「フランクリン・ルーズベルト」と言えば、世界大恐慌の時期にニューディール政策を推進したアメリカ大統領として知られている。また、第二次世界大戦が勃発した際、参戦する決断をしたのもルーズベルト大統領。大統領の在任期間が長期に及んだこともあり、歴史上のいろいろな出来事に関わった。

それじゃ、「フランクリン・ルーズベルト」が大統領に就任してから行った政策とその功罪について、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。アメリカの歴史を見ていくとき「フランクリン・ルーズベルト」を避けて通ることはできない。「フランクリン・ルーズベルト」の大統領としての在職期間は長く、関わった歴史的出来事は多い。そこで「フランクリン・ルーズベルト」に関連する出来事をまとめてみた。

フランクリン・ルーズベルトは民主党から出馬した第32代大統領

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パブリック・ドメイン, Link

フランクリン・ルーズベルトは民主党から出馬して第32代大統領として活躍した政治家。大統領選挙にて4選していますが、これは合衆国史上唯一の事例です。在職期間が長期に渡るため、世界大恐慌、ニューディール政策、第二次世界大戦など、関わった出来事は多岐にわたります。

ニューヨク州の裕福な家庭に生まれたルーズベルト

フランクリン・ルーズベルトは、1882年1月30日にニューヨーク州北部にあるハイドパークで生まれました。彼の父親はデラウェア・アンド・ハドソン鉄道の副社長を務めていたジェームズ・ルーズベルト。母親はサラ・デラノというフランス系のプロテスタント教徒でした。

1904年にハーバード大学を卒業したフランクリンは、その翌年にアナ・エレノア・ルーズベルトと結婚。アナは、第26代大統領であったセオドア・ルーズベルトの姪っ子でした。その後、コロンビア大学のロースクールを卒業したのち、ダッチェス郡から州上院議員選挙に出馬、政治家としての道を歩みはじめます。

民主党支持と共和党支持に分かれたルーズベルト家

フランクリンの出身であるルーズベルト家は二つの系統があります。第26代の大統領をつとめたセオドア・ルーズベルトが帰属するのが「オイスター・ベイ・ルーズベルト」家。伝統的に共和党を支持しており、セオドアも共和党から出馬しています。

一方、フランクリンが帰属しているのが「ハイドパーク・ルーズベルト」家。19世紀に民主党支持に変わった家系です。そのためフランクリンは民主党から出馬。フランクリンの結婚式で、亡くなった実父の代わりとしてセオドアが出席していますが、政治的には対立していました。

海軍の拡張を推進したフランクリン・ルーズベルト

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フランクリン・ルーズベルトは生涯に渡って海軍の拡張に力を注ぎました。彼の海軍に対する愛着は、政治家として駆け出しの時期に、海軍次官として仕事をしたことに由来します。

ニューヨーク州議員時代は海軍次官としてカリブ海支配に関与

ダッチェス郡から州上院に出馬したフランクリンは見事に当選。1913年にウッドロウ・ウィルソン大統領によって海軍次官に任命され、海軍とのかかわりを深めていきます。

合衆国が唱えていたのが「パン・アメリカ主義」。軍事介入することなく中南米・カリブ海諸国を支配下に置くことを目指していました。フランクリンは、ジョセファス・ダニエルズ海軍長官のもと、中南米・カリブ海諸国に向けて海軍を派遣。合衆国の支配力の拡張にかかわります。

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海軍に対して特別に強い愛情を持ち続ける

フランクリン・ルーズベルトは、海軍の予算を確保するために奔走し、議会と熱心に交渉をしたことでも知られています。さらに、軍事力を強めるための設備投資を熱心に提案しました。ヨーロッパに海軍の視察にいったとき、イギリス政治家で軍人であるウィンストン・チャーチルとの面会も果たしました。

第一次世界大戦が終わることになると海軍を解体する流れが強まります。そのようなときも、フランクリンは最後まで海軍を残すことにこだわり続けました。しかし「ニューポート・セックススキャンダル」により窮地に立たされたフランクリンと、彼の上司であるダニエルズは辞職を余儀なくされます。

世界大恐慌期にニューディール政策を推進

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フランクリン・ルーズベルトの合衆国大統領としての仕事の代名詞となるのが「ニューディール政策」。世界大恐慌により経済状況が悪化した合衆国を立て直すために、大規模な公共事業と失業対策を行いました。

大恐慌に対応できないフーバー大統領に圧勝

1928年のニューヨーク州知事選に勝利。続いて1932年に民主党から大統領選に出馬します。このときのアメリカは世界大恐慌による不況の真っただ中。対抗する共和党のフーヴァー大統領は、不況にたいして何の策を講じることもできない状態でした。

そのため大統領選の争点となったのが、いかに経済不況を脱出するのか。そこでフランクリンが訴えたのがニューディール(新規まき直し)と呼ばれる徹底的な財政の縮小と政府による経済階介入でした。

公共事業を立ち上げて失業者の救済を試みる

大統領となったフランクリン・ルーズベルトが推進したのが大規模な公共事業の立ち上げ。そこで失業者を雇用するという計画です。公共事業の対象となったのは、大型ダム、高速道路、一般道路、公共施設の建設でした。

また、芸術家を救済するために、公共事業の様子を写真にとらせたり、スケッチさせたりしまします。そのためニューディール政策の様子の記録はかなり充実したものとなりました。この政策は一定の成果をあげたものの、完全に合衆国経済を立て直すまでとはなりませんでした。

中南米・カリブ海諸国に対する「善隣外交」

Seal of the Organization of American States on a blue background.
By Sodacan - Own work This vector image includes elements that have been taken or adapted from this: x20px Organización de los Estados Americanos.svg (by Jarould)., Public Domain, Link

ニューディール政策と同時にフランクリンが熱心に推進したのが中南米・カリブ海諸国に対する干渉。表向きは「良き隣人」として交流をすすめるもの。そのため彼の外交手法は「善隣外交」と呼ばれました。

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「善隣外交」は本当に友好的な政策なのか?

「善隣外交」という言葉を聞くと平和的な外交のように感じられます。この外交手法の特徴は軍隊による領土侵攻を伴わないこと。中南米・カリブ海諸国の首脳と会議を定期的に会議を開き(パン・アメリカ会議)、そこで影響力を与えるという方法がとられました。

フランクリン・ルーズベルト大統領が善隣外交を推進した理由のひとつが共産化の流れを食い止めること。中南米・カリブ海諸国の多くは政権が不安定だったこともあり、ソ連や共産主義の影響を無視できない状況にあったからです。

善隣外交は傀儡政権に対する支配と紙一重

合衆国はもともと中南米・カリブ海諸国に海軍を派遣して支配力を保っていました。しかしフランクリン・ルーズベルト政権の時期になると、ゲリラ抗戦に苦しむようになり、海軍の撤退を余儀なくされます。その打開策として、直接関与するのではなく、傀儡政権を立ち上げて間接的に支配する方法をとるようになりました。

これまでの軍事占領を解消するかわりに、キューバにはバチスタ政権、ニカラグアにはソモサ政権を樹立させます。表向きは平和的に見えますが、実際はアメリカの支配が続く形となりました。善隣外交は、中南米・カリブ海諸国の政治的な混乱をさらに強めたと言ってもいいでしょう。

ニューディール政策の行き詰まりから第二次世界大戦に参戦

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By US Navy - U.S. Naval Historical Center Photograph #: NH 67209 : http://www.history.navy.mil/photos/sh-fornv/uk/uksh-p/pow12.htm Donation of Vice Admiral Harry Sanders, USN (Retired), 1969., Public Domain, Link

ニューディール政策で思うような効果を上げることができなかったフランクリン・ルーズベルトは第二次世界大戦に参戦することを決断。もともとフランクリンは参戦しないことを公約に掲げていました。しかし、経済回復をねらって方針を変更します。

軍需産業を拡大するために参戦を決断

ルーズベルト大統領が参戦を決めたのは、まずはアメリカが武器支援を行っていたイギリスや中国が、ヒトラー率いるドイツに負けることを避けたかったから。アメリカが支持していたイギリスは、ヨーロッパ本土にてドイツ軍に追い詰められた状況。たびたびイギリス首相から参戦を持ち掛けられていました。

この時期のルーズベルト政権は、公共事業による景気回復に陰りがみえはじめ、支持率がどんどん低下。戦争に関与することで軍事産業を拡大させ、支持率を高めようと考えたのです。

侵略する国を病人に例えた隔離演説

フランクリンは、戦争に参戦しないことを公約としていたため、その必要性を説明する必要がありました。そこで行われたのが「隔離演説」とよばれるスピーチです。侵略行為を「疫病」とたとえ、世界の共同体の健康をまもるため「病人」を「隔離」しなければならないと訴えました。

この「隔離演説」は、侵略国がどこを指すのかを明示していません。おそらく日独伊の3か国を指していると考えられています。この抽象的な演説は「レトリック演説」ともいわれ、アメリカ国内外で賛否両論をわきおこしました。

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真珠湾攻撃をきっかけに太平洋戦争に参戦

San Francisco, California. On a brick wall beside air raid shelter poster, exclusion orders were po . . . - NARA - 536018.jpg
By ドロシア・ラング - U.S. National Archives and Records Administration, パブリック・ドメイン, Link

フランクリン・ルーズベルトが開戦を表明したのが対日本戦です。以前から終戦を目指して日米交渉をすすめていましたが難航。1948年の12月、ハワイ準州オワフ島の真珠湾の米軍基地を日本軍が攻撃したことにより、太平洋戦争が開始されました。

日系人の強制収容を開始

ルーズベルト大統領が第二次世界大戦に参戦したことで大きな影響をうけたのが日系アメリカ人。ハワイのオワフ島における日系人のスパイ活動を警戒したルーズベルトは身元のリストアップを開始します。

真珠湾攻撃が開始されたことで日系人に対する対応が激化。合衆国本土にくわえ、ハワイ、ブラジルやペルーなどのエリアで、日系人が強制収容所に送られるようになりました。実際の日系人は、合衆国に対する忠誠心が高く、スパイ活動をする人は少なかったと言われています。

戦争終結後の方針を話し合うヤルタ会談を組織

フランクリン・ルーズベルトは、戦後の日本の扱いについて極秘で面会を開始。ソ連のスターリンやイギリスのチャーチルと会談をして秘密協定を結びます。それがヤルタ会談。この会談によりソ連が対日戦に参加する代わりに、日本の領土の一部を得られることが決まりました。

日ソで結ばれていた日ソ中立条約が破棄され、ソ連は日本に対して攻撃を開始します。それからすぐに日本は無条件降伏を受け入れるに至りました。ソ連への領土引き渡しに関する約束は非公式なもの。あいまいなところが多く、日本とソ連の領土問題に大きなしこりを残すことになりました。

「フランクリン・ルーズベルト」の功績は賛否両論

フランクリン・ルーズベルトというとニューディール政策が有名ですが、日本の視点からすると太平洋戦争の経緯に大きく関わっていることが見逃せません。ニューディール政策の失敗を挽回するために参戦したことで、アメリカは軍需産業の拡大に成功。不景気からの脱却に成功します。ヤルタ会談は戦争の早期終結に貢献したと評価される一方、戦争末期の混乱から領土問題をあいまいな状態にしてしまいました。フランクリン・ルーズベルは、いまでも人気がある大統領のひとり。しかしながら彼の功績は。視点を変えてみると賛否が分かれるという特徴があります。

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アメリカの歴史世界史歴史独立後

「フランクリン・ルーズベルト」はどのような政治家だった?元大学教員がその全貌をわかりやすく解説

「フランクリン・ルーズベルト」と言えば、世界大恐慌の時期にニューディール政策を推進したアメリカ大統領として知られている。また、第二次世界大戦が勃発した際、参戦する決断をしたのもルーズベルト大統領。大統領の在任期間が長期に及んだこともあり、歴史上のいろいろな出来事に関わった。

それじゃ、「フランクリン・ルーズベルト」が大統領に就任してから行った政策とその功罪について、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。アメリカの歴史を見ていくとき「フランクリン・ルーズベルト」を避けて通ることはできない。「フランクリン・ルーズベルト」の大統領としての在職期間は長く、関わった歴史的出来事は多い。そこで「フランクリン・ルーズベルト」に関連する出来事をまとめてみた。

フランクリン・ルーズベルトは民主党から出馬した第32代大統領

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フランクリン・ルーズベルトは民主党から出馬して第32代大統領として活躍した政治家。大統領選挙にて4選していますが、これは合衆国史上唯一の事例です。在職期間が長期に渡るため、世界大恐慌、ニューディール政策、第二次世界大戦など、関わった出来事は多岐にわたります。

ニューヨク州の裕福な家庭に生まれたルーズベルト

フランクリン・ルーズベルトは、1882年1月30日にニューヨーク州北部にあるハイドパークで生まれました。彼の父親はデラウェア・アンド・ハドソン鉄道の副社長を務めていたジェームズ・ルーズベルト。母親はサラ・デラノというフランス系のプロテスタント教徒でした。

1904年にハーバード大学を卒業したフランクリンは、その翌年にアナ・エレノア・ルーズベルトと結婚。アナは、第26代大統領であったセオドア・ルーズベルトの姪っ子でした。その後、コロンビア大学のロースクールを卒業したのち、ダッチェス郡から州上院議員選挙に出馬、政治家としての道を歩みはじめます。

民主党支持と共和党支持に分かれたルーズベルト家

フランクリンの出身であるルーズベルト家は二つの系統があります。第26代の大統領をつとめたセオドア・ルーズベルトが帰属するのが「オイスター・ベイ・ルーズベルト」家。伝統的に共和党を支持しており、セオドアも共和党から出馬しています。

一方、フランクリンが帰属しているのが「ハイドパーク・ルーズベルト」家。19世紀に民主党支持に変わった家系です。そのためフランクリンは民主党から出馬。フランクリンの結婚式で、亡くなった実父の代わりとしてセオドアが出席していますが、政治的には対立していました。

海軍の拡張を推進したフランクリン・ルーズベルト

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フランクリン・ルーズベルトは生涯に渡って海軍の拡張に力を注ぎました。彼の海軍に対する愛着は、政治家として駆け出しの時期に、海軍次官として仕事をしたことに由来します。

ニューヨーク州議員時代は海軍次官としてカリブ海支配に関与

ダッチェス郡から州上院に出馬したフランクリンは見事に当選。1913年にウッドロウ・ウィルソン大統領によって海軍次官に任命され、海軍とのかかわりを深めていきます。

合衆国が唱えていたのが「パン・アメリカ主義」。軍事介入することなく中南米・カリブ海諸国を支配下に置くことを目指していました。フランクリンは、ジョセファス・ダニエルズ海軍長官のもと、中南米・カリブ海諸国に向けて海軍を派遣。合衆国の支配力の拡張にかかわります。

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