近畿地方に大和朝廷が誕生したのが飛鳥時代。社会構造が発展した弥生時代と古墳時代を経て、いよいよ天皇家の誕生です。

今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。せっかく弥生時代まで調べたのだから、このまま古代日本の歴史を制覇したい!そういうことで、引き続き古き日本を解説していく。

地域国家から連合国家、そして大国へ

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古墳の集合地帯、近畿

日本各地に分布する古墳。さまざまな形をしていますが、近くで眺めると掘りに囲まれた森があるだけのように見えますね。でも、飛行機なんかで空の上から見ると、丸や四角、あるいは鍵穴のような形をしているのが確認できます。これらはそれぞれ円墳、方墳、そして前方後円墳といいました。

日本史で必ず習うのが、大阪府堺市の大仙古墳ですね。実は世界最大級の古墳なんです。仁徳天皇のお墓とされていますが、宮内庁から調査の許可が一度も下りたことがないため、本当のところはわかりません。

古墳は偉い人が入るお墓、つまり、権力の象徴でもあります。そして、大仙古墳をはじめとした多くの古墳が集中しているのが近畿地方でした。多くの権力者がいるということは、そこに大規模な国家があったことを示しています。

大和朝廷の誕生

大和朝廷成立の過程ははっきりとはわかりません。いくつもの地方国家が連合して大和朝廷になったと考えられ、その勢力は近畿を中心にして東北から九州にまでおよびます。大和朝廷のトップはもちろん天皇なのですが、成立当初は大王(おおきみ)と呼ばれていました。

ところで、このころ中国で力を持っていた宋に大和朝廷は貢物をしています。強い影響力を持った国に貢物を献上することを「朝貢」といい朝貢することで大国(今回の場合は宋)を宗主国、自国をその属国としました。なぜこんな不平等な関係をわざわざ築くのかと言うと、もしよその国と険悪になっても「うち(属国)に手を出したら親分(宗主国)が黙っていないぞ!」という風に、諸外国への牽制として絶大な効果を持っていたからです。

大和朝廷もまたその例にもれず宋に朝貢した五人の大王の記録が残されていました。そのままストレートに「倭の五王」と呼ばれます。しかし、これが「○○天皇」みたいな名前で残っているのではなく、宋に合わせてそれぞれ「讃、珍、済、興、武」と書かれていました。どれがどの大王かという推測はされていますが、確定ではありません。

摂政・聖徳太子のまつりごと

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初の女帝・推古天皇と摂政・聖徳太子

飛鳥時代は、飛鳥(現在の奈良県高市郡明日香村付近)に都が置かれた592年から、平城京に遷都した710年までの期間を指します。トップは初の女性天皇となった推古天皇です。ただし、推古天皇が女性であったがために、天皇を補佐する摂政が初めて設けられることとなりました。そして、初の摂政は推古天皇の甥であり、当時皇太子(次に皇位を継ぐ予定の人)だった聖徳太子(厩戸皇子)が選ばれたのです。

推古天皇と聖徳太子のふたりが大和朝廷の長として権力を振るった……と、思いますよね?ところがこのとき朝廷で天皇よりも幅を利かせていた一族がいました。

蘇我氏、仏教推すってよ

推古天皇が即位するより前の538年、朝鮮半島にあった百済の聖王から大和朝廷に釈迦仏像や経論が送られ、日本に仏教が伝来しました。ここで仏教推しになった蘇我氏はさっそく仏教を広め、天皇も帰依するように勧めます。しかし、日本にはすでに神道があって、当然反対されました。その反対派筆頭は蘇我氏と並んで力のあった物部氏です。

仏教の是非を問うて激しく争った蘇我氏と物部氏ですが、結局、蘇我馬子が物部守屋を武力で滅ぼし(丁未の乱)、蘇我氏は大手を振って仏教の布教に努めます。さらに、ライバルがいなくなったことで蘇我氏が朝廷で絶大な権力を持つようになりました。

ちなみに、のちの聖徳太子は仏教に賛成していたため、このときは蘇我氏の味方についています。

憲法制定して蘇我氏の専横を抑えるぞ!

推古天皇の即位とともに摂政となった聖徳太子は、蘇我氏を抑える政策を打ち出していきます。

手始めに、603年の「冠位十二階の制度」。これは身分や家柄に関係なく能力や実績のある人を登用する制度です。名前の通り、臣下を12の位に分け、さらに六つの色の濃淡をあてて区別しました。また、その人一代限りに与えられる位なので、子どもに世襲させることはできません。蘇我氏の子息であっても、みんなと同じように一から頑張ってね、ということです。

さらに翌年には「十七条の憲法」が制定されます。「憲法」と言っていますが、「十七条の憲法」は現代の憲法とは違って国民みんなが守るもの(最高法規)ではありません。これは朝廷の役人が守るべき心得だったのです。

さて、「十七条の憲法」の中身は、

「一に曰く、和をもって貴しとなし」(=みんな仲良くしてね)

「二に曰く、篤く三宝を敬え」(=仏教を大事にしてね。※「三宝」とは「仏」「法」「僧」のこと)

「三に曰く、詔を承りては必ず謹め」(=天皇の命令は絶対従ってね)

他にも「税金を勝手に徴収したらダメだよ」など、役人の心構えとして基本的なものばかりでした。しかし、この役人の基本たる「十七条の憲法」によって好き勝手しようとする豪族たちを抑えることができたのです。

めちゃめちゃ強気に出た遣隋使派遣

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前述した通り、中国はアジアの中心的国家でした。そして、聖徳太子もまた中国に使者を送ります。

このとき中国を支配していたのは「隋」。中国を治める帝国だからさぞかし強いのだろう、と思いきや、実は非常に短命な帝国なのです。というのも、二代目の煬帝が運河造りで100万人の男女を強制的に働かせたり、朝鮮半島の高句麗遠征を何度も失敗したりと、「もうこんな皇帝はイヤだ!」ってところまで民が酷使され続けた結果、国力が弱ってしまうんですね。

聖徳太子が隋に使者を派遣したのが607年。このときの遣隋使の代表は小野妹子でした。命がけの船旅の末、小野妹子は煬帝に聖徳太子からの手紙を届けます。ただ、これがとんでもなく強気な手紙だったんです。

「日出づるところの天子、書を日没するところの天子に致す。つつがなきや」

日出づるところの天子とは、日本の天皇のこと。日没するところの天子は煬帝をさします。太陽は東(日本側)から登って西(中国側)に沈みますから、地理的には間違ってません。……が、政治の場で用いる比喩表現としては喧嘩を売っているようなもので、「これから発展する国の天子(日本の天皇)」と「これから没落する国の天子(煬帝)」に受け取ることができます。もちろん、煬帝が怒らないはずがありません。しかし、小野妹子は無事に日本に帰国します。なぜ??

実はこのころ、隋は高句麗をはじめとしたいろんな国に喧嘩を吹っ掛けていたんです。ここで日本まで敵に回したら面倒くさいことこの上ないと考えたのでしょう。翌年、隋から裴世清(はいせいせい)という使者が来て国交が開始されます。

蘇我氏滅亡、大化の改新で日本パワーアップ

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中大兄皇子と中臣鎌足のクーデター

押さえつけられていた蘇我氏ですが、聖徳太子が亡くなるやいなや力を取り戻し、聖徳太子の息子・山背大兄王を殺害します。これはさすがに看過できない、と蘇我氏の専横に立ち上がったのが中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)でした。

ふたりは当時の蘇我氏の中心人物だった蘇我入鹿(そがのいるか)に嘘をついて皇居に呼び出します。天皇のいる皇居で、しかも、天皇の御前で行われる儀式(という嘘)ですから、さすがの蘇我入鹿も刀を持ち込むわけにはいきません。まんまと丸腰にされた蘇我入鹿は、嘘の儀式の最中に中大兄皇子に殺されてしまいます(乙巳の変)。

蘇我入鹿の死によって不利になった蘇我氏。蘇我入鹿の父・蘇我蝦夷(そがのえみし)の屋敷は瞬く間に中大兄皇子たちに取り囲まれると自ら火を放ち、滅亡したのです。

刷新される朝廷、大化の改新スタート

強い影響力を持った蘇我一族が滅び、皇太子となった中大兄皇子を中心に政治の改革が行われます。まず、私たちにも馴染みのある年号の制定。実はこれが初めての年号なんです。その一番最初が「大化」。だから、これから行われる改革は「大化の改新」と呼ばれるのです。

そして、皇位は皇極天皇から孝徳天皇へ譲位され、都も飛鳥から大阪の難波へと遷都。そこで孝徳天皇は「改新の詔」を発しました。下記に「改新の詔」で代表的な四つの政策を上げておきますね。

・土地と民はすべからく天皇のものだと定めた「公地公民」

・民の戸籍を作り、ひとりひとりに田んぼを貸し与える「班田収受の法」

・税金徴収を行う「租庸調制」。「祖」は班田収授の法で借りた田んぼでできた米の3%~10%を税として納め、「傭」は労働力として納める税、「調」は地方の特産物を治めなくてはなりません。全部合わせると、かなり大変なことになります。

全国を約60の国に分け、国の中を郡、軍の中を里に分けた「国郡里制」。これは今の県や市と同じようなものですね。県知事や市長と同じように、それぞれトップに国司、郡司、里長を置きます。ただし、彼らは選挙で選ばれた人ではなく、国が任命した役人です。

唐が復讐しにくるかも?

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663年、日本と親密だった朝鮮半島の百済が新羅と唐(隋の次の国)によって滅ぶと、百済の復興のために天智天皇は朝鮮半島への出兵を決めます。これが「白村江の戦い」です。しかし、この戦いは日本の敗北に終わってしまいました。

負けたとはいえ、唐の復讐がおそろしくなった中大兄皇子たちは国防に力を入れ始めます。筑紫の大宰府を守る水城を建設し、さらに対馬や隠岐など日本海側に防人を置いて防衛に努めました。

その後、中大兄皇子は都を難波から内陸の大津(滋賀県大津市)に遷都すると同時に天智天皇として即位します。

跡継ぎ問題から古代日本最大の内乱へ

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天智天皇の跡継ぎは「息子の大友皇子」と「弟の大海人皇子」のふたりがいました。しかし、大海人皇子はそれを辞退して出家すると吉野(奈良県吉野)に行ってしまいます。これで円満に大友皇子が皇位を継げると思いますよね?

ところが、天智天皇がいよいよ崩御すると、大海人皇子が挙兵し、大友皇子と戦いを繰り広げました。この大海人皇子と大友皇子の天皇の座をめぐる争いを「壬申の乱」と呼びます。古代日本最大の内乱ですね。最終決戦の舞台となった瀬田橋の戦いで大海人皇子が大友皇子を破り、ようやく集結しました。勝利した大海人皇子は天武天皇として即位し、都を大津から飛鳥清御原宮(奈良県明日香村)に遷都します。

後継者争いで戦争まで起こした天武天皇ですから、次代はしっかり決めておきたいところですよね。そこで息子の草壁皇子を皇太子にするのですが、彼は若くして亡くなってしまうのです。草壁皇子の次は彼の息子・軽皇子でしたが、軽皇子は幼く、政治はできません。そこで軽皇子が成長するまでの代役として即位したのが草壁皇子の母親の持統天皇でした。

飛鳥時代の終幕へ

持統天皇は天武天皇が生前計画していた飛鳥浄御原令を完成させて発布します。これが日本最初の法律です。さらに唐風の藤原京(奈良県橿原市)を造営して遷都し、ここが飛鳥時代最後の都となりました。

その後はつつがなく軽皇子が文武天皇として即位します。文武天皇は日本史上初の本格的な法律「大宝律令」を制定しました。実は、持統天皇の飛鳥浄御原令は律(刑法)が唐の律そのままで、日本に合っていないところが多くあったのです。だから、本格的な律令は「大宝律令」が最初とされます。

律令の制定など調子が良さそうに見えた文武天皇でしたが、文武天皇もまた若くして亡くなってしまうのです。次の元明天皇は草壁皇子の后であり、文武天皇の母でした。元明天皇が710年に都を平城京に遷都させたことで飛鳥時代の終幕となります。

\次のページで「国として発展し続けた飛鳥時代」を解説!/

国として発展し続けた飛鳥時代

日本初の女性天皇・推古天皇から始まり、日本初の本格的な法律「大宝律令」を制定した文武天皇で幕を下ろした飛鳥時代。遣隋使、遣唐使といった大陸との交流に法律の制定と、日本はさらなる発展を遂げていきます。後半の壬申の乱からは特に重要な部分が多いので、時系列はしっかり整理して覚えましょう!

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日本史歴史飛鳥時代

大和朝廷が誕生した「飛鳥時代」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

中大兄皇子と中臣鎌足のクーデター

押さえつけられていた蘇我氏ですが、聖徳太子が亡くなるやいなや力を取り戻し、聖徳太子の息子・山背大兄王を殺害します。これはさすがに看過できない、と蘇我氏の専横に立ち上がったのが中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)でした。

ふたりは当時の蘇我氏の中心人物だった蘇我入鹿(そがのいるか)に嘘をついて皇居に呼び出します。天皇のいる皇居で、しかも、天皇の御前で行われる儀式(という嘘)ですから、さすがの蘇我入鹿も刀を持ち込むわけにはいきません。まんまと丸腰にされた蘇我入鹿は、嘘の儀式の最中に中大兄皇子に殺されてしまいます(乙巳の変)。

蘇我入鹿の死によって不利になった蘇我氏。蘇我入鹿の父・蘇我蝦夷(そがのえみし)の屋敷は瞬く間に中大兄皇子たちに取り囲まれると自ら火を放ち、滅亡したのです。

刷新される朝廷、大化の改新スタート

強い影響力を持った蘇我一族が滅び、皇太子となった中大兄皇子を中心に政治の改革が行われます。まず、私たちにも馴染みのある年号の制定。実はこれが初めての年号なんです。その一番最初が「大化」。だから、これから行われる改革は「大化の改新」と呼ばれるのです。

そして、皇位は皇極天皇から孝徳天皇へ譲位され、都も飛鳥から大阪の難波へと遷都。そこで孝徳天皇は「改新の詔」を発しました。下記に「改新の詔」で代表的な四つの政策を上げておきますね。

・土地と民はすべからく天皇のものだと定めた「公地公民」

・民の戸籍を作り、ひとりひとりに田んぼを貸し与える「班田収受の法」

・税金徴収を行う「租庸調制」。「祖」は班田収授の法で借りた田んぼでできた米の3%~10%を税として納め、「傭」は労働力として納める税、「調」は地方の特産物を治めなくてはなりません。全部合わせると、かなり大変なことになります。

全国を約60の国に分け、国の中を郡、軍の中を里に分けた「国郡里制」。これは今の県や市と同じようなものですね。県知事や市長と同じように、それぞれトップに国司、郡司、里長を置きます。ただし、彼らは選挙で選ばれた人ではなく、国が任命した役人です。

唐が復讐しにくるかも?

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663年、日本と親密だった朝鮮半島の百済が新羅と唐(隋の次の国)によって滅ぶと、百済の復興のために天智天皇は朝鮮半島への出兵を決めます。これが「白村江の戦い」です。しかし、この戦いは日本の敗北に終わってしまいました。

負けたとはいえ、唐の復讐がおそろしくなった中大兄皇子たちは国防に力を入れ始めます。筑紫の大宰府を守る水城を建設し、さらに対馬や隠岐など日本海側に防人を置いて防衛に努めました。

その後、中大兄皇子は都を難波から内陸の大津(滋賀県大津市)に遷都すると同時に天智天皇として即位します。

跡継ぎ問題から古代日本最大の内乱へ

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天智天皇の跡継ぎは「息子の大友皇子」と「弟の大海人皇子」のふたりがいました。しかし、大海人皇子はそれを辞退して出家すると吉野(奈良県吉野)に行ってしまいます。これで円満に大友皇子が皇位を継げると思いますよね?

ところが、天智天皇がいよいよ崩御すると、大海人皇子が挙兵し、大友皇子と戦いを繰り広げました。この大海人皇子と大友皇子の天皇の座をめぐる争いを「壬申の乱」と呼びます。古代日本最大の内乱ですね。最終決戦の舞台となった瀬田橋の戦いで大海人皇子が大友皇子を破り、ようやく集結しました。勝利した大海人皇子は天武天皇として即位し、都を大津から飛鳥清御原宮(奈良県明日香村)に遷都します。

後継者争いで戦争まで起こした天武天皇ですから、次代はしっかり決めておきたいところですよね。そこで息子の草壁皇子を皇太子にするのですが、彼は若くして亡くなってしまうのです。草壁皇子の次は彼の息子・軽皇子でしたが、軽皇子は幼く、政治はできません。そこで軽皇子が成長するまでの代役として即位したのが草壁皇子の母親の持統天皇でした。

飛鳥時代の終幕へ

持統天皇は天武天皇が生前計画していた飛鳥浄御原令を完成させて発布します。これが日本最初の法律です。さらに唐風の藤原京(奈良県橿原市)を造営して遷都し、ここが飛鳥時代最後の都となりました。

その後はつつがなく軽皇子が文武天皇として即位します。文武天皇は日本史上初の本格的な法律「大宝律令」を制定しました。実は、持統天皇の飛鳥浄御原令は律(刑法)が唐の律そのままで、日本に合っていないところが多くあったのです。だから、本格的な律令は「大宝律令」が最初とされます。

律令の制定など調子が良さそうに見えた文武天皇でしたが、文武天皇もまた若くして亡くなってしまうのです。次の元明天皇は草壁皇子の后であり、文武天皇の母でした。元明天皇が710年に都を平城京に遷都させたことで飛鳥時代の終幕となります。

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