下剋上といえば明智光秀が有名となっているようですが、松永久秀も下剋上を行い力を示した武将です。
そこで今回は主君を二度裏切り将軍すら追放してしまった松永久秀の最後までを歴史マニアでもあるwhat_0831と解説していきます。
ライター/what
茶器類に全く関心がないが松永久秀については調べ上げ、いつかは自害した信貴山城跡地に足を運ぶ予定でいる戦国通サラリーマン。
摂津国で誕生し三好氏の下で活躍していく
美濃の蝮こと斎藤道三や宇喜多直家と並び、梟雄と呼ばれた久秀が三好氏の下で力を付けていくところから見ていきましょう。
久秀の出生地
出生に関しては、永正3年1508年に生まれたとされているのが一番有力な説となっており幼少時代について正確なことが記録されておりません。記録が在るものは、江戸時代初期に書かれたとされるいる松永姓を名乗っていた人物が記録している物が史実に近いとされております。その他にも斎藤道三と同じ商人出生や阿波国出身であったとする記録も存在。
1533年に三好長慶の書記として、仕えていて幼い頃から長慶に仕える期間は記録がないためどのような経緯で長慶に接近していったかも不明です。実父は不明ではありますが、実母については記録され堺で療養中に長慶が薬を持参して与えていました。薬のおかげか長寿を全うしたとされ八十四歳と戦国時代では群を抜いて長生きしたと日記に書かれています。
松永弾正
1534年から1540年の間で官位を授けられ松永弾正という名の書状が発給されています。官位を授かったということは、書記としての活躍の他に民を上手く利用し機能させていたことや長慶の支援を行った成果を評価されたことで授かったと思いました。
1542年になると、官僚の仕事だけでなく武将として一軍を牽きて他国制圧に乗り出しています。この時摂津国は三好氏が収めていたわけではなかったので、統治するために久秀を指揮官とした木沢長政の討伐に向かっていました。大平寺の戦いで勝利し長政を討ち取るも国人衆の抵抗もありながら制圧していき武将の力も開花させていきます。
三好政権で地位を確立
長慶の下で頭角を現してきた久秀は、次第に重要な役割を果たしていくことになります。
京都を支配
畿内に勢力を拡大していった長慶は、代官職をめぐり三好政長と対立していくと京都内で小規模の戦を行っていきます。途中細川晴元らの仲介があり和睦していましたが、外孫にあたる池田正信に対して晴元は切腹を命じました。正信嫡男の長正は晴元の切腹措置があまりにも一歩的だったことと政長の関与を疑い、長慶と共に反旗を翻していく長慶。
1549年6月に江口の戦いで長慶勢が勝利すると、晴元と室町幕府十三代将軍の足利義輝を京都から追放していき公家や寺社と交渉する際の仲介役に抜擢されていく久秀でした。そして仲介役を三好三人衆の一人と呼ばれた三好長逸と共に交渉事にあたっていきます。
三好家中で力をつけていく
三好政権で重用されていく久秀は、長慶と共に上洛した際に家宰を命じられていて三好家の家政を取り仕切る存在となっていきます。上洛したと同時に弾正忠を任官されました。その後京都内の防衛と外敵掃討を担当していて追放された晴元が三好政勝らに等持院を攻撃させていきます。
細川軍が三千で攻め込み相国寺にて陣を構えていくのに対して、先鋒を務める久秀率いる三好軍は約四万の大軍で相国寺を包囲していきました。兵力が勝っていた久秀は、明け方まで攻め込ませ政勝らを敗走させていきます。
摂津国と丹羽国を平定させていく
掃討役を任されたことで、畿内平定に向けて動き出していった久秀は摂津国を平定した後に滝山城を授かり弟の長頼と丹羽国の八上城へ攻撃を仕掛けていきます。しかし八木城を守る波多野氏側に援軍として加わった政勝らに攻められ長慶側に付いていた内藤氏が戦死してしまい敗北しました。内藤氏の討ち取られた知らせを聞いて長頼を八木城に向かわせ八木城を見事奪取することができ後に長慶から丹羽方面を任され内藤国貞の娘を娶り内藤家を存続させていきます。
また久秀は将軍義輝の行動について、長慶との約束を破り晴元と結託しているから京都から追放されるのは当たり前であると六角氏の家臣宛てに書状を出していました。
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