
調整型の指導者、蘇我蝦夷

推古天皇の治世末期に登場した蝦夷は、大臣の座に就いてから約二年後の推古帝三十六年、推古天皇の崩御という事態に直面する。皇位継承者の選定にあたり、蝦夷は推古天皇の遺勅として、非蘇我氏系の舒明を即位させた。対立候補には蘇我氏系で厩戸皇子の息子にあたる山背大兄王がいたが、舒明は馬子の娘を娶っており、すでに二人の間に皇子がいたので、舒明を推したと思われる。
これに反発したのが蝦夷の叔父の境部摩理勢だった。ところが摩理勢を背後で操っていた泊瀬仲王が病死することで、勢力の均衡が崩れ、蝦夷によって境部氏は滅ぼされた。
蝦夷にはこうした強硬な一面もあったが、強引な馬子とは対照的な調整家タイプだったと思われる。
舒明帝十三年(六四一)、蝦夷が擁立した舒明天皇が崩御する。その後継として、蝦夷は蘇我氏系ではない皇極を即位させた。ここで「ちょっと待った」と言いたいのは、山背大兄王だろう。厩戸皇子の薫陶を受け、聡明な上に権力志向が強かったと思われる山背大兄王にとって、この決定は納得できない。
しかし蝦夷が求めていたのは傀儡の天皇であり、聡明な天皇は要らなかった。尤も、皇極天皇の即位を決めたのは蝦夷ではなく、次代の入鹿という可能性もある。少なくとも蝦夷は、皇極帝二年(六四三)十月まで大臣の地位にとどまっていたと確認されるが、舒明帝十二~十三年には、入鹿が実権を握っていた可能性が高い。
というのも『日本書紀』皇極帝元年に、「大臣(蝦夷)の児(子)入鹿(更の名は鞍作)、自ら国の政を執りて、威(威勢)父に勝れり。是に由りて盗賊恐ぢて路に遺ちたるを拾わず」という記述があるため、皇極帝元年以前に家督の継承がなされており、皇極天皇即位の裏には、入鹿の意向が強く働いていたと考えられるからだ。
蝦夷と入鹿の対立
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舒明の後に山背大兄王を擁立する構想を持っていた蝦夷としては、忸怩たる思いを抱いていたのではないだろうか。つまり蝦夷と入鹿は一枚岩ではなく、父子の間で意見の相違があり、その対立が、政敵に付け入る隙を与えてしまったとも考えられる。
蝦夷の代で弱体化を遂げていた蘇我氏の権勢を再び強めるべく、入鹿は父の蝦夷よりも祖父の馬子を範にした。そうしたことも、確執を招いた原因かもしれない。
入鹿は西暦六〇〇年から六一〇年の生まれだと推定されているが、父の蝦夷の生年が五八六年なので、六一〇年に近いところが妥当ではないかと思われる。いずれにしても二人の年は近く、その活躍時期も重複してくるので、蝦夷が無理に隠居させられた可能性も捨てきれない。
用心深さを欠いた蘇我入鹿は才能がありながらも敗者の地位に甘んじた

青年時代の入鹿についての記録はほとんどないが、中臣鎌足について書かれた『大織冠伝』において、隋帰りの僧旻の言として、「自分の堂(教室)に出入りするもののなかで、入鹿に匹敵する人物はいない」という一節がある。つまり鎌足と入鹿は旻に師事し、彼の堂で共に学んでいたが、入鹿の才は際立っていたというのだ。
皇極帝二年、入鹿は斑鳩宮にいた山背大兄王を襲撃し、これを自害に追い込むことに成功する。これにより、上宮王家と呼ばれた厩戸皇子の皇統は断たれる。こうした決断の速さと先制攻撃も祖父の馬子譲りである。
『日本書紀』によると、この一件を聞いた蝦夷は、「入鹿は実に愚かで、横暴な悪事ばかりおこなったものだ。おまえ(入鹿のこと)の生命もまた危ないのではないか」と言って嘆いたという。穏健派の蝦夷は、やはり入鹿の強硬路線に反対していたのだ。結果論かもしれないが、蝦夷の路線を入鹿が踏襲していれば、蘇我氏の権勢は緩やかに衰微し、蘇我一族は朝廷を取り巻く廷臣の一つとして血脈を枝分かれさせ、後の藤原氏のように長く続いた可能性がある。
さて、入鹿が擁立した皇極天皇は、女帝ながら権力欲が旺盛だった。すなわち自分の血統に皇位を継がせるべく、まずは自分が即位するという道を選んだわけだ。つまり入鹿の背後には皇極天皇がおり、入鹿は皇極天皇と結託し、山背大兄王を除いたとも考えられる。
この後、独裁者となった入鹿は専横を極めることになるが、それらについては、朝敵として脚色されていると考えられるので、ここでは記さない。
上宮王家が滅亡することで、蘇我氏への権力集中があからさまになった。馬子の時代をよみがえらせた入鹿は、得意の絶頂だったに違いない。しかしそうなればそうなったで、それに反発する者も出てくる。その一人が中臣鎌足である。
乙巳の変
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いよいよ「大化の改新」の端緒となる「乙巳の変」に話を進めていこう。
ちなみに「大化の改新」とは、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が行った一連の政治改革を指し、その前段にあたるクーデターは、「乙巳の変」と呼ばれる。
かねてから蘇我氏の専横に憤っていた鎌足は、中大兄皇子こそ次代を担う皇族と信じ、接近を図っていた。法興寺(飛鳥寺)で行われた打毬の会で、勢い余って飛んでしまった中大兄皇子の沓を拾い、それをきっかけとして皇子と親しくなった鎌足は、クーデター計画を打ち明けて協力を取り付ける。
皇極帝四年六月、三韓(新羅・百済・高句麗)の使者が来日し、進貢の儀式が大内裏の大極殿で行われることになった。この儀式に出ている間だけ、入鹿の周囲を常に固めている警護の兵はいなくなる。そこを狙って襲撃しようというのが鎌足の計画だ。
かくして鎌足の思惑通りにクーデターは成功し、入鹿は中大兄皇子自らの手で殺された。続いて甘樫丘にある蘇我氏の豪壮な第(邸宅)も攻められ、蝦夷も自害する。これにより蘇我氏嫡流は栄華の頂点から突然、奈落の底へと突き落とされる。まさに蝦夷の恐れていたことが現実となったのだ。
それでは入鹿は、なぜ敗者となったのか。
蘇我氏の滅亡

天賦の才に恵まれ、馬子の時代の権力を取り戻そうとした入鹿は、馬子に倣いすぎたのだ。現代でも創業社長や躍進の担い手となった社長の方針を唯々諾々と受け継ぐことで、時代の変化についていけなくなってしまう企業は多々あるが、まさに入鹿は、この病に取り憑かれたと言える。天皇制が確立することで組織が肥大化し、利害関係者が増えれば、独裁が極めて難しくなるのは当然だろう。とくに武力というものが確立されていないこの時代に、独裁は極めて難しい。
結果論ではなく、入鹿は馬子でなく蝦夷に倣うべきだった。反対派の官位を上げたり、婚姻によって姻戚関係を結んだりして、懐柔しておく必要があったのだ。
どのような成功を収めようとも、政治家たるもの、常に念頭に置かねばならないのは用心深さだ。その点では、父蝦夷の方が政治家に向いていたのかもしれない。
本来であれば、鎌足の子孫の藤原氏のように、その血脈を末長く伝えることもできたはずの蘇我氏嫡流だが、入鹿の強硬路線が裏目に出て、歴史の闇に消えていった。
今では、蘇我氏の栄華の象徴として、馬子の墓と伝えられる石舞台古墳が飛鳥の地に残るだけである。