
奪い、奪われを繰り返す京都
足利直義の失脚で再び室町幕府のトップに君臨した足利尊氏、その政権を安定させるためには足利直義を完全に排除する必要があると判断しました。そこで足利尊氏は南朝と和陸、こうして正式に足利直義討伐の許可を得ることに成功します。一方、そんな足利尊氏の考えを知った足利直義は身の危険を感じて京都を出て鎌倉へと逃亡しました。
足利尊氏は軍を率いてそれを追い、相模早川尻の戦いなどで足利直義の軍に勝利して、とうとう足利直義の捕縛に成功したのです。捕まった足利直義は幽閉されてそのまま生涯を終えました。さて、足利尊氏が関東へと遠征している間、隙だらけになった京都を攻めたのが和陸を破った南朝派です。
南朝派は京都を支配すると足利尊氏にも攻撃、そのため足利尊氏は一旦退くものの、反撃して鎌倉の奪還に成功しました。そして京都からも南朝派を追い出して京都の奪還にも成功、しかしそれも束の間で、今度は足利直義派の山名時氏らによって再び京都を奪われてしまいます。
足利尊氏の死
奪い、奪われの京都を巡る戦いはまだ終わりません。足利直義派によって再度京都を奪われた足利尊氏でしたが、これも奪還に成功します。しかし1354年、足利直冬が盟主となった旧足利直義派が大軍勢で京都に攻め入ってきたのです。これにはさすがの足利尊氏も持ちこたえることはできませんでした。
旧足利直義派の攻撃に押されて京都を離れることを余儀なくされた足利尊氏、ただ足利義詮らの活躍もあってまたも反撃の機会が生まれます。とうとう勝負をかけた足利尊氏は、自ら足利直冬の本陣を攻めて攻略に成功、足利直冬を敗走させて今度こそ京都奪還の繰り返しに終止符を打ったのです。
敗走した足利直冬をなお追いかけて倒そうとする足利尊氏でしたが、足利義詮がこれを制止したため追討には至りませんでした。この時、足足利尊氏は本陣を攻めた時に傷を負っており、そのため以後戦場に赴くことはなくなります。そしてその傷が悪化したことで足利尊氏は死去、54年間の人生に幕をおろしました。
戦いに生きたからこそ戦いを知る
足利尊氏の人生は戦いそのものです。勝利したこともあれば敗北したこともあり、それでも生き残って室町幕府を維持しました。ですから、足利尊氏を学ぶ上ではまず彼が関わった戦いを覚えましょう。
次にそれに関係した人物を覚えるのが基本ですが、その人物の多くが同じ足利氏でその点に紛らわしさがあります。特に弟の足利直義は深く関わってくるため、しっかりと覚えてくださいね。