敗者烈伝日本史歴史飛鳥時代

【3分でわかる】蘇我入鹿はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる蘇我入鹿の歴史

プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「蘇我入鹿」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

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敗者烈伝

単行本(ソフトカバー) > 歴史・時代小説
実業之日本社
伊東 潤(著)

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価格・情報の取得:2020-06-19
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頂点から一気に没落した国際派

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蘇我入鹿
六一〇年〈推古帝十八年〉? ~六四五年〈皇極帝四年〉

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歴史上、汚名を着せられたまま葬られた敗者は多い。とくに朝敵とされた場合、その汚名はに残ると言ってもいいだろう。

とりわけ古代というのは、史実か否かの判定が困難で、『古事記』や『日本書紀』の記述に頼らざるを得ない。つまり、この二書に朝敵と書かれていれば、朝敵となってしまうのだ。

しかし今世紀に入ってから、古代史研究者たちのたゆまぬ努力により、真実が徐々に明らかにされ始めた。とくに最近の蘇我一族についての研究成果は、瞠目すべきものがある。

これまで蘇我氏四代といえば、政治権力を独占し、天皇家をないがしろにした朝敵と思われてきた。とりわけ最後の本家当主となった入鹿の悪名は高い。それは事実だろうか。本項では、それを探っていきたいと思う。

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大王家に深く食い込んだ蘇我氏

image by PIXTA / 57128886

誰もがロマンをかき立てられる飛鳥の都。そこで六世紀から七世紀にかけて、一大勢力を築いたのが稲目、馬子、蝦夷、入鹿の蘇我氏四代だ。

これまで蘇我氏は半島からやってきた渡来系一族の一つと考えられてきたが、最近は古代の大族・葛城氏の一流だというのが定説となっている。というのも蘇我馬子が『日本書紀』の中で、「葛城の生まれだった」と言っている点や、一族から大王(天皇)の后を出すことで権力基盤を強化していったという手口が、葛城氏と似ているからだ。

それでは、それぞれの人物と事績を探っていこう。

初代と言われる稲目の名が初めて歴史に登場するのは、宣化帝元年(五三六)の大臣就任を示す『日本書紀』の記載で、欽明帝三十一年(五七〇)に死去するまで、この地位にとどまっており、大伴氏や物部氏と共に、長期にわたって政権の中枢にいたことが分かる。

この頃、大和朝廷の直轄地である屯倉が全国に拡大していた。稲目は、新たに服属してきた豪族に所領の一部を屯倉として差し出させ、朝廷の収入を増大させることで発言力を増し、二人の娘を欽明天皇の后に送り込むことにも成功した。

これにより二つの蘇我氏系嫡流が創出され、この二流から生まれた用明・崇峻・推古の三人を帝位に就け、血脈の点でも大王家に深く食い込んでいった。

また蘇我氏は、仏教受容を推進した崇仏派として知られるが、土木建築面で力を発揮した倭漢氏や、仏像制作に秀でた鞍作氏といった渡来系氏族を傘下に従えて軍事力を強化し、廃仏派の物部氏との対立をあらわにしていく。

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蘇我稲目と蘇我馬子

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『日本書紀』によると、欽明帝十三年(五五二)に朝鮮半島の百済から入ってきた仏教は、その精緻な論理によって学識者たちを虜にした。欽明天皇もその一人で、群臣にその受容の可否を問うと、稲目は賛意を示したが、物部尾輿や中臣鎌子は反対した。この対立は、次代の馬子対物部守屋・中臣勝海に引き継がれていく。

こうしたことから、初代の稲目は経済感覚に優れている上、伝統や因習に囚われない革新的精神の持ち主だったと分かる。渡来系氏族を優遇し、仏教を自らの勢力拡大に結び付けようとしたところなどは、次代の馬子の狡猾さと共通している。

用明帝二年(五八七)四月、欽明・敏達と続いた帝位を引き継いだ用明天皇が重篤となり、群臣の間で仏教受容の可否が再び議論された。病魔退散の祈禱を仏式にするか、神式にするかという対立である。この時、稲目の跡を継いだ馬子は、ライバルの中臣勝海を殺害することで勝負に出る。ちなみに厳密には、彦人皇子の舎人の迹見首赤檮に襲われて絶命したとされるが、この後の物部氏との戦いで、迹見首赤檮が彦人の兵を率いて蘇我氏側として参戦しているので、馬子の関与があったと推察できる。

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崇仏論争

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By 663highland投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, Link

その後、用明天皇も崩御し、蘇我氏と物部氏の対立は、王位継承をめぐる武力闘争へと発展していく。

衝突が不可避と覚った馬子は、物部守屋が擁立しようとしていた穴穂部皇子と、それを支援する宅部皇子の邸宅を襲って二人を殺すや、返す刀で物部氏を攻め滅ぼし、独裁的権力を確立する。この見事な手際は、その行為の是非はともかく、馬子の豪胆さや果断さを物語っている。

一方の物部守屋は、皇族・大夫・国造・諸豪族たちの支持や人望を失って孤立していた。こうした孤立も馬子が少しずつ地固めしていったもので、馬子のしたたかさや周到さは際立っている。

かくして馬子は蘇我氏系の崇峻を帝位に就けるが、崇峻天皇が策謀をめぐらし、馬子を失脚させようとしたため、崇峻帝五年(五九二)、馬子は崇峻天皇を謀殺する。

これにより馬子の権力は絶対的なものとなり、廟堂で異を唱える者はいなくなった。

中臣勝海、二人の親王、物部氏、そして崇峻天皇と、馬子は己の障害となるものを迅速に取り除いていった。この手際のよさは後の源頼朝に匹敵する。

独裁者と化した馬子は、傀儡も同然の推古(女性)を即位させる。さらに、推古天皇の甥にあたる厩戸皇子こと聖徳太子を摂政の座に就けた。厩戸皇子は、その出自が蘇我氏系ということもあり、馬子と共に政務を執ることになった。

馬子と厩戸皇子の二人三脚体制はうまくいき、朝廷内の権力闘争は影をひそめ、蘇我氏は絶頂期を迎える。しかし厩戸皇子は推古帝三十年(六二二)に病没し、さらに四年後の推古帝三十四年、馬子も死去して一つの時代が終わりを告げた。

蘇我氏は次代の蝦夷へと引き継がれていく。

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