近江国の六角氏
畿内を平定させるためには拮抗した勢力となっている六角義賢でした。1561年代には久秀の力は一家臣としてではなく一国大名並みの力を所持している状態です。7月になると義興と共に義賢を主体とする連合軍から攻撃を受けていくも小規模の戦で終えていました。
両軍共に名のある将を討ち取られるも久秀は京都の将軍山城を挟撃し奪取すると義賢の本陣まで一万の軍勢で攻め入る準備に入ります。一方義賢は高所に弓兵三百を待機させ松永軍を向かえ久秀は軍勢を率いて神楽岡まで進むと一斉に弓を射ると松永軍に多数の死者を出す甚大な被害がでました。
不運な死が相次ぐ
六角氏と争いを敗北して、義輝に仲介を依頼するも断られ一時的に関係が悪化するも後に改善していきました。その後、嫡男久通に家督を譲るも三好家前線で活躍していきます。久秀の活躍が際立っていたころに突然、三好家の家臣が亡くなっていき長慶の跡継ぎだった義興までも亡くなってしまいました。
更に長慶の弟だった安宅冬康に続き、長慶自身も亡くなってしまい長慶の甥義継が家督を相続し三好三人衆と久秀は忠誠を誓っていきます。義継が三好家を相続した後にある事件が発生していきました。
三好三人衆との争いから織田信長との同盟
義継らが将軍義輝を襲撃していく事件が発生した後に、三好三人衆と争いそして織田信長と繋がりを持っていきます。
将軍襲撃
長慶を筆頭に不審な死が相次いだことを、幕府が企てたことと傀儡として将軍を擁立したい義継らは襲撃計画を考えていきました。襲撃計画が耳に入った義輝は二条御所の守りを強化していましたが、難から逃れるため一時的に京から逃げています。
家臣らが逃げるは幕府の恥だと説得すると、命を捨てる覚悟をした義輝は二条御所へ戻ると三好軍は一万の軍勢で攻めるも義輝も薙刀を手に奮戦するも追い込まれて自害しました。義輝の死によって足利義栄を擁立していく義継と三好三人衆。
東大寺大仏殿
三好三人衆は義栄を擁立していくと、三好家の家政を握っていた久秀が邪魔な存在となっていき久秀の排除に動いていきます。対立していく久秀でしたが、三好三人衆の下で監禁されていた義継は何とか脱出し、久秀と同盟を結び三好三人衆に対抗していきました。
東大寺に陣を構えていた三好三人衆と筒井氏に攻撃を仕掛けていくと、たちまち東大寺に火の手が回り大仏の顔が焼け落ちてしまうが奇襲攻撃だったこともあり戦に勝利します。しかし隣国の国人衆が三好三人衆側に回っていたこともあり劣勢な状況は変わりませんでした。
信長の上洛
三好三人衆の力に圧倒されてしまい、居城だった信貴山城すらも奪われてしまいました。好機が訪れたのは尾張で勢力を急激に拡大してきた信長が足利義昭に会うべく上洛することになります。
ここに目を付けた久秀はいち早く、信長に接近していき同盟を結び力をつけていきました。この動きを評価した義昭は久秀を大和国の支配が認められると三好三人衆が擁立していた義栄が急死すると畿内から駆逐されていく三好三人衆。
徐々に信長の力を借りながら筒井順慶を追い込み大和国平定していき、不動国行の刀を献上し信長と協力していきました。
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