敗者烈伝日本史

【3分でわかる】平将門はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる平将門の歴史

プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「平将門」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

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調子に乗りすぎた野心家

平将門

不詳~九四〇年〈天慶三年〉

「一所懸命」という言葉をご存じだろうか。古代の日本は荒れ地や湿地が多く、農地は少なかった。それを開墾して農地としたのが、開発領主と呼ばれる土豪階級だ。彼らは、自らないしは祖先が開墾した土地を、死に物狂いで外敵から守った。これが「一所懸命」の由来となる。

ここに「一所懸命」を旨として生き、死んでいった男がいる。

その名は平将門。反逆者として知られるこの男こそ、時代の扉をこじ開けた一人だろう。

将門の上洛と父の死を知っての帰郷

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律令制における地方の行政組織は、中央政府から任命される国司が頂点に君臨する。国司の任期は四年と短いので、その土地から上がる利益を、貪れるだけ貪ろうとする輩も出てくる。

国司の下で実務に当たるのが郡司となる。郡司は土着の開発領主の中から選ばれ、中央政府と在地衆の橋渡し役を担っている。ところが領民を守る立場の郡司が、国司に荷担してしまうと、領民は搾取されるばかりとなってしまう。こうした構造により、地方では中央政府への愁訴、反乱、欠落逃散が絶えなかった。こうした構造が、将門登場の背景となる。 九世紀の末頃、坂東に下向し、上総国に土着した桓武天皇の曾孫・高望王とその息子たち、長男国香(前の名は良望)、次男良持、三男良兼、四男良正は、典型的な受領土着型豪族として勢力を拡大していた。

受領とは、現地赴任した国司の中で国衙行政を行う最高責任者のことを指す。

ちなみに将門の生涯を探る唯一の史料本である『将門記』は原本が失われ、冒頭部分が欠けており(承平五年(九三五)の野本合戦以降はあり)、それ以前の将門については五里霧中とされてきた。それでも生年は延喜三年(九〇三)とされてきたが、二〇一九年四月に上梓された乃至政彦氏の『平将門と天慶の乱』(講談社現代新書)によると、様々な論拠から延喜十年(九一〇)ではないかという。将門の父は高望王の次男の良持で、その嫡男だったとされる。

おそらく元服の儀を済ませた後、京に上り、藤原北家の氏長者(家督)で摂政の藤原忠平に仕えた。同じ頃、終生のライバルとなる国香の息子・貞盛も京にいた。 彼ら地方豪族の子息が京に滞在し、有力公家に奉仕することで人脈を広げ、叙任・任官されていくのはこの時代の慣習で、忠平という最有力者に仕えることのできた将門は、地方豪族としてはエリート中のエリートと言ってもいいだろう。

将門と貞盛は宮中での栄達を望み、競うように働いたはずだ。後の様子から仲のよい友人だったことも考えられる。ところが、そんな日々にも終わりが来る。将門の父の良持が早死にし、その遺領(下総国豊田郡と猿島郡)を良持の兄弟たちに押領されたのだ。それを聞いた将門は、延長九年(九三一)頃、京都での叙任・任官の機会を振り捨てて故郷に戻ることにした。

乃至氏の研究では、将門は叔父の良兼の娘を娶ったという。それが「娶り婚(女捕り婚)」だったことから、「女論(女性をめぐる諍い)」が生じ、その確執が所領問題に発展していったという。ただしこれらの問題には、伯父の国香と叔父の良兼の言い分もあるが、ここでは細かくなるので記さない。ただし将門が、一方的に正しかったわけではない。

所領を守るための「私戦」

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かくして関東に戻った将門だったが、父の所領は奪われた後であり、将門に残されたのは下総国の豊田郡の一部ぐらいだった。将門はそれだけでも守ろうと、「党」の結束を強めて「伴類」を増やすことに注力する。

党とは家の子や郎党で固めた直臣団、伴類とは同格の同盟者、すなわち土着の開発領主たちのことだ。

また将門は、勢力圏の外縁部に「営所」を築くことにも力を入れる。営所とは、軍馬、武器、兵糧などを貯蔵しておく拠点で、言うなれば城のことだ。

承平五年(九三五)二月、何かの用向きで(国境を画定させる戦いとも言われる)、将門は豊田郡を出て北に向かっていた。そこを伯父国香の縁戚にあたる嵯峨源氏の源護とその息子たち、扶・隆・繁に襲撃される。

ちなみに嵯峨源氏は古くから常陸国に土着し、国香・良兼・良正の三人に娘たちを嫁入りさせることで、勢力を拡大していた。ただし将門の父の良持に嫁入りさせなかった理由は分からない。

この時の戦いで、将門は三兄弟を討ち果たした上、護を追い払った。これが野本の合戦である。ところが、源護らの背後に国香がいたことが判明し、激怒した将門は筑波・真壁・新治の三郡に攻め入り、放火と略奪を行った。

放火は民に迷惑が及ぶものだが、資源が乏しいこの時代、敵から生産力を奪うために必須の作戦でもあった。ただし乃至氏によると、野本合戦後の将門の破壊・略奪・焦土化という一連の行動は一般的ではなく、衝動的な勢いに駆られてのものだったという。

機先を制する将門の戦い方

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筑波郡には国香の本拠もあり、この時の戦いで国香は討ち死にした。この一報を受けた国香の息子の貞盛は急ぎ帰郷するが、自領の被害は大きく、また将門の言い分にも一理あると思い、「本意の敵にあらず」として、当面は自領防衛に徹することにした。

貞盛は冷静で分別のある人物だったと推察できる。この時点では、一連の戦いが将門と嵯峨源氏のものであり、父の国香は巻き込まれたと思ったのかもしれない。

同年十月には、源護に助けを求められた良正が報復戦に乗り出してくる。その情報を得た将門は、機先を制すべく新治郡へと駒を進め、川曲村の戦いで大勝利を収めた。

一方、敗れた良正は、兄の良兼に助けを求める。 「機先を制する」という言葉があるが、将門ほど、それを実践した武将はいない。デビュー戦こそ待ち伏せをされたが、その背後に国香がいると分かれば、躊躇なく国香の所領に攻め入った。さらに良正に対しても、攻め込まれる前に敵勢力圏に向かっている。

こうした戦い方は、当時の資源や生産力の乏しさに起因している。すなわち、たとえ勝っても自領内で戦えば、田畑は焼かれて被害は甚大となる。それなら敵の動きを事前に察知し、先手を打って敵領内で戦う方が利口だろう。こうしたことから将門は、情報収集力と機動力に長けていたと思われる。

承平六年六月、今度は、上総国武射郡を本拠とする良兼が動き出す。良兼は良正、源護、貞盛を率いて豊田郡への侵攻を図ってきた。この時、貞盛も参陣してきたが、良兼は貞盛を「兵にあるまじき者」として罵倒したという。だがこの時点では、貞盛の消極性は変わらなかった。

良兼の下に大軍勢が集まっていると聞いた将門は、良兼が下野国へとさらに軍勢を集めに行ったことを知り、百騎余りを率いて下総から下野へと進出した。

十月、将門は千余の敵を見るや奇襲を敢行し、瞬く間に八十余騎を討ち取った。この時、将門は慣例となっていた矢戦を省き、緒戦から突入したことで、面食らった良兼勢は壊乱したという。まさに信長の桶狭間合戦の手本となるような戦い方を見せた。

将門はセオリーや固定観念を無視することで、見事に劣勢を跳ね返したのだ。

さらに敗走する良兼を追った将門は、良兼らの逃げ込んだ下野国府を囲んだ。しかし国府を攻撃しては朝敵とされるため、将門は囲みを解かざるを得なかった。

『将門記』では、そのことについて「氏の長者で縁戚の上に、下総介の官位を持つ良兼を討っては、世間のそしりを免れない」としているが、この時点の将門は、良兼たちとの間に妥協点を見出そうとしていた。

ちなみにこの戦いの後、良正は消息を絶つ。『将門記』に「良兼ひとりだけその身を許す」とあるので、将門は良兼には逃走を許したが、良正には許さなかった。おそらく討ち死にしたか処刑されたのだろう。

反将門勢力の反撃

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一方、あまりの将門の強さに、実力では勝てないと覚った源護は、朝廷に訴え出た。これにより将門に出頭命令が届く。この命に従って上洛した将門は、検非違使庁での尋問にも堂々と弁明して恩赦を得た。

将門が罪に問われなかったため、反将門派諸将には武力による打倒しかなくなる。

追い込まれた良兼は、一致団結して将門を討伐すべしと平氏一門やその伴類に呼び掛けたので、兵は集まり、承平七年八月、連合軍は子飼渡(小貝川の渡し場の一つ)に押し寄せた。

一方、同年五月に帰国していた将門は、上洛の疲れや油断もあって対応が遅れる。伴類に呼び掛ける暇がなく、将門軍の兵力は不足していた。しかも出陣した直後に脚気を患った将門は、自ら陣頭に立てなくなる。

この時代の軍団は、武勇を誇る統率者によって成り立っており、将門軍もその例に漏れない。つまり将門が陣頭に立てなければ、全く士気が上がらないのだ。

致し方なく将門は、戦闘を避けて撤退に移る。だが良兼の追撃は凄まじく、この時の撤退戦で、将門勢に相当の被害が出たという。

これにより良兼らは容易に豊田郡の将門領に乱入し、略奪と放火を繰り広げた。 将門は猿島郡の湿地帯に身を隠すことができたが、党は離散して伴類も離れていった。営所や力の源泉となっていた製鉄所も破壊され、蓄えていた武器と兵糧は奪われた。当時の生産力からすれば、再起不能の痛手となったはずだ。

良兼らが去った後、将門は猿島郡に本拠を移し、石井の営所を築き始める。すると病の癒えた将門の許に伴類も集まり始めた。国司や郡司の苛政に苦しんでいた在地衆には、「やはり恃むべきは将門」という空気が満ちていたのだ。

しかも将門は、敗れたわけではなく戦わずして兵を引いたのであり、いまだ武名を信じて味方しようという者は少なくなかった。

十月、今度こそ将門を討とうと、良兼が再び動き出す。

一方の将門は、千八百の兵を率いて真壁郡に進出する。猿島郡を戦場にされてはたまらないので、またしても先手を打とうというのだ。

将門軍は緒戦で良兼軍を破ると、その勢いで筑波郡にある良正と貞盛の所領に攻め入り、二人の所領を焼き尽くした。

一族との「私戦」に勝利

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承平六年六月、今度は、上総国武射郡を本拠とする良兼が動き出す。良兼は良正、源護、貞盛を率いて豊田郡への侵攻を図ってきた。この時、貞盛も参陣してきたが、良兼は貞盛を「兵にあるまじき者」として罵倒したという。だがこの時点では、貞盛の消極性は変わらなかった。

良兼の下に大軍勢が集まっていると聞いた将門は、良兼が下野国へとさらに軍勢を集めに行ったことを知り、百騎余りを率いて下総から下野へと進出した。

十月、将門は千余の敵を見るや奇襲を敢行し、瞬く間に八十余騎を討ち取った。この時、将門は慣例となっていた矢戦を省き、緒戦から突入したことで、面食らった良兼勢は壊乱したという。まさに信長の桶狭間合戦の手本となるような戦い方を見せた。

将門はセオリーや固定観念を無視することで、見事に劣勢を跳ね返したのだ。

さらに敗走する良兼を追った将門は、良兼らの逃げ込んだ下野国府を囲んだ。しかし国府を攻撃しては朝敵とされるため、将門は囲みを解かざるを得なかった。

『将門記』では、そのことについて「氏の長者で縁戚の上に、下総介の官位を持つ良兼を討っては、世間のそしりを免れない」としているが、この時点の将門は、良兼たちとの間に妥協点を見出そうとしていた。

ちなみにこの戦いの後、良正は消息を絶つ。『将門記』に「良兼ひとりだけその身を許す」とあるので、将門は良兼には逃走を許したが、良正には許さなかった。おそらく討ち死にしたか処刑されたのだろう。

朝廷に反逆した「新皇」将門

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将門の武名は天を衝くばかりになり、本拠の石井の営所は巨大化していった。

これを座視するわけにはいかない良兼は、同年十二月、精鋭八十騎に夜襲を敢行させるが、周囲に見張りを配していた将門は、夜襲部隊を返り討ちにする。

これにより、武力では将門に勝てないと踏んだ貞盛は、上洛して朝廷に訴え出ようとするが、信濃国の千曲川まで来たところで将門に追いつかれて合戦となる。だが上洛しようとしていただけの貞盛に備えはなく、瞬く間に破れて信濃の山中に逃れるしかなかった。

それでも翌承平八年二月、貞盛は上洛して朝廷に訴え出た。またしても将門に出頭命令が届くが、今度は応じなかった。所領を留守にすれば、付け入られるからだ。

またこの頃になると、将門にも驕りが目立ち始めていた。武蔵権守の興世王や藤原玄明といった「悪徳受領」や「国の乱人」を食客として石井の営所に迎え、将門軍は反乱軍の様相を呈していく。

こうした最中の翌天慶二年(九三九)六月、良兼が病死し、平氏一門の主な敵は貞盛だけになる。

同年十月、常陸国府が、将門に対して「国の乱人」の玄明を引き渡すよう求めてきたが、将門はこれを拒絶した上、翌十一月、常陸国府に攻め寄せ、国府とその周辺を焼き尽くした。これにより、将門は朝敵となった。

将門の「宰人(軍師や相談役)」となっていた興世王は、ここで関東八カ国の制覇を将門に勧める。十二月、意を決した将門は下野国府に向かい、これを降伏させる。

下野国には大勢力を有する在地土豪の藤原秀郷がいたが、国府を支援した形跡はない。『将門記』にもあるように、秀郷も将門に味方するか否か迷っていたのだ。

続いて将門は、上野国の国府も降伏させた。ここで将門は、その与党を関東八カ国の受領に補任する。受領補任という中央政府の権能を勝手に行使することで、将門は謀反の意思を明らかにしたのだ。

北関東三国を制した将門は、自らを「新皇」と呼ばせた。しかし将門の狙いは、関東八カ国の制圧にあり、中央政権の転覆までは考えていない。 将門としては、関東八カ国に勢力を拡大した後、政府に何らかの妥協案を示し、自らの存在を認めてもらおうとしたのではないだろうか。元来が貴種の将門は、体制を根本から覆すというより、体制の中に組み込まれたい、承認されたいと思っていたに違いない。

朝廷による将門討伐軍の編成

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天慶三年になり、朝廷は参議の藤原忠文を征東大将軍に任命するが、忠文は六十八歳の上、何度も固辞した上で引き受けたという経緯もあり、重い腰を上げようとしない。

一方、関東に残った貞盛は、反将門勢力を結集し、最後の決戦を挑むつもりでいた。そのためには、中立的立場の藤原秀郷を味方に付ける必要がある。

結局、貞盛の説得に応じた秀郷は貞盛方として挙兵する。かくして二月、貞盛・秀郷連合軍四千余は進軍を開始した。

この時、将門は重大なミスを犯した。与党を関東八カ国の受領に任命したので、その兵力が分散され、すぐには集結できない状況に陥っていたのだ。

それでも機先を制すべく、将門は手持ちの兵力だけで下野国に向けて出陣した。本来ならば兵が集まるのを待つべきだが、将門は自らの力を過信していたのだ。

これを知った連合軍は、将門を下野国深くに引き付けて戦うことにする。秀郷は、自領の被害よりも地の利を選んだことになる。

ここで将門は、侵攻部隊を前軍と後軍に分けるという愚を犯す。

まず奇襲を受けた後軍が敗走する。後軍は一千余と推定されるので、残るは将門率いる前軍の一千余だけだ。

この兵力では正面からぶつかれないはずだが、この時代、後退は敗戦を意味する。

将門は四倍の敵に勝負を挑むが、惨敗を喫してしまう。

敗れた将門は猿島郡北山まで引き、今度は逆に自領内の湿地帯に敵を引き付け、味方が集まるのを待って戦おうとするが、下野国で敗れた噂が広まり、味方はなかなか集まらない。武人の名声は、一度の敗戦で即座に地に落ちる時代なのだ。

将門の死

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それでも将門は、四百余に減った兵力で最後の決戦に臨んだ。

将門は鬼神のごとく戦い、一時は十倍する敵を圧倒するが、風が変わって風下になったことで戦局が不利になり、後退を余儀なくされる。その撤退戦の最中、敵の流れ矢に額を射貫かれ、将門は即死する。これにより将門軍も瓦解した。

将門軍の強さは、将門一個の武勇と知略に負うところが大きかった。それゆえ将門の武運が尽きた時、将門軍とその関東政権は、雲散霧消したのだ。

将門一個に頼った軍勢の強さは、将門が斃れれば弱さに転じ、やがて関東八カ国に散っていた興世王たちも、各個撃破されることになる。

現代でも、功成り名を遂げた後のカリスマ経営者の最も重要な仕事は、「後継者の育成」と並んで「自分がいなくても決断できる組織作り」だと言われる。確かに戦いに明け暮れる将門には、その余裕はなかったかもしれない。だがそれを乗り越えられなければ、すべては「一代限り」となる。

かくして平将門の乱は終息した。将門の失敗は、相次ぐ勝利によって自信過剰に陥り、敵を侮ったことだろう。しかも興世王ら佞臣たちにおだてられて国府を攻撃し、自ら朝敵となったのは致命的だった。過大な野望を持たずに、関東の所領争い(私戦)という一線を越えなければ、将門にも生き残るチャンスは十分にあったのだ。正義を貫く、大義を掲げる、自信過剰に陥らない、周囲に茶坊主やイエスマンを置かない、後継者を育てておくといったリーダーの鉄則は、いつの時代にも共通している。

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