義輝と晴元が京都奪還を目指す
長慶の京都支配を面白く思っていなかった義輝と晴元は、この状況を変えるべく六角義賢の力を借りて京都奪還をするべく近江の坂本まで軍を南下させていきます。これに対して三好軍は、久秀率いる一万五千の兵を京都南部まで進めていました。瓜生山まで両軍が来ると義輝の姿を確認した三好軍は、警戒していくも膠着状態となってしまいます。
これを見かねて先に攻撃を仕掛けていったのは、三好軍の岩成友通で瓜生山の山城を占領し改修したうえで幕府軍と対峙するも義輝も如意ヶ嶽を占拠し浄土寺付近を放火していくと幕府軍がやや優勢となっていきました。兵力で勝りながらも幕府軍に揺さぶられて京都へ退却していくと瓜生山の山城を占拠した義輝だったが、手薄になった如意ヶ嶽を久秀と長逸が奪取し拠点を入れ替えての攻防となっていきます。
長慶と幕府の和睦
一時は優勢だった幕府軍でしたが、北白川で対峙した際に武公衆を七十名ほど討ち取られてしまい勢いが弱まってしまった義輝でした。北白川をきっかけに再び戦線が膠着してしまい義輝は、義賢に長慶との仲介役を依頼し和睦を成立させるも晴元は和睦に反対していたようで長慶への敵対行動を取り続けいきます。
和睦が成立したことで1558年9月に義輝は5年振りに京都の地に戻ってきました。長慶もまた義輝が京都へ戻ってきたことで、関係修復を務めていき1559年には義輝を茶川山城へ招きもてなしたとされています。また大和と河内を平定していき領土を拡張していくと、義輝から幕府相伴衆を命じられ義輝の付き人としての役職を与えられました。
そして朝廷からは修理大夫をに任命され、嫡男義興もまた筑前守を任官したことで義輝と良好な関係を構築していきます。
三好家の中で重用され大きな影響力をもつ
長慶が幕府を関係を改善していく最中に、幕府軍と奮戦していた久秀も三好家の中で強い影響力をもつ人物になっていきました。
幕府との争い後
幕府との戦終了後に、外様でありながら三好家で重臣扱いとして長慶が主催する花見に参加していました。また朝廷の敵であった楠木正成の子孫にあたる楠木正虎が朝敵と見なされている状態から解放して欲しいと久秀に相談していきます。
この件を久秀仲介の下で天皇に談判し見事、赦免することができ義輝もまたこれに賛同してくれることになりました。その後は河内国平定をするために長慶から筒井家を攻めるよう命じられ十市氏が三好家に下り筒井城を陥落させていきます。
これを機に筒井家とは長らく争っていく関係となっていきました。
茶人としての一面
滝山城を与えられる前に長慶と共に茶川城に居た頃に、茶の湯の席に着いていたことが分かる記録が残されています。席の亭主は堺で影響力を持っていた武野紹鷗と豪商だった今井宗久と席を交えていました。
いつから茶人などの交流が始まったのか不明ですが、長慶経由で豪商達と交流を深めていっていたのかもしれません。紹鷗とは茶人として尊敬し茶道について教えを受けていたことも記されています。
義輝の側近
1560年に義興と共に久秀は義輝から、御供衆に任命され二度目の河内遠征を行い11月には大和北部を平定していきました。平定と同時に滝山城から信貴山城に移り居城とし天守閣を備えるなど防衛できる城へと改修。
年が明けた1561年には室町幕府で使用されていた桐紋の使用を義輝から許されたことで、長慶と義興と対等の扱いをされています。桐紋の使用から分かることは、主君に匹敵する力を保有していたことが見受けされ勢力が拮抗するほどでありました。
これ以降は長慶との間を取り持ちつつ、義輝に出仕していく仕事が増えていきます。
長慶が亡くなり三好家に反発
畿内の平定に向けて長らく出仕してきた長慶が病によって倒れてしまったことと義輝暗殺により久秀に大きな影響を与えていきました。
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