そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「平将門」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。
平将門
不詳~九四〇年〈天慶三年〉
「一所懸命」という言葉をご存じだろうか。古代の日本は荒れ地や湿地が多く、農地は少なかった。それを開墾して農地としたのが、開発領主と呼ばれる土豪階級だ。彼らは、自らないしは祖先が開墾した土地を、死に物狂いで外敵から守った。これが「一所懸命」の由来となる。
ここに「一所懸命」を旨として生き、死んでいった男がいる。
その名は平将門。反逆者として知られるこの男こそ、時代の扉をこじ開けた一人だろう。
将門の上洛と父の死を知っての帰郷
律令制における地方の行政組織は、中央政府から任命される国司が頂点に君臨する。国司の任期は四年と短いので、その土地から上がる利益を、貪れるだけ貪ろうとする輩も出てくる。
国司の下で実務に当たるのが郡司となる。郡司は土着の開発領主の中から選ばれ、中央政府と在地衆の橋渡し役を担っている。ところが領民を守る立場の郡司が、国司に荷担してしまうと、領民は搾取されるばかりとなってしまう。こうした構造により、地方では中央政府への愁訴、反乱、欠落逃散が絶えなかった。こうした構造が、将門登場の背景となる。 九世紀の末頃、坂東に下向し、上総国に土着した桓武天皇の曾孫・高望王とその息子たち、長男国香(前の名は良望)、次男良持、三男良兼、四男良正は、典型的な受領土着型豪族として勢力を拡大していた。
受領とは、現地赴任した国司の中で国衙行政を行う最高責任者のことを指す。
ちなみに将門の生涯を探る唯一の史料本である『将門記』は原本が失われ、冒頭部分が欠けており(承平五年(九三五)の野本合戦以降はあり)、それ以前の将門については五里霧中とされてきた。それでも生年は延喜三年(九〇三)とされてきたが、二〇一九年四月に上梓された乃至政彦氏の『平将門と天慶の乱』(講談社現代新書)によると、様々な論拠から延喜十年(九一〇)ではないかという。将門の父は高望王の次男の良持で、その嫡男だったとされる。
おそらく元服の儀を済ませた後、京に上り、藤原北家の氏長者(家督)で摂政の藤原忠平に仕えた。同じ頃、終生のライバルとなる国香の息子・貞盛も京にいた。 彼ら地方豪族の子息が京に滞在し、有力公家に奉仕することで人脈を広げ、叙任・任官されていくのはこの時代の慣習で、忠平という最有力者に仕えることのできた将門は、地方豪族としてはエリート中のエリートと言ってもいいだろう。
将門と貞盛は宮中での栄達を望み、競うように働いたはずだ。後の様子から仲のよい友人だったことも考えられる。ところが、そんな日々にも終わりが来る。将門の父の良持が早死にし、その遺領(下総国豊田郡と猿島郡)を良持の兄弟たちに押領されたのだ。それを聞いた将門は、延長九年(九三一)頃、京都での叙任・任官の機会を振り捨てて故郷に戻ることにした。
乃至氏の研究では、将門は叔父の良兼の娘を娶ったという。それが「娶り婚(女捕り婚)」だったことから、「女論(女性をめぐる諍い)」が生じ、その確執が所領問題に発展していったという。ただしこれらの問題には、伯父の国香と叔父の良兼の言い分もあるが、ここでは細かくなるので記さない。ただし将門が、一方的に正しかったわけではない。
所領を守るための「私戦」
かくして関東に戻った将門だったが、父の所領は奪われた後であり、将門に残されたのは下総国の豊田郡の一部ぐらいだった。将門はそれだけでも守ろうと、「党」の結束を強めて「伴類」を増やすことに注力する。
党とは家の子や郎党で固めた直臣団、伴類とは同格の同盟者、すなわち土着の開発領主たちのことだ。
また将門は、勢力圏の外縁部に「営所」を築くことにも力を入れる。営所とは、軍馬、武器、兵糧などを貯蔵しておく拠点で、言うなれば城のことだ。
承平五年(九三五)二月、何かの用向きで(国境を画定させる戦いとも言われる)、将門は豊田郡を出て北に向かっていた。そこを伯父国香の縁戚にあたる嵯峨源氏の源護とその息子たち、扶・隆・繁に襲撃される。
ちなみに嵯峨源氏は古くから常陸国に土着し、国香・良兼・良正の三人に娘たちを嫁入りさせることで、勢力を拡大していた。ただし将門の父の良持に嫁入りさせなかった理由は分からない。
この時の戦いで、将門は三兄弟を討ち果たした上、護を追い払った。これが野本の合戦である。ところが、源護らの背後に国香がいたことが判明し、激怒した将門は筑波・真壁・新治の三郡に攻め入り、放火と略奪を行った。
放火は民に迷惑が及ぶものだが、資源が乏しいこの時代、敵から生産力を奪うために必須の作戦でもあった。ただし乃至氏によると、野本合戦後の将門の破壊・略奪・焦土化という一連の行動は一般的ではなく、衝動的な勢いに駆られてのものだったという。
機先を制する将門の戦い方
筑波郡には国香の本拠もあり、この時の戦いで国香は討ち死にした。この一報を受けた国香の息子の貞盛は急ぎ帰郷するが、自領の被害は大きく、また将門の言い分にも一理あると思い、「本意の敵にあらず」として、当面は自領防衛に徹することにした。
貞盛は冷静で分別のある人物だったと推察できる。この時点では、一連の戦いが将門と嵯峨源氏のものであり、父の国香は巻き込まれたと思ったのかもしれない。
同年十月には、源護に助けを求められた良正が報復戦に乗り出してくる。その情報を得た将門は、機先を制すべく新治郡へと駒を進め、川曲村の戦いで大勝利を収めた。
一方、敗れた良正は、兄の良兼に助けを求める。 「機先を制する」という言葉があるが、将門ほど、それを実践した武将はいない。デビュー戦こそ待ち伏せをされたが、その背後に国香がいると分かれば、躊躇なく国香の所領に攻め入った。さらに良正に対しても、攻め込まれる前に敵勢力圏に向かっている。
こうした戦い方は、当時の資源や生産力の乏しさに起因している。すなわち、たとえ勝っても自領内で戦えば、田畑は焼かれて被害は甚大となる。それなら敵の動きを事前に察知し、先手を打って敵領内で戦う方が利口だろう。こうしたことから将門は、情報収集力と機動力に長けていたと思われる。
承平六年六月、今度は、上総国武射郡を本拠とする良兼が動き出す。良兼は良正、源護、貞盛を率いて豊田郡への侵攻を図ってきた。この時、貞盛も参陣してきたが、良兼は貞盛を「兵にあるまじき者」として罵倒したという。だがこの時点では、貞盛の消極性は変わらなかった。
良兼の下に大軍勢が集まっていると聞いた将門は、良兼が下野国へとさらに軍勢を集めに行ったことを知り、百騎余りを率いて下総から下野へと進出した。
十月、将門は千余の敵を見るや奇襲を敢行し、瞬く間に八十余騎を討ち取った。この時、将門は慣例となっていた矢戦を省き、緒戦から突入したことで、面食らった良兼勢は壊乱したという。まさに信長の桶狭間合戦の手本となるような戦い方を見せた。
将門はセオリーや固定観念を無視することで、見事に劣勢を跳ね返したのだ。
さらに敗走する良兼を追った将門は、良兼らの逃げ込んだ下野国府を囲んだ。しかし国府を攻撃しては朝敵とされるため、将門は囲みを解かざるを得なかった。
『将門記』では、そのことについて「氏の長者で縁戚の上に、下総介の官位を持つ良兼を討っては、世間のそしりを免れない」としているが、この時点の将門は、良兼たちとの間に妥協点を見出そうとしていた。
ちなみにこの戦いの後、良正は消息を絶つ。『将門記』に「良兼ひとりだけその身を許す」とあるので、将門は良兼には逃走を許したが、良正には許さなかった。おそらく討ち死にしたか処刑されたのだろう。
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