そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「源頼朝」の勝因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして勝っていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。
源 頼朝
一一四七年〈久安三年〉~一一九九年〈建久十年〉
「極めて慎重で冷酷非情な男」という一般的な源頼朝のイメージは、京都神護寺に伝わる「伝源頼朝像」に拠るところが大きい。昨今は諸説あるものの、ある程度の年齢以上の方々にとって、頼朝といえばこの像を想起することが多く、そこからイメージが固定化されていった気がする。
優秀な政治家
むろん平家を滅亡に追い込み、義経や範頼といった弟たちを殺し、反逆もしていない佐竹秀義、上総介広常、藤原泰衡といった勢力を滅亡に追いやった事実からも、頼朝は「極めて慎重で冷酷非情な男」と呼ばれるに値するだけのことはしてきた。
徳川幕府や明治政府もそうだが、政権初期においては、いかに理不尽だろうが反逆の芽を摘み取っておかないと、その政権は長続きしない。それを成し得たのが、頼朝、徳川家康・秀忠・家光の三代、そして大久保利通であり、その結果、それぞれの政権は長期的安定を見た(頼朝の鎌倉幕府は執権北条氏に、大久保の政府は伊藤博文に乗っ取られたが)。
いずれにせよ、頼朝が政治家として優れていたのは間違いない。何と言っても公家に同化した平家と同じ轍を踏まず、鎌倉に武家政権の本拠を置き、後白河院に惣追捕使(守護)・地頭の設置を承認させるなどして、朝廷を追い込んでいった手腕は実に巧妙だった。
頼朝は先を急がず、既得権を持つ公家社会に対して強硬な手段に出なかったので、朝廷や公家たちは「ゆで蛙」のようになり、権力と財源(荘園)を徐々に奪われていったのだ。
それが白日の下に晒されるのは、頼朝の死後に勃発した承久の乱においてだった。鎌倉幕府は朝敵とされたにもかかわらず、結果的に圧勝した事実を見れば、政治家としての頼朝の手腕が、並みでなかったのは明らかだろう。ちなみに承久の乱は歴史上、朝敵とされた側が勝った唯一の戦いになった。
可能な限り戦場に出なかった頼朝
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それでは頼朝は軍事指揮官としてどうだったのだろうか。頼朝は自ら槍を取ることはもとより、陣頭に立って戦闘を指揮したり、また作戦を立てたりもしなかった。このことから、「武」については不得手という評価が定着している。とくに平家討伐戦において、弟たちに指揮を任せきりで、自らは鎌倉を動かなかったことが、それを如実に表している。
この時、頼朝は上野国の新田氏や奥州の藤原氏の南下に備えていたというが、頼朝が留守にした鎌倉を、彼らが陥れようとする可能性は、彼らの兵力からして極めて低い。
頼朝という総司令官抜きで木曾義仲や平家といった強力な敵に勝てたのは、義経という稀代の軍事指揮官に恵まれていたからだろう。しかし頼朝は、少しでも不穏な臭いを嗅ぎ取れば、大功労者で弟の義経でも失脚させるという非情な一面をも持っていた。
卓越した組織づくりの才能
また頼朝は組織作りにも長けており、人材を見抜く目もあった。荒々しいだけの武士たちを政権の中枢から遠ざけ、大江広元や三善康信といった京都出身の文官を重用することで、幕府を盤石なものにした。
彼らは手探り状態の武家政権に「御恩と奉公」という統治概念を持ち込み、幕府の経済基盤を早急に確立した。さらに執権・連署・評定衆といった政務決定機関と、政所・侍所・問注所といった行政機関を創設した。こうしたビジョンや組織をゼロベースから構築していった彼らの手腕には舌を巻く。
また鎌倉幕府は、それまで朝廷、寺社、公家らに搾取されていた御家人(開発領主)たちの所領や権益にお墨付きを与えたので、御家人たちは境目争いのための無用な防衛力を養う必要がなくなった。さらに「功を挙げれば報われる」という実感も植え付けられ、それが義経や奥州藤原氏追討の際に効いてくる。
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