
皇族と貴族だけが優遇された建武の新政
倒幕を果たした後醍醐天皇、鎌倉幕府に不満を持っていた点で足利尊氏は後醍醐天皇と同じ考えでしたが、その後はお互いが対立することになります。と言うのも、足利尊氏は武将でしたが後醍醐天皇は文字どおり天皇であって朝廷の人間です。このため、鎌倉幕府にかわって新たに始めた建武の新政でもその一面が露呈しました。
後醍醐天皇が掲げたのは天皇を中心とする政治であって、皇族・貴族が明らかに優遇されていたのです。倒幕の功労者だった足利尊氏は勲功第一とされて従四位下の位を与えられ、鎮守府将軍・左兵衛督にも任命され、また多くの所領も与えられました。ただ、それでも足利尊氏が政権の要職に任命されることはなく、また自らもそれを望まなかったようです。
1335年、信濃国にて中先代の乱が起こります。武家の支持を得られない後醍醐天皇の政治体制に反発した北条氏の残党が鎌倉を占拠、この時足利尊氏の弟・足利直義が鎌倉にいたため、足利尊氏は後醍醐天皇の許可を得ないまま弟を救助するため兵を率いて鎌倉へと向かいました。
後醍醐天皇との決別と新政権の準備
足利尊氏は北条氏の残党を蹴散らし、首謀者・北条時行を追い払うことに成功しました。しかし、後醍醐天皇による建武の新政が気に入らなかったため京都に戻ろうとはせず、そのまま鎌倉にて新たな政権作りを開始したのです。後醍醐天皇は足利尊氏に対して当然上洛を要請しますが、足利尊氏はこれを拒否しました。
これに怒ったのは後醍醐天皇、勝手に行動した挙句、新政権を作り始めた足利尊氏を許せるはずがなく、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞に足利尊氏の討伐命令を下します。挟み撃ちされる形となって劣勢に陥る足利尊氏でしたが、後醍醐天皇に反旗を翻すことを決意して新田義貞の軍に勝利しました。
さて、反旗を翻した足利尊氏は後醍醐天皇を比叡山に追い払って入京、ただそこへ敗北した新田義貞の軍が楠木正成の軍を援軍につけてさらに味方を加えた状態で襲いかかります。再び劣勢に陥った足利尊氏は今度は敗北してしまい、体制を立て直すため九州へと下りていきました。
建武の新政への見切りと新たな政権の樹立
足利尊氏を九州へ追いやったものの、楠木正成は後醍醐天皇に足利尊氏との和陸を提案しました。もちろんそんな提案は拒否する後醍醐天皇、今度こそと足利尊氏の討伐を命令、新田義貞と楠木正成はやむを得ずこれに従います。一方、九州へと下りた足利尊氏はその地で多くの武士から支持を集め、勢力をさらに拡大していきました。
1336年、新田義貞と楠木正成の軍と足利尊氏の軍の決着をつける湊川の戦いが勃発、この戦いに足利尊氏は見事勝利します。さらに足利尊氏は後醍醐天皇に対して和陸を提案、優秀な武将を失った後醍醐天皇はもうこれに従うしかありませんでした。こうして京都を手中におさめた足利尊氏は、今ここに新たな政権の樹立を宣言したのです。
まず新たな天皇に光明天皇を立て、三種の神器を譲らせて正当な皇位継承者とします。そして建武式目十七条を制定すると、天皇ではなく再び武士による政治……すなわち武家政権の樹立を宣言したのです。しかし、これに納得できない者が1人……それは後醍醐天皇でした。
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