日本史歴史江戸時代

寛政の改革を成し遂げた「松平定信」吉宗の孫でもある彼について歴女がわかりやすく解説

3-2、囲米(かこいまい)

定信は、飢饉に備えるために、諸藩の大名に社倉、義倉を築かせて穀物の備蓄を命令。

3-3、江戸では七分積金

定信は、江戸の町内で土地を貸している地主が負担する町入用(ちょういりよう)と呼ばれる町の運営費用のなかから、節約して余った分の70%を積み立てておく、七分積金制度を実施。最初は幕府からの1万両を加えて基金にしたということ。このお金は、町内での囲い米の蔵の運営費用、飢饉や米価高騰、病気や老齢で生活困窮者の救済に使われました。

尚、この七分積金は江戸幕府瓦解後、明治新政府に170万両とも言われる金額が引き継がれ、渋沢栄一が関与した貧民のための養育院やガス事業などの東京整備の資金源に役立てられたということ

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おおっ、これはいい制度だな。しかも80年後の明治にそんな大金が残っていたなんてすごいなんてもんじゃないだろ。

3-4、人足寄せ場設立と旧里帰農令

飢饉のときの一揆や打ちこわし、盗みなどの扇動者は、基本的に生活苦で農村から江戸へ蘭有してきた無宿人たちなので、
このような無宿人の手に職を付けて自立させるために、石川島人足寄場を作ったのだということ。

尚、この人足寄場の建設を立案し設立に携わったのは「鬼平犯科帳」のモデルとなった火付け盗賊改め役の長谷川平蔵

また、当時、江戸へ大量に流入してきた地方出身の農民達に資金を与え、農村へ移動して帰農を奨励。定信は商品作物の栽培を禁止、儲かる農作物よりとにかく食べられる農作物の栽培に専念して、自給自足の生活を確立させ、米が凶作のときは別の農作物で乗り切るように、また二毛作を奨励したそう。

また、農村で飢饉が起きると食料不足で子育てが困難になるので、小児養育金を支給したり、新たな農地開拓のための開発資金も支給しています。

3-5、棄捐令と猿屋町会所

旗本、御家人などの救済、札差に対して6年以上前の債権破棄と5年以内になされた借金の利子引き下げを命令。そして棄捐令で損害を受けた札差などについては、猿屋町会所を設けて幕府が資金の貸付を行って救済、今後の札差事業に支障がないように取り計らったということ。

3-6、田沼時代の重商主義を改め、株仲間や専売制を廃止

定信は株仲間を廃止、米価統制のため幕府直営の勘定所御用達を設立、江戸の有力豪商を登用して、米価の調整に当たらせる政策を行い。米の価格を幕府が統制する政策を行いました。そして米価抑制のために、米を大量に使う造酒業に制約を加え、生産量を3分の1に削減させたという話も。

3-7、寛政異学の禁

定信は、改革を主導するにあたって幕政初期の精神に立ち戻るのを目的として、「寛政重修諸家譜」などの史書や地誌の編纂、資料の整理、保存などを実施。

また、田沼意次時代に失墜した幕府の指導力を取り戻すためもあり、儒学のうちで農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学として復興させようとし、柴野栗山、西山拙斎らの提言で朱子学を幕府公認の学問と定めて、聖堂学問所を官立の昌平坂学問所と改名、学問所での陽明学や古学の講義を禁止したということ。

これはあくまで学問所のみの禁止でしたが、諸藩の藩校も倣ったために朱子学を正学とし他の学問を異学として禁じる傾向が一般化。

また定信は蘭学を公的機関から徹底して廃止し、蘭学者を公職から追放するなど蘭学嫌いだったよう

3-8、処士横議の禁

定信は、在野の論者による幕府への政治批判を禁止。「海国兵談」を著して国防の危機を説いた海防学者の林子平などが処罰。そして贅沢品を取り締まる倹約の徹底としては、公衆浴場での混浴禁止などの風紀の粛清、また出版統制で洒落本作者の山東京伝、黄表紙作者の恋川春町、版元の蔦屋重三郎などが処罰に。

\次のページで「3-9、昌平黌に学問吟味という試験を導入」を解説!/

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