古墳時代の終わり、百済によって日本に仏教が公伝され、仏教が国教的位置づけとなって仏教文化が開花した。

今回は日本文化の最初の分岐点となった飛鳥文化について、歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。飛鳥時代の解説に入りきらなかった文化面をこちらで解説。

仏教公伝!揺れる日本の情勢

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そもそも仏教ってどういうもの?

仏教は紀元前450年ごろにインドの釈迦(しゃか)によって開かれた宗教です。キリスト教、イスラム教と並ぶ世界三大宗教のひとつですね。

仏教の世界観では、すべての生き物は無限にある前世と今世で背負った業により、六道と呼ばれる六つの世界(天道、人道、阿修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)の中から次の転生先が決められます。そして、永遠に六道を輪廻転生し、苦しみ続けるのでした。

仏教の最終的な目的は「悟り」に到達し、「悟り」によって輪廻から「解脱(解放)」されることです。解脱するとその魂は輪廻にはなく、どこにも生まれ変わりません。そうしてやっと苦しみから解放されるというものでした。

仏教、東へ行く

釈迦が説いた法(ダルマ)を書き記した経典は、インドからシルクロードを通り、やがて漢訳されて中国の人々の目に触れるようになります。それがさらに時を経て周辺諸国へ広がっていきました。日本へは朝鮮半島の百済の聖王から、大和王朝の欽明天皇へ公伝されて伝わることとなったのです。

「公伝」というのは、簡単に言うと「王様から王様へ伝えること」。いわゆる「公的なこと」という意味ですね。公的ではない個人レベルではすでに仏教は渡来人たちによって日本に伝来していました。

仏教公伝の裏に秘められた事情

ところで、どうして百済は大和朝廷に仏教を公伝したのでしょうか?「うちの宗教はすごいんだぞ!」と、自慢したかった……わけではなく、実はこれには深いわけがあったのです。

その当時、百済は周辺諸国の高句麗、新羅の両国に攻められてひっ迫した状況にありました。このままでは百済が攻め滅ぼされてしまいますから、聖王はしきりに同盟国だった大和朝廷に援軍を頼んでいるんです。もし百済が破れてしまうと、対馬や大宰府も朝鮮半島からそう遠くはありませんし、次は日本が高句麗や新羅のターゲットになりかねません。とても他人事じゃなかったんですね。

そうした中で百済が大和朝廷に仏教を公伝したのは、大陸の先進文化で国家間の絆を深め、さらには、仏教に篤く帰依していた梁の武帝の歓心を得て味方になってもらいたかったことなど、外交カードとした一面がありました。

日本に花開く仏教文化

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いただいた仏像、どうする?

百済の聖王から仏教の経典とともに釈迦仏像が大和王朝におくられたわけですが、ここで仏教公伝をめぐる大きな争いが巻き起こります。

日本ではすでに日本神話の神々を信仰する神道がありました。そもそも天皇家は日本神話の神・イザナミノミコトの子孫とされていましたし、天皇家以外の氏族もそれぞれの祖先から祀ってきたカミ様がいます。そのカミ様たちと一緒に今から新しく入ってきた仏教も信仰してください、と言われてもそうはいきませんよね。有力者の物部尾輿(もののべのおこし)は仏教に猛反対しました。

しかし、同盟国の百済からおくられたものを捨てるわけにもいきません。同封されていた聖王の手紙には「インドからこちらの朝鮮半島に至るまで、どの国も仏教に帰依していますよ」とも書かれています。仏教は先進文化の証でもあったんですね。

そこで欽明天皇は仏教に賛成した有力者・蘇我稲目(そがのいなめ)に渡して様子をみることにしたのでした。

蘇我氏VS物部氏 仏教をめぐる争い

物部尾輿のような仏教反対派を廃仏派、蘇我稲目のような仏教賛成派を崇仏派と言います。

さて、蘇我稲目は向原の家を清めて、さっそく拝領した仏像を安置しました。これが日本最初の寺院です。ところが、蘇我稲目が仏像を祀った途端に疫病が流行りたくさんの人々が亡くなりました。廃仏派の物部尾輿たちは「日本の神々をないがしろにしたから疫病が起こった」と主張して蘇我稲目の寺を焼き払い、仏像を難波の堀江(大阪湾の水路)に捨ててしまいます。

ここまでの争いとなっても、欽明天皇は仏教を蘇我氏に一任していました。蘇我氏は諦めずに焼かれた寺を再建し、物部氏との深い対立は彼らの子どもの代にまで引き継がれることとなったのです。

崇仏派の勝利で仏教公認

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欽明天皇から敏達天皇へ、蘇我氏は稲目から馬子、物部氏は尾輿から守屋へと代替わりしても、仏教をめぐる諍いは相変わらずのままでした。しかし、敏達天皇の崩御をきっかけに自体は大きく急変します。

敏達天皇が亡くなると、次の天皇を決めなければなりませんでした。物部守屋は穴穂部皇子を、蘇我馬子は初瀬部皇子を天皇に推していて、両者ともに譲ることはできません。溝はどんどん深まり、とうとう武力衝突が起こったのです。

蘇我馬子が軍を率いて物部守屋の邸宅を襲い、戦いの末に物部一族を滅ぼしました(丁未の乱)。このとき、若干14歳の聖徳太子(厩戸皇子)も蘇我氏側で参戦していたんですよ。最後の戦いで「蘇我氏側が三度も退却した」と『日本書紀』に書かれているので、崇仏派はかなり苦戦したようです。絶対に負けられない戦いに、蘇我馬子は「もし勝てたら仏教を広める」と、聖徳太子も「四天王(四柱の仏教の守護神)のために寺院を建立する」と誓いを立てています。

廃仏派の物部氏が敗れたことにより、蘇我氏はこれで堂々と仏教を信仰し、広めることができるようになりました。その後、蘇我馬子は飛鳥に法興寺(後の飛鳥寺)を、聖徳太子は大阪市に四天王寺を建立します。

聖徳太子と法隆寺と国宝

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仏教大事に!十七条の憲法第二条

飛鳥文化の頂点は推古天皇の御代。トップは日本初の女性天皇と摂政・聖徳太子、そして大臣は蘇我馬子です。聖徳太子は「十七条の憲法」を発布し、その第二条には「篤く三宝を敬え」と書かれていました。「三宝」とはいわゆる「仏」「法」「僧」のことで、要するに、仏様とその教え、そして、それらを信奉する僧侶を大切にしなさい、ということです。それだけ聖徳太子は篤く仏教に帰依しているのですから、四天王寺の建立だけに終わりません。

太子、経典の注釈もできます

聖徳太子は『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の三つの経典の注釈書『法華義疏』『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』を著したとされ、まとめて『三経義疏』と呼びました。

ざっくりと解説すると、『法華経』には「出家していなくても法華経を読経したり書写したりすれば、その人や国は平安だ」と書かれ、『勝鬘経』は「どんな人にも仏となれる」と説き、『維摩経』には「煩悩や迷いがあるからこそ人は安ぎを感じることができる」と書かれています。

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存在自体が世界遺産 法隆寺

聖徳太子でもうひとつ忘れてはならないのが法隆寺です。法隆寺は7世紀に建立された寺院で、金堂には薬師如来像が安置され、その隣には五重塔があります。金堂と五重塔を中心とした西院伽藍は、現存する世界最古の木造建築物とされているのです。法隆寺の他の建物もほとんどが国宝なんですよ。

ただし、若草伽藍が発掘され、この若草伽藍こそが聖徳太子の時代にあったもともとの西院伽藍ということがわかりました。つまり、聖徳太子が建てた西院伽藍は一度焼け落ちていて、現存しているのは再建されたものなのです。

法隆寺に眠る数多の国宝と重要文化財

法隆寺の国宝は建物だけではありません。たくさんの美術工芸品が国宝として指定されています。その中でも渡来人仏師・鞍作鳥(くらつくりのとり)がつくった「釈迦三尊像」や、作者不明の「百済観音像」はおさえておきたい国宝です。

釈迦三尊像は釈迦如来を中尊(中央)とし、薬王菩薩と薬上菩薩を脇侍としています。鞍作鳥の彫刻は、北魏の影響を受けたアルカイックスマイルを浮かべた顔や杏仁の形をした目が特色で「止利様式」と呼ばれていました。

百済観音像は作者不明で「百済」と頭についているので朝鮮半島の百済から来たものかと誤解されそうですが、材料に日本産のクスノキやヒノキが使用されていることから日本国内でつくられたものだとされています。

そして、もうひとつ有名なのが「玉虫厨子」ですね。え?虫なの?と思うかもしれませんが……はい、虫の素材が使われていたんです。「厨子」とは仏像や経典を安置する箱のことで、「玉虫厨子」は高さ233センチと人が入れるほど大きな箱でした。そのビックサイズな厨子に施された金銅透彫の金具の下にタマムシの羽をはっていたから「玉虫厨子」と呼ばれたのです。

続々と建立される寺院

聖徳太子の四天王寺や法隆寺に、蘇我馬子が建立した奈良県高市明日香村に現存する法興寺、さらに百済大寺、広隆寺、善光寺と、飛鳥文化の中で立てられた寺院はたくさんあります。今挙げた寺には国宝ないし重要文化財があり、どれも日本文化にとって失うことのできない宝物です。

しかし、これらすべての寺を大和朝廷がつくったのではありません。「氏寺」と言って、特定の氏族一門が建立し、氏族の祭儀儀礼をおこなう場でした。蘇我馬子の法興寺や聖徳太子の四天王寺ももともとは氏寺として建てられ、後になって「官寺」となります。「官寺」というのは氏寺の逆で、国が維持する寺を指しました。

飛鳥文化から白鳳文化へ

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飛鳥文化は仏教公伝から大化の改新までを指し、それ以降の平城京へ遷都して奈良時代となるまでを白鳳文化と呼んで区別します。白鳳文化は唐からの影響が大きく、法律や都市計画なども唐に倣ってつくられました。

遣唐使がもたらした「律令国家」

聖徳太子の政策と言えば、「冠位十二階」「十七条の憲法」、そして、「遣隋使」が挙げられますね。遣隋使では何人もの学僧や学者を留学生として送り、さらに隋が滅んで唐が建国されると、こちらにも遣唐使を送っての文化や政治を吸収します。唐は「律令」と呼ばれる法令を敷いた律令国家です。「律」は刑法、「令」はそれ以外の行政法のことを指します。

大和朝廷は遣唐使によってこの政治システムを知り、天皇中心の律令国家を目指すようになりました。そうして、持統天皇は日本最初の法律「飛鳥浄御原令」を完成させます。ただし、こちらは律(刑法)が唐の律そのままで、日本に合っていないところが多くありました。ちゃんと刑法の伴った法律は持統天皇の孫の文武天皇になってからです。この文武天皇の「大宝律令」を日本史上初の本格的な法律とします。

碁盤の目の都・藤原京

中国には「風水」という思想があり、風水に従って碁盤の目のように道を引き、左右対称に整理された都市計画を「条坊制」と言います。

唐の長安の都にならい、日本ではじめてつくられた条坊制の都が藤原京です。ここが飛鳥時代最後の都となりました。

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現代に残る芸術たち

白鳳文化で発達したのは政治や建築だけではありません。

芸術面では法隆寺金堂壁画キトラ古墳壁画が描かれ、文芸面では漢詩文に和歌が隆盛します。奈良時代につくられた『万葉集』に登場する額田王や柿本人麻呂は、白鳳文化の時代を代表する歌人です。

日本の仏教文化のはじまり

仏教公伝から始まり、仏教の広まりとともに文化面の発達を見せた飛鳥文化。蘇我氏と物部氏の戦いは日本における文化の最初の大きなターニングポイントでしたね。最初こそ血生臭くありましたが、その後は多くの寺院が建立されて仏教を大切にする国への道を歩んでいきました。

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日本史歴史飛鳥時代

仏教伝来で大きく変化した「飛鳥文化」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

古墳時代の終わり、百済によって日本に仏教が公伝され、仏教が国教的位置づけとなって仏教文化が開花した。

今回は日本文化の最初の分岐点となった飛鳥文化について、歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。飛鳥時代の解説に入りきらなかった文化面をこちらで解説。

仏教公伝!揺れる日本の情勢

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そもそも仏教ってどういうもの?

仏教は紀元前450年ごろにインドの釈迦(しゃか)によって開かれた宗教です。キリスト教、イスラム教と並ぶ世界三大宗教のひとつですね。

仏教の世界観では、すべての生き物は無限にある前世と今世で背負った業により、六道と呼ばれる六つの世界(天道、人道、阿修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)の中から次の転生先が決められます。そして、永遠に六道を輪廻転生し、苦しみ続けるのでした。

仏教の最終的な目的は「悟り」に到達し、「悟り」によって輪廻から「解脱(解放)」されることです。解脱するとその魂は輪廻にはなく、どこにも生まれ変わりません。そうしてやっと苦しみから解放されるというものでした。

仏教、東へ行く

釈迦が説いた法(ダルマ)を書き記した経典は、インドからシルクロードを通り、やがて漢訳されて中国の人々の目に触れるようになります。それがさらに時を経て周辺諸国へ広がっていきました。日本へは朝鮮半島の百済の聖王から、大和王朝の欽明天皇へ公伝されて伝わることとなったのです。

「公伝」というのは、簡単に言うと「王様から王様へ伝えること」。いわゆる「公的なこと」という意味ですね。公的ではない個人レベルではすでに仏教は渡来人たちによって日本に伝来していました。

仏教公伝の裏に秘められた事情

ところで、どうして百済は大和朝廷に仏教を公伝したのでしょうか?「うちの宗教はすごいんだぞ!」と、自慢したかった……わけではなく、実はこれには深いわけがあったのです。

その当時、百済は周辺諸国の高句麗、新羅の両国に攻められてひっ迫した状況にありました。このままでは百済が攻め滅ぼされてしまいますから、聖王はしきりに同盟国だった大和朝廷に援軍を頼んでいるんです。もし百済が破れてしまうと、対馬や大宰府も朝鮮半島からそう遠くはありませんし、次は日本が高句麗や新羅のターゲットになりかねません。とても他人事じゃなかったんですね。

そうした中で百済が大和朝廷に仏教を公伝したのは、大陸の先進文化で国家間の絆を深め、さらには、仏教に篤く帰依していた梁の武帝の歓心を得て味方になってもらいたかったことなど、外交カードとした一面がありました。

日本に花開く仏教文化

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