そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「藤原頼長」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。
藤原頼長
一一二〇年〈保安元年〉〜一一五六年〈保元元年〉
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
(この世は、自分のためにあると思うほど満ち足りている。満月の欠けることがないのと同じように)
これは藤原摂関家を隆盛に導いた藤原道長が、その全盛期に詠んだ歌だ。それだけ栄華を極めた道長と摂関家だが、道長の言う「この世」とは平安京内、さらに突き詰めれば、皇族とそれを取り巻く公家社会のことだったと聞けば、当時の天下人の意識が分かるはずだ。
すなわち、この時代の「この世」つまり天下国家は、政治的にも地域的にも、かなり狭い範囲を指していたのだ。
兄と比べ不利な立場だった頼長
当時の皇族や公家にとって、平安京は「穢れ」から守られた清浄な地であり、平安京から離れれば離れるだけ「化外の地」に近づき、「穢れ」の危険性が高まると、彼らは本気で信じていた。それだけ彼らの生きる世界は限定されており、その中で権力闘争や恋のさや当てが行われていたと思うと、何やら微笑ましい。
道長の死後も、そうした優雅な日々は続いた。しかし白河院から鳥羽院の治世、すなわち院政の全盛期になると、狭い世界にも不穏な空気が漂い始めた。武士階級の勃興である。
皇族や公家は武力という暴力装置を手にすることにより、権力闘争を優位に運べることに気づいたのだ これまで政治的駆け引きや賄賂によって、高い官職や旨みのある国司の職を得てきた公家たちは、思い通りに行かない場合は、武力を使うことも辞さないようになっていく。しかし彼らは、飼い馴らしていたはずの走狗が意思や欲望を持ち、牙を剝いてくるとまでは思ってもいなかった。
そうした武士階級の勃興と軌を一にし、極めて狭かった「この世」、すなわち天下の概念は畿内へ、さらに日本列島全体へと広がっていく。
こうした時代の流れの中で、初めて武力によって決着された権力闘争こそ保元の乱であり、その中心にいたのが、「悪左府」こと藤原頼長だった。 藤原道長以外の藤原家の人々については、「誰それ」という方も多いと思う。それゆえ本稿では、系図的に以下のことだけを覚えてほしい。
道長から数えて五代目が、頼長の父・忠実で、その忠実の次男として、保安元年(一一二〇)に生まれたのが頼長だ。
頼長には忠通という二十三歳も年上の別腹兄がいた。しかも忠通の母は貴顕の家の生まれだが、頼長の母は忠実の家臣の娘なので、この点でも兄には敵わない。
つまり頼長は、次男の上に母の出自も卑しいので、藤原摂関家の氏長者(家督)どころか、早々に出家させられる運命もあり得た。この時代、出家させられると還俗することは難しく、生涯を仏門で過ごすことになる。
「貴公子」藤原頼長の異例の出世
しかし頼長には抜群の強みがあった。極めて優秀な頭脳と無類の勤勉さである。
頼長が少年の頃、忠通はすでに三十歳近くに達していたが、摂関家の実権は依然、父の忠実の手に握られていた。忠通は無能ではないにしても凡庸で、忠実が信を置いていなかったからだ。
現に忠実が白河院の勘気をこうむり、蟄居謹慎させられていた十年間(一一二〇年〜一一二九年)、忠通は無為無策で院近臣勢力の伸張を許し、摂関家の衰退を招いていた。
忠実は聡明な頼長をかわいがり、次第に忠通を遠ざけていった。忠通の嫡男が夭折した天治二年(一一二五)に、忠実は頼長を忠通の養子に据えた。これにより頼長に、摂政関白の地位と摂関家氏長者への道が開けてきた。
大治五年(一一三〇)、元服に際して正五位下に叙された頼長は、その後も近衛少将、同中将と職位を上げていき、長承元年(一一三二)には、参議を経ずに権中納言に補任され、同三年には正二位権大納言、保延二年(一一三六)には、十七歳で内大臣にまで上り詰めた。一方、摂政にもかかわらず忠通の発言力は次第に弱まり、頼長が藤原一族の輿望を担っていくことになる。つまり忠通のレームダック化が進み、頼長に権力が集まり始めたのだ。
この頃、大治四年に崩御した白河院から院政を引き継いだ形の鳥羽院と、その近臣たちの専制権力が強くなり、摂関家の権力が次第に衰微しつつあった。院政の定着と院近臣勢力の台頭である。だからこそ頼長は父の忠実から摂関家の復活を期待され、出世の階を上らされたのだ。
藤原忠実・頼長父子と藤原忠通の対立
頼長の人生に暗雲が漂い始めるのは、二十四歳になった康治二年(一一四三)のことだ。四十七歳になった忠通に男子(後の基実)が生まれたのだ。
しかし頼長に不安はなかった。自分は兄の養子になっており、摂政関白の地位と摂関家氏長者の座も約束されている。しかも摂関家の実権を握るのは、いまだ父の忠実なのだ。ところが忠通の考えは違った。忠通は基実に跡を継がせるべく、自らの立場を利用して頼長を失脚させようとした。
その立場とは何かと言うと、忠通が近衛天皇の「外祖父」「養祖父」になっていたことだ。これにより、父忠実に劣らぬ権勢を獲得していた忠通は、近衛天皇の后の座をめぐり、すでに決定していた頼長の養女・多子に対抗し、近衛天皇の実母にあたる美福門院の養女・呈子を立てたのだ。
これに忠実は激高したが、天皇家の后の問題なので決定権は鳥羽院にある。
この入内争いは、近衛天皇の父の鳥羽院が多子を皇后に、呈子を中宮に立てることで丸く納めたが(皇后と中宮に大した差はない)、近衛天皇は美福門院の勧めに従い、主に忠通の邸宅・近衛殿で呈子と過ごすようになり、実際は忠通に凱歌が揚がった。 これに焦った忠実は、摂政の座を頼長に譲るよう忠通を説得するが、忠通はこれを拒否、あくまで父弟と対立する道を選んだ。
久安六年(一一五〇)、遂に忠実は忠通を義絶し、氏長者の地位と摂関家の荘園を頼長に相続させた。しかし鳥羽院が、忠通の摂政解任要請には応じなかったため(摂政から関白に転任させられたが)、忠通の地位と権力は保持された。致し方なく忠実は頼長に内覧の宣旨を下してもらい、実質的な政治権力を握らせた。
内覧とは「令外官(律令に規定のない官職)」だが、天皇より先に奉書を見る権限を有するところに語源があり、天皇の権限を代行する執政を意味していた。
この頃の鳥羽院の気持ちを推察してみよう。鳥羽院の狙いは摂関家の干渉を排除し、院近臣を使った独裁制を布くことだ。つまり摂関家の対立を煽り、双方の力を弱めようとしていたと思われる。両陣営共にそれが分かっていながら、暗闘を続けねばならなかったところに、摂関家の悲劇があった。
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