敗者烈伝日本史

【3分でわかる】藤原頼長はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる藤原頼長の歴史

プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「藤原頼長」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

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厳格に過ぎた摂関政治の護持者

藤原頼長

一一二〇年〈保安元年〉〜一一五六年〈保元元年〉

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」

(この世は、自分のためにあると思うほど満ち足りている。満月の欠けることがないのと同じように)

これは藤原摂関家を隆盛に導いた藤原道長が、その全盛期に詠んだ歌だ。それだけ栄華を極めた道長と摂関家だが、道長の言う「この世」とは平安京内、さらに突き詰めれば、皇族とそれを取り巻く公家社会のことだったと聞けば、当時の天下人の意識が分かるはずだ。

すなわち、この時代の「この世」つまり天下国家は、政治的にも地域的にも、かなり狭い範囲を指していたのだ。

兄と比べ不利な立場だった頼長

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当時の皇族や公家にとって、平安京は「穢れ」から守られた清浄な地であり、平安京から離れれば離れるだけ「化外の地」に近づき、「穢れ」の危険性が高まると、彼らは本気で信じていた。それだけ彼らの生きる世界は限定されており、その中で権力闘争や恋のさや当てが行われていたと思うと、何やら微笑ましい。

道長の死後も、そうした優雅な日々は続いた。しかし白河院から鳥羽院の治世、すなわち院政の全盛期になると、狭い世界にも不穏な空気が漂い始めた。武士階級の勃興である。

皇族や公家は武力という暴力装置を手にすることにより、権力闘争を優位に運べることに気づいたのだ これまで政治的駆け引きや賄賂によって、高い官職や旨みのある国司の職を得てきた公家たちは、思い通りに行かない場合は、武力を使うことも辞さないようになっていく。しかし彼らは、飼い馴らしていたはずの走狗が意思や欲望を持ち、牙を剝いてくるとまでは思ってもいなかった。

そうした武士階級の勃興と軌を一にし、極めて狭かった「この世」、すなわち天下の概念は畿内へ、さらに日本列島全体へと広がっていく。

こうした時代の流れの中で、初めて武力によって決着された権力闘争こそ保元の乱であり、その中心にいたのが、「悪左府」こと藤原頼長だった。 藤原道長以外の藤原家の人々については、「誰それ」という方も多いと思う。それゆえ本稿では、系図的に以下のことだけを覚えてほしい。

道長から数えて五代目が、頼長の父・忠実で、その忠実の次男として、保安元年(一一二〇)に生まれたのが頼長だ。

頼長には忠通という二十三歳も年上の別腹兄がいた。しかも忠通の母は貴顕の家の生まれだが、頼長の母は忠実の家臣の娘なので、この点でも兄には敵わない。

つまり頼長は、次男の上に母の出自も卑しいので、藤原摂関家の氏長者(家督)どころか、早々に出家させられる運命もあり得た。この時代、出家させられると還俗することは難しく、生涯を仏門で過ごすことになる。

「貴公子」藤原頼長の異例の出世

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しかし頼長には抜群の強みがあった。極めて優秀な頭脳と無類の勤勉さである。

頼長が少年の頃、忠通はすでに三十歳近くに達していたが、摂関家の実権は依然、父の忠実の手に握られていた。忠通は無能ではないにしても凡庸で、忠実が信を置いていなかったからだ。

現に忠実が白河院の勘気をこうむり、蟄居謹慎させられていた十年間(一一二〇年〜一一二九年)、忠通は無為無策で院近臣勢力の伸張を許し、摂関家の衰退を招いていた。

忠実は聡明な頼長をかわいがり、次第に忠通を遠ざけていった。忠通の嫡男が夭折した天治二年(一一二五)に、忠実は頼長を忠通の養子に据えた。これにより頼長に、摂政関白の地位と摂関家氏長者への道が開けてきた。

大治五年(一一三〇)、元服に際して正五位下に叙された頼長は、その後も近衛少将、同中将と職位を上げていき、長承元年(一一三二)には、参議を経ずに権中納言に補任され、同三年には正二位権大納言、保延二年(一一三六)には、十七歳で内大臣にまで上り詰めた。一方、摂政にもかかわらず忠通の発言力は次第に弱まり、頼長が藤原一族の輿望を担っていくことになる。つまり忠通のレームダック化が進み、頼長に権力が集まり始めたのだ。

この頃、大治四年に崩御した白河院から院政を引き継いだ形の鳥羽院と、その近臣たちの専制権力が強くなり、摂関家の権力が次第に衰微しつつあった。院政の定着と院近臣勢力の台頭である。だからこそ頼長は父の忠実から摂関家の復活を期待され、出世の階を上らされたのだ。

藤原忠実・頼長父子と藤原忠通の対立

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頼長の人生に暗雲が漂い始めるのは、二十四歳になった康治二年(一一四三)のことだ。四十七歳になった忠通に男子(後の基実)が生まれたのだ。

しかし頼長に不安はなかった。自分は兄の養子になっており、摂政関白の地位と摂関家氏長者の座も約束されている。しかも摂関家の実権を握るのは、いまだ父の忠実なのだ。ところが忠通の考えは違った。忠通は基実に跡を継がせるべく、自らの立場を利用して頼長を失脚させようとした。

その立場とは何かと言うと、忠通が近衛天皇の「外祖父」「養祖父」になっていたことだ。これにより、父忠実に劣らぬ権勢を獲得していた忠通は、近衛天皇の后の座をめぐり、すでに決定していた頼長の養女・多子に対抗し、近衛天皇の実母にあたる美福門院の養女・呈子を立てたのだ。

これに忠実は激高したが、天皇家の后の問題なので決定権は鳥羽院にある。

この入内争いは、近衛天皇の父の鳥羽院が多子を皇后に、呈子を中宮に立てることで丸く納めたが(皇后と中宮に大した差はない)、近衛天皇は美福門院の勧めに従い、主に忠通の邸宅・近衛殿で呈子と過ごすようになり、実際は忠通に凱歌が揚がった。 これに焦った忠実は、摂政の座を頼長に譲るよう忠通を説得するが、忠通はこれを拒否、あくまで父弟と対立する道を選んだ。

久安六年(一一五〇)、遂に忠実は忠通を義絶し、氏長者の地位と摂関家の荘園を頼長に相続させた。しかし鳥羽院が、忠通の摂政解任要請には応じなかったため(摂政から関白に転任させられたが)、忠通の地位と権力は保持された。致し方なく忠実は頼長に内覧の宣旨を下してもらい、実質的な政治権力を握らせた。

内覧とは「令外官(律令に規定のない官職)」だが、天皇より先に奉書を見る権限を有するところに語源があり、天皇の権限を代行する執政を意味していた。

この頃の鳥羽院の気持ちを推察してみよう。鳥羽院の狙いは摂関家の干渉を排除し、院近臣を使った独裁制を布くことだ。つまり摂関家の対立を煽り、双方の力を弱めようとしていたと思われる。両陣営共にそれが分かっていながら、暗闘を続けねばならなかったところに、摂関家の悲劇があった。

優秀だが厳格過ぎた頼長

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さて、頼長は『愚管抄』の著者・慈円が「日本第一の大学生」とたたえるほど、四書五経をはじめとする中国の典籍に通じる英才だったが、『今鏡』に「なにごともいみじくきびしき人」と記されるほど厳格な性格だったらしく、律令の順守を唱え、儒教の徳目を守らせることで官の綱紀粛正を図ろうとした。

先祖道長の時代を理想とした頼長は、腐敗した政治の一新を目指し、規律に反した官人には容赦なく罰を下した。また実力主義を貫き、出自の卑しい者でも、能力があれば立身させた。

さらに頼長は検非違使や厩舎人を使い、院近臣の中納言・藤原家成の邸宅を破壊させたのをはじめ(院の寵を得た家成が私腹を肥やしていたため)、石清水八幡宮や上賀茂神社の神域で、反体制派の悪僧を殺すなどした。

頼長は「是非明察」「善悪無二」を貫く正義漢だが、「水清ければ魚棲まず」の故事にあるように、諸方面から不平不満が噴出し、「悪左府」と呼ばれるようになる。

ちなみに、この時代によく使われる「悪」という字は、「体制に反発する」または「荒っぽい」という意味であり、「悪事をなす者」という意味ではない。

こうした事態に鳥羽院でさえ愛想をつかし、「うとみ思召しにけり」(『愚管抄』)というほどになったという。これに慌てた忠実は頼長をいさめたが、その暴走は止まらず、頼長の孤立は深まっていった。

頼長という男は自負心が強すぎて、相手の気持ちを慮ったり、相手の身になって考えたりすることができなかったのだ。つまり周囲の人望を得ようなどとは毫も考えていなかったのではないか。

信西の台頭と後白河天皇の即位

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By 藤原為信 – The Japanese book “Tenshi-Sekkan Miei (天子摂関御影)”, Kunai-chō Shoryō-bu (宮内庁書陵部), 1968, パブリック・ドメイン, Link

一方の忠通は、父から疎んじられたとはいえ摂関家内のことで、公には関白の地位を保持している上、備前・石見・伊賀の知行国主の地位もそのままだったので、財源にも事欠かない。忠実・頼長父子に打ち勝つには、院政の執行機関である院近臣勢力と手を組むのが早道と考えた忠通は、院近臣の信西に接近し、その力で鳥羽院を動かすことで、忠実・頼長父子を失脚させようとした。

この時、信西は鳥羽院に「頼長は近衛天皇に譲位させ、崇徳院の息子・重仁を帝位に就けようとしている」と讒言し、衰えの目立ってきた鳥羽院を慌てさせた。

実は、崇徳院は鳥羽院の祖父である白河院の子と噂されていたが、鳥羽院の子として養育されており、重仁が帝位に就いてしまえば、鳥羽院の皇統は絶えることになる。

ところが久寿二年(一一五五)、近衛天皇が十七歳で病死してしまう。近衛天皇に皇子はなく、帝位には崇徳院の長男の重仁が就くものと思われた。 早速、公卿や院近臣を中心に「王者議定」が開かれることになった。しかしこの議定には、信西の差し金で、鳥羽院の意向として忠実・頼長父子は参加させてもらえなかった。

これにより、候補は鳥羽院の孫の守仁に絞られた。ところが、そこに付け入ったのが信西だった。この時、信西は忠通に、「父の親王を差し置いて、子が帝位に就くなど先例がない」と脅かした。つまり自らが乳父を務める雅仁を、まず帝位に就けろというのだ。

忠通には、信西のおかげで父と弟を「王者議定」から排除できたという負い目がある。致し方なく、忠通もこれに同意した。

この雅仁こそ、後の後白河天皇である。

保元の乱

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「新天皇は雅仁」という議定の結果が発表され、忠通に関白再任の宣旨が下された。しかし頼長に内覧再任の宣旨はなく、頼長の失脚が明らかとなる。

この結果に落胆したのは、帝位に就くと言われていた重仁の父の崇徳院も同じで、崇徳院と頼長が手を組むのは、時間の問題だった。

時の権力者である鳥羽院の心を摑んでいる信西ら院近臣と忠通、それに反発する崇徳院と忠実・頼長父子という対立構造が浮かび上がってきた。

保元元年(一一五六)七月、鳥羽院が崩御するや、後白河陣営の主導権を握った信西は、忠実・頼長父子の謀反をでっち上げて挙兵に追い込む。

ここに保元の乱が勃発する。

結局、苦し紛れに挙兵した崇徳陣営に兵は集まらず、一方、後白河陣営には、平清盛や源義朝といった武門の有力者が集まり、武力衝突は瞬く間に決着した。この結果、崇徳院は出家の末、讃岐国に配流される。忠実は幽閉された末、六年後に死去する。享年は八十五だった。

合戦の最中に頭部に矢傷を負った頼長は、桂川を下って興福寺にいる忠実に助けを求めるが、これを拒否されて絶望のうちに死去した。

「悪左府」と恐れられた希代の秀才も、三十七歳でこの世を去ることになった。

しかし戦後、勝者だった忠通は、摂関家の有していた多くの権益や荘園を後白河天皇の権力を背景にした信西によって取り上げられた上、敗者同然の扱いを受ける。

白河・鳥羽両院時代を通して続いてきた院近臣と摂関家の併存的政治体制は、これによって崩壊し、院近臣の最大勢力となった信西の独裁制が確立する。ところが保元の乱に続く平治の乱で信西が殺されるに及び、院近臣勢力も淘汰され、武士の時代が幕を開ける。

保元・平治の乱の歴史的意義は、皇位の行方や公家の政治生命が、天皇の権威でも政治的駆け引きでもなく、武力によって決定されたことにある。

武士という新たな階級が中心になって王権の行方が決定されたことは、公家権力が次第に無力化されていくことを暗示するものだった。 どのような世界にも優秀な人はいる。しかし優秀だからといって、政治力に長けているとは限らない。摂関家の権力闘争は、凡庸な忠通が勝者となり、優秀な頼長が敗者となった。しかしその忠通も、政治力で信西の敵ではなく、なし崩し的に摂関政治は終焉を迎えた。

頼長の敗因

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頼長の敗因は、綱紀粛正を急ぎすぎた点、兄忠通の政治力を侮っていた点、鳥羽院から疎んじられた点、崇徳院と手を組んでしまった点にある。しかし真の敗因は、頼長の心の内にあった。すなわち頼長は自信過剰で、独力でも道長の時代の栄光を取り戻せると思っていたのだ。

こうした失敗は結果論ではなく、政治力に長けていれば何とかなったものも多い。具体的に言えば、忠通の子の基実を養子にして忠通と妥協するとか(兄が死した後、基実を廃嫡すればよい)、信西の台頭を快く思っていない院近臣勢力に接近することも可能だったはずだ。しかし頼長は、己一個の力で道長の時代の栄光を取り戻せると思っていた。

「日本第一の大学生」とまでたたえられ、「悪左府」とまで恐れられた頼長だが、藤原摂関家の衰退を早めるための役割を果たしただけだった。

頼長の生涯は、過度の自負心がいかに恐ろしいものかを、われわれに教えてくれている。

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