
その辺のところを江戸時代が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1-1、松平定信は御三卿の出身で将軍吉宗の孫
- 1-2、定信、譜代大名家へ養子へ
- 1-3、定信、将軍になれたかもというのは
- 1-4、定信、藩政改革成功で飢饉も乗り切る
- 2-1、定信、老中首座兼将軍補佐に就任
- 2-2、定信、寛政の改革を行う
- 3-1、寛政の改革の主なもの
- 3-2、囲米(かこいまい)
- 3-3、江戸では七分積金
- 3-4、人足寄せ場設立と旧里帰農令
- 3-5、棄捐令と猿屋町会所
- 3-6、田沼時代の重商主義を改め、株仲間や専売制を廃止
- 3-7、寛政異学の禁
- 3-8、処士横議の禁
- 3-9、昌平黌に学問吟味という試験を導入
- 4-1、寛政の改革のその後
- 4-2、定信、大黒屋光太夫返還を拒否
- 4-3、定信、尊号事件が切っ掛けで失脚
- 4-4、その後の定信
- 4-5、隠居後の定信
- 5-1、定信の逸話
- 5-2、回想録などを書きまくる
- 5-3、現代で言うオタクだったかも
- 5-4、今に伝わる白河名物の特産品、名勝も
- 5-5、柔術や居合、砲術、弓術などの皆伝、流派も編み出す
- 5-6、老中職は赤字だった
- 倹約と引き締めが必要だが、やり過ぎだったかも
この記事の目次

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸時代から明治維新が大好き。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、松平定信ついて5分でわかるようにまとめた。
1-1、松平定信は御三卿の出身で将軍吉宗の孫
By 松平定信(自画像) – 鎮国守国神社(三重県桑名市), パブリック・ドメイン, Link
定信は宝暦8年12月27日(1759年)、御三卿の田安徳川家の初代当主宗武の7男として誕生。幼名は賢丸(まさまる)元服後は松平定信。他に白河楽翁という号なども。
生母は側室の香詮院殿(山村氏の出身)とや、正室の近衛通姫(通子)に仕えていて側室となった人。尚、宗武の長男から4男までが夭折、正室の産んだ5男の治察(はるさと、はるあき)が後継ぎに。定信と同母兄の6男松平定国と1歳年下の定信は、正室の御簾中近衛氏(宝蓮院殿)が養母となって養育。
定信は宝暦13年(1763年)6歳のときに重病で危篤状態となったが一命を取り留めたなど、病弱な子だったそう。
1-2、定信、譜代大名家へ養子へ

定信は子供の頃から聡明なことが知られ、田安家を継いだ兄の治察が病弱で凡庸だったこともあり、一時期は田安家の後継者候補、そして10代将軍家治の後継者候補にも。しかし定信は、田沼意次(おきつぐ)が老中として権力を握っていた頃に、田沼政治を「賄賂政治」として批判したため、意次の権勢を恐れた一橋家当主の治済(はるさだ、はるなり)によって、安永3年(1774年)15歳で、久松松平家の庶流、陸奥白河藩11万石の2代藩主松平定邦の養子にやられたそう。
しかし定信は白河藩の養子になった後も、しばらくは田安屋敷で居住していたことと、安永3年(1774年)9月8日(実際は8月28日)に兄の治察が死去、田安家の後継者が不在となったので養子の解消を願い出たが許されず、田安家は以後10数年間当主不在の状態に。
1-3、定信、将軍になれたかもというのは

田安家の跡継ぎ、そして一時期は将軍になれる可能性のある位置にいた定信は、一介の譜代大名にされちゃったせいで、意次を憎んで後に暗殺を謀ったという説もあり、しかし幕閣での役職入りを狙って、やむを得ずに意次に賄賂を贈ったという矛盾した行動は有名。
が、定信が白河藩の養子となった当時は、家治の世子の家基(宝暦12年(1762年)生まれで16歳で急死)が健在だったので、定信が将軍後継になれそうもなかったし、御三卿にうまれても世子や当主が他大名家へ養子に出されることが多かったので、定信が将軍になる可能性があった話は後付けの可能性も。
1-4、定信、藩政改革成功で飢饉も乗り切る
1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて起こった天明の飢饉では、東北地方の被害が最大で数万人の餓死者を出したのですが、定信は白河藩主として自ら率先して質素倹約を行い、豪農や米屋と交渉し家中の禄を減らすなど上手にやりくりし、飢饉が起きてからは、あらかじめ蓄えておいた食料を町民に与えてこの危機を乗り越え、白河藩では一人の餓死者も出さなかったということ。
2-1、定信、老中首座兼将軍補佐に就任
天明6年(1786年)に10代将軍家治が死去して15歳の家斉が御三卿の一橋家から11代将軍に。この頃、浅間山噴火から東北地方を中心に天明の大飢饉などが起こり、一揆や打ちこわしが続発、その他に賄賂問題もあって田沼意次は失脚。
定信は天明7年(1787年)28歳で藩政の建て直しが認められ一橋家の治済らの推挙を受けて、老中首座将軍輔佐に。定信は、祖父である8代将軍吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革で、幕政再建に取り組むことに。
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2-2、定信、寛政の改革を行う
定信は、凶作の連続による年貢減収、飢饉対策のため幕府の貯蔵金が底をついて100万両の収入不足という現実に直面。さっそく厳しい倹約令による財政緊縮政策をとり、倹約は大名から百姓町人に至るまで厳しく要求されて大奥ですら経費を3分の2まで減らされたそう。定信は、前任者の老中田沼意次の重商主義政策と縁故中心の利権賄賂政治を一掃、飢饉対策、厳しい倹約政策、役人の賄賂人事の廃止、旗本への学問吟味政策などの実施で成果を上げたということ。
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3-1、寛政の改革の主なもの
定信は緊縮財政、風紀取締りによる幕府財政の安定化を目指しましたが、飢饉の後に出来た政権のせいか、飢餓対策や思想的には政府批判を防ぎ、実際的な一揆対策に。
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