今日は足利尊氏について勉強していきます。200年以上の歴史を室町幕府は足利氏が15代にわたって将軍を継承しており、その初代……つまり室町幕府を開いたのが足利尊氏です。

鎌倉幕府の時代に彼はどう生きていき、そしてどういういきさつで室町幕府を開いたのでしょうか。そこで、今回は足利尊氏について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から足利尊氏をわかりやすくまとめた。

誕生から鎌倉幕府滅亡まで

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足利尊氏の誕生

鎌倉幕府において御家人である足利氏は、同時に御門葉の地位を確立しており、源頼朝の一門(氏族・家系を同じくする同族)としての処遇を受けていました。そんな足利氏の足利貞氏とその側室・上杉清子との間に1305年に誕生したのが足利尊氏です。

こうした家柄で生まれたことから足利尊氏は御家人の中でも別格の待遇を受けており、15歳にして従五位下・治部大輔に任命され、さらに北条氏一族の有力者である北条守時の妹・赤橋登子を正室へと迎えます。そして父が死去した後は家督を継いでおり、足利尊氏は現代で例えるならエリート街道が約束された人物と言えました。

武力の高さも評価されていた足利尊氏は、後醍醐天皇の2度目となる倒幕運動発覚時に出兵、見事敵である楠木正成らを鎮圧するとさらに自身の評価を高めます。ただ、鎌倉幕府に評価された足利尊氏でしたが、その鎌倉幕府に対しては不満を抱いていたようでした。

鎌倉幕府の滅亡

倒幕運動を2度も計画した後醍醐天皇は隠岐島へと島流しに処されますが、その2年後の1333年に島を脱出すると再び仲間と共に挙兵します。立場から考えて本来なら後醍醐天皇の討伐に向かう足利尊氏でしたが、この時彼は病気の療養中であり、とても満足に戦える状態ではありませんでした。

しかし、幕府はそれでも足利尊氏に戦地に向かうようにと指示、やむを得ず北条高家と共に上洛するものの、北条高時は戦死します。幕府への不満が高まる足利尊氏、そこへ声をかけてきたのが幕府の敵である後醍醐天皇、後醍醐天皇は足利尊氏を味方にしようと再三説得したのです

足利尊氏はこれに応えて反旗を翻し、これまでと一変して倒幕派として兵を挙げました。さらに幕府に不満を持つ各地の御家人を仲間にすると、そのまま幕府の機関・六波羅探題に攻め込んでこれを壊滅させます。そして同じ倒幕派として活躍していた新田義貞が幕府に攻め入り、鎌倉幕府を滅亡させたのです。

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建武の新政への反発

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皇族と貴族だけが優遇された建武の新政

倒幕を果たした後醍醐天皇、鎌倉幕府に不満を持っていた点で足利尊氏は後醍醐天皇と同じ考えでしたが、その後はお互いが対立することになります。と言うのも、足利尊氏は武将でしたが後醍醐天皇は文字どおり天皇であって朝廷の人間です。このため、鎌倉幕府にかわって新たに始めた建武の新政でもその一面が露呈しました。

後醍醐天皇が掲げたのは天皇を中心とする政治であって、皇族・貴族が明らかに優遇されていたのです。倒幕の功労者だった足利尊氏は勲功第一とされて従四位下の位を与えられ、鎮守府将軍・左兵衛督にも任命され、また多くの所領も与えられました。ただ、それでも足利尊氏が政権の要職に任命されることはなく、また自らもそれを望まなかったようです。

1335年、信濃国にて中先代の乱が起こります。武家の支持を得られない後醍醐天皇の政治体制に反発した北条氏の残党が鎌倉を占拠、この時足利尊氏の弟・足利直義が鎌倉にいたため、足利尊氏は後醍醐天皇の許可を得ないまま弟を救助するため兵を率いて鎌倉へと向かいました。

後醍醐天皇との決別と新政権の準備

足利尊氏は北条氏の残党を蹴散らし、首謀者・北条時行を追い払うことに成功しました。しかし、後醍醐天皇による建武の新政が気に入らなかったため京都に戻ろうとはせず、そのまま鎌倉にて新たな政権作りを開始したのです。後醍醐天皇は足利尊氏に対して当然上洛を要請しますが、足利尊氏はこれを拒否しました。

これに怒ったのは後醍醐天皇、勝手に行動した挙句、新政権を作り始めた足利尊氏を許せるはずがなく、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞足利尊氏の討伐命令を下します。挟み撃ちされる形となって劣勢に陥る足利尊氏でしたが、後醍醐天皇に反旗を翻すことを決意して新田義貞の軍に勝利しました。

さて、反旗を翻した足利尊氏は後醍醐天皇を比叡山に追い払って入京、ただそこへ敗北した新田義貞の軍が楠木正成の軍を援軍につけてさらに味方を加えた状態で襲いかかります。再び劣勢に陥った足利尊氏は今度は敗北してしまい、体制を立て直すため九州へと下りていきました。

南北朝時代の始まり

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建武の新政への見切りと新たな政権の樹立

足利尊氏を九州へ追いやったものの、楠木正成は後醍醐天皇に足利尊氏との和陸を提案しました。もちろんそんな提案は拒否する後醍醐天皇、今度こそと足利尊氏の討伐を命令、新田義貞と楠木正成はやむを得ずこれに従います。一方、九州へと下りた足利尊氏はその地で多くの武士から支持を集め、勢力をさらに拡大していきました。

1336年、新田義貞と楠木正成の軍と足利尊氏の軍の決着をつける湊川の戦いが勃発、この戦いに足利尊氏は見事勝利します。さらに足利尊氏は後醍醐天皇に対して和陸を提案、優秀な武将を失った後醍醐天皇はもうこれに従うしかありませんでした。こうして京都を手中におさめた足利尊氏は、今ここに新たな政権の樹立を宣言したのです。

まず新たな天皇に光明天皇を立て、三種の神器を譲らせて正当な皇位継承者とします。そして建武式目十七条を制定すると、天皇ではなく再び武士による政治……すなわち武家政権の樹立を宣言したのです。しかし、これに納得できない者が1人……それは後醍醐天皇でした。

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2人の天皇と2つの朝廷

新たな天皇の誕生、再びの武家政権の到来……納得できない後醍醐天皇は京都を脱出、吉野(現在の奈良県吉野群)へ逃れるとそこで自ら朝廷を作り上げ、吉野朝廷の天皇として君臨することを宣言しました。つまり光明天皇と京都の朝廷に対して、後醍醐天皇と吉野の朝廷、実に2人の天皇と2つの朝廷が同時に存在する奇妙な状態となりました。

1336年に発生したこの状態は、北の朝廷と南の朝廷が存在する意味で南北朝時代と呼ばれ、この奇妙な時代は1392年まで続いていきます。さて、1338年に光明天皇は足利尊氏を征夷大将軍へと任命、ここに室町幕府が誕生しました。盛り上がる北朝でしたが、一方の南朝は後醍醐天皇が死去したため衰退していきます。

この状況を見過ごしてならないと、足利尊氏は南朝に対してより激しく攻撃、鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞も戦死したことで希望を失ったのか、南朝の中には北朝に寝返る者も少なくありませんでした。そして1348年、足利尊氏の執事・高師直が吉野に攻め入って焼き払い、南朝方を撤退させることに成功したのです

足利尊氏と足利直義の対立

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高師直と足利直義の衝突

室町幕府を開いた足利尊氏の政治はどのようなものだったのでしょうか。実は足利尊氏は室町幕府の政務にはほとんど携わっておらず、それは弟の足利直義に任せており、足利尊氏は軍事指揮権と恩賞権を握り武士の中心に立つ者として君臨しました。そして、このスタイルが室町幕府の権力を二分化させる要因となるのです。

特にそれが露わとなったのが足利尊氏の側近・高師直と足利尊氏の弟・足利直義で、両者の対立は激化して武力衝突にまで至ります。1349年に足利直義が高師直を襲撃すると、高師直もまた足利直義を襲撃、この衝突で押される形となったのは足利直義で、幕府を去ることになりました

去った足利直義の後釜についたのが足利尊氏の婿男・足利義詮、ただ足利尊氏の子であり足利直義の養子でもある足利直冬が足利直義派の勢力を拡大させます。これを捨て置けない足利尊氏はその討伐に出陣、この隙を見逃さなかったのが幕府を去った足利直義でした。足利尊氏が出陣した隙に京都を脱出したのです

足利直義の失脚と力を取り戻した足利尊氏

京都を脱出した足利直義、その目的は南朝との和解でした。そして南朝と和解した足利直義の元に旧家臣が集うと、足利義詮を京都から追い出すことに成功します。一方、京都に戻った足利尊氏でしたが彼もまた光明寺合戦打出浜の戦いで敗れてしまい、そのため京都は完全に足利直義派に抑えられてしまいました

追い詰められた足利尊氏のとった行動は足利直義との和陸、その条件として側近・高師直の出家と政務からの引退・追放を受け入れますが、高師直は護送中に初代関東管領・上杉能憲に暗殺されてしまいます。さて、京都を抑えた足利直義は政務へと復帰しますが、そうそう上手く事が進むことはありませんでした。

足利直義のやり方に反発する武将は少なくなく、そのため足利尊氏の元に人々が集まります。まさに建武の新政の二の舞であり、支持を得られなかった足利直義は仕方なく政務から引退することになりました。つまり足利直義は失脚、こうして足利尊氏は再び室町幕府の中心へと立ったのです。

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京都奪還と足利尊氏の死

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奪い、奪われを繰り返す京都

足利直義の失脚で再び室町幕府のトップに君臨した足利尊氏、その政権を安定させるためには足利直義を完全に排除する必要があると判断しました。そこで足利尊氏は南朝と和陸、こうして正式に足利直義討伐の許可を得ることに成功します。一方、そんな足利尊氏の考えを知った足利直義は身の危険を感じて京都を出て鎌倉へと逃亡しました。

足利尊氏は軍を率いてそれを追い、相模早川尻の戦いなどで足利直義の軍に勝利して、とうとう足利直義の捕縛に成功したのです。捕まった足利直義は幽閉されてそのまま生涯を終えました。さて、足利尊氏が関東へと遠征している間、隙だらけになった京都を攻めたのが和陸を破った南朝派です。

南朝派は京都を支配すると足利尊氏にも攻撃、そのため足利尊氏は一旦退くものの、反撃して鎌倉の奪還に成功しました。そして京都からも南朝派を追い出して京都の奪還にも成功、しかしそれも束の間で、今度は足利直義派の山名時氏らによって再び京都を奪われてしまいます

足利尊氏の死

奪い、奪われの京都を巡る戦いはまだ終わりません。足利直義派によって再度京都を奪われた足利尊氏でしたが、これも奪還に成功します。しかし1354年、足利直冬が盟主となった旧足利直義派が大軍勢で京都に攻め入ってきたのです。これにはさすがの足利尊氏も持ちこたえることはできませんでした。

旧足利直義派の攻撃に押されて京都を離れることを余儀なくされた足利尊氏、ただ足利義詮らの活躍もあってまたも反撃の機会が生まれます。とうとう勝負をかけた足利尊氏は、自ら足利直冬の本陣を攻めて攻略に成功、足利直冬を敗走させて今度こそ京都奪還の繰り返しに終止符を打ったのです。

敗走した足利直冬をなお追いかけて倒そうとする足利尊氏でしたが、足利義詮がこれを制止したため追討には至りませんでした。この時、足足利尊氏は本陣を攻めた時にを負っており、そのため以後戦場に赴くことはなくなります。そしてその傷が悪化したことで足利尊氏は死去、54年間の人生に幕をおろしました。

戦いに生きたからこそ戦いを知る

足利尊氏の人生は戦いそのものです。勝利したこともあれば敗北したこともあり、それでも生き残って室町幕府を維持しました。ですから、足利尊氏を学ぶ上ではまず彼が関わった戦いを覚えましょう。

次にそれに関係した人物を覚えるのが基本ですが、その人物の多くが同じ足利氏でその点に紛らわしさがあります。特に弟の足利直義は深く関わってくるため、しっかりと覚えてくださいね。

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室町時代日本史歴史鎌倉時代

その人生は戦いの連続!「足利尊氏」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は足利尊氏について勉強していきます。200年以上の歴史を室町幕府は足利氏が15代にわたって将軍を継承しており、その初代……つまり室町幕府を開いたのが足利尊氏です。

鎌倉幕府の時代に彼はどう生きていき、そしてどういういきさつで室町幕府を開いたのでしょうか。そこで、今回は足利尊氏について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から足利尊氏をわかりやすくまとめた。

誕生から鎌倉幕府滅亡まで

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足利尊氏の誕生

鎌倉幕府において御家人である足利氏は、同時に御門葉の地位を確立しており、源頼朝の一門(氏族・家系を同じくする同族)としての処遇を受けていました。そんな足利氏の足利貞氏とその側室・上杉清子との間に1305年に誕生したのが足利尊氏です。

こうした家柄で生まれたことから足利尊氏は御家人の中でも別格の待遇を受けており、15歳にして従五位下・治部大輔に任命され、さらに北条氏一族の有力者である北条守時の妹・赤橋登子を正室へと迎えます。そして父が死去した後は家督を継いでおり、足利尊氏は現代で例えるならエリート街道が約束された人物と言えました。

武力の高さも評価されていた足利尊氏は、後醍醐天皇の2度目となる倒幕運動発覚時に出兵、見事敵である楠木正成らを鎮圧するとさらに自身の評価を高めます。ただ、鎌倉幕府に評価された足利尊氏でしたが、その鎌倉幕府に対しては不満を抱いていたようでした。

鎌倉幕府の滅亡

倒幕運動を2度も計画した後醍醐天皇は隠岐島へと島流しに処されますが、その2年後の1333年に島を脱出すると再び仲間と共に挙兵します。立場から考えて本来なら後醍醐天皇の討伐に向かう足利尊氏でしたが、この時彼は病気の療養中であり、とても満足に戦える状態ではありませんでした。

しかし、幕府はそれでも足利尊氏に戦地に向かうようにと指示、やむを得ず北条高家と共に上洛するものの、北条高時は戦死します。幕府への不満が高まる足利尊氏、そこへ声をかけてきたのが幕府の敵である後醍醐天皇、後醍醐天皇は足利尊氏を味方にしようと再三説得したのです

足利尊氏はこれに応えて反旗を翻し、これまでと一変して倒幕派として兵を挙げました。さらに幕府に不満を持つ各地の御家人を仲間にすると、そのまま幕府の機関・六波羅探題に攻め込んでこれを壊滅させます。そして同じ倒幕派として活躍していた新田義貞が幕府に攻め入り、鎌倉幕府を滅亡させたのです。

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