プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「平清盛」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

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敗者烈伝

単行本(ソフトカバー) > 歴史・時代小説
実業之日本社
伊東 潤(著)

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事を急ぎすぎてすべてを失った独裁者

平 清盛

一一一八年〈元永元年〉~一一八一年(治承五年)

その栄華と滅亡のコントラストがあまりに鮮やかなため、敗者論を語る上で、平家一門はなくてはならない存在だ。とくにその壇ノ浦での最後は、多くの小説やドラマでも取り上げられ、「盛者必衰」の代名詞のように扱われてきた。

今日、平家から源氏への武家政権の移動は必然のように語られているが、実際はどうだったのだろうか。筆者は、平家一門の滅亡と源氏一門の勃興が、いくつかの幸運と不運が織りなす綾によって起こったと思っている。つまり清盛が自らの感情を制御できていれば、その滅亡は未然に防げたと思うのだ。

それでは清盛は何に敗れたのか。何をしていれば平家政権が続いたかを、本稿で検証していきたいと思う。

地方における武士の成長

image by PIXTA / 7284535

奈良時代以後、朝廷や公家社会では、政変や謀反に備えるため、蝦夷など辺境の夷狄を服属させるため、都の治安維持のため等の理由で武力を必要とした。これを担ったのが律令にも定められた武官である。九世紀当時、武士とは律令に定められた武官の意であり、平時は宮城警備に就く武官系武士を指した。その代表的氏族が坂上、小野、紀氏だ。

律令制では、国家が武力を管理・統制する建て前になっており、総司令官となる上級貴族は持ち回りでこの任に当たった。これは特定一族や個人への武力の集中を防ぐことにつながったが、現場指揮官としての知識や馬術や弓術等の専門技能の継承にはつながらなかったため、それらを蓄積伝承すべく、位階が四位以下の諸大夫層の一部が、次第に専業化していく。

こうした「武」を生業とする一門として、十一世紀初頭、伊勢平氏・河内源氏・秀郷流藤原氏といった承平・天慶の乱(平将門・藤原純友の両乱)を鎮圧した功臣の子孫たちが、「兵の家」として表舞台に登場してくる。

平氏略系図をご覧いただこう。平氏は桓武天皇を祖とし、その曾孫にあたる高望王が臣籍に降下し、平姓を賜ったことに始まる。平氏とは平姓の氏全体を指し、平家とは伊勢平氏の中でも、嫡流の正盛―忠盛―清盛の一族だけを指すことに留意いただきたい。

九世紀末頃、父の高見王が早世して中央での昇進が望めなくなった平高望は、臣籍に下り、上総介を賜って坂東に下った。その後、高望は坂東平氏と呼ばれるようになり、着々と勢力を拡大していく。

その高望の遺領をめぐって勃発したのが前述の承平の乱だ。この乱で平将門を討った平貞盛が、東国に確固たる勢力基盤を築くことになるが、前九年・後三年の役などで、源氏に東国の覇権を奪われていくことになる。

院政と伊勢平氏

image by PIXTA / 50249173

一方の平氏は、伊勢平氏の平正盛が当時の独裁者・白河法皇に取り入り、源氏の内訌を平定するなどして勢力を回復し、清盛の父の忠盛の時代を迎える。ただし正盛・忠盛父子が公家社会の階を上るのは容易でなく、この頃は、白河院の走狗として使い回されていた。

清盛が生まれたのは元永元年(一一一八)正月十八日とされる。この頃は白河院の院政全盛時代で、いまだ武士の地位は低く、父忠盛も二十三歳という若さだった。

実は、清盛の実父は忠盛ではなく白河院だという説がある。つまり清盛は白河院の落胤であり、それを忠盛が自らの子として引き取ったというのだ。これが真説かどうかは今となっては分からないが、以後、白河院に優遇された平家は興隆していく。

とくに忠盛が伯耆・越前・備前・美作・尾張・播磨等、「熟国」の国守を歴任し、さらに日宋貿易の利権を得ることで、その財政基盤は堅固なものになっていく。

白河院と忠盛の死後も順調に位階を上げていった清盛は保元元年(一一五六)、摂関家の後継者争いに端を発した保元の乱において、後白河天皇方に付いて勝利に貢献する。その論功行賞で、平家一門は四カ国もの知行国を得た。

こうして武家台頭の素地は作られるが、同時に保元の乱によって摂関家の武力が解体され、武力は平家と源氏に独占されたことが、歴史的には意義があった。

ちなみに平家以外の平氏は全く振るわない。平家すなわち伊勢平氏だけが白河院の要請で、武力を強化していったことが勢力伸張につながったのだ。

平治の乱での勝利

image by PIXTA / 7240239

保元の乱の結果、政治を牛耳るのは信西という下級公家出身の男になった。この信西の独裁政権を軍事的に支えたのが清盛だ。

この体制に反発したのは、後白河院近臣の藤原信頼と、保元の乱で勝ち組に属したにもかかわらず、恩賞で清盛に水をあけられた源氏の棟梁・義朝である。

平治元年(一一五九)十二月、突如として旗揚げした信頼と義朝は、後白河院と二条天皇を確保すると信西を自害に追い込んだ。政変は成功したかに思われたが、熊野に行っていた清盛が帰洛することで情勢は一変する。結局、内裏で合戦が行われ、これに勝利した清盛は、成功しかけていた政変を武力で覆した。つまり武力というものの怖さを、公家たちに知らしめたことで、この一戦には大きな意義があった。

敗れた信頼と義朝は敗走するが、信頼は捕まって斬首刑に処され、義朝は味方の裏切りに遭って命を落とす。これにより源氏は壊滅的な打撃をこうむり、平家の栄華が始まる。

しかしこの時、せっかく捕らえた義朝の息子たちを清盛が殺さなかったことが、後に大きな禍根となる。しかも三男で十四歳になる頼朝を、源氏の勢力基盤がある東国に配流したことは、結果論ではなく失敗だった。

保元・平治の両乱を通じて、清盛は乱の中心にはいなかった。そういう意味で清盛は、多分に受動的で慎重な性向の人物だったと思われる。

この頃の清盛は公家たちからも好まれ、『愚管抄』では、「時にとりて世にたのもしかりけれ(こうした時代には何とも頼もしいものだ)」とまで言われている。平治の乱の時、清盛は四十二歳という年齢で、平衡感覚に優れた人格者の風があったに違いない。

\次のページで「後白河院との確執」を解説!/

後白河院との確執

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平治の乱の結果、清盛は三階級特進して正三位・参議に就き、武家として異例の出世を遂げていく。平家一門も五カ国から七カ国の知行国主となり、その台頭が著しくなる。ところが、この頃から清盛と後白河院の間に隙間風が吹き始める。

それでも当初は、後白河院から息子の二条天皇に権力が移譲されつつあり、二条天皇の乳父の清盛が政治を牛耳ることで、双方の間には妥協が成り立っていた。しかし永万元年(一一六五)、二条天皇が二十三歳でこの世を去ることにより、二人の確執はあらわになっていく。

仁安二年(一一六七)、清盛は五十歳となり、政界から身を引こうとしていた。けじめを重んじる清盛は、嫡男の重盛に平家の氏長者の座を譲ると、重盛のやることに口を差し挟まないつもりでいたらしい。

仁安四年、入道大相国となった清盛は、それを証明するかのように、摂津国の福原に居を移し、日宋貿易の陣頭指揮を執り始める。

一方、清盛が政界から遠ざかるにつれ、後白河院は露骨な贔屓人事で自らの与党を出世させ、独裁的院政を布こうとした。この時の天皇は後白河院の第七皇子の高倉だったが、幼少のため後白河院の暴走に歯止めを掛けられない。温厚な性格で朝廷を重んじる重盛も同様だった。

清盛としては、高倉天皇とその正室にあたる建礼門院徳子(清盛の娘)との間にできた皇子を帝位に就け、外戚の地位を確保しようとしたが、後白河院は、平家と血のつながりのない第九・第十皇子を高倉天皇の養子に入れ、清盛の野望を阻止しようとした。それでも清盛は隠忍自重していたが、鹿ヶ谷事件を契機として遂に立ち上がる。

清盛の死

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だが事ここに至り、清盛は院の専横を抑えるべく、治承三年の政変を起こした。この政変により院近臣勢力は粛清一掃され、後白河院は政治力を失い、清盛の独裁体制が確立される。その翌年には安徳天皇が即位し、天皇外戚となった清盛と平家一門の栄華は、ここに極まった。

堪えに堪えた清盛は、完全な勝利を得た。だが歴史の教訓の一つとして、圧倒的な勝利、いわゆる勝ちすぎには反動が付き物というのを忘れてはならない。清盛以前にも蘇我一族の例がある。

この後、福原に強引に遷都しようとした清盛と公家社会の軋轢が高まり、ほぼ時を同じくして頼朝の挙兵となる。

結局、東国から攻め寄せる源氏に抗すべく、清盛自ら陣頭指揮を執っているところで突然、幕切れが訪れる。治承五年閏二月のことだった。その死因は定かでないが、病み付いてから半月ほどで急死したので、インフルエンザの一種かもしれない。この結果、一門が滅亡を迎えることは周知の通りである。

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敗者烈伝

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平安時代敗者烈伝日本史歴史

【3分でわかる】平清盛はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる平清盛の歴史

プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「平清盛」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

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事を急ぎすぎてすべてを失った独裁者

平 清盛

一一一八年〈元永元年〉~一一八一年(治承五年)

その栄華と滅亡のコントラストがあまりに鮮やかなため、敗者論を語る上で、平家一門はなくてはならない存在だ。とくにその壇ノ浦での最後は、多くの小説やドラマでも取り上げられ、「盛者必衰」の代名詞のように扱われてきた。

今日、平家から源氏への武家政権の移動は必然のように語られているが、実際はどうだったのだろうか。筆者は、平家一門の滅亡と源氏一門の勃興が、いくつかの幸運と不運が織りなす綾によって起こったと思っている。つまり清盛が自らの感情を制御できていれば、その滅亡は未然に防げたと思うのだ。

それでは清盛は何に敗れたのか。何をしていれば平家政権が続いたかを、本稿で検証していきたいと思う。

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奈良時代以後、朝廷や公家社会では、政変や謀反に備えるため、蝦夷など辺境の夷狄を服属させるため、都の治安維持のため等の理由で武力を必要とした。これを担ったのが律令にも定められた武官である。九世紀当時、武士とは律令に定められた武官の意であり、平時は宮城警備に就く武官系武士を指した。その代表的氏族が坂上、小野、紀氏だ。

律令制では、国家が武力を管理・統制する建て前になっており、総司令官となる上級貴族は持ち回りでこの任に当たった。これは特定一族や個人への武力の集中を防ぐことにつながったが、現場指揮官としての知識や馬術や弓術等の専門技能の継承にはつながらなかったため、それらを蓄積伝承すべく、位階が四位以下の諸大夫層の一部が、次第に専業化していく。

こうした「武」を生業とする一門として、十一世紀初頭、伊勢平氏・河内源氏・秀郷流藤原氏といった承平・天慶の乱(平将門・藤原純友の両乱)を鎮圧した功臣の子孫たちが、「兵の家」として表舞台に登場してくる。

平氏略系図をご覧いただこう。平氏は桓武天皇を祖とし、その曾孫にあたる高望王が臣籍に降下し、平姓を賜ったことに始まる。平氏とは平姓の氏全体を指し、平家とは伊勢平氏の中でも、嫡流の正盛―忠盛―清盛の一族だけを指すことに留意いただきたい。

九世紀末頃、父の高見王が早世して中央での昇進が望めなくなった平高望は、臣籍に下り、上総介を賜って坂東に下った。その後、高望は坂東平氏と呼ばれるようになり、着々と勢力を拡大していく。

その高望の遺領をめぐって勃発したのが前述の承平の乱だ。この乱で平将門を討った平貞盛が、東国に確固たる勢力基盤を築くことになるが、前九年・後三年の役などで、源氏に東国の覇権を奪われていくことになる。

院政と伊勢平氏

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一方の平氏は、伊勢平氏の平正盛が当時の独裁者・白河法皇に取り入り、源氏の内訌を平定するなどして勢力を回復し、清盛の父の忠盛の時代を迎える。ただし正盛・忠盛父子が公家社会の階を上るのは容易でなく、この頃は、白河院の走狗として使い回されていた。

清盛が生まれたのは元永元年(一一一八)正月十八日とされる。この頃は白河院の院政全盛時代で、いまだ武士の地位は低く、父忠盛も二十三歳という若さだった。

実は、清盛の実父は忠盛ではなく白河院だという説がある。つまり清盛は白河院の落胤であり、それを忠盛が自らの子として引き取ったというのだ。これが真説かどうかは今となっては分からないが、以後、白河院に優遇された平家は興隆していく。

とくに忠盛が伯耆・越前・備前・美作・尾張・播磨等、「熟国」の国守を歴任し、さらに日宋貿易の利権を得ることで、その財政基盤は堅固なものになっていく。

白河院と忠盛の死後も順調に位階を上げていった清盛は保元元年(一一五六)、摂関家の後継者争いに端を発した保元の乱において、後白河天皇方に付いて勝利に貢献する。その論功行賞で、平家一門は四カ国もの知行国を得た。

こうして武家台頭の素地は作られるが、同時に保元の乱によって摂関家の武力が解体され、武力は平家と源氏に独占されたことが、歴史的には意義があった。

ちなみに平家以外の平氏は全く振るわない。平家すなわち伊勢平氏だけが白河院の要請で、武力を強化していったことが勢力伸張につながったのだ。

平治の乱での勝利

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保元の乱の結果、政治を牛耳るのは信西という下級公家出身の男になった。この信西の独裁政権を軍事的に支えたのが清盛だ。

この体制に反発したのは、後白河院近臣の藤原信頼と、保元の乱で勝ち組に属したにもかかわらず、恩賞で清盛に水をあけられた源氏の棟梁・義朝である。

平治元年(一一五九)十二月、突如として旗揚げした信頼と義朝は、後白河院と二条天皇を確保すると信西を自害に追い込んだ。政変は成功したかに思われたが、熊野に行っていた清盛が帰洛することで情勢は一変する。結局、内裏で合戦が行われ、これに勝利した清盛は、成功しかけていた政変を武力で覆した。つまり武力というものの怖さを、公家たちに知らしめたことで、この一戦には大きな意義があった。

敗れた信頼と義朝は敗走するが、信頼は捕まって斬首刑に処され、義朝は味方の裏切りに遭って命を落とす。これにより源氏は壊滅的な打撃をこうむり、平家の栄華が始まる。

しかしこの時、せっかく捕らえた義朝の息子たちを清盛が殺さなかったことが、後に大きな禍根となる。しかも三男で十四歳になる頼朝を、源氏の勢力基盤がある東国に配流したことは、結果論ではなく失敗だった。

保元・平治の両乱を通じて、清盛は乱の中心にはいなかった。そういう意味で清盛は、多分に受動的で慎重な性向の人物だったと思われる。

この頃の清盛は公家たちからも好まれ、『愚管抄』では、「時にとりて世にたのもしかりけれ(こうした時代には何とも頼もしいものだ)」とまで言われている。平治の乱の時、清盛は四十二歳という年齢で、平衡感覚に優れた人格者の風があったに違いない。

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