今回は赤穂事件を取り上げるぞ。12月になると盛り上がる忠臣蔵の元の話ですが、実話だったのか。

その辺のところを江戸時代が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸時代から明治維新が大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、赤穂事件について5分でわかるようにまとめた。

1-1、赤穂事件とは

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赤穂事件(あこうじけん)は、江戸時代半ばの元禄年間に、江戸城松之大廊下で高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央(よしなお)に斬りつけた播磨赤穂藩5万石の藩主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩(ながのり)が、幕府により切腹に処せられお家断絶とされたことを発端に、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47人が2年弱後に本所の吉良邸に押し入って吉良義央を討ち果たした後、幕府の命で切腹となった事件のことです。

1-2、事件の背景

この事件が起こった元禄時代は5代将軍綱吉の治世。江戸幕府開闢以来100年近く経っていて、戦争もなく平和な時代。戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んじた文治政治が定着した頃で、生類憐みの令で生き物を大事にしたり、近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉があらわれて文芸が盛んとなった、好景気な時代でした。

1-3、事件の発端

事件があったのは元禄14年(1701年)で、江戸城で将軍綱吉の母桂昌院に従一位の贈呈がされることになり、天皇の使者である勅使を迎えて行われる儀式のために、吉良上野介が勅使饗応役に、その補佐として浅野内匠頭がを仰せつかったことが発端に。

2-1、事件の概要

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By 不明 - 花岳寺所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

元禄14年3月14日(1701年4月21日)、浅野内匠頭長矩が江戸城松之大廊下で突然、吉良上野介義央に斬りつけました。理由は、浅野が吉良に対して何らかの遺恨が原因ということで、はっきりとしたことは不明。
当時は、浅野内匠頭36歳、吉良上野介60歳、儀式用の小刀で背中と眉間をいきなり斬りつけ、浅野は居合わせた留守居番梶川頼照に取り押さえられ、吉良は高家品川伊氏、畠山義寧らの手で別室へ運ばれ、外科医の治療で額の傷は残ったが命に別状なし。吉良は目付大久保忠鎮らの取り調べを受けたが、切りつけられる覚えがないと答えたということ。

しかし、捕らえられた浅野が取り調べに対して何と答えたか、確かな史料はなく、取り調べが行われたかも確認できないということで、母の叙勲に関係する儀式を台無しにされたと親孝行な将軍綱吉は激怒、浅野は即日切腹、浅野家は断絶に。

そのうえに普通ならば喧嘩両成敗となるところを、浅野が一方的に斬りつけ、吉良は刀を抜いていなかったということで、吉良はおとがめなしで将軍綱吉からいたわりの言葉すらもらう有様。

江戸城内や幕府の行事における刃傷事件はこれまでにも何件も発生していたが、即日切腹の例は浅野長矩が初めてだそう。

高家とは
吉良上野介は旗本並みの石高ですが、高家(こうけ)という家格。高家とは、江戸幕府で儀式や典礼を司る役職のことで、高家職に就くことのできる高家旗本は、主に室町時代の足利氏一門や旧守護職の上杉、京極、著名な戦国大名の子孫である織田、大友など。

江戸時代の大名や旗本は、基本的に関が原や大坂の陣で徳川方に味方して功績があった家がその功績に応じて相応の石高をもらうシステムですが、この高家というのは名門の武家貴族というべき家柄で石高をもらっているという感じ。吉良家は足利家の流れをくむ名門武家貴族で、先祖が豊臣秀吉の正室寧々の妹の嫁ぎ先の分家という赤穂浅野家にマウンティングするのは、そういう家柄誇りからということ。

2-2、赤穂事件の原因

浅野が吉良に斬りかかった理由は、史実としては不明だそう。「この前の遺恨覚えたか」という松の廊下での浅野の有名なセリフは、事実かどうかわからないということ。ただ、吉良が賄賂をとるので有名だったので、浅野が吉良から要求された賄賂を拒否し、吉良に嫌がらせをされたのが原因という見方が一般的で、ドラマなどではそう描かれていていじめ原因説が定着。もうひとつは、浅野が癇癪餅で精神疾患の遺伝を持っていたため、その日に吉良に言われたことで突発的な発作のように襲い掛かった説も。

そして幕府が吉良を処罰しなかったこと、内匠頭が吉良を殺せなかったことで、浅野家臣たちは吉良を討って主君の無念を晴らすという仇討ちに発展。

\次のページで「3-1、赤穂藩士の反応」を解説!/

赤穂事件以外の江戸城内での刃傷沙汰
じつは寛永5年(1628年)8月の豊島明重事件、貞享元年(1684年)8月の稲葉正休事件、享保10年(1725年)7月の水野忠恒事件、延享4年(1747年)8月の板倉勝該事件、天明4年(1784年)3月の佐野政言事件、文政6年(1823年)4月の千代田の刃傷事件など江戸城での殺傷事件は9件あり、なかには人違いで殺されちゃった気の毒な細川藩主も。

3-1、赤穂藩士の反応

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By 不明 - 赤穂大石神社所蔵。, パブリック・ドメイン, Link

内匠頭の切腹後、知らせを受けた国元の赤穂の藩士たちは赤穂城を明け渡す前に、籠城、切腹か否か、明け渡した後は、内匠頭の跡継ぎで弟の浅野大学にお家再興、または主君の仇討をするのかと、藩士たちの対立があり、会議が繰り返され、筆頭家老大石内蔵助良雄が彼らをまとめていくことに。

3-2、討ち入りまでの経過と実行に至るまで

元禄13年(1700年)頃、5万石の赤穂藩士は全部で何人くらいだったかといえば、足軽などを入れて約1250人ほど、武士階級は550人ほどだそう。それにそれぞれ家族がいるのでその4倍ほどの人数が浅野家断絶で路頭に迷うことに。

同じ赤穂藩でも江戸詰の家臣に堀部安兵衛などの強硬派(江戸急進派)がいて、吉良討ち取るべく吉良邸に討ち入ろうと試みたが警戒が厳しくて断念、そこで赤穂へ行って大石内蔵助に籠城を説いたが大石は反対、赤穂城は予定通り幕府に明け渡されることに。

この時点ではまだ内匠頭の弟で後継ぎの浅野大学にお家再興の望みをかけていた大石は、急進派の吉良討ち入りを抑えるために何度も会議を開いたそう。そして浅野大学が閉門となり広島の浅野本家にお預かりで、お家再興が事実上なくなったので、大石は再び会議を開いて討ち入りを表明、血判を回して討ち入りの意志を確認したものをメンバーに。

大石以下47人の赤穂浪士は、元禄15年12月14日(1703年1月30日)未明、吉良邸に侵入し、吉良上野介を討ちとったということ。吉良側は屋敷にいた約150人のうち45人が死傷、一方、赤穂浪士は2人が負傷したのみ、わずか2時間余りの出来事。四十七士は吉良邸から引き揚げ、吉良の首を泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に供えたそう。尚、引き上げの最中に四十七士のうちの寺坂吉右衛門が消えたのが謎に。

4-1、事件の結末

その後、赤穂浪士の吉田と富森は、大目付の仙石伯耆守のところへ赴いて討ち入りの報告と自首をし、仙石伯耆守は月番老中の稲葉丹後守正往に報告、登城して幕府に討ち入りの件を将軍綱吉らに伝えたということ。 幕府は赤穂浪士らを、細川越中守綱利、松平隠岐守定直、毛利甲斐守綱元、水野監物忠之の4大名家に分けて御預けに。

4-2、赤穂浪士は全員切腹処分

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幕府は処分を議論した結果、元禄16年2月4日 (旧暦) (1703年3月20日)、彼らを切腹処分に決定。罪状は「主人の仇を報じ候と申し立て」て「徒党」を組んで吉良邸に「押し込み」を働いたのが理由。 しかし通常、このような罪を犯した者には斬首の刑だが、武士の体面を重んじた切腹という処断が恩情だそう。

元禄16年2月4日 (旧暦) (1703年3月20日)、幕府の命により、赤穂浪士達はそれぞれのお預かりの大名屋敷で切腹。切腹の場所は庭先であっても最高の格式である畳3枚、または2枚が敷かれたということ。

4-3、吉良義周はお預けに

尚、吉良上野介は元禄15年(1702年)3月23日にはお役御免となり、8月19日には呉服橋の屋敷を召し上げられて江戸郊外の本所松坂町に転居。大名屋敷の多い呉服橋と比べて人気のない郊外だった本所は、仇討ちに適した場所であったそうで、幕府が討ち入りをしやすくするために吉良を郊外に幕府が移したのではないかという噂が流れたほど。

また、吉良家のその後は、赤穂浪士の切腹と同日に吉良家を継いだ孫の吉良左兵衛義周(よしちか)が、信濃高島藩主諏訪安芸守忠虎にお預けに。義周の処分は、義父義央が刃傷事件のときに「内匠頭に対して卑怯の至り」であり、赤穂浪士討ち入りのときも「未練」のふるまいがあり、「親の恥辱は子として遁れ難く」という理由。これは、幕府が赤穂浪士の討ち入り後、松の廊下のときはおとがめなしだった吉良に対する処分訂正になるそう。尚、事件当時18歳だった義周はその後21歳で亡くなり、吉良家は断絶。

4-4、赤穂浪士の遺児の処罰と赦免

江戸時代は連座制なので、誰かが罪を犯すとその人の家族や一族も罪に問われたのですが、赤穂浪士の遺児らも、15歳以上の男子は伊豆大島に遠島、15歳未満の男子は縁者に預けられて15歳になるのを待って遠島という処分、女子は構いなし。遠島になった15歳以上の男子は4人(吉田伝内、中村忠三郎、間瀬惣八、村松政右衛門)だが、赤穂浪士の名声は伊豆大島まで届いていた為に待遇は良かったということで、後に赦免、大赦に。

\次のページで「4-5、浅野家の再興と移封」を解説!/

4-5、浅野家の再興と移封

宝永6年(1709年)に将軍綱吉が亡くなると恩赦として、内匠頭の跡継ぎの弟浅野大学長広も赦免され、安房国朝夷郡平郡500石の旗本として存続することに。

赤穂事件の意味
それまで仇討は多々あったが、父母兄弟を中心とした親族のための仇討がほとんどで、なんと今回のような主君の仇討は初のケース
そのため、幕府でも仇討ちとして認められるか議論沸騰、結論に至らぬまま約2カ月半後、最終的には将軍様のおひざ元である江戸で「徒党を組んで押し込んだ」という罪状で切腹に。大石らは仇討として行うために、討ち入り前の口上書に、「君父の讐、共に天を戴くべからず」としたそう。

仇討ちが成功すれば、人々から絶大な賞賛を受け、武士は再仕官の口が引く手あまたとなったということだし、大石らがお手本にしたと思われる、寛文12年2月3日(西暦1672年3月2日)に宇都宮藩脱藩の奥平源八ら一族40数名が、父の仇である同藩の元藩士奥平隼人を討った浄瑠璃坂の仇討ちも、結果として、奥平源八らは死一等を減じて伊豆大島への流罪処分になり、6年後に恩赦によって赦免され彦根藩井伊家他に召抱えられたそう。

なので、大石内蔵助らは主君の仇討ちを行うことで再仕官の道を求めたという説もありますが、結果的には切腹となったが、主君のためという新たな仇討の概念を加えて、武士の生き方や道徳を変えるという大きな影響を与えたことに。

5-1、色々な逸話

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後日談などとても興味深い色々な逸話があります。

5-2、浅野内匠頭の叔父の類似事件

赤穂事件から遡ること21年前、増上寺刃傷事件が勃発。

これは延宝8年(1680年)、4代将軍家綱の77日法要に際して、浅野内匠頭の母方の叔父で当時26歳の内藤忠勝と、以前から仲の悪かった永井尚長が、芝増上寺参詣口門の警備を命ぜられたが、尚長は忠勝より上席のため、忠勝を侮って老中からの翌日の指示を忠勝に見せず、見せるよう求めても無視された忠勝が脇差を抜いて尚長に迫り、逃げる尚長の長袴を踏んで転んだところを刺殺した事件。

この際、忠勝は遠山頼直に拘束された後に切腹、御家断絶に。忠勝は癇癪持ちでしかも内藤家は精神病の家系、忠勝の兄忠次は精神障害のために家督を辞退したらしく、忠勝にもその障害があったのでは、また甥である浅野内匠頭も癇癪持ちが遺伝したのではないかといわれています。

5-3、松の廊下は暗かった

現場の松の大廊下は江戸城内にあった大廊下のひとつで、本丸御殿の大広間から将軍との対面所である白書院に至る全長約50m、幅4mほどの畳敷の廊下。廊下に沿った襖に松と千鳥の絵が描かれていて、某テレビ局の番組で見た3Dの江戸城再現映像では、雨戸が閉まっていて昼なお薄暗く、廊下の隅には行灯が置いてあったということ。なので、若い浅野が無防備の老人の吉良を怪我させただけの不思議については、薄暗くてはっきり見えず間合いがつかめなかったせいではという新説が。

5-4、細川家のVIP対応

赤穂浪士たちを預かった大名4家のうち熊本藩細川家の待遇がものすごく良かったということ。というのは、熊本藩細川家4代目の細川綱利は、数え年9歳で赤穂藩の藩主となった浅野内匠頭長矩の後見をしていたこともあり、長矩の仇討をした大石内蔵助らを敬意を持って迎えたそう。

まず、大石ら17人を家老ら847人に籠を仕立てて医師などもつれて迎えに行かせ、午前2時過ぎに屋敷に到着後、当年59歳の綱利自らが待ちかねて対面、すぐに義士達に二汁五菜の料理、菓子、茶などを出させ、罪人の預かり部屋とは思えないような庭に面した部屋を与えたということ、

またお風呂は1人1人湯を入れ替え、後日、老中の許可を得て酒やたばこも振舞い、毎日の料理も御馳走攻め。大石らから贅沢すぎるので普通の食事にしてほしいと嘆願されたほどの好待遇で敬意をもって接したということ。

江戸庶民はこの細川家の厚遇を大歓迎、他家にお預かりの浪士たちは罪人として扱われたのを揶揄したので、他家もその後は細川家を見習って厚遇するようになったということ。

細川綱利は大石らにすっかり感銘して幕府に助命を嘆願、助命されれば預かった者全員をそのまま細川家で召抱えたい希望まで出したそう。さらに綱利は2度も自ら愛宕山にお参りして浪士たちの助命祈願まで行い、願掛けのつもりでお預かりの間は精進料理しかとらなかったということ。

しかし年改まって元禄16年(1703年)2月に、赤穂浪士たちの切腹が決まると、綱利は「軽き者の介錯では義士達に対して無礼である」と、大石良雄は重臣の安場一平に、それ以外の者たちも小姓組から介錯人を厳選。

尚、義士達は切腹後、泉岳寺に埋葬、綱利は金30両の葬儀料と金50両の布施を泉岳寺に送り、幕府から義士達の血で染まった庭を清める使者が訪れたときも、「彼らは細川家の守り神である」として断り、家臣達には庭を終世そのままで残すように命じ、客人には屋敷の名所として紹介したそうです。

細川家での接待役のひとり堀内伝右衛門は「赤穂義臣対話」「堀内伝右衛門覚書」を残しているということ。

\次のページで「5-5、謎の寺坂吉右衛門」を解説!/

5-5、謎の寺坂吉右衛門

四十七士のひとり寺坂吉右衛門は、討ち入りに加わったにも関わらず、泉岳寺に引き上げた時には姿を消したことは当初から謎で、逃亡した、いや密命を帯びて消えたという説が。

討ち入りの件を広島浅野本家、内匠頭未亡人の遥泉院、浅野大学らに報告させるために逃がしたのではないか、寺坂は足軽なので、報告役として適任だったという説があり、討ち入り後の寺坂は、大目付仙石久尚の決定で一切の追手はかからず。

その後は赤穂浪士の一人で寺坂の主人である吉田兼亮の娘婿の伊藤治興に奉公し、伊豆大島に遠島に処された兼亮の遺児吉田兼直にも忠義を尽くして、遠島の際は見送り、赦免後には出迎え、伊藤家までの護送を行ったということ。
寺坂は、その後伊藤家を離れ、享保8年(1723年)3月頃には江戸麻布の曹渓寺で寺男をつとめて、同年6月頃に寺の口利きで土佐藩主山内家の分家麻布山内家の3代山内豊清に仕えたそう。延享4年(1747年)に83歳で病死。

5-6、大石内蔵助の遺児は浅野本家に仕官

大石内蔵助には、一緒に討ち入りした長男主税良金の他に、娘が2人と息子がいましたが、長女次男は早世。
尚、内蔵助の妻おりくの実家は、但馬国豊岡藩京極家の家老石束家で、内蔵助はおりくと家族に累が及ばないように離縁、おりくは実家の豊岡へ戻りましたが、離縁後に生まれた3男大三郎良恭(よしやす)は後に広島の浅野宗家に1500石で召抱えられ、次女ルリと母おりくも一緒に広島へ。
大三郎は家中の年寄役浅野帯刀の娘と結婚して、旗奉行次席、番頭、表番頭を歴任、69歳で死去。しかし何度も妻と離別したとか、顔も知らない父や兄の七光りで士官がかなったことで葛藤もあり、また嫉妬されたりと不遇な話もあり。

次女ルリは藩主浅野吉長の命で広島藩家臣浅野長十郎信之の妻となり2男4女が誕生、53歳で死去。おりくは、落飾して香林院または青林院となり、広島藩から隠居料100石を支給されて元文元年(1736年)に68歳で死去。

赤穂事件のほとぼりが冷めた後、内蔵助の息子に限らず、赤穂浪士に縁のある男子を召し抱えるのが流行、反面討ち入りに加わらなかった元赤穂藩士、その子孫はそしりを受けたということ。

平和な時代に武士の筋を通した赤穂事件

発端は賄賂が絡んだ吉良上野介のいじめによって引き起こされたか、浅野内匠頭のストレスによる癇癪からの刃傷沙汰なのか、また浅野内匠頭は申し開きもなく即日切腹なのに、いじめた吉良上野介はおとがめなし、この不平等な対応に対し、昼行燈と言われた頼りなさそうな中年の小男大石内蔵助が中心となり、主君の無念を晴らすために47人の赤穂浪士が1年後に仇討ちを敢行。

まさにドラマのような展開です。
赤穂事件はその後、忠臣蔵の物語となり、日本では知らない人がいないくらい有名なお話となって語り伝えられていますが、調べると色々な話があり、細川の殿様の彼らへの待遇などまさにヒーローを迎えるファンの心境そのもの。また彼らも純粋に主君の仇討でなく家臣の再仕官が目的だったという話もあるそう。

残念ながら切腹となったが、今に至るまで後世に名を残し義士とほめたたえられ続けているのは、まさに武士冥利に尽きるのではないでしょうか。

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日本史歴史江戸時代

仮名手本忠臣蔵のお話の元となった「赤穂事件」赤穂浪士の討ち入りについて歴女がわかりやすく解説

今回は赤穂事件を取り上げるぞ。12月になると盛り上がる忠臣蔵の元の話ですが、実話だったのか。

その辺のところを江戸時代が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸時代から明治維新が大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、赤穂事件について5分でわかるようにまとめた。

1-1、赤穂事件とは

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赤穂事件(あこうじけん)は、江戸時代半ばの元禄年間に、江戸城松之大廊下で高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央(よしなお)に斬りつけた播磨赤穂藩5万石の藩主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩(ながのり)が、幕府により切腹に処せられお家断絶とされたことを発端に、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47人が2年弱後に本所の吉良邸に押し入って吉良義央を討ち果たした後、幕府の命で切腹となった事件のことです。

1-2、事件の背景

この事件が起こった元禄時代は5代将軍綱吉の治世。江戸幕府開闢以来100年近く経っていて、戦争もなく平和な時代。戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んじた文治政治が定着した頃で、生類憐みの令で生き物を大事にしたり、近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉があらわれて文芸が盛んとなった、好景気な時代でした。

1-3、事件の発端

事件があったのは元禄14年(1701年)で、江戸城で将軍綱吉の母桂昌院に従一位の贈呈がされることになり、天皇の使者である勅使を迎えて行われる儀式のために、吉良上野介が勅使饗応役に、その補佐として浅野内匠頭がを仰せつかったことが発端に。

2-1、事件の概要

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By 不明 – 花岳寺所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

元禄14年3月14日(1701年4月21日)、浅野内匠頭長矩が江戸城松之大廊下で突然、吉良上野介義央に斬りつけました。理由は、浅野が吉良に対して何らかの遺恨が原因ということで、はっきりとしたことは不明。
当時は、浅野内匠頭36歳、吉良上野介60歳、儀式用の小刀で背中と眉間をいきなり斬りつけ、浅野は居合わせた留守居番梶川頼照に取り押さえられ、吉良は高家品川伊氏、畠山義寧らの手で別室へ運ばれ、外科医の治療で額の傷は残ったが命に別状なし。吉良は目付大久保忠鎮らの取り調べを受けたが、切りつけられる覚えがないと答えたということ。

しかし、捕らえられた浅野が取り調べに対して何と答えたか、確かな史料はなく、取り調べが行われたかも確認できないということで、母の叙勲に関係する儀式を台無しにされたと親孝行な将軍綱吉は激怒、浅野は即日切腹、浅野家は断絶に。

そのうえに普通ならば喧嘩両成敗となるところを、浅野が一方的に斬りつけ、吉良は刀を抜いていなかったということで、吉良はおとがめなしで将軍綱吉からいたわりの言葉すらもらう有様。

江戸城内や幕府の行事における刃傷事件はこれまでにも何件も発生していたが、即日切腹の例は浅野長矩が初めてだそう。

高家とは
吉良上野介は旗本並みの石高ですが、高家(こうけ)という家格。高家とは、江戸幕府で儀式や典礼を司る役職のことで、高家職に就くことのできる高家旗本は、主に室町時代の足利氏一門や旧守護職の上杉、京極、著名な戦国大名の子孫である織田、大友など。

江戸時代の大名や旗本は、基本的に関が原や大坂の陣で徳川方に味方して功績があった家がその功績に応じて相応の石高をもらうシステムですが、この高家というのは名門の武家貴族というべき家柄で石高をもらっているという感じ。吉良家は足利家の流れをくむ名門武家貴族で、先祖が豊臣秀吉の正室寧々の妹の嫁ぎ先の分家という赤穂浅野家にマウンティングするのは、そういう家柄誇りからということ。

2-2、赤穂事件の原因

浅野が吉良に斬りかかった理由は、史実としては不明だそう。「この前の遺恨覚えたか」という松の廊下での浅野の有名なセリフは、事実かどうかわからないということ。ただ、吉良が賄賂をとるので有名だったので、浅野が吉良から要求された賄賂を拒否し、吉良に嫌がらせをされたのが原因という見方が一般的で、ドラマなどではそう描かれていていじめ原因説が定着。もうひとつは、浅野が癇癪餅で精神疾患の遺伝を持っていたため、その日に吉良に言われたことで突発的な発作のように襲い掛かった説も。

そして幕府が吉良を処罰しなかったこと、内匠頭が吉良を殺せなかったことで、浅野家臣たちは吉良を討って主君の無念を晴らすという仇討ちに発展。

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