プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「蘇我入鹿」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

この記事は「敗者烈伝」から内容を抜粋してお届け

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敗者烈伝

単行本(ソフトカバー) > 歴史・時代小説
実業之日本社
伊東 潤(著)

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頂点から一気に没落した国際派

蘇我入鹿
六一〇年〈推古帝十八年〉? ~六四五年〈皇極帝四年〉

歴史上、汚名を着せられたまま葬られた敗者は多い。とくに朝敵とされた場合、その汚名はに残ると言ってもいいだろう。

とりわけ古代というのは、史実か否かの判定が困難で、『古事記』や『日本書紀』の記述に頼らざるを得ない。つまり、この二書に朝敵と書かれていれば、朝敵となってしまうのだ。

しかし今世紀に入ってから、古代史研究者たちのたゆまぬ努力により、真実が徐々に明らかにされ始めた。とくに最近の蘇我一族についての研究成果は、瞠目すべきものがある。

これまで蘇我氏四代といえば、政治権力を独占し、天皇家をないがしろにした朝敵と思われてきた。とりわけ最後の本家当主となった入鹿の悪名は高い。それは事実だろうか。本項では、それを探っていきたいと思う。

大王家に深く食い込んだ蘇我氏

image by PIXTA / 57128886

誰もがロマンをかき立てられる飛鳥の都。そこで六世紀から七世紀にかけて、一大勢力を築いたのが稲目、馬子、蝦夷、入鹿の蘇我氏四代だ。

これまで蘇我氏は半島からやってきた渡来系一族の一つと考えられてきたが、最近は古代の大族・葛城氏の一流だというのが定説となっている。というのも蘇我馬子が『日本書紀』の中で、「葛城の生まれだった」と言っている点や、一族から大王(天皇)の后を出すことで権力基盤を強化していったという手口が、葛城氏と似ているからだ。

それでは、それぞれの人物と事績を探っていこう。

初代と言われる稲目の名が初めて歴史に登場するのは、宣化帝元年(五三六)の大臣就任を示す『日本書紀』の記載で、欽明帝三十一年(五七〇)に死去するまで、この地位にとどまっており、大伴氏や物部氏と共に、長期にわたって政権の中枢にいたことが分かる。

この頃、大和朝廷の直轄地である屯倉が全国に拡大していた。稲目は、新たに服属してきた豪族に所領の一部を屯倉として差し出させ、朝廷の収入を増大させることで発言力を増し、二人の娘を欽明天皇の后に送り込むことにも成功した。

これにより二つの蘇我氏系嫡流が創出され、この二流から生まれた用明・崇峻・推古の三人を帝位に就け、血脈の点でも大王家に深く食い込んでいった。

また蘇我氏は、仏教受容を推進した崇仏派として知られるが、土木建築面で力を発揮した倭漢氏や、仏像制作に秀でた鞍作氏といった渡来系氏族を傘下に従えて軍事力を強化し、廃仏派の物部氏との対立をあらわにしていく。

蘇我稲目と蘇我馬子

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By Saigen Jiro - 投稿者自身による作品, CC0, Link

『日本書紀』によると、欽明帝十三年(五五二)に朝鮮半島の百済から入ってきた仏教は、その精緻な論理によって学識者たちを虜にした。欽明天皇もその一人で、群臣にその受容の可否を問うと、稲目は賛意を示したが、物部尾輿や中臣鎌子は反対した。この対立は、次代の馬子対物部守屋・中臣勝海に引き継がれていく。

こうしたことから、初代の稲目は経済感覚に優れている上、伝統や因習に囚われない革新的精神の持ち主だったと分かる。渡来系氏族を優遇し、仏教を自らの勢力拡大に結び付けようとしたところなどは、次代の馬子の狡猾さと共通している。

用明帝二年(五八七)四月、欽明・敏達と続いた帝位を引き継いだ用明天皇が重篤となり、群臣の間で仏教受容の可否が再び議論された。病魔退散の祈禱を仏式にするか、神式にするかという対立である。この時、稲目の跡を継いだ馬子は、ライバルの中臣勝海を殺害することで勝負に出る。ちなみに厳密には、彦人皇子の舎人の迹見首赤檮に襲われて絶命したとされるが、この後の物部氏との戦いで、迹見首赤檮が彦人の兵を率いて蘇我氏側として参戦しているので、馬子の関与があったと推察できる。

崇仏論争

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By 663highland - 投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, Link

その後、用明天皇も崩御し、蘇我氏と物部氏の対立は、王位継承をめぐる武力闘争へと発展していく。

衝突が不可避と覚った馬子は、物部守屋が擁立しようとしていた穴穂部皇子と、それを支援する宅部皇子の邸宅を襲って二人を殺すや、返す刀で物部氏を攻め滅ぼし、独裁的権力を確立する。この見事な手際は、その行為の是非はともかく、馬子の豪胆さや果断さを物語っている。

一方の物部守屋は、皇族・大夫・国造・諸豪族たちの支持や人望を失って孤立していた。こうした孤立も馬子が少しずつ地固めしていったもので、馬子のしたたかさや周到さは際立っている。

かくして馬子は蘇我氏系の崇峻を帝位に就けるが、崇峻天皇が策謀をめぐらし、馬子を失脚させようとしたため、崇峻帝五年(五九二)、馬子は崇峻天皇を謀殺する。

これにより馬子の権力は絶対的なものとなり、廟堂で異を唱える者はいなくなった。

中臣勝海、二人の親王、物部氏、そして崇峻天皇と、馬子は己の障害となるものを迅速に取り除いていった。この手際のよさは後の源頼朝に匹敵する。

独裁者と化した馬子は、傀儡も同然の推古(女性)を即位させる。さらに、推古天皇の甥にあたる厩戸皇子こと聖徳太子を摂政の座に就けた。厩戸皇子は、その出自が蘇我氏系ということもあり、馬子と共に政務を執ることになった。

馬子と厩戸皇子の二人三脚体制はうまくいき、朝廷内の権力闘争は影をひそめ、蘇我氏は絶頂期を迎える。しかし厩戸皇子は推古帝三十年(六二二)に病没し、さらに四年後の推古帝三十四年、馬子も死去して一つの時代が終わりを告げた。

蘇我氏は次代の蝦夷へと引き継がれていく。

\次のページで「調整型の指導者、蘇我蝦夷」を解説!/

調整型の指導者、蘇我蝦夷

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推古天皇の治世末期に登場した蝦夷は、大臣の座に就いてから約二年後の推古帝三十六年、推古天皇の崩御という事態に直面する。皇位継承者の選定にあたり、蝦夷は推古天皇の遺勅として、非蘇我氏系の舒明を即位させた。対立候補には蘇我氏系で厩戸皇子の息子にあたる山背大兄王がいたが、舒明は馬子の娘を娶っており、すでに二人の間に皇子がいたので、舒明を推したと思われる。

これに反発したのが蝦夷の叔父の境部摩理勢だった。ところが摩理勢を背後で操っていた泊瀬仲王が病死することで、勢力の均衡が崩れ、蝦夷によって境部氏は滅ぼされた。

蝦夷にはこうした強硬な一面もあったが、強引な馬子とは対照的な調整家タイプだったと思われる。

舒明帝十三年(六四一)、蝦夷が擁立した舒明天皇が崩御する。その後継として、蝦夷は蘇我氏系ではない皇極を即位させた。ここで「ちょっと待った」と言いたいのは、山背大兄王だろう。厩戸皇子の薫陶を受け、聡明な上に権力志向が強かったと思われる山背大兄王にとって、この決定は納得できない。

しかし蝦夷が求めていたのは傀儡の天皇であり、聡明な天皇は要らなかった。尤も、皇極天皇の即位を決めたのは蝦夷ではなく、次代の入鹿という可能性もある。少なくとも蝦夷は、皇極帝二年(六四三)十月まで大臣の地位にとどまっていたと確認されるが、舒明帝十二~十三年には、入鹿が実権を握っていた可能性が高い。

というのも『日本書紀』皇極帝元年に、「大臣(蝦夷)の児(子)入鹿(更の名は鞍作)、自ら国の政を執りて、威(威勢)父に勝れり。是に由りて盗賊恐ぢて路に遺ちたるを拾わず」という記述があるため、皇極帝元年以前に家督の継承がなされており、皇極天皇即位の裏には、入鹿の意向が強く働いていたと考えられるからだ。

蝦夷と入鹿の対立

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By Saigen Jiro - 投稿者自身による作品, CC0, Link

舒明の後に山背大兄王を擁立する構想を持っていた蝦夷としては、忸怩たる思いを抱いていたのではないだろうか。つまり蝦夷と入鹿は一枚岩ではなく、父子の間で意見の相違があり、その対立が、政敵に付け入る隙を与えてしまったとも考えられる。

蝦夷の代で弱体化を遂げていた蘇我氏の権勢を再び強めるべく、入鹿は父の蝦夷よりも祖父の馬子を範にした。そうしたことも、確執を招いた原因かもしれない。

入鹿は西暦六〇〇年から六一〇年の生まれだと推定されているが、父の蝦夷の生年が五八六年なので、六一〇年に近いところが妥当ではないかと思われる。いずれにしても二人の年は近く、その活躍時期も重複してくるので、蝦夷が無理に隠居させられた可能性も捨てきれない。

用心深さを欠いた蘇我入鹿は才能がありながらも敗者の地位に甘んじた

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青年時代の入鹿についての記録はほとんどないが、中臣鎌足について書かれた『大織冠伝』において、隋帰りの僧旻の言として、「自分の堂(教室)に出入りするもののなかで、入鹿に匹敵する人物はいない」という一節がある。つまり鎌足と入鹿は旻に師事し、彼の堂で共に学んでいたが、入鹿の才は際立っていたというのだ。

皇極帝二年、入鹿は斑鳩宮にいた山背大兄王を襲撃し、これを自害に追い込むことに成功する。これにより、上宮王家と呼ばれた厩戸皇子の皇統は断たれる。こうした決断の速さと先制攻撃も祖父の馬子譲りである。

『日本書紀』によると、この一件を聞いた蝦夷は、「入鹿は実に愚かで、横暴な悪事ばかりおこなったものだ。おまえ(入鹿のこと)の生命もまた危ないのではないか」と言って嘆いたという。穏健派の蝦夷は、やはり入鹿の強硬路線に反対していたのだ。結果論かもしれないが、蝦夷の路線を入鹿が踏襲していれば、蘇我氏の権勢は緩やかに衰微し、蘇我一族は朝廷を取り巻く廷臣の一つとして血脈を枝分かれさせ、後の藤原氏のように長く続いた可能性がある。

さて、入鹿が擁立した皇極天皇は、女帝ながら権力欲が旺盛だった。すなわち自分の血統に皇位を継がせるべく、まずは自分が即位するという道を選んだわけだ。つまり入鹿の背後には皇極天皇がおり、入鹿は皇極天皇と結託し、山背大兄王を除いたとも考えられる。

この後、独裁者となった入鹿は専横を極めることになるが、それらについては、朝敵として脚色されていると考えられるので、ここでは記さない。

上宮王家が滅亡することで、蘇我氏への権力集中があからさまになった。馬子の時代をよみがえらせた入鹿は、得意の絶頂だったに違いない。しかしそうなればそうなったで、それに反発する者も出てくる。その一人が中臣鎌足である。

乙巳の変

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いよいよ「大化の改新」の端緒となる「乙巳の変」に話を進めていこう。

ちなみに「大化の改新」とは、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が行った一連の政治改革を指し、その前段にあたるクーデターは、「乙巳の変」と呼ばれる。

かねてから蘇我氏の専横に憤っていた鎌足は、中大兄皇子こそ次代を担う皇族と信じ、接近を図っていた。法興寺(飛鳥寺)で行われた打毬の会で、勢い余って飛んでしまった中大兄皇子の沓を拾い、それをきっかけとして皇子と親しくなった鎌足は、クーデター計画を打ち明けて協力を取り付ける。

皇極帝四年六月、三韓(新羅・百済・高句麗)の使者が来日し、進貢の儀式が大内裏の大極殿で行われることになった。この儀式に出ている間だけ、入鹿の周囲を常に固めている警護の兵はいなくなる。そこを狙って襲撃しようというのが鎌足の計画だ。

かくして鎌足の思惑通りにクーデターは成功し、入鹿は中大兄皇子自らの手で殺された。続いて甘樫丘にある蘇我氏の豪壮な第(邸宅)も攻められ、蝦夷も自害する。これにより蘇我氏嫡流は栄華の頂点から突然、奈落の底へと突き落とされる。まさに蝦夷の恐れていたことが現実となったのだ。

それでは入鹿は、なぜ敗者となったのか。

蘇我氏の滅亡

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天賦の才に恵まれ、馬子の時代の権力を取り戻そうとした入鹿は、馬子に倣いすぎたのだ。現代でも創業社長や躍進の担い手となった社長の方針を唯々諾々と受け継ぐことで、時代の変化についていけなくなってしまう企業は多々あるが、まさに入鹿は、この病に取り憑かれたと言える。天皇制が確立することで組織が肥大化し、利害関係者が増えれば、独裁が極めて難しくなるのは当然だろう。とくに武力というものが確立されていないこの時代に、独裁は極めて難しい。

結果論ではなく、入鹿は馬子でなく蝦夷に倣うべきだった。反対派の官位を上げたり、婚姻によって姻戚関係を結んだりして、懐柔しておく必要があったのだ。

どのような成功を収めようとも、政治家たるもの、常に念頭に置かねばならないのは用心深さだ。その点では、父蝦夷の方が政治家に向いていたのかもしれない。

本来であれば、鎌足の子孫の藤原氏のように、その血脈を末長く伝えることもできたはずの蘇我氏嫡流だが、入鹿の強硬路線が裏目に出て、歴史の闇に消えていった。

今では、蘇我氏の栄華の象徴として、馬子の墓と伝えられる石舞台古墳が飛鳥の地に残るだけである。

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敗者烈伝

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敗者烈伝日本史歴史飛鳥時代

【3分でわかる】蘇我入鹿はなぜ敗けたのか?歴史本「敗者烈伝」でわかる蘇我入鹿の歴史

プロイセンの鉄血宰相ビスマルクの残した言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。歴史には膨大な教訓が残されていて、状況こそ違えど、そこから学び取れるものは大きい。さらに敗者から学べることは、勝者から学べることよりもはるかに多い。

そこでこの連載では歴史作家の伊東潤氏の著作「敗者烈伝」から、「蘇我入鹿」の敗因を見ていく。日本史に光芒を放ったこの人物がいかにして敗れていったかを知り、そこから教訓を学び取ってみよう。

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頂点から一気に没落した国際派

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とりわけ古代というのは、史実か否かの判定が困難で、『古事記』や『日本書紀』の記述に頼らざるを得ない。つまり、この二書に朝敵と書かれていれば、朝敵となってしまうのだ。

しかし今世紀に入ってから、古代史研究者たちのたゆまぬ努力により、真実が徐々に明らかにされ始めた。とくに最近の蘇我一族についての研究成果は、瞠目すべきものがある。

これまで蘇我氏四代といえば、政治権力を独占し、天皇家をないがしろにした朝敵と思われてきた。とりわけ最後の本家当主となった入鹿の悪名は高い。それは事実だろうか。本項では、それを探っていきたいと思う。

大王家に深く食い込んだ蘇我氏

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誰もがロマンをかき立てられる飛鳥の都。そこで六世紀から七世紀にかけて、一大勢力を築いたのが稲目、馬子、蝦夷、入鹿の蘇我氏四代だ。

これまで蘇我氏は半島からやってきた渡来系一族の一つと考えられてきたが、最近は古代の大族・葛城氏の一流だというのが定説となっている。というのも蘇我馬子が『日本書紀』の中で、「葛城の生まれだった」と言っている点や、一族から大王(天皇)の后を出すことで権力基盤を強化していったという手口が、葛城氏と似ているからだ。

それでは、それぞれの人物と事績を探っていこう。

初代と言われる稲目の名が初めて歴史に登場するのは、宣化帝元年(五三六)の大臣就任を示す『日本書紀』の記載で、欽明帝三十一年(五七〇)に死去するまで、この地位にとどまっており、大伴氏や物部氏と共に、長期にわたって政権の中枢にいたことが分かる。

この頃、大和朝廷の直轄地である屯倉が全国に拡大していた。稲目は、新たに服属してきた豪族に所領の一部を屯倉として差し出させ、朝廷の収入を増大させることで発言力を増し、二人の娘を欽明天皇の后に送り込むことにも成功した。

これにより二つの蘇我氏系嫡流が創出され、この二流から生まれた用明・崇峻・推古の三人を帝位に就け、血脈の点でも大王家に深く食い込んでいった。

また蘇我氏は、仏教受容を推進した崇仏派として知られるが、土木建築面で力を発揮した倭漢氏や、仏像制作に秀でた鞍作氏といった渡来系氏族を傘下に従えて軍事力を強化し、廃仏派の物部氏との対立をあらわにしていく。

蘇我稲目と蘇我馬子

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『日本書紀』によると、欽明帝十三年(五五二)に朝鮮半島の百済から入ってきた仏教は、その精緻な論理によって学識者たちを虜にした。欽明天皇もその一人で、群臣にその受容の可否を問うと、稲目は賛意を示したが、物部尾輿や中臣鎌子は反対した。この対立は、次代の馬子対物部守屋・中臣勝海に引き継がれていく。

こうしたことから、初代の稲目は経済感覚に優れている上、伝統や因習に囚われない革新的精神の持ち主だったと分かる。渡来系氏族を優遇し、仏教を自らの勢力拡大に結び付けようとしたところなどは、次代の馬子の狡猾さと共通している。

用明帝二年(五八七)四月、欽明・敏達と続いた帝位を引き継いだ用明天皇が重篤となり、群臣の間で仏教受容の可否が再び議論された。病魔退散の祈禱を仏式にするか、神式にするかという対立である。この時、稲目の跡を継いだ馬子は、ライバルの中臣勝海を殺害することで勝負に出る。ちなみに厳密には、彦人皇子の舎人の迹見首赤檮に襲われて絶命したとされるが、この後の物部氏との戦いで、迹見首赤檮が彦人の兵を率いて蘇我氏側として参戦しているので、馬子の関与があったと推察できる。

崇仏論争

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その後、用明天皇も崩御し、蘇我氏と物部氏の対立は、王位継承をめぐる武力闘争へと発展していく。

衝突が不可避と覚った馬子は、物部守屋が擁立しようとしていた穴穂部皇子と、それを支援する宅部皇子の邸宅を襲って二人を殺すや、返す刀で物部氏を攻め滅ぼし、独裁的権力を確立する。この見事な手際は、その行為の是非はともかく、馬子の豪胆さや果断さを物語っている。

一方の物部守屋は、皇族・大夫・国造・諸豪族たちの支持や人望を失って孤立していた。こうした孤立も馬子が少しずつ地固めしていったもので、馬子のしたたかさや周到さは際立っている。

かくして馬子は蘇我氏系の崇峻を帝位に就けるが、崇峻天皇が策謀をめぐらし、馬子を失脚させようとしたため、崇峻帝五年(五九二)、馬子は崇峻天皇を謀殺する。

これにより馬子の権力は絶対的なものとなり、廟堂で異を唱える者はいなくなった。

中臣勝海、二人の親王、物部氏、そして崇峻天皇と、馬子は己の障害となるものを迅速に取り除いていった。この手際のよさは後の源頼朝に匹敵する。

独裁者と化した馬子は、傀儡も同然の推古(女性)を即位させる。さらに、推古天皇の甥にあたる厩戸皇子こと聖徳太子を摂政の座に就けた。厩戸皇子は、その出自が蘇我氏系ということもあり、馬子と共に政務を執ることになった。

馬子と厩戸皇子の二人三脚体制はうまくいき、朝廷内の権力闘争は影をひそめ、蘇我氏は絶頂期を迎える。しかし厩戸皇子は推古帝三十年(六二二)に病没し、さらに四年後の推古帝三十四年、馬子も死去して一つの時代が終わりを告げた。

蘇我氏は次代の蝦夷へと引き継がれていく。

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