今回は松平定信を取り上げるぞ。賄賂を一掃して改革をした人だけど評判はどうなんです。

その辺のところを江戸時代が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸時代から明治維新が大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、松平定信ついて5分でわかるようにまとめた。

1-1、松平定信は御三卿の出身で将軍吉宗の孫

Matsudaira Sadanobu.jpg
By 松平定信(自画像) - 鎮国守国神社(三重県桑名市), パブリック・ドメイン, Link

定信は宝暦8年12月27日(1759年)、御三卿の田安徳川家の初代当主宗武の7男として誕生。幼名は賢丸(まさまる)元服後は松平定信。他に白河楽翁という号なども。

生母は側室の香詮院殿(山村氏の出身)とや、正室の近衛通姫(通子)に仕えていて側室となった人。尚、宗武の長男から4男までが夭折、正室の産んだ5男の治察(はるさと、はるあき)が後継ぎに。定信と同母兄の6男松平定国と1歳年下の定信は、正室の御簾中近衛氏(宝蓮院殿)が養母となって養育。

定信は宝暦13年(1763年)6歳のときに重病で危篤状態となったが一命を取り留めたなど、病弱な子だったそう。

1-2、定信、譜代大名家へ養子へ

image by PIXTA / 50849485

定信は子供の頃から聡明なことが知られ、田安家を継いだ兄の治察が病弱で凡庸だったこともあり、一時期は田安家の後継者候補、そして10代将軍家治の後継者候補にも。しかし定信は、田沼意次(おきつぐ)が老中として権力を握っていた頃に、田沼政治を「賄賂政治」として批判したため、意次の権勢を恐れた一橋家当主の治済(はるさだ、はるなり)によって、安永3年(1774年)15歳で、久松松平家の庶流、陸奥白河藩11万石の2代藩主松平定邦の養子にやられたそう。

しかし定信は白河藩の養子になった後も、しばらくは田安屋敷で居住していたことと、安永3年(1774年)9月8日(実際は8月28日)に兄の治察が死去、田安家の後継者が不在となったので養子の解消を願い出たが許されず、田安家は以後10数年間当主不在の状態に。

1-3、定信、将軍になれたかもというのは

image by PIXTA / 35335780

田安家の跡継ぎ、そして一時期は将軍になれる可能性のある位置にいた定信は、一介の譜代大名にされちゃったせいで、意次を憎んで後に暗殺を謀ったという説もあり、しかし幕閣での役職入りを狙って、やむを得ずに意次に賄賂を贈ったという矛盾した行動は有名。

が、定信が白河藩の養子となった当時は、家治の世子の家基(宝暦12年(1762年)生まれで16歳で急死)が健在だったので、定信が将軍後継になれそうもなかったし、御三卿にうまれても世子や当主が他大名家へ養子に出されることが多かったので、定信が将軍になる可能性があった話は後付けの可能性も。

1-4、定信、藩政改革成功で飢饉も乗り切る

1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて起こった天明の飢饉では、東北地方の被害が最大で数万人の餓死者を出したのですが、定信は白河藩主として自ら率先して質素倹約を行い、豪農や米屋と交渉し家中の禄を減らすなど上手にやりくりし、飢饉が起きてからは、あらかじめ蓄えておいた食料を町民に与えてこの危機を乗り越え、白河藩では一人の餓死者も出さなかったということ

2-1、定信、老中首座兼将軍補佐に就任

天明6年(1786年)に10代将軍家治が死去して15歳の家斉が御三卿の一橋家から11代将軍に。この頃、浅間山噴火から東北地方を中心に天明の大飢饉などが起こり、一揆や打ちこわしが続発、その他に賄賂問題もあって田沼意次は失脚。

定信は天明7年(1787年)28歳で藩政の建て直しが認められ一橋家の治済らの推挙を受けて、老中首座将軍輔佐に。定信は、祖父である8代将軍吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革で、幕政再建に取り組むことに。

2-2、定信、寛政の改革を行う

定信は、凶作の連続による年貢減収、飢饉対策のため幕府の貯蔵金が底をついて100万両の収入不足という現実に直面。さっそく厳しい倹約令による財政緊縮政策をとり、倹約は大名から百姓町人に至るまで厳しく要求されて大奥ですら経費を3分の2まで減らされたそう。定信は、前任者の老中田沼意次の重商主義政策と縁故中心の利権賄賂政治を一掃、飢饉対策、厳しい倹約政策、役人の賄賂人事の廃止、旗本への学問吟味政策などの実施で成果を上げたということ。

3-1、寛政の改革の主なもの

定信は緊縮財政、風紀取締りによる幕府財政の安定化を目指しましたが、飢饉の後に出来た政権のせいか、飢餓対策や思想的には政府批判を防ぎ、実際的な一揆対策に。

\次のページで「3-2、囲米(かこいまい)」を解説!/

3-2、囲米(かこいまい)

定信は、飢饉に備えるために、諸藩の大名に社倉、義倉を築かせて穀物の備蓄を命令。

3-3、江戸では七分積金

定信は、江戸の町内で土地を貸している地主が負担する町入用(ちょういりよう)と呼ばれる町の運営費用のなかから、節約して余った分の70%を積み立てておく、七分積金制度を実施。最初は幕府からの1万両を加えて基金にしたということ。このお金は、町内での囲い米の蔵の運営費用、飢饉や米価高騰、病気や老齢で生活困窮者の救済に使われました。

尚、この七分積金は江戸幕府瓦解後、明治新政府に170万両とも言われる金額が引き継がれ、渋沢栄一が関与した貧民のための養育院やガス事業などの東京整備の資金源に役立てられたということ

3-4、人足寄せ場設立と旧里帰農令

飢饉のときの一揆や打ちこわし、盗みなどの扇動者は、基本的に生活苦で農村から江戸へ蘭有してきた無宿人たちなので、
このような無宿人の手に職を付けて自立させるために、石川島人足寄場を作ったのだということ。

尚、この人足寄場の建設を立案し設立に携わったのは「鬼平犯科帳」のモデルとなった火付け盗賊改め役の長谷川平蔵

また、当時、江戸へ大量に流入してきた地方出身の農民達に資金を与え、農村へ移動して帰農を奨励。定信は商品作物の栽培を禁止、儲かる農作物よりとにかく食べられる農作物の栽培に専念して、自給自足の生活を確立させ、米が凶作のときは別の農作物で乗り切るように、また二毛作を奨励したそう。

また、農村で飢饉が起きると食料不足で子育てが困難になるので、小児養育金を支給したり、新たな農地開拓のための開発資金も支給しています。

3-5、棄捐令と猿屋町会所

旗本、御家人などの救済、札差に対して6年以上前の債権破棄と5年以内になされた借金の利子引き下げを命令。そして棄捐令で損害を受けた札差などについては、猿屋町会所を設けて幕府が資金の貸付を行って救済、今後の札差事業に支障がないように取り計らったということ。

3-6、田沼時代の重商主義を改め、株仲間や専売制を廃止

定信は株仲間を廃止、米価統制のため幕府直営の勘定所御用達を設立、江戸の有力豪商を登用して、米価の調整に当たらせる政策を行い。米の価格を幕府が統制する政策を行いました。そして米価抑制のために、米を大量に使う造酒業に制約を加え、生産量を3分の1に削減させたという話も。

3-7、寛政異学の禁

定信は、改革を主導するにあたって幕政初期の精神に立ち戻るのを目的として、「寛政重修諸家譜」などの史書や地誌の編纂、資料の整理、保存などを実施。

また、田沼意次時代に失墜した幕府の指導力を取り戻すためもあり、儒学のうちで農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学として復興させようとし、柴野栗山、西山拙斎らの提言で朱子学を幕府公認の学問と定めて、聖堂学問所を官立の昌平坂学問所と改名、学問所での陽明学や古学の講義を禁止したということ。

これはあくまで学問所のみの禁止でしたが、諸藩の藩校も倣ったために朱子学を正学とし他の学問を異学として禁じる傾向が一般化。

また定信は蘭学を公的機関から徹底して廃止し、蘭学者を公職から追放するなど蘭学嫌いだったよう

3-8、処士横議の禁

定信は、在野の論者による幕府への政治批判を禁止。「海国兵談」を著して国防の危機を説いた海防学者の林子平などが処罰。そして贅沢品を取り締まる倹約の徹底としては、公衆浴場での混浴禁止などの風紀の粛清、また出版統制で洒落本作者の山東京伝、黄表紙作者の恋川春町、版元の蔦屋重三郎などが処罰に。

\次のページで「3-9、昌平黌に学問吟味という試験を導入」を解説!/

3-9、昌平黌に学問吟味という試験を導入

定信は、幕府直轄の学問所である昌平坂学問所(昌平黌)で、人材登用の手段として学力試験を実施。学問や教養にほとんど関心を示さない幕臣たちの態度に落胆、幕臣に立身の糸口として学問を奨励するために試験を考えたそう。受験資格は主に幕臣や地役人などに限定されたが、近藤重蔵はこの試験で好成績を挙げて定信に登用されて、後に寛政10年(1798年)、蝦夷地調査隊として活躍。

4-1、寛政の改革のその後

定信は大奥改革にも着手、在任中の6年間に8人の上臈御年寄の老女のなかで5人が交代。また、天明7年から3年間の大倹約令を発令。

しかし有名な大田南畝の狂句で「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」などと厳しさを批判されちゃったくらい、庶民に倹約、してはいけないことの押しつけが厳しく、極端な思想統制令で、経済、文化は停滞、様々な方面から批判を浴びた挙句、将軍父の尊号一件事件も絡んで、わずか6年で老中失脚、「隠密の後ろにさらに隠密を付ける」と言われた定信の神経質で疑り深い気性などもあって、財政の安定化や、独占市場の解消はあまり成果が上がらなかったと言われています。

4-2、定信、大黒屋光太夫返還を拒否

寛政4年(1792年)日本人漂流民の大黒屋光太夫らの返還と交換に日本との通商を求めたロシアのアダム・ラクスマンが根室に来航。しかし定信は、光太夫とラクスマン一行を松前に招いて幕府として交渉に応ずるよう指示、ロシアの貿易の要求を拒否しないが、長崎のオランダ商館と交渉するようにと回答、光太夫を引き取るようにと指示。

ところが定信が辞職、その2ヵ月後に鎖国の禁を破った大黒屋光太夫は処刑を免れ、江戸城で将軍家斉に謁見し、その記録は蘭学医の桂川甫周が「漂民御覧之記」としてまとめ、また甫周は、光太夫の口述と地理学書の「ゼオガラヒ」をもとに「北槎聞略」を編纂するなど、海外情勢を知る光太夫の豊富な見聞はその後の蘭学発展に影響を与え、その後は蘭学者たちと交流しつつ小石川薬草園で余生を送ることに。

4-3、定信、尊号事件が切っ掛けで失脚

このときの天皇は光格天皇、6代将軍家宣時代の宝永7年(1710年)に幕府がお金を出して創設された閑院宮家出身の初の天皇でした。で、光格天皇は、父の閑院宮典仁(かんいんのみやすけひと)親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしたのですが、朱子学を奉じていた定信は反対、そしてやはり将軍家斉も父の一橋治済に大御所の尊号を贈ろうと考えていたので、否応なしに定信と対立、これが定信辞任のきっかけになったということ。

定信引退後の幕府は、三河吉田藩主松平信明、越後長岡藩主牧野忠精らの定信派の老中はそのまま留任して政策を引き継ぎ、寛政の遺老と呼ばれたということで、定信の寛政の改革での政治理念は幕末までの幕政の基本として堅持されたそう。

4-4、その後の定信

image by PIXTA / 39083565

老中失脚後の定信は白河藩の藩政に専念。白河藩は山間が主な領地のために実収入が少なく藩財政が苦しかったのですが、定信は馬産を奨励するなどして藩財政アップに貢献。民政にも尽力したので白河藩では名君として慕われたそう。定信の政策の主眼は農村人口の維持とその生産性の向上で、間引きを禁じて赤子の養育を奨励、そして殖産に励むようにさせたということ。が、寛政の改革で定信が提唱した江戸湾警備が文化7年(1810年)に実施されると、最初に主唱者の白河藩が命じられ、またまた財政を圧迫したのは皮肉なこと。

4-5、隠居後の定信

文化9年(1812年)、定信は53歳で家督を長男の定永に譲って隠居したものの藩政の実権は掌握。また、定永の代になって白河から伊勢桑名藩(旧領)への領地替えは定信の要望だということ。桑名には良港があり気候も良いからという話。

しかしながら前述の江戸湾警備による財政悪化で江戸湾岸の下総佐倉藩へ転封を図ったために、佐倉藩主堀田正愛とその一族の若年寄堀田正敦との対立で、懲罰的転封を受けたとする説もあり。

文政12年(1829年)風邪をひいていた定信は、江戸で2800人余りの焼死者を出した大火事で寝たまま駕籠で避難する途中、道が塞がって避難民が迷惑したのですが、松平家の家臣が邪魔な町人を斬り殺したという噂が流布し、落首や落書きにも。そして同族の仮屋敷で病床にあった定信は、一時は回復の兆しも見せたが72歳で死去。辞世は「今更に何かうらみむうき事も 楽しき事も見はてつる身は」

5-1、定信の逸話

寛政の改革の評価は厳しいものでしたが、白河藩主としては名君として評価が高く意外な趣味も多くて、色々な逸話があります。

5-2、回想録などを書きまくる

定信は「花月草紙』」「宇下人言(うげのひとこと)」「集古十種」等100以上の著書をあらわしました。また、頼山陽をはじめ多くの学者との交流を持ち、詩歌も作る立派な文人だったということ。

\次のページで「5-3、現代で言うオタクだったかも」を解説!/

5-3、現代で言うオタクだったかも

定信は、寛政の改革では卑俗な芸文を取り締まりましたが、プライベートではそういう分野を楽しむ一面もあり、「大名かたぎ」(天明4年頃)「心の草紙」(享和2年自序)など、自ら執筆した黄表紙風の未刊の戯作が存在。黄表紙というのは現代の漫画風の大人の読む絵入りの軽い読み物のこと。また、膨大な随筆類に市井の話題を熱心に取り上げていて、こういう面は公私で矛盾しているようだが、為政者の立場から世情を理解しようしていたのかも。

それに浮世絵も好きで、もと浮世絵師の鍬形蕙斎筆「近世職人絵尽絵詞」(3巻、東京国立博物館蔵)は定信の旧蔵品ということですが、この絵巻の詞書を書いているのは、上巻は四方赤良(大田南畝の別名)、中巻は朋誠堂喜三二、下巻は山東京伝といった、寛政の改革で何らかの被害を被った人物なんですね。
定信自身も絵を描いていて腕前は一定の水準だということ。

5-4、今に伝わる白河名物の特産品、名勝も

image by PIXTA / 24971534

もともと白河では江戸時代から年初めに行われる市神祭があり、かんなくずから作った飾り花の勝花などを縁起物にして花市とも言われていましたが、定信が、鶴亀松竹梅入りの白河だるまを、お抱え絵師だった谷文晁にデザインさせたのが白河だるま、現在のだるま市の起源になり毎年2月11日の旧正月に行われているそう。
また、冬の冷害に強いそばを栽培させて名物の白河そばを特産物とし、今に至る立派な白河名物に。

また定信は、1800年(寛政12年)に文献から白河神社の建つ位置が白河の関であると考証。後に近代の発掘調査による再確認によって1966年に「白河関跡」として国の史跡に指定されたということ。

南湖公園(国史跡名勝)は、定信が「士民共楽(武士も庶民も共に楽しむ)」の場として築造、失業者対策や新田開発、藩士の水練や操船訓練などの様々な用途も兼ねていたが、現在は四季折々に表情を変える風景が楽しめる白河市民の憩いの場に。

5-5、柔術や居合、砲術、弓術などの皆伝、流派も編み出す

定信は、大名ながら起倒流柔術の鈴木邦教(鈴木清兵衛)の高弟で、3000人といわれる邦教の弟子のうち最も優れた3人のうちの1人だったという話。定信は家臣に柔術を教え、次男の真田幸貫にも教えたということ。隠居後も柔術の修行を続けて新たな技を編み出したほど。

定信は、廃れていた藩祖松平定綱が家臣の山本助之進と編み出したという甲乙流剣術についても、山本家にあった伝書をもとに復元して起倒流柔術を合わせて自身で工夫を加え、甲乙流を剣術と柔術を融合させた内容に改め、「新甲乙流」を編み出したということ。

また、藩校の立教館で指導する山本流居合術にも、定信は自身の編み出した技を加えて流派を改良。定信が加えた技は「御工夫の剣」と呼ばれたそう。

砲術は、三木流、荻野流、中島流、渡部流の4流すべてを免許皆伝、4流の長所を合わせて三田野部流を寛政年間に開き、その後も多くの砲術流派を研究して文化年間に御家流砲術を開いたということ。

弓術も、幼少から日置流を修行、師の常見文左衛門から書を授けられた腕前で、これまた独自に工夫して流派を開き、さらに日置流を加えて御家流弓術を開いたのでした。

定信は病気がちだったため鍛錬のために柔術を志したということですが、ひとつのことに集中して奥義を究める性格かも、こうなると殿様にしておくのが惜しいですね。

5-6、老中職は赤字だった

定信が老中を勤めて2ヵ月半ほどで2332両もの臨時出費があったので、不正があるのではと調査するもなにもなし。単に老中としての登城や、将軍の名代として、来客の応接などでの多額の出費だったのですが、普通は進物や賄賂がどっさりくるのでこの程度の臨時出費はまかなえるのに定信は賄賂を一切受け取らなかったので、結果赤字に。

倹約と引き締めが必要だが、やり過ぎだったかも

定信は祖父の将軍吉宗にならって、倹約などを強制し改革を推し進めましたが、飢餓対策は成功したものの、学問にも規制を加えて庶民にも娯楽を制限するなどでは、今と違って娯楽の少ない時代には息苦しくて付いて行けないところもあったはず。
他のことも鷹揚なところがなくて、たった6年で失脚したのはやむを得なかったかも。また他の雄藩は米作以外の産業に目を向けて、それらの産物を用いた密貿易なども行って利益を得、産業革命を成功させて幕末の倒幕運動の資金にしたことを考えると、米中心にこだわっていた幕府はこのあたりから遅れを取っていたのかもしれないですね。

" /> 寛政の改革を成し遂げた「松平定信」吉宗の孫でもある彼について歴女がわかりやすく解説 – Study-Z
日本史歴史江戸時代

寛政の改革を成し遂げた「松平定信」吉宗の孫でもある彼について歴女がわかりやすく解説

今回は松平定信を取り上げるぞ。賄賂を一掃して改革をした人だけど評判はどうなんです。

その辺のところを江戸時代が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸時代から明治維新が大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、松平定信ついて5分でわかるようにまとめた。

1-1、松平定信は御三卿の出身で将軍吉宗の孫

Matsudaira Sadanobu.jpg
By 松平定信(自画像) – 鎮国守国神社(三重県桑名市), パブリック・ドメイン, Link

定信は宝暦8年12月27日(1759年)、御三卿の田安徳川家の初代当主宗武の7男として誕生。幼名は賢丸(まさまる)元服後は松平定信。他に白河楽翁という号なども。

生母は側室の香詮院殿(山村氏の出身)とや、正室の近衛通姫(通子)に仕えていて側室となった人。尚、宗武の長男から4男までが夭折、正室の産んだ5男の治察(はるさと、はるあき)が後継ぎに。定信と同母兄の6男松平定国と1歳年下の定信は、正室の御簾中近衛氏(宝蓮院殿)が養母となって養育。

定信は宝暦13年(1763年)6歳のときに重病で危篤状態となったが一命を取り留めたなど、病弱な子だったそう。

1-2、定信、譜代大名家へ養子へ

image by PIXTA / 50849485

定信は子供の頃から聡明なことが知られ、田安家を継いだ兄の治察が病弱で凡庸だったこともあり、一時期は田安家の後継者候補、そして10代将軍家治の後継者候補にも。しかし定信は、田沼意次(おきつぐ)が老中として権力を握っていた頃に、田沼政治を「賄賂政治」として批判したため、意次の権勢を恐れた一橋家当主の治済(はるさだ、はるなり)によって、安永3年(1774年)15歳で、久松松平家の庶流、陸奥白河藩11万石の2代藩主松平定邦の養子にやられたそう。

しかし定信は白河藩の養子になった後も、しばらくは田安屋敷で居住していたことと、安永3年(1774年)9月8日(実際は8月28日)に兄の治察が死去、田安家の後継者が不在となったので養子の解消を願い出たが許されず、田安家は以後10数年間当主不在の状態に。

1-3、定信、将軍になれたかもというのは

image by PIXTA / 35335780

田安家の跡継ぎ、そして一時期は将軍になれる可能性のある位置にいた定信は、一介の譜代大名にされちゃったせいで、意次を憎んで後に暗殺を謀ったという説もあり、しかし幕閣での役職入りを狙って、やむを得ずに意次に賄賂を贈ったという矛盾した行動は有名。

が、定信が白河藩の養子となった当時は、家治の世子の家基(宝暦12年(1762年)生まれで16歳で急死)が健在だったので、定信が将軍後継になれそうもなかったし、御三卿にうまれても世子や当主が他大名家へ養子に出されることが多かったので、定信が将軍になる可能性があった話は後付けの可能性も。

1-4、定信、藩政改革成功で飢饉も乗り切る

1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて起こった天明の飢饉では、東北地方の被害が最大で数万人の餓死者を出したのですが、定信は白河藩主として自ら率先して質素倹約を行い、豪農や米屋と交渉し家中の禄を減らすなど上手にやりくりし、飢饉が起きてからは、あらかじめ蓄えておいた食料を町民に与えてこの危機を乗り越え、白河藩では一人の餓死者も出さなかったということ

2-1、定信、老中首座兼将軍補佐に就任

天明6年(1786年)に10代将軍家治が死去して15歳の家斉が御三卿の一橋家から11代将軍に。この頃、浅間山噴火から東北地方を中心に天明の大飢饉などが起こり、一揆や打ちこわしが続発、その他に賄賂問題もあって田沼意次は失脚。

定信は天明7年(1787年)28歳で藩政の建て直しが認められ一橋家の治済らの推挙を受けて、老中首座将軍輔佐に。定信は、祖父である8代将軍吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革で、幕政再建に取り組むことに。

2-2、定信、寛政の改革を行う

定信は、凶作の連続による年貢減収、飢饉対策のため幕府の貯蔵金が底をついて100万両の収入不足という現実に直面。さっそく厳しい倹約令による財政緊縮政策をとり、倹約は大名から百姓町人に至るまで厳しく要求されて大奥ですら経費を3分の2まで減らされたそう。定信は、前任者の老中田沼意次の重商主義政策と縁故中心の利権賄賂政治を一掃、飢饉対策、厳しい倹約政策、役人の賄賂人事の廃止、旗本への学問吟味政策などの実施で成果を上げたということ。

3-1、寛政の改革の主なもの

定信は緊縮財政、風紀取締りによる幕府財政の安定化を目指しましたが、飢饉の後に出来た政権のせいか、飢餓対策や思想的には政府批判を防ぎ、実際的な一揆対策に。

\次のページで「3-2、囲米(かこいまい)」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: