今回は徳川吉宗を取り上げるぞ。

徳川家8代目の将軍で中興の祖だってな。具体的に何をしたのか教科書に載ってないことも知りたいよな。

そこのところを江戸時代が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女。江戸時代に目がなく、色々なことに興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、徳川吉宗ついて5分でわかるようにまとめた。

1-1、吉宗は紀州藩主の4男

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By 狩野忠信 - The Japanese book "Exhibition of the Treasures and Papers of the Tokugawa Shogunal Household", パブリック・ドメイン, Link

吉宗は、貞享元年(1684年)10月21日、徳川御三家の紀州藩2代藩主光貞の4男として和歌山城で誕生。きょうだいは兄が3人(次兄は夭折)、姉妹が4人。
吉宗の母は、於由利の方(浄円院)で、巨勢(こせ)六右衛門の娘、京都西陣の商家の娘、西国巡礼の女が連れていた娘とかいったように様々な説があり、身分が低い女性だったよう。で、彼女は殿様の湯殿の係でしたが、殿様の光貞が、ふざけて湯をかけてきたので、彼女はお返しにお湯をかけ返したことがきっかけで、光貞は側室にしたという話です。

なので、吉宗は藩主の息子とはいえ母の素性がいまいちで庶子で4男となるとあまり大事にされなかったよう。幼名は源六、家老の元で育てられ、次兄の次郎吉が夭折後、新之助と改名して江戸の紀州藩邸へ。幼い頃は、手に負えないやんちゃだったということ。

1-2、吉宗、5代将軍綱吉にお目見え

貞享2年(1688年)に長兄で跡取りの綱教が、将軍綱吉の一人娘で溺愛していた鶴姫と結婚したので、綱吉は何度も紀州藩邸に招かれたりしていましたが、元禄10年(1697年)、吉宗は14歳で5代将軍綱吉に御目見して、越前国丹生郡3万石を賜って葛野藩主に。またこのときに松平頼久から松平頼方と改名。

当初は、父光貞と共に綱吉に拝謁した兄たちに対し、吉宗は次の間に控えていたところを老中大久保忠朝が気を利かせて吉宗も将軍綱吉への拝謁が適ったそう。兄たちより一段下の扱いだったわけですね。尚、吉宗は葛野藩主になったとはいえ、実際は家臣を和歌山から送って統治させただけ。

1-3、吉宗、紀州藩主に

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元禄11年(1698年)に父光貞が長兄の綱教に藩主を譲って隠居。そして宝永2年(1705年)長兄の3代目藩主綱教が死去、3兄の頼職が跡を継いだが、父光貞に次いで、頼職も半年のうちに次々と病死。

吉宗は思いがけず22歳で紀州徳川家を継承して5代藩主となり、紀州藩主になったとき将軍綱吉から偏諱をもらって吉宗と改名

そして宝永3年(1706年)、伏見宮貞致親王の王女真宮理子女王(さなのみやまさこ)を簾中(れんちゅう、御三家の殿様の正室のこと)に迎えたが、宝永7年(1710年)死産の後に死別。その後は再婚せず側室のみ。

1-4、吉宗、藩政改革を実施

吉宗は、宝永7年(1710年)4月に藩主として初のお国入り、藩政改革に着手。
藩政機構を簡素化し、自らも木綿の服を着て率先して質素倹約を徹底、財政再建に取り組みました。

そして2人の兄と父の葬儀費用、幕府からの借金10万両を返済、家中への差上金の賦課、藩札の停止、藩内各地で甚大な被害を発生させていた災害(1707年宝永地震)の復旧費などで悪化していた藩財政の再建に手腕を発揮。また、和歌山城大手門前に訴訟箱を設置、一般庶民から直接訴願を募って、文武の奨励とか孝行への褒章などといった風紀面での改革にも努めたということ。

2-1、吉宗、8代将軍に

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享保元年(1716年)7代将軍家継が8歳で早世、徳川宗家の血筋が絶えた後、将軍を誰にするかという問題が起こりました。じつは宗家筋にはまだ家継の父家宣の弟の館林藩主の松平清武がいたのですが、すでに高齢で子供もいない、そして他家に養子に出たし本人もその気がないということで、将軍の選考からはずれています。

そして御三家筆頭の尾張家は4代藩主吉通が、正徳3年(1713年)に25歳で急死、幼い嫡男の五郎太が継いだが、わずか3歳で急死し、吉通の異母弟継友が6代藩主となったばかりで、近衛家の姫と婚約、しかも間部詮房や新井白石らに引き立てられていて有力候補でしたが、吉宗は、6代将軍家宣の正室である天英院や家継の生母月光院など大奥の支持と間部詮房と新井白石の反対勢力の幕臣らの指示を勝ち取って、32歳で8代将軍となりました

2-2、紀州藩は存続、支藩の分家が継ぐことに

吉宗は将軍就任にあたって、紀州藩を廃藩とせず存続させ、紀州藩の分家伊予西条藩で従兄の徳川宗直が6代目藩主に。

吉宗は、江戸城入りにあたり、紀州藩士のなかから加納久通、有馬氏倫ら大禄でない者を40名余り選んで側役として連れて来たということ。お気に入りの家来ではなくその日が当番だった者をそのまま連れて来たという、あっさりした措置が、江戸城に詰めていた譜代大名や旗本から好感を持たれたそう。

\次のページで「3-1、吉宗、享保の改革を開始」を解説!/

3-1、吉宗、享保の改革を開始

吉宗は将軍に就任すると、6代将軍家宣の代からの側用人、間部詮房や新井白石を罷免。新たに御側御用取次という側用人に近い役職を設けました。
吉宗は紀州藩主時代の改革の経験をいかして、水野忠之を老中に任命して財政再建に取り組み、定免法や上米令による幕府財政収入の安定化、新田開発の推進、また足高の制の制定などの官僚制度改革を行って、悪化した幕府財政の立て直しなどの財政改革も実施。財政に直結する米相場を中心に改革を続行したので米将軍(または八十八将軍)と呼ばれたそう。

しかし一方では、年貢を五公五民にする増税政策も行ったために農民の生活は窮乏、百姓一揆が頻発。また、幕府の役人たちだけでなく庶民にまで倹約を強いたために世の中が暗くなり、経済や文化は停滞。
他に享保の改革で行ったことは以下の通りです。

3-2、大岡越前守を登用

吉宗は山田奉行時代の裁きで目を付けていた大岡忠相を登用して、司法制度改革を敢行、訴訟の迅速化のために公事方御定書を制定し、江戸町火消しを設置し火事対策も行ったうえ、近松門左衛門の人形浄瑠璃の影響で心中が流行していたのを抑制するために、心中未遂で生き残った男または女を人通りの多い場所でさらしものにといった罰則も敢行。

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By 不詳 - 国立国会図書館, パブリック・ドメイン, Link

大岡忠相
大岡忠相(ただすけ)は、大身の旗本の4男で、同族の家に婿養子に入った人。6代将軍家宣の時代、正徳2年(1712年)に遠国奉行のひとつ山田奉行(伊勢奉行)に就任。在職中に、奉行支配の幕府直轄領と紀州徳川家領の間で係争がしばしば発生し、山田(現・伊勢市)と松坂(現・松阪市)との境界を巡る訴訟などでは、紀州藩領の松坂に有利だった前例に従わず、あくまで公正に裁いたという話。

当時の紀州藩主は吉宗で、このときの忠相の公正な裁きぶりを認め、将軍になったあと、忠相を抜擢したという話は有名。

3-3、足し高の制

江戸時代では武士が高い役職に付くためには相応の身分が必要ですが、ある程度の石高(収入)がないと高い役職にはつけなかった、つまり、武士は役職について仕事をして給料が入るわけではなく、生まれながらに家に付いている石高だけが収入だったんですね。なので、身分が低いということは石高が低くて、役職に必要なものを揃える金銭的余裕がないので、能力があっても家柄が伴わない人物は役を務められなかったわけなんです。

そこで吉宗は、その役職に応じて米を支給することにしたのが、足し高の制。尚、職を辞するときは石高は元に戻ったということ。

3-4、目安箱

江戸時代は身分制度が厳しかったので、例えば将軍にお目通りがかなう身分というのは限られていて、一般庶民との接触などはまずできない、ましてや一般庶民の意見や願いが将軍の耳に届くなどあり得ないことでした。吉宗は紀州藩主のときも行ったように、目安箱を設置して庶民の生の声を聞きたがったということです。

目安箱の投書がきっかけで、小石川養生所が出来、町火消組合を作ることになったりしたのですね。

3-5、蘭学書の輸入を一部解禁

吉宗は新しもの好きだったようで、外国文化にも興味を示して、キリスト教に関すること以外の洋書輸入の一部解禁を行ったので、蘭学が奨励されブームになったということ。

3-6、大奥でリストラ

いつの時代も大奥の経費削減に手を付けるとその時の為政者は痛い目に合うものなのですが、幕府の財政状況がひっ迫していればやむを得ないでしょう。

吉宗は、大奥に仕える女中たちの中で、容姿端麗で25歳以下のものを50人選べと命じたのですが、側室選びかと思いきや、これがリストラでした。吉宗とすれば、容姿端麗で若いものは嫁に行くなり再就職なりが容易なはずとの考えだということ。

しかし吉宗は、自身の将軍就任に多大な影響力を発揮した恩人である6代将軍家宣未亡人の天英院に対しては、年間1万2千両支給、同じく吉宗を支持した7代家継の生母月光院に対しても、吹上御殿を建設して年間1万両を支給してリストラから除外したのですね。

\次のページで「3-7、飢饉対策でサツマイモ栽培を」を解説!/

3-7、飢饉対策でサツマイモ栽培を

吉宗は、穀物の取れ高を増やすため新田を開発、水の供給を安定させるための堤防作り、それに河川の流れを変えたりと治水事業を行い、青木昆陽に飢餓対策として新しい作物を研究するよう命じて、肥料いらずでやせ地でも育ち収穫できるサツマイモ栽培の研究を行って全国に普及させたのは有名。

また、清国からの輸入に頼っていた当時は貴重品の砂糖を、日本でも自給できないかとサトウキビの栽培を研究して、後に日本初の国産の和三盆の商品化に成功。

3-8、吉宗、紀州からお庭番を連れてくる

吉宗は紀州藩からお庭番を連れて来て若年寄の支配下に置きました。
この御庭番は、江戸城本丸にある庭に設けられた御庭番所に詰め、表向きは大奥の警備が職務。時に将軍の側近である御側御用取次から命令を受け、情報収集活動を行って将軍直通の貴重な情報源に。彼らは日常的に大名、幕臣や江戸市中を観察して情報収集したことを報告するよう命じられていたよう。

殿中では身分の低いものは将軍にお目通りは不可能でしたが、庭では大丈夫だったということで、箒を持って庭で膝をついて命令を受けるというので、お庭番という名称に。御庭番を新設したのは、幕府の伊賀や甲賀の忍者が、100年も経つと使い物にならなくなったとか、もしくは吉宗が自分の信頼のおける者を使いたがったためと言われています。

3-9、尾張家の宗春の反抗

image by PIXTA / 44971905

吉宗は質素倹約の方針を打ち出し、財政改革を始めたのですが、御三家尾張藩の藩主徳川宗春が猛反発。

宗春は、尾張藩内部に限ってとはいえ吉宗の政策を大幅に緩め、夜遊びの門限を撤廃、遊郭の営業を許可。さらに芝居の興行を許して奨励までし、服装も豪華絢爛で派手なものを好み漆黒の馬にまたがったというくらいでした。宗春がこのように吉宗の政策に反対の路線に突っ走った理由は、吉宗との将軍跡目争いで自分が選ばれなかったこと、吉春の前に異母兄の継友とその子が幼くして亡くなったのが、吉宗に毒殺された疑いを持っていたとかいう話もあります。

が、吉春にしてみれば、「金は天下の回り物」感覚だったのでは。経済政策では、倹約倹約と幕府が緊縮財政を行ってお金を貯めるやり方と、むしろ使った方が経済効果となって世間一般にお金が回り出すというやり方があるのですよね。この吉宗と宗春は両極端を行ったのではないでしょうか。たしかにこの頃の尾張名古屋は活気があってにぎやかな街だったということですが、倹約で凝り固まった人には以上に見えるし、幕府の政策に反する行動は許されなかったのでしょう。

やがて吉春の放漫財政の結果、尾張藩には多額の赤字が累積され、吉春の専制君主的な横暴に反目した尾張藩付け家老らが老中らのバックアップも得てクーデター並みに実権掌握し、幕府は吉春を強制隠居させて幽閉、亡くなった後もお墓に60年もの間金網をかぶせて罪人として扱ったということ。

4-1、吉宗、大御所となり後継者問題が

吉宗の息子たちは3人が成人、長男家重が健在でしたが、恐らく脳性麻痺か何かで言語不明瞭。

なので、聡明とされる弟の宗武、宗尹を将軍に推す老中もいたほど。しかし、吉宗は三代将軍の家光と弟忠長の家督相続争いを先例に考えて、あえて延享2年(1745年)9月25日、将軍職を長男家重に譲り、死ぬまで大御所として実権を握ったということ。

尚、家重は言語障害はあったが知能は正常、そして家重の息子の家治が優秀であることも考慮されたのではないかといわれています。

とりあえず、宗武と宗尹は養子には出さず、江戸城内で別家として、田安家、一橋家が創設され、吉宗の死後に家重の次男の治好の清水家が創設され御三卿が誕生
しかし家重が相続するとき、宗武、宗尹がいかに家重が将軍にふさわしくないか文書にしたので、父吉宗の逆鱗に触れて3年間江戸城登城禁止となり、彼らを推した老中松平乗邑(のりさと)も突如罷免されたということ。

4-2、吉宗、脳卒中を患う

吉宗は延享3年(1746年)に中風を患い、右半身麻痺と言語障害の後遺症が残ったそう。そして御側御用取次であった小笠原政登と共にリハビリに励んで江戸城西の丸から本丸まで歩ける程に回復、しかし将軍引退から6年後の寛延4年(1751年)6月20日におそらくは再発性脳卒中で68歳で死去。

5-1、吉宗の逸話

倹約にも熱心だが、意外と趣味も豊富な人だったようです。

\次のページで「5-2、倹約と健康のために養生生活を」を解説!/

5-2、倹約と健康のために養生生活を

吉宗は心身の鍛錬と衣食の節制を養生生活の基本としていたので、まず肌着は木綿と決め、鷹狩の際の羽織や袴も木綿だったということ。また平日の食事は一汁一菜と決めていてそれも一日に朝夕の二食が原則だったそう。そしておかずが少なくて済むように、味を濃くするようにしていたということで、塩分取り過ぎで高血圧を引き起こして脳卒中になった疑いが。
関口柔心の流れをくむ「新心流」の拳法(柔術)、また鷹狩が好きだったということです。

5-3、絵画や染色法の研究も

吉宗は、余暇には「古画」(絵画)の鑑賞や、模写に没頭「延喜式」にあるような古代の染色法の研究に楽しみを見出していたということ。また、狩野常信の師事を受けており、常信の孫狩野古信に絵の手ほどきをするなど、本格的なもので、淡墨を使って描く「にじみ鷹」の技法を編み出したという、意外な趣味が。
室町時代から伝統的に武家に好まれた宋・元時代の中国画を愛好したせいか、中国画人沈南蘋が来日、彼の画風はその後の日本の近世絵画に大きな影響を与えたそう。

5-4、外国文化、捕鯨などにも興味を

吉宗は好奇心の強い性格で、キリスト教関連以外の書物に限り洋書の輸入を解禁したせいで、長崎を中心に蘭学ブームが。

そして享保13年(1728年)6月、自ら注文してベトナムから象を輸入、長崎から江戸まで陸路で運ばせたおかげで江戸に象ブームが巻き起こったという話も

また吉宗は、紀州藩の産業の一つである捕鯨との関わりも深くもっていて、熊野の鯨組に軍事訓練を兼ねた大規模捕鯨を2度実施させ、その際は自ら観覧したということ。また、熊野灘の鯨山見(高台にある鯨の探索や捕鯨の司令塔)から和歌山城まで狼煙を使った海上保安の連絡網も設けたそう。将軍就任後も、鯨舟(古式捕鯨の和船)を使って河川氾濫時の被災者の救出、江戸湾へ流出した河川荷役や塵芥を回収、また鯨船鞘廻御用という役職を設け、海上保安を行ったということ。

5-5、天一坊事件とは

元禄12年(1699年)6月、紀州国に生まれ修験者となった源氏天一坊改行は吉宗の御落胤と称し、近々大名に取り立てられると吹聴、将来の見返りを期待する町人たちから献金を受け、仕官を求める浪人たちから金品を受け取るという、詐欺行為を行ったということで通報により捕らえられ、評定所で勘定奉行の稲生正武により取り調べを受けてご落胤ではないと判断されて享保14年(1729年)死罪となった事件です。

しかし吉宗は紀州時代からあちこちの女性に手を付けていたということで、他にもご落胤が次々名乗り出て来たそう。吉宗に聞くと「覚えがある」と言うもので家臣たちは困ったということ。

初の御三家からの将軍で、江戸幕府中興の祖と言われた

徳川吉宗は本来ならば紀州藩主にもなれない庶子だったが、兄たちが若くして次々と亡くなって藩主に、また御三家筆頭の尾張家も若くして藩主が次々亡くなり、将軍家継までもが8歳で亡くなったので将軍がまわってきたという、不思議な星の元に生まれた人ですが、これを幸運と呼ぶか謀殺だったと考えるかで見方が分かれるかもしれません。

しかし紀州藩で成功した改革を将軍としても成功させ、江戸時代になって約100年、吉宗の改革でぐっと引き締めて幕府が存続したのは紛れもない事実なので、暴れん坊将軍として人気なのかもしれませんね。

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日本史歴史江戸時代

江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」享保の改革を成し遂げた暴れん坊将軍について歴女がわかりやすく解説

3-7、飢饉対策でサツマイモ栽培を

吉宗は、穀物の取れ高を増やすため新田を開発、水の供給を安定させるための堤防作り、それに河川の流れを変えたりと治水事業を行い、青木昆陽に飢餓対策として新しい作物を研究するよう命じて、肥料いらずでやせ地でも育ち収穫できるサツマイモ栽培の研究を行って全国に普及させたのは有名。

また、清国からの輸入に頼っていた当時は貴重品の砂糖を、日本でも自給できないかとサトウキビの栽培を研究して、後に日本初の国産の和三盆の商品化に成功。

3-8、吉宗、紀州からお庭番を連れてくる

吉宗は紀州藩からお庭番を連れて来て若年寄の支配下に置きました。
この御庭番は、江戸城本丸にある庭に設けられた御庭番所に詰め、表向きは大奥の警備が職務。時に将軍の側近である御側御用取次から命令を受け、情報収集活動を行って将軍直通の貴重な情報源に。彼らは日常的に大名、幕臣や江戸市中を観察して情報収集したことを報告するよう命じられていたよう。

殿中では身分の低いものは将軍にお目通りは不可能でしたが、庭では大丈夫だったということで、箒を持って庭で膝をついて命令を受けるというので、お庭番という名称に。御庭番を新設したのは、幕府の伊賀や甲賀の忍者が、100年も経つと使い物にならなくなったとか、もしくは吉宗が自分の信頼のおける者を使いたがったためと言われています。

3-9、尾張家の宗春の反抗

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吉宗は質素倹約の方針を打ち出し、財政改革を始めたのですが、御三家尾張藩の藩主徳川宗春が猛反発。

宗春は、尾張藩内部に限ってとはいえ吉宗の政策を大幅に緩め、夜遊びの門限を撤廃、遊郭の営業を許可。さらに芝居の興行を許して奨励までし、服装も豪華絢爛で派手なものを好み漆黒の馬にまたがったというくらいでした。宗春がこのように吉宗の政策に反対の路線に突っ走った理由は、吉宗との将軍跡目争いで自分が選ばれなかったこと、吉春の前に異母兄の継友とその子が幼くして亡くなったのが、吉宗に毒殺された疑いを持っていたとかいう話もあります。

が、吉春にしてみれば、「金は天下の回り物」感覚だったのでは。経済政策では、倹約倹約と幕府が緊縮財政を行ってお金を貯めるやり方と、むしろ使った方が経済効果となって世間一般にお金が回り出すというやり方があるのですよね。この吉宗と宗春は両極端を行ったのではないでしょうか。たしかにこの頃の尾張名古屋は活気があってにぎやかな街だったということですが、倹約で凝り固まった人には以上に見えるし、幕府の政策に反する行動は許されなかったのでしょう。

やがて吉春の放漫財政の結果、尾張藩には多額の赤字が累積され、吉春の専制君主的な横暴に反目した尾張藩付け家老らが老中らのバックアップも得てクーデター並みに実権掌握し、幕府は吉春を強制隠居させて幽閉、亡くなった後もお墓に60年もの間金網をかぶせて罪人として扱ったということ。

4-1、吉宗、大御所となり後継者問題が

吉宗の息子たちは3人が成人、長男家重が健在でしたが、恐らく脳性麻痺か何かで言語不明瞭。

なので、聡明とされる弟の宗武、宗尹を将軍に推す老中もいたほど。しかし、吉宗は三代将軍の家光と弟忠長の家督相続争いを先例に考えて、あえて延享2年(1745年)9月25日、将軍職を長男家重に譲り、死ぬまで大御所として実権を握ったということ。

尚、家重は言語障害はあったが知能は正常、そして家重の息子の家治が優秀であることも考慮されたのではないかといわれています。

とりあえず、宗武と宗尹は養子には出さず、江戸城内で別家として、田安家、一橋家が創設され、吉宗の死後に家重の次男の治好の清水家が創設され御三卿が誕生
しかし家重が相続するとき、宗武、宗尹がいかに家重が将軍にふさわしくないか文書にしたので、父吉宗の逆鱗に触れて3年間江戸城登城禁止となり、彼らを推した老中松平乗邑(のりさと)も突如罷免されたということ。

4-2、吉宗、脳卒中を患う

吉宗は延享3年(1746年)に中風を患い、右半身麻痺と言語障害の後遺症が残ったそう。そして御側御用取次であった小笠原政登と共にリハビリに励んで江戸城西の丸から本丸まで歩ける程に回復、しかし将軍引退から6年後の寛延4年(1751年)6月20日におそらくは再発性脳卒中で68歳で死去。

5-1、吉宗の逸話

倹約にも熱心だが、意外と趣味も豊富な人だったようです。

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