、降伏を呼びかけるだけで攻撃しない。それゆえ形勢不利な方は、神社仏閣を本陣とすることが多かった。しかし師直は、神仏など歯牙にもかけず、平気で焼き打ちにした。石清水八幡宮、吉野金峯山寺、河内磯長の聖徳太子廟などの大社大寺であっても、敵が籠もっていれば容赦なく火をつけて回った。

しまいには吉野宮まで焼き、神仏だけでなく天皇の権威をも足蹴にすることで、旧来の社会秩序や価値観を木端微塵に吹き飛ばした。

『太平記』でも、伝統や社会秩序の破壊者という師直のキャラは際立ち、史実かどうかは疑わしいものの、奢侈や淫蕩にふけり、豪壮な邸宅を建てたり、気に入った公家の娘を半ば拉致して子を産ませたりと、悪逆非道ぶりを存分に発揮している。

観応の擾乱と高一族の滅亡

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By Katsukawa Shuntei (勝川春亭) - http://www.britishmuseum.org/research/search_the_collection_database/search_object_details.aspx?objectid=787651&partid=1&searchText=katsukawa+shuntei&numpages=10&orig=%2Fresearch%2Fsearch_the_collection_database.aspx¤tPage=1, パブリック・ドメイン, Link

後醍醐天皇の死によって南朝勢力の衰退は始まり、その逆に足利政権が軌道に乗り始める。こうした流れを押しとどめるべく、後醍醐天皇の跡を継いだ後村上天皇は貞和三年(一三四七)、畿内各地に残る南朝勢力に一斉蜂起を命じた。

南朝方は緒戦で足利方を破るが、翌貞和四年正月、前述の四條畷の戦いで師直に惨敗を喫し、立ち直れないほどの打撃を受ける。その勢いを駆って吉野まで攻め寄せた師直は吉野宮を焼き払い、南軍に引導を渡した。

これにより室町幕府は安定を見るが、続いて始まるのが、お決まりの内輪もめだ。

実力主義の師直と既得権益層を擁護する直義の衝突は、本来からして不可避だった。

師直と直義の権力闘争はいくつかの政変や戦闘を経るが、総称して観応の擾乱と呼ばれる。

貞和五年閏六月、直義は政変を起こし、師直の追放に成功する。これにより執事を罷免され、朝廷への出仕も差し止められた師直は、すぐさま反撃に出る。

八月、にわかに兵を集めた師直は、それを聞いて尊氏邸に逃げ込んだ直義を包囲した。この時は尊氏の仲裁で許されたものの、直義は出家させられた上、直義の側近たちは秘密裏に殺された。

かくして師直の勝利で、観応の擾乱は終結するかに見えた。ところが、尊氏の実子で直義の養子になっていた長門探題の直冬が九州で反旗を翻し、これを聞いた直義も出奔することで第二幕が開く。

直冬の反乱を鎮定すべく、九州へと出陣した尊氏と師直だったが、その間に直義は与党勢力を糾合し、南朝とも手を組んで巻き返しに転じた。

尊氏と師直は九州行きを取りやめて畿内に戻ろうとするが、その途次に摂津国芦屋の打出浜で直義方に大敗を喫して降伏する。

捕虜となった師直と師泰は出家を強要された。そして京へと護送される途次、二人は殺される。この時、共に戦ってきた一族郎党らも殺され、ここに高一族は滅亡する。つい数カ月前まで栄華を極めていた師直は、瞬く間に奈落の底に突き落とされたのだ。

「伝 足利尊氏像」の本当の像主は高師直か

Ashikaga Takauji.JPG
By Urashimataro - http://www.sobacanada.com/2005Japan%20Nowadays.htm, パブリック・ドメイン, Link

ここに一幅の肖像画がある。正式名は「絹本著色 騎馬武者像」という。これは、長きにわたって足利尊氏像とされていた有名な絵だ。

最近、様々な根拠から、この像主は師直ではないかと言われている。確かに解けた髻や抜身の大刀などから、戦いの最中か後を描いたようで、殺伐とした雰囲気が漂っている。初代将軍を子孫たちが描かせたとは、とても思えない。しかもその視線は、何かを見つめているようで何も見ておらず、ある種の諦念や達観さえ感じられる。

こうした像容だけ見ても、優柔不断で一貫性のない尊氏とは思えない。

この肖像画は、騎馬武者の頭上に二代将軍義詮の花押が書かれているように、義詮が師直の戦功を賞し、その菩提を弔うために描かせたというのが最新の定説である。

しかもこの花押は三十八歳で病没した義詮の最晩年のものらしく、悲劇的な族滅を遂げた高一族への鎮魂の思いが込められているという。

神仏など信じず、神仏を足蹴にしてきた師直が、半ば神仏のように扱われている皮肉に、冥途の師直は失笑しているかもしれない。

師直は既成の権力や権威を恐れることなく打破し、室町幕府の礎を築いたが、主筋の直義を殺せず、中途半端に妥協したことで墓穴を掘った。時代の先駆者だった師直だが、足利氏の家宰という立場を克服できずに敗れ去ったのだ。やはり改革や革新というものは、不退転の覚悟と強い意志を持って「徹底できるかどうか」が鍵なのだ。

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南北朝時代室町時代敗者烈伝日本史歴史鎌倉時代

【3分でわかる】高師直はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる高師直の歴史

プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「高師直」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

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建武の新政をぶち壊した婆娑羅者

高 師直

不詳~一三五一年〈正平六年/観応二年〉

世の中には、悪人ないしは悪役が必要だ。物語を書く上でも、「善悪どちらか」という線引きがなされていないと、読者はその人物に感情移入していいのか悪いのか分からず、物語の迷路にはまってしまう。しかし善悪とは、そうした一元的な線引きでは片付けられず、実に分かりにくいものだ。

そこで軍記物の作者たちは、「朝廷に弓引く者」かどうかという観点で善悪の線引きをした。しかも歴史は実にうまくできているもので、「朝廷に弓引く者」のほとんどが、無残な最期を遂げることになっている。

ところが、そうした「勧善懲悪定理」を覆すようにして成立してしまった政権がある。しかもその政権は朝廷(南朝)をないがしろにした挙句、別の皇統(北朝)を担ぎ出し、二百三十七年の長きにわたり続いてしまうのだ。

だがこのままでは、日本人の大好きな「勧善懲悪定理」が成り立たない。

悪役にされた高師直

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室町幕府の初代将軍となる足利尊氏は、歴史的評価や人気が極めて低い人物だが、どうしたわけか畳の上で死ねただけでなく、その子孫たちも繁栄した。

尊氏の享年は五十四で、決して長寿ではないが、成功者としての生涯を送れたのは間違いない。日本史において、うまく次代以降に天下を引き継げたのは徳川家康くらいで、その点からしても、尊氏は優れた天下人となる。

しかしそれは、結果論に過ぎないのではないか。尊氏には天下人たる器量も「世の中をよくしたい」という確固たる信念や政権ビジョンもなく、周囲の神輿に乗せられ、何となく天下人になったという感が否めない。

だが、その程度の者に正統な朝廷(南朝)が敗れ去ったというのは、どうにも具合が悪い。となれば『太平記』の作者は、神輿を担いだ誰かを悪人に仕立てねばならない。

まず候補として考えられるのは弟の直義だろう。直義は実質的な幕府の首班であり、しかも兄弟対立の末に毒殺されるという悲劇的な最期を遂げている。そのため「勧善懲悪定理」からすれば、悪役にはもってこいとなる。だが直義は政治家として優秀な上、その人格は清廉潔白で、さらに実直で兄思いの俗に言う「いい奴」だったのだ。

『太平記』の作者は困った。ところがそんな折、ちょうどいい男がいた。

高師直である。

足利家臣団一の実力者だった高一族

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高師直の出身母体の高一族は、高市皇子を祖に持つ高階氏の一流で(だから高という名字なのだろう)、平安期に源氏方の武将として東国に進出し、いつの頃からか足利氏の根本被官(重代相恩の側近)となり、家宰職を家職としていった。

足利氏初代の義康に仕えた惟長に始まり、保元の乱で活躍した二代義兼に仕えた惟忠、さらに下って足利尊氏の祖父の家時と父の貞氏に仕えた師氏ら、高一族は常に足利家臣団の筆頭の地位にあった。

家宰とは、当主に提出される報告や陳情を取り次いだり、当主の命令や布告を下達したりする役割で、大きな権力を有していたが、高一族もその例に漏れず、足利家臣団の筆頭として君臨していた。

後年になるが、相模守護・扇谷上杉家の家宰として活躍した太田道灌は、主家を上回る勢力(所領と権益)を有していたと言われる。また長尾景春の乱を起こした長尾景春は、父祖が関東管領・山内上杉氏の家宰として権勢を極めたため、当主の顕定から家宰に指名されず、それに怒って挙兵したほどだ。それほど家宰の権力は大きかった。

足利軍団の中心となった尊氏・直義・師直

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元弘元年(一三三一)八月、かねてからの念願だった政権奪取を目論んで、京都を逃れて笠置山に布陣した後醍醐天皇だったが、大軍を上洛させた鎌倉幕府の前に降伏し、翌元弘二年三月、隠岐に配流された。これが元弘の乱である。

ところが同年末頃から、後醍醐天皇の第一皇子である護良親王が、河内の悪党・楠木正成が、翌年には播磨の土豪・赤松円心(則村)が挙兵することで、反乱は野火のごとく広がった。遂に後醍醐天皇も隠岐を脱出するに及び、鎌倉幕府は武力討伐に乗り出さざるを得なくなる。

元弘三年三月、北条一門の名越高家に率いられた五万七千の大軍が鎌倉を出陣した。この時、尊氏も二千の兵を率いて参陣し、高家らと京都に向かっていた。ところが次々と届く戦況は、鎌倉幕府方にとって不利なものばかりだった。これを聞いた尊氏の弟の直義は、尊氏に寝返りを進言し、宮方となった足利軍は、鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題を落とすという功を挙げた。

やがて新田義貞によって鎌倉が陥落し、鎌倉幕府は滅亡する。これにより建武の新政が始まり、師直は尊氏の名代的立場として政権の中枢を担う一人になった。

しかし師直は、それだけの男ではない。

建武新政権が公家や寺社といった既得権益層を擁護し、さらに新たな権益まで与えることで、武士や民の信望を失っていくのを見て、尊氏らはいち早く建武新政権から離脱し、新たな武家政権の樹立を目指そうとした。武士たちの要求を直接、聞く立場の師直が家宰でいたからこそ、そうした不満の鬱積が大きなものとなりつつあるのを、尊氏も感じ取れたのだ。これは直義も同じで、尊氏・直義・師直による足利家の外交・軍事体制は、うまく回り始めた。

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