徳川政権によって平和が形式上作られていたが、地域により貧困差が激しく一部の民達は迫害を受けていたようです。

これを受けて討幕運動を仕掛けていく長州・薩摩藩の志士が集い反発していた。討幕運動を阻止するために京都所司代などでは対応しきれず浪士を募り結成されたのが新撰組であったようです。

今回は歴史マニアでもあるwhat_0831と共に新撰組の結成から最後までを解説していきます。

ライター/what

戦国通でありながら、幕末にも興味があり壬生屯所に行き芹沢鴨が暗殺された現場も見てきた。新撰組について改めて組織が編成されてから幕府のために戦っていく姿を解説する。

江戸幕府に浪士組を結成

image by PIXTA / 12246654

新撰組を結成に至った経緯として、討幕志士の勢いに負けると判断した清河八郎が徳川家茂に上申したことで結成されていきました。

新撰組の前身

清河八郎が江戸幕府に上洛し徳川家茂へ討幕志士に対抗する組織が必要であるといい、受け入れたことで清河は全国に浪士を募り約二百名の人員が集まりました。選りすぐりの剣術指南役や政治家らを取締役に任命し清河は尊王派を通じて天皇配下の組織作りをしていこうとします。

また浪士組の中には、後に二大勢力とされる近藤勇や土方歳三及び芹沢鴨らも集まっていました。清河の行いについて取締役の面々で協議した結果は、計画を阻止するために京都に留まることになった浪士組。

浪士組内部の派閥

浪士組の中には近藤が道場主を務める、試衛館の人達も浪士組に参加していて沖田総司や永倉新八など後の組長となる人物達が多数いました。近藤が率いる試衛館とは別に芹沢が率いる水戸派が主に中心となり浪士組を動かしていく存在となります。

清河の計画に関しても近藤と芹沢は、あくまで将軍警護が主であるため京都へ留まることを指示していました。その他にも根岸一派なども浪士組に入っていましたが位としては取締役が決定権を持っており一番隊から七番隊で編成された隊は小頭を筆頭に組み分けされています。

芹沢は三番隊小頭を任されていて近藤らは、三番隊の一員で先番宿割を任されていました。

浪士組の消滅

創設した清河でしたが、表立った理由とは別に幕府から切り離した組織にするのが一番の目的であり尊王活動を進めていくことを狙いとしていました。しかし清河の動きを不信に思っていた芹沢らは江戸への帰還を再度促されるも反対し京都に留まるも清河派の同士達は、江戸へ向かっていきます。

1863年3月13日に出発し江戸に到着し、京都に残留していた浪士組を動かそうとするも幕府が既に清河の首を狙っていました。4月13日に幕府の刺客だった佐々木只三朗ら六名によって、清河は麻布にて暗殺され清河派の一部は処罰し創設者が居なくなったことで目的を失い幕府の命により新徴組と名を改めました。

京都に留まっていた芹沢らは、会津藩松平容保に預かりの身となり壬生浪士組と名乗っていましたが後に容保から新撰組の名を賜ります。

新撰組結成

八月二十日の変で警備活動に出て活躍したことで、新撰組の名を賜り結成当時は二十四名が連なり少人数から活動を開始していきます。三つの派閥に分かれていて芹沢率いる水戸派と近藤率いる試衛館そして根岸率いる一番隊が主体となり規模を大きくしていきました。

また壬生浪士組のことを民衆は壬生浪と呼ばれ、からかわれる存在だったようです。新撰組の主な役目としては、不逞浪士を取り締まることにありましたが原則は捕縛でした。人を斬る場合は、抵抗され逃走される恐れがあった時に刀で斬りつけたとされています。

\次のページで「新撰組への入隊方法」を解説!/

新撰組への入隊方法

身分などの出身は特になく誰でも入隊することが可能でした。志願後に直ぐに入隊というわけではなく仮入隊期間が設けられていていましたが、先輩隊士による度胸試しが行われていて臆病な言動をしたものは即座に新撰組を追放されてしまいます。

また新撰組には局中法度が掲げれていて、現代でいう就業規則に近いものが新撰組内にありました。当然ながら脱走する人も多く機密情報を、握っていたため脱走した者に待ち受けていたのは死。中には刺客の手から逃げ切り生き延びた者もいるようです。

局中法度

士道ニ背キ間敷事
武士道に背くこと局ヲ脱スルヲ不許
⇒局を脱退することは許さない
勝手ニ金策致不可
⇒勝手にお金の貸し借りはならない
勝手ニ訴訟取扱不可
⇒勝手に訴訟を取り扱ってはいけない
私ノ闘争ヲ不許
⇒私闘を禁止する

上記を違反した者は、いかなる理由であれ切腹を命じる

芹沢鴨の動向

近藤らと共に壬生浪士組から新撰組への組織を作りに関して、一役担っていた芹沢ですが出身が水戸藩だということは判明していますが幼少時代についても不明点が多いです。本名は下村嗣次といい郷士で神道無念流の免許皆伝を受け道場の師範代まで務めていました。

豪傑肌で腕っぷしも強く背丈も高いことで、狼藉に働くことが多く力士と乱闘行為を起こしていたりと問題の多い人物だったようです。一方で八木家の娘が早死してしまった時には、葬儀の準備を手伝いをしたり近所の子供達に絵描きを教えるなどおおらかな人でもありました。

芹沢派の粛清

新撰組には筆頭局長として芹沢と局長に近藤と新見錦の三名体制で、組織を取り纏めしていました。しかし芹沢の酒癖の悪さと暴力沙汰と新見の遊郭通いが、局中法度を順守する近藤派の副長だった土方達からすると納得がいかない状況となります。

1863年8月14日に料亭で遊んでいるところに、近藤派が押しかけていきこれまでの悪行の数々を言い放ち切腹を要求しました。また切腹をしなければ法度にかけて斬首するといわれます。その場で切腹することを選び、享年二十九歳という若さで亡くなりました。

芹沢鴨の暗殺

image by PIXTA / 49121437

新見を切腹させ、芹沢派を弱体化させた近藤は土方・山南敬助・沖田・原田左之助の四名で芹沢暗殺計画を実行させるべく機会を伺っていました。1863年9月16日に芹沢は宴会を開いており、その場に平山五郎と平間重助そして歳三もいましたが宴会終了後に芹沢は再び八木家で宴会を開いています。

そして雨が降り注ぐ深夜に、計画した四名にて八木家の寝室に押し入り平山を一太刀で首と胴が切り離し芹沢を斬りつけていきました。驚いた芹沢は起きて抵抗しようと刀を握るも、裸の状態で逃げ回っていくも机に足を引っ掛け刺客達に無数に斬りつけられ斬殺されます。そして事件は、長州藩の志士が行った事件として処理され真実が判明するのは、後生き残った永倉新八によって発覚しました。

新撰組の名が響き渡る

芹沢派を粛清したことで、近藤は局長として新撰組を束ねる役目を果たしていきつつ新撰組の名が天下に轟くになっていきます。また新撰組の組織が大きくなっていくきっかけでもあった池田屋事件を見ていきましょう。

京都で暗躍する志士

幕末の京都では尊攘派の志士達が、多数滞在しており八月十八日の政変をきっかけに勢力が弱まりつつあった長州藩。長州藩を巻き返しを図るべく志士達を集め密かに活動していました。この動きを幕府側も認知しており警護体制を強化させるために新撰組が警備と尊攘派の捜索をしています。

1864年の5月に道具屋と営みながら長州派の間者をしていた、古高俊太郎を隊士だった山崎丞と島田魁の二名によって居場所を突き止め会津藩へと報告しました。捕縛命令で出たことで俊太郎を捕まえると歳三による五寸釘を足に打ち付けたり、貫通した足に刺さった釘に火をあて熱せられたなどの拷問により遂に京都大火計画を自白します。

また京都を火の海にしたうえで、容保らを暗殺し孝明天皇を長州へ鎮座させるという大掛かりなことが計画されていることが判明。更に元治元年の6月ごろに強く風が吹く日を選んで決行することが分かりました。

\次のページで「長州派と戦闘」を解説!/

長州派と戦闘

image by PIXTA / 6407326

池田屋で集結しているところを近藤隊は、既に尊攘派の志士達を確認しています。近藤・沖田・永倉・藤堂平助の四名で中に乗り込む準備が完了し、残りの二十名ほどの隊士は周りを取り囲んでいました。準備が整い元治元年6月5日の二十二時頃に池田屋に四名で突入し乱戦となっていきます。

沖田は奮戦するも肺炎が悪化し戦線を離脱すると、藤堂も額を斬られ戦線を離脱。尊攘志士も新撰組と応戦していくも宮部鼎蔵らは脱出を図ろうとし、裏口へ向かうと新撰組隊士の安藤早太郎らに襲い掛かりました。

新撰組本隊が到着

沖田と藤堂が戦線離脱したことで、一時的に近藤と永倉の二人で尊攘志士と戦闘になっていました。徐々に追い込まれそうになるも土方隊すると形勢が逆転し優勢になった新撰組は、斬り捨てから捕縛へと命令変更をし応戦していきます。

凄まじい戦闘の末に、尊攘志士も闘死していく者と自刃していく者でいき新撰組が池田屋を占領し見事京都大火計画を阻止しました。激しい戦闘だったこととこのまま壬生屯所に戻ると尊攘派の闇討ちの恐れがあったことで、池田屋で夜が明けるまで滞在して屯所に帰ります。

池田屋事件後

池田屋事件後に、新撰組の名が知れ渡り尊攘派からも恐れられる存在となっていきました。その後、土方と斎藤一は江戸に出立し隊員を集める動きをしていたようです。池田屋事件後も、尊攘派だった長州志士らが京都市街地で戦闘を繰り広げることとなった蛤御門の変の鎮圧に出動していました。

蛤御門の変後に、次期新撰組参謀となる伊東甲子太郎が入隊しています。土佐藩の勤王派残党が大坂城を乗っ取る計画を未然に阻止したぜんざい事件にも谷三十郎らの活躍がありました。

新撰組総長山南敬助散る

小野派一刀流の免許皆伝での持ち主で北辰一刀流も学んでいた頃に、試衛館の近藤に挑んで敗北した後に近藤派として近藤を支えていきます。新撰組の組織改編で三番目に権力をもっていた山南は、芹沢派の粛清で活躍していた人物で浪士組時代でも副長として名を連なる優秀な人材でした。

ところが1865年に江戸に行くという手紙を残して、新撰組を脱走。脱走理由については、取り締まり方法が以前と大きく変わったことと土方らとの意見の食い違いが原因で脱走したのではないかと思われています。追っては兄として慕っていた沖田ただ一人で、簡単に見つかってしまい前川邸で本人の希望だった沖田に介錯を頼み切腹しました。

大政奉還により旧幕府軍として戦い解散

幕末になってくると政権主導に朝廷が関与し始め、幕府権力の正当性が失われつつありました。徳川十五代将軍の徳川慶喜により発令された大政奉還にて内戦を避け、幕府を再建しようとしています。しかし、大政奉還によって幕府軍と政府軍が争うきっかけとなっていきました。

油小路事件

山南は無き後で土方に次ぐ位置にいた、伊東は隊士の中でも人望が高く容姿端麗でした。攘夷ということでは、近藤らと共通していましたが勤王派でもあり方針については対立していたようです。こういったこともあり、薩摩藩の動向を調べる名目で新撰組を離脱しました。

諸説ありますが、薩摩藩と共謀して近藤らを暗殺しようと企ていたとされ同時期に脱退した斎藤が間者で御陵衛士に加わっていて近藤に筒抜け状態となります。北辰一刀流の達人だったため、警戒した近藤は資金集めと称し伊東らを七条の妾宅に招いて暗殺しました。

\次のページで「戊辰戦争開戦」を解説!/

戊辰戦争開戦

討幕派によるクーデターで王政復古の大号令が発令され、幕府を廃止し新政府として明治政府が樹立されました。また小規模な争いを繰り返しつつ1868年に1月26日に幕府軍が薩摩藩の軍艦を攻撃したことで戊辰戦争が開戦されます。

初戦となるのが鳥羽・伏見の戦いで、近藤不在の代わりに土方が新撰組の指揮を執り新政府軍と対峙していきました。この頃になると最早、刀や槍が主流の戦いではなく銃や砲撃といった近代武器が使用されています。

鳥羽・伏見では竹中重固が指揮官を務めていましたが、状況が不利になると一目散で逃げていき幕府軍は壊滅に陥りました。

甲陽鎮撫隊

鳥羽・伏見の戦いで敗戦したうえに総大将だった将軍が江戸へ逃走したことで、幕府軍の指揮が大幅に下がり離脱する隊士が相次ぎました。一方で鳥羽・伏見戦に参戦していなかった近藤は、江戸で勝海舟と会い甲州を押さえるよう指示したと共に新撰組から甲陽鎮撫隊と名前を変えていきます。

命令を指示された近藤は、命令を軽じ豪遊しながら甲州へ向かっていきました。既に甲府城は政府軍によって陥落していて甲州街道と青梅街道の間に陣を構えて開戦。幕府軍の兵は三百から百二十名ほどまで減っていたことと洋式武器の扱いなれていなかったことで幕府軍は敗北し壊滅しました。

近藤の処刑

甲州勝沼の戦いで何とか江戸まで逃れた近藤は、土方と合流していきます。江戸で戻った直後に方針巡って永倉と原田が離隊すると近藤らは流山へと陣を代えていきました。状況が悪くなっていく一方で勝ち目が無いと思った近藤は、大久保大和と名乗り政府軍に出頭し隊士らの逃走させるための時間稼ぎを行っていきます。

時代として写真があまり普及していなかったので本人と、正体が割れなければ命は助かるだろうと思っていました。しかし御陵衛士の生き残りが薩摩藩にいたことで近藤本人であると暴露され処刑されることになってしまいます。

罪状については様々あるとされていますが、坂本龍馬暗殺の罪状で斬首されてしまいました。

五稜郭で投降

image by PIXTA / 42723990

宇都宮から会津へと転戦するも状況がひっくり返ることもなく、残った隊士も数十名ほどで唯一残っていた斎藤も会津で離隊してしまいました。幕府軍は蝦夷まで退いていくこととなり榎本武揚勢と土方隊は合流し函館で政府軍と応戦していきます。

二股口では勝利しましたが、函館に進軍してきた政府軍と戦う隊士を助けようと前に出たところ銃撃を受け戦死しました。土方亡き後に新撰組は降伏し幕府軍も政府軍に投降していきます。

五稜郭で生き残った隊士は五名ほどで、政府の目をかいくぐり者や謹慎処分となった者達が新撰組の生き残りとして明治で余生を送っていきました。

新撰組 組長

一番組組長 沖田総司 天然理心流 

二番隊組長 永倉新八 神道無念流

三番隊組長 斎藤一 無外流だと思われる

四番隊組長 松原忠司 北辰心要流柔術

五番隊組長 武田勧柳斎 北辰一刀流

六番隊組長 井上源三郎 天然理心流

七番隊組長 谷三十郎 種田流槍術 神陰流

八番隊組長 藤堂平助 北辰一刀流

九番隊組長 鈴木三樹三郎 鈴木三樹三郎

十番隊組長 原田左之助 種田流槍術

幕府の警備役として誕生し幕府に裏切られた組織

不逞浪士の取り締まり役として、誕生し幕府からも認められた一大組織でした。武士に憧れて入隊した者や己の力を発揮し幕府の役に立ちたいと思うなど、様々な人物が集まり恐れられた存在。幕府のためにと思い動いてきた近藤勇らも、状況が変わると手足のように斬り捨てられ幕府から見限られたことを思うと今までしてきたことが何だったのかと思い嘆いてしまいそうな自分がいます。

今に思うと仕返しともとれる行動によって完膚なきまでに幕府軍を追い込み、新時代のために作られた政府軍が今日の政府であることを思うと新撰組の隊士らの犠牲のうえに成り立っているものであると痛感させられました。

" /> 反幕勢力に対抗した組織「新撰組」を戦国通サラリーマンが徹底わかりやすく解説 – ページ 2 – Study-Z
幕末日本史歴史江戸時代

反幕勢力に対抗した組織「新撰組」を戦国通サラリーマンが徹底わかりやすく解説

新撰組への入隊方法

身分などの出身は特になく誰でも入隊することが可能でした。志願後に直ぐに入隊というわけではなく仮入隊期間が設けられていていましたが、先輩隊士による度胸試しが行われていて臆病な言動をしたものは即座に新撰組を追放されてしまいます。

また新撰組には局中法度が掲げれていて、現代でいう就業規則に近いものが新撰組内にありました。当然ながら脱走する人も多く機密情報を、握っていたため脱走した者に待ち受けていたのは死。中には刺客の手から逃げ切り生き延びた者もいるようです。

局中法度

士道ニ背キ間敷事
武士道に背くこと局ヲ脱スルヲ不許
⇒局を脱退することは許さない
勝手ニ金策致不可
⇒勝手にお金の貸し借りはならない
勝手ニ訴訟取扱不可
⇒勝手に訴訟を取り扱ってはいけない
私ノ闘争ヲ不許
⇒私闘を禁止する

上記を違反した者は、いかなる理由であれ切腹を命じる

芹沢鴨の動向

近藤らと共に壬生浪士組から新撰組への組織を作りに関して、一役担っていた芹沢ですが出身が水戸藩だということは判明していますが幼少時代についても不明点が多いです。本名は下村嗣次といい郷士で神道無念流の免許皆伝を受け道場の師範代まで務めていました。

豪傑肌で腕っぷしも強く背丈も高いことで、狼藉に働くことが多く力士と乱闘行為を起こしていたりと問題の多い人物だったようです。一方で八木家の娘が早死してしまった時には、葬儀の準備を手伝いをしたり近所の子供達に絵描きを教えるなどおおらかな人でもありました。

芹沢派の粛清

新撰組には筆頭局長として芹沢と局長に近藤と新見錦の三名体制で、組織を取り纏めしていました。しかし芹沢の酒癖の悪さと暴力沙汰と新見の遊郭通いが、局中法度を順守する近藤派の副長だった土方達からすると納得がいかない状況となります。

1863年8月14日に料亭で遊んでいるところに、近藤派が押しかけていきこれまでの悪行の数々を言い放ち切腹を要求しました。また切腹をしなければ法度にかけて斬首するといわれます。その場で切腹することを選び、享年二十九歳という若さで亡くなりました。

芹沢鴨の暗殺

image by PIXTA / 49121437

新見を切腹させ、芹沢派を弱体化させた近藤は土方・山南敬助・沖田・原田左之助の四名で芹沢暗殺計画を実行させるべく機会を伺っていました。1863年9月16日に芹沢は宴会を開いており、その場に平山五郎と平間重助そして歳三もいましたが宴会終了後に芹沢は再び八木家で宴会を開いています。

そして雨が降り注ぐ深夜に、計画した四名にて八木家の寝室に押し入り平山を一太刀で首と胴が切り離し芹沢を斬りつけていきました。驚いた芹沢は起きて抵抗しようと刀を握るも、裸の状態で逃げ回っていくも机に足を引っ掛け刺客達に無数に斬りつけられ斬殺されます。そして事件は、長州藩の志士が行った事件として処理され真実が判明するのは、後生き残った永倉新八によって発覚しました。

新撰組の名が響き渡る

芹沢派を粛清したことで、近藤は局長として新撰組を束ねる役目を果たしていきつつ新撰組の名が天下に轟くになっていきます。また新撰組の組織が大きくなっていくきっかけでもあった池田屋事件を見ていきましょう。

京都で暗躍する志士

幕末の京都では尊攘派の志士達が、多数滞在しており八月十八日の政変をきっかけに勢力が弱まりつつあった長州藩。長州藩を巻き返しを図るべく志士達を集め密かに活動していました。この動きを幕府側も認知しており警護体制を強化させるために新撰組が警備と尊攘派の捜索をしています。

1864年の5月に道具屋と営みながら長州派の間者をしていた、古高俊太郎を隊士だった山崎丞と島田魁の二名によって居場所を突き止め会津藩へと報告しました。捕縛命令で出たことで俊太郎を捕まえると歳三による五寸釘を足に打ち付けたり、貫通した足に刺さった釘に火をあて熱せられたなどの拷問により遂に京都大火計画を自白します。

また京都を火の海にしたうえで、容保らを暗殺し孝明天皇を長州へ鎮座させるという大掛かりなことが計画されていることが判明。更に元治元年の6月ごろに強く風が吹く日を選んで決行することが分かりました。

\次のページで「長州派と戦闘」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: