プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「源義経」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

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敗者烈伝

単行本(ソフトカバー) > 歴史・時代小説
実業之日本社
伊東 潤(著)

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己の力量を過信した天才武将

源 義経

一一五九年〈平治元年〉〜一一八九年〈文治五年〉

昭和三十五年生まれの私にとって、少年時代のヒーローは義経だった。というのも当時の少年雑誌などで、歴史上の人物で最も勇壮で清廉潔白、正義を体現しているような存在が義経だったからだ。

当時のドラマなどでの義経のイメージも、「颯爽とした若武者」「類まれな軍略家」「悲劇の主人公」といったところだろうか。本項では、そうした義経のイメージを検証し、義経はなぜ敗者となってしまったのかを考えていきたいと思う。

兄頼朝との再会

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義経は平治元年(一一五九)、源義朝の九男として生まれた。幼名を牛若丸、仮名を九郎という。頼朝は十二歳も年上の異母兄にあたる。

母の常盤御前は九条院(近衛天皇の中宮)の雑仕女だったと伝わる。頼朝の母親が熱田神宮の大宮司の娘だったことを思えば、母親の身分が段違いだったことは間違いない。この格差が後の悲劇を生む。

さて義経の容姿だが、「颯爽とした若武者」どころではなく、『平家物語』によると、色白で背が低い上に出っ歯だったという。もちろん『平家物語』は、平家を中心に描いた軍記物なので割り引いて考えねばならない。

頼朝や義経の悲劇は、平治の乱で父の義朝が敗れて逃走中に殺されたことにある。これにより頼朝は、囚われの身となって伊豆に流された。この時、数えで二歳だった義経は鞍馬寺に預けられる。

承安四年(一一七四)三月、義経は奥州一円を領国とする藤原秀衡の庇護を求めて旅立った。むろん平家の方針が突然変わり、殺されることを避けるためだろう。それから治承四年(一一八〇)までの六年間、義経は秀衡の薫陶を受けて成長する。

だが義経には、武士として名を揚げたいという野心があった。そのため頼朝の挙兵を聞くと、関東へと向かった。そして同年十月、黄瀬川の宿で二人は劇的な対面を果たす。

翌治承五年閏二月、平清盛が死に、平家(伊勢平氏)政権は衰退の一途をたどっていた。

頼朝とのすれ違い

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しかし敵は平家だけではない。この頃の頼朝は西よりも東を注視していた。

奥州藤原氏である。

後白河院は、奥州藤原氏当主の秀衡を陸奥守に任じて頼朝を討伐させることにし、養和元年(一一八一)八月にその命令を下した。結局、秀衡は動かないのだが、これにより、かつて秀衡の許にいた義経の立場は微妙になる。猜疑心の強い頼朝のことだ。この時、初めて義経の存在が厄介なものになると思ったのではないだろうか。

この少し前の養和元年七月、鶴岡八幡宮の上棟式で、頼朝が工匠に褒美として馬を下賜することになった。頼朝はその馬を引いてくる役を義経に命じることで、義経が弟ではなく御家人であることを、周囲に印象付けようとした。しかし義経がこれを断ったので、頼朝は激怒する。頼朝にとって義経は何の功も挙げていない異母弟であり、この程度の扱いは当然だと思っていたのだろう。しかし義経は弟として待遇してほしかった。ここで初めて、双方の擦れ違いが起こった。

木曽義仲討伐で活躍

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寿永二年(一一八三)は、頼朝と同族の木曾(源)義仲が活躍した年だ。頼朝は義仲に圧力を掛け、息子の義高を人質として差し出させた。これにより双方の融和が図られ、義仲は北陸道を驀進する。五月には俱利伽羅峠で平家軍を撃破し、一気に都に迫った。

一方、平家の総帥・宗盛は都での防戦をあきらめ、安徳天皇を奉じて西国に落ちていった。これにより義仲は堂々の入京を果たす。

ところが山育ちの義仲とその兵は、都で傍若無人な振る舞いをし、朝廷や公家との関係を悪化させた。そうなれば自然、頼朝待望論が出てくる。

この時の頼朝は、奥州に藤原秀衡、北関東に佐竹隆義という敵を抱えており、場合によっては義仲に北陸を与えてもいいとさえ思っていた。しかし義仲の急速な台頭と都の頼朝待望論に押されて方針を転換し、義仲討伐を決意する。

義仲を討つと決した頼朝は、まず義経を都に派遣する。「僅かに兵力五、六百」(『玉葉』)というので、討伐軍というよりも先遣隊であろう。義経は伊勢を経て近江にとどまり、頼朝の指示を待った。このあたりの義経は極めて冷静で、頼朝配下の一武将としての分を守っている。

一方、朝廷が頼朝を呼び寄せようとしていることに怒った義仲は、法皇の御所を焼き払った上、院近臣四十人余の解官と所領没収を断行して朝敵となる。

寿永三年一月初旬、頼朝の弟である範頼に率いられた主力軍が到着し、義経の部隊と合流した上、二人は共同作戦を展開し、義仲を追い詰めた。結局、義仲は近江の粟津で討ち取られた。

二人は、喝采をもって都に迎え入れられた。とくに義経軍は軍規厳正で、都での義経人気が一気に高まる。

\次のページで「勝手な任官で兄頼朝の怒りを買う」を解説!/

勝手な任官で兄頼朝の怒りを買う

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源氏の内訌によって息を吹き返しかけていた平家は、かつて清盛が都にした摂津国の福原に拠点を築き始めていた。背後に山が迫り、眼前に瀬戸内海が開ける福原一ノ谷の平家陣は、要害堅固で攻め難い地である。

ところが義経は、人馬は下りられぬと言われた断崖絶壁の鵯越から逆落としに平家陣まで駆け下り、大勝利をものにする。

ところが元暦元年(一一八四)五月、頼朝は範頼ら指揮官三人の国司任官を奏請し、六月に勅許を得たが、功第一の義経を無視したため、双方の溝は深まっていく。

八月、義経は頼朝の許可を得ずして検非違使左衛門少尉に任官し、双方の対立は決定的になる。御家人の任官叙位は、すべて頼朝の推挙によるという幕府の規則を弟が破ったことは、頼朝の顔に泥を塗るに等しいことであり、頼朝は義経討伐を決意した。

だが一方的に頼朝は正しく、義経が悪いのだろうか。

この後の平家討伐戦もそうだが、頼朝は鎌倉を動かず、弟たちばかりを働かせている。後年の足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康にしても、自ら働くことで周囲に実力を認めさせてきた。ところが頼朝は義経や範頼を出征させ、自らは鎌倉から腰を上げず、遠隔統制を専らとした。このような姿勢で、勝手に任官した義経を責められようか。

一方、なぜ義経は頼朝の承諾を得ずして任官したのか。

義経は頼朝が怒ることを承知の上で受けたのではないか、と私は思っている。すなわち頼朝の勘気をこうむることで、義経は平家追討軍から外され、平家追討使(総指揮官)には範頼が任命される。ところが範頼は凡庸なので御家人たちを統御できず、西国で巻き返しに転じている平家を討伐できないに違いない。そうなれば頼朝は義経を頼らざるを得なくなる。義経が出馬して平家討伐に成功すれば(もちろん自信はあったのだろう)、義経は大きな発言力を得ることになる。

壇ノ浦の勝利

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九月、都を発った範頼は、周防・長門へと進むが、瀬戸内海の制海権を平家に握られており、補給面で苦戦する。陸路だけでは、兵糧や馬糧が補給しきれないのだ。十一月から十二月にかけて、範頼は再三にわたり、頼朝に窮状を訴えている。

これに業を煮やした頼朝は、元暦二年二月、義経を許して西国へと向かわせた。義経の粘り勝ちである。ここからの義経の手際は実に見事だった。屋島の戦いに得意の奇襲戦法で勝った義経は、三月二十四日には壇ノ浦で平家を滅ぼした。

この一連の戦いで、範頼軍にはあまり出番がなく、まさに義経の独り舞台だった。

義経の「類まれな軍略家」という評価は、この時に生まれた。

ところがそうなればそうなったで、義経の成功を妬ましく思う者も出てくる。

四月、活躍の場をほとんど与えられなかった御家人の梶原景時は、いち早く鎌倉に戻ると、義経の行動が「じわじわと包囲し、安徳天皇と三種の神器を保護してから平家を殲滅せよ」という頼朝の方針に背くものだったと讒言した。現に安徳天皇は入水してしまい、三種の神器のうち、神剣は遂に見つからなかった。

とは言うものの頼朝は鎌倉を動かず、現地の状況が分かっていない。こうした場合、現地の司令官に作戦行動を任せるのが基本である。現に頼朝の指示に忠実に従った範頼軍は、戦うどころではないほどの苦境に陥っていた。

頼朝との対立

image by PIXTA / 2121805

四月二十四日、義経は都に凱旋する。ところがこの頃、鎌倉では義経を罪人として処断することに決していた。

この噂を聞いた義経は、重鎮の大江広元に使者を送って取り成しを頼み入る。しかし広元本人が義経追討を頼朝に勧めていたので、全く意味がない。よく小説やドラマなどで、大江広元は好人物の人格者として描かれるが、実像とはほど遠い。

五月、義経は宗盛ら平家の捕虜を引き連れて鎌倉に戻ろうとするが、頼朝は義経を鎌倉に入れず、鎌倉の西の出入口にあたる腰越にとどまるよう伝えてきた。

ここで義経は、頼朝への憧憬を切々につづった「腰越状」を書くことになるが、この時点で義経が、頼朝に慈悲を請うような書状を書くはずがない。やはり「腰越状」は、後世の偽作だろう。

六月、頼朝は義経に、宗盛以下を引き連れて都に上るよう命じる。いざ京に戻るとなった時、義経は「関東に恨みのある者はついてこい」と言い放ったというが、このあたりが真実だろう。

頼朝の命に従い、その途次に宗盛以下平家一門の生き残りを斬り、都に戻った義経は、院近臣勢力や叔父の源行家と結び、頼朝に対抗していくつもりでいた。おそらく見通しとしては、畿内と西国に勢力圏を確立し、多くの兵を養ってから、奥州の藤原秀衡と共に鎌倉を挟撃し、頼朝を討つつもりでいたのだろう。ここまで来ると、「悲劇の主人公」どころか堂々たる謀反人であろう。

しかし私だったら、頼朝に反旗を翻すと決断した時点で宗盛らを解き放ち、平家と共同戦線を組んだだろう。義経は自らの実績からその必要がないと踏んだのだろうが、早まったとしか言いようがない。

文治元年(一一八五)八月、義経は伊予守に任官した。朝廷は、「これは以前に頼朝から奏請されていたもの」という言い訳を用意しながら任官を強行した。むろん頼朝と義経を両天秤に掛けていたのだ。

義経の敗北

image by PIXTA / 8040398

義経は後白河院に「頼朝追討」の院宣を奏請し、いよいよ事態は緊迫してきた。

十月、義経に院宣が下され、「頼朝追討」の大義を得た。義経の勝算は一に院宣(大義)、二に己の武名、三に奥州藤原氏の支援の三点だった。さらに源氏の第三勢力で、摂津周辺に隠然たる勢力を保つ行家(義朝の末弟)も義経に与したので、この時点では、全く勝機がなかったわけではない。ところが義経に味方する者は、皆無に近かった。

その理由としては、せっかく武家政権が樹立されたのに、それを覆すようなことはしたくないという御家人たちの心理が一つ。義経に政権運営ビジョンがないのが一つ、そして、すでに幕府から畿内周辺に所領をもらっている御家人たちが、その恩に報いようとしていたことが一つである。

これを見極めた頼朝は重い腰を上げ、義経・行家追討軍を編制して都に向かった。この時、頼朝の目的は義経討伐だけでないことが、後から分かってくる。

この一報を聞いた後白河院は頼朝に使者を遣わし、懐柔を進める一方、義経を九州の、行家を四国の地頭に任命し、西国に向かわせようとする。都を戦乱から守るための措置だろう。

十一月、義経は西国へと出発するが、瀬戸内海で暴風に遭い、味方がばらばらになってしまう。

この情報が都に入ると、朝廷は一斉に頼朝になびいたが、時すでに遅く、続々と入京する軍勢に恐れをなした院は、頼朝の求める惣追捕使(守護)・地頭の全国への設置を認めざるを得なくなる。その場しのぎの二股外交のつけが回ったのだ。

頼朝・義経兄弟の対立の陰に隠れていたが、この時、綱渡りのようにして維持してきた朝廷と公家たちの政治権力は形骸化した。つまり皮肉なことに、義経は朝廷から武家への政権交代のきっかけを作ったことになる。

文治三年(一一八七)の春頃、義経は奥州藤原氏の許に転がり込み、秀衡の庇護を受けるが、肝心の秀衡が十月に死去してしまう。その跡を継いだ泰衡は頼朝に逆らうつもりはなく文治五年閏四月、義経を衣川の館に襲い、自害に追い込んだ。かくして希代の軍略家も、呆気ない最期を遂げてしまう。

義経の敗因は、どこにあったのか。

義経の敗因

義経は多分に感情的な一面があり、頼朝の仕打ちに怒っては、その場その場で感情の赴くままの言動を取ってきた。つまり多分に場当たり的で一貫性がないのだ。

一方の頼朝には明確な政権構想があり、大江広元や三善康信といったブレーンをそろえていた。この違いが、求心力の差になって表れたのではないだろうか。

「武勇と仁義においては後代の佳名をのこすものか。歎美すべし、歎美すべし」(『玉葉』)と謳われた好漢義経も、天才的軍略と仁慈に厚い人柄だけでは、過酷な時代を生き抜くことはできなかったのだ。

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平安時代敗者烈伝日本史歴史鎌倉時代

【3分でわかる】源義経はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる源義経の歴史

勝手な任官で兄頼朝の怒りを買う

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源氏の内訌によって息を吹き返しかけていた平家は、かつて清盛が都にした摂津国の福原に拠点を築き始めていた。背後に山が迫り、眼前に瀬戸内海が開ける福原一ノ谷の平家陣は、要害堅固で攻め難い地である。

ところが義経は、人馬は下りられぬと言われた断崖絶壁の鵯越から逆落としに平家陣まで駆け下り、大勝利をものにする。

ところが元暦元年(一一八四)五月、頼朝は範頼ら指揮官三人の国司任官を奏請し、六月に勅許を得たが、功第一の義経を無視したため、双方の溝は深まっていく。

八月、義経は頼朝の許可を得ずして検非違使左衛門少尉に任官し、双方の対立は決定的になる。御家人の任官叙位は、すべて頼朝の推挙によるという幕府の規則を弟が破ったことは、頼朝の顔に泥を塗るに等しいことであり、頼朝は義経討伐を決意した。

だが一方的に頼朝は正しく、義経が悪いのだろうか。

この後の平家討伐戦もそうだが、頼朝は鎌倉を動かず、弟たちばかりを働かせている。後年の足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康にしても、自ら働くことで周囲に実力を認めさせてきた。ところが頼朝は義経や範頼を出征させ、自らは鎌倉から腰を上げず、遠隔統制を専らとした。このような姿勢で、勝手に任官した義経を責められようか。

一方、なぜ義経は頼朝の承諾を得ずして任官したのか。

義経は頼朝が怒ることを承知の上で受けたのではないか、と私は思っている。すなわち頼朝の勘気をこうむることで、義経は平家追討軍から外され、平家追討使(総指揮官)には範頼が任命される。ところが範頼は凡庸なので御家人たちを統御できず、西国で巻き返しに転じている平家を討伐できないに違いない。そうなれば頼朝は義経を頼らざるを得なくなる。義経が出馬して平家討伐に成功すれば(もちろん自信はあったのだろう)、義経は大きな発言力を得ることになる。

壇ノ浦の勝利

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九月、都を発った範頼は、周防・長門へと進むが、瀬戸内海の制海権を平家に握られており、補給面で苦戦する。陸路だけでは、兵糧や馬糧が補給しきれないのだ。十一月から十二月にかけて、範頼は再三にわたり、頼朝に窮状を訴えている。

これに業を煮やした頼朝は、元暦二年二月、義経を許して西国へと向かわせた。義経の粘り勝ちである。ここからの義経の手際は実に見事だった。屋島の戦いに得意の奇襲戦法で勝った義経は、三月二十四日には壇ノ浦で平家を滅ぼした。

この一連の戦いで、範頼軍にはあまり出番がなく、まさに義経の独り舞台だった。

義経の「類まれな軍略家」という評価は、この時に生まれた。

ところがそうなればそうなったで、義経の成功を妬ましく思う者も出てくる。

四月、活躍の場をほとんど与えられなかった御家人の梶原景時は、いち早く鎌倉に戻ると、義経の行動が「じわじわと包囲し、安徳天皇と三種の神器を保護してから平家を殲滅せよ」という頼朝の方針に背くものだったと讒言した。現に安徳天皇は入水してしまい、三種の神器のうち、神剣は遂に見つからなかった。

とは言うものの頼朝は鎌倉を動かず、現地の状況が分かっていない。こうした場合、現地の司令官に作戦行動を任せるのが基本である。現に頼朝の指示に忠実に従った範頼軍は、戦うどころではないほどの苦境に陥っていた。

頼朝との対立

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四月二十四日、義経は都に凱旋する。ところがこの頃、鎌倉では義経を罪人として処断することに決していた。

この噂を聞いた義経は、重鎮の大江広元に使者を送って取り成しを頼み入る。しかし広元本人が義経追討を頼朝に勧めていたので、全く意味がない。よく小説やドラマなどで、大江広元は好人物の人格者として描かれるが、実像とはほど遠い。

五月、義経は宗盛ら平家の捕虜を引き連れて鎌倉に戻ろうとするが、頼朝は義経を鎌倉に入れず、鎌倉の西の出入口にあたる腰越にとどまるよう伝えてきた。

ここで義経は、頼朝への憧憬を切々につづった「腰越状」を書くことになるが、この時点で義経が、頼朝に慈悲を請うような書状を書くはずがない。やはり「腰越状」は、後世の偽作だろう。

六月、頼朝は義経に、宗盛以下を引き連れて都に上るよう命じる。いざ京に戻るとなった時、義経は「関東に恨みのある者はついてこい」と言い放ったというが、このあたりが真実だろう。

頼朝の命に従い、その途次に宗盛以下平家一門の生き残りを斬り、都に戻った義経は、院近臣勢力や叔父の源行家と結び、頼朝に対抗していくつもりでいた。おそらく見通しとしては、畿内と西国に勢力圏を確立し、多くの兵を養ってから、奥州の藤原秀衡と共に鎌倉を挟撃し、頼朝を討つつもりでいたのだろう。ここまで来ると、「悲劇の主人公」どころか堂々たる謀反人であろう。

しかし私だったら、頼朝に反旗を翻すと決断した時点で宗盛らを解き放ち、平家と共同戦線を組んだだろう。義経は自らの実績からその必要がないと踏んだのだろうが、早まったとしか言いようがない。

文治元年(一一八五)八月、義経は伊予守に任官した。朝廷は、「これは以前に頼朝から奏請されていたもの」という言い訳を用意しながら任官を強行した。むろん頼朝と義経を両天秤に掛けていたのだ。

義経の敗北

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義経は後白河院に「頼朝追討」の院宣を奏請し、いよいよ事態は緊迫してきた。

十月、義経に院宣が下され、「頼朝追討」の大義を得た。義経の勝算は一に院宣(大義)、二に己の武名、三に奥州藤原氏の支援の三点だった。さらに源氏の第三勢力で、摂津周辺に隠然たる勢力を保つ行家(義朝の末弟)も義経に与したので、この時点では、全く勝機がなかったわけではない。ところが義経に味方する者は、皆無に近かった。

その理由としては、せっかく武家政権が樹立されたのに、それを覆すようなことはしたくないという御家人たちの心理が一つ。義経に政権運営ビジョンがないのが一つ、そして、すでに幕府から畿内周辺に所領をもらっている御家人たちが、その恩に報いようとしていたことが一つである。

これを見極めた頼朝は重い腰を上げ、義経・行家追討軍を編制して都に向かった。この時、頼朝の目的は義経討伐だけでないことが、後から分かってくる。

この一報を聞いた後白河院は頼朝に使者を遣わし、懐柔を進める一方、義経を九州の、行家を四国の地頭に任命し、西国に向かわせようとする。都を戦乱から守るための措置だろう。

十一月、義経は西国へと出発するが、瀬戸内海で暴風に遭い、味方がばらばらになってしまう。

この情報が都に入ると、朝廷は一斉に頼朝になびいたが、時すでに遅く、続々と入京する軍勢に恐れをなした院は、頼朝の求める惣追捕使(守護)・地頭の全国への設置を認めざるを得なくなる。その場しのぎの二股外交のつけが回ったのだ。

頼朝・義経兄弟の対立の陰に隠れていたが、この時、綱渡りのようにして維持してきた朝廷と公家たちの政治権力は形骸化した。つまり皮肉なことに、義経は朝廷から武家への政権交代のきっかけを作ったことになる。

文治三年(一一八七)の春頃、義経は奥州藤原氏の許に転がり込み、秀衡の庇護を受けるが、肝心の秀衡が十月に死去してしまう。その跡を継いだ泰衡は頼朝に逆らうつもりはなく文治五年閏四月、義経を衣川の館に襲い、自害に追い込んだ。かくして希代の軍略家も、呆気ない最期を遂げてしまう。

義経の敗因は、どこにあったのか。

義経の敗因

義経は多分に感情的な一面があり、頼朝の仕打ちに怒っては、その場その場で感情の赴くままの言動を取ってきた。つまり多分に場当たり的で一貫性がないのだ。

一方の頼朝には明確な政権構想があり、大江広元や三善康信といったブレーンをそろえていた。この違いが、求心力の差になって表れたのではないだろうか。

「武勇と仁義においては後代の佳名をのこすものか。歎美すべし、歎美すべし」(『玉葉』)と謳われた好漢義経も、天才的軍略と仁慈に厚い人柄だけでは、過酷な時代を生き抜くことはできなかったのだ。

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