幕末日本史歴史江戸時代

反幕勢力に対抗した組織「新撰組」を戦国通サラリーマンが徹底わかりやすく解説

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伊東の暗殺後は、御陵衛士をおびき寄せるために無惨にも油小路七条で放置されていたようだ。

戊辰戦争開戦

討幕派によるクーデターで王政復古の大号令が発令され、幕府を廃止し新政府として明治政府が樹立されました。また小規模な争いを繰り返しつつ1868年に1月26日に幕府軍が薩摩藩の軍艦を攻撃したことで戊辰戦争が開戦されます。

初戦となるのが鳥羽・伏見の戦いで、近藤不在の代わりに土方が新撰組の指揮を執り新政府軍と対峙していきました。この頃になると最早、刀や槍が主流の戦いではなく銃や砲撃といった近代武器が使用されています。

鳥羽・伏見では竹中重固が指揮官を務めていましたが、状況が不利になると一目散で逃げていき幕府軍は壊滅に陥りました。

甲陽鎮撫隊

鳥羽・伏見の戦いで敗戦したうえに総大将だった将軍が江戸へ逃走したことで、幕府軍の指揮が大幅に下がり離脱する隊士が相次ぎました。一方で鳥羽・伏見戦に参戦していなかった近藤は、江戸で勝海舟と会い甲州を押さえるよう指示したと共に新撰組から甲陽鎮撫隊と名前を変えていきます。

命令を指示された近藤は、命令を軽じ豪遊しながら甲州へ向かっていきました。既に甲府城は政府軍によって陥落していて甲州街道と青梅街道の間に陣を構えて開戦。幕府軍の兵は三百から百二十名ほどまで減っていたことと洋式武器の扱いなれていなかったことで幕府軍は敗北し壊滅しました。

近藤の処刑

甲州勝沼の戦いで何とか江戸まで逃れた近藤は、土方と合流していきます。江戸で戻った直後に方針巡って永倉と原田が離隊すると近藤らは流山へと陣を代えていきました。状況が悪くなっていく一方で勝ち目が無いと思った近藤は、大久保大和と名乗り政府軍に出頭し隊士らの逃走させるための時間稼ぎを行っていきます。

時代として写真があまり普及していなかったので本人と、正体が割れなければ命は助かるだろうと思っていました。しかし御陵衛士の生き残りが薩摩藩にいたことで近藤本人であると暴露され処刑されることになってしまいます。

罪状については様々あるとされていますが、坂本龍馬暗殺の罪状で斬首されてしまいました。

五稜郭で投降

image by PIXTA / 42723990

宇都宮から会津へと転戦するも状況がひっくり返ることもなく、残った隊士も数十名ほどで唯一残っていた斎藤も会津で離隊してしまいました。幕府軍は蝦夷まで退いていくこととなり榎本武揚勢と土方隊は合流し函館で政府軍と応戦していきます。

二股口では勝利しましたが、函館に進軍してきた政府軍と戦う隊士を助けようと前に出たところ銃撃を受け戦死しました。土方亡き後に新撰組は降伏し幕府軍も政府軍に投降していきます。

五稜郭で生き残った隊士は五名ほどで、政府の目をかいくぐり者や謹慎処分となった者達が新撰組の生き残りとして明治で余生を送っていきました。

新撰組 組長

一番組組長 沖田総司 天然理心流 

二番隊組長 永倉新八 神道無念流

三番隊組長 斎藤一 無外流だと思われる

四番隊組長 松原忠司 北辰心要流柔術

五番隊組長 武田勧柳斎 北辰一刀流

六番隊組長 井上源三郎 天然理心流

七番隊組長 谷三十郎 種田流槍術 神陰流

八番隊組長 藤堂平助 北辰一刀流

九番隊組長 鈴木三樹三郎 鈴木三樹三郎

十番隊組長 原田左之助 種田流槍術

幕府の警備役として誕生し幕府に裏切られた組織

不逞浪士の取り締まり役として、誕生し幕府からも認められた一大組織でした。武士に憧れて入隊した者や己の力を発揮し幕府の役に立ちたいと思うなど、様々な人物が集まり恐れられた存在。幕府のためにと思い動いてきた近藤勇らも、状況が変わると手足のように斬り捨てられ幕府から見限られたことを思うと今までしてきたことが何だったのかと思い嘆いてしまいそうな自分がいます。

今に思うと仕返しともとれる行動によって完膚なきまでに幕府軍を追い込み、新時代のために作られた政府軍が今日の政府であることを思うと新撰組の隊士らの犠牲のうえに成り立っているものであると痛感させられました。

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