中大兄皇子と中臣鎌足のクーデター
押さえつけられていた蘇我氏ですが、聖徳太子が亡くなるやいなや力を取り戻し、聖徳太子の息子・山背大兄王を殺害します。これはさすがに看過できない、と蘇我氏の専横に立ち上がったのが中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)でした。
ふたりは当時の蘇我氏の中心人物だった蘇我入鹿(そがのいるか)に嘘をついて皇居に呼び出します。天皇のいる皇居で、しかも、天皇の御前で行われる儀式(という嘘)ですから、さすがの蘇我入鹿も刀を持ち込むわけにはいきません。まんまと丸腰にされた蘇我入鹿は、嘘の儀式の最中に中大兄皇子に殺されてしまいます(乙巳の変)。
蘇我入鹿の死によって不利になった蘇我氏。蘇我入鹿の父・蘇我蝦夷(そがのえみし)の屋敷は瞬く間に中大兄皇子たちに取り囲まれると自ら火を放ち、滅亡したのです。
刷新される朝廷、大化の改新スタート
強い影響力を持った蘇我一族が滅び、皇太子となった中大兄皇子を中心に政治の改革が行われます。まず、私たちにも馴染みのある年号の制定。実はこれが初めての年号なんです。その一番最初が「大化」。だから、これから行われる改革は「大化の改新」と呼ばれるのです。
そして、皇位は皇極天皇から孝徳天皇へ譲位され、都も飛鳥から大阪の難波へと遷都。そこで孝徳天皇は「改新の詔」を発しました。下記に「改新の詔」で代表的な四つの政策を上げておきますね。
・土地と民はすべからく天皇のものだと定めた「公地公民」
・民の戸籍を作り、ひとりひとりに田んぼを貸し与える「班田収受の法」
・税金徴収を行う「租庸調制」。「祖」は班田収授の法で借りた田んぼでできた米の3%~10%を税として納め、「傭」は労働力として納める税、「調」は地方の特産物を治めなくてはなりません。全部合わせると、かなり大変なことになります。
・全国を約60の国に分け、国の中を郡、軍の中を里に分けた「国郡里制」。これは今の県や市と同じようなものですね。県知事や市長と同じように、それぞれトップに国司、郡司、里長を置きます。ただし、彼らは選挙で選ばれた人ではなく、国が任命した役人です。
唐が復讐しにくるかも?
663年、日本と親密だった朝鮮半島の百済が新羅と唐(隋の次の国)によって滅ぶと、百済の復興のために天智天皇は朝鮮半島への出兵を決めます。これが「白村江の戦い」です。しかし、この戦いは日本の敗北に終わってしまいました。
負けたとはいえ、唐の復讐がおそろしくなった中大兄皇子たちは国防に力を入れ始めます。筑紫の大宰府を守る水城を建設し、さらに対馬や隠岐など日本海側に防人を置いて防衛に努めました。
その後、中大兄皇子は都を難波から内陸の大津(滋賀県大津市)に遷都すると同時に天智天皇として即位します。
跡継ぎ問題から古代日本最大の内乱へ
By Guretaro – 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, Link
天智天皇の跡継ぎは「息子の大友皇子」と「弟の大海人皇子」のふたりがいました。しかし、大海人皇子はそれを辞退して出家すると吉野(奈良県吉野)に行ってしまいます。これで円満に大友皇子が皇位を継げると思いますよね?
ところが、天智天皇がいよいよ崩御すると、大海人皇子が挙兵し、大友皇子と戦いを繰り広げました。この大海人皇子と大友皇子の天皇の座をめぐる争いを「壬申の乱」と呼びます。古代日本最大の内乱ですね。最終決戦の舞台となった瀬田橋の戦いで大海人皇子が大友皇子を破り、ようやく集結しました。勝利した大海人皇子は天武天皇として即位し、都を大津から飛鳥清御原宮(奈良県明日香村)に遷都します。
後継者争いで戦争まで起こした天武天皇ですから、次代はしっかり決めておきたいところですよね。そこで息子の草壁皇子を皇太子にするのですが、彼は若くして亡くなってしまうのです。草壁皇子の次は彼の息子・軽皇子でしたが、軽皇子は幼く、政治はできません。そこで軽皇子が成長するまでの代役として即位したのが草壁皇子の母親の持統天皇でした。
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飛鳥時代の終幕へ
持統天皇は天武天皇が生前計画していた飛鳥浄御原令を完成させて発布します。これが日本最初の法律です。さらに唐風の藤原京(奈良県橿原市)を造営して遷都し、ここが飛鳥時代最後の都となりました。
その後はつつがなく軽皇子が文武天皇として即位します。文武天皇は日本史上初の本格的な法律「大宝律令」を制定しました。実は、持統天皇の飛鳥浄御原令は律(刑法)が唐の律そのままで、日本に合っていないところが多くあったのです。だから、本格的な律令は「大宝律令」が最初とされます。
律令の制定など調子が良さそうに見えた文武天皇でしたが、文武天皇もまた若くして亡くなってしまうのです。次の元明天皇は草壁皇子の后であり、文武天皇の母でした。元明天皇が710年に都を平城京に遷都させたことで飛鳥時代の終幕となります。
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