ソビエト連邦ヨーロッパの歴史ロシア世界史歴史

「冷戦」の軸は米ソの二項対立!時代背景を国際政治に詳しいライターが解説

アメリカの封じ込め政策

アメリカのトルーマン大統領は冷戦の初期、共産主義圏の拡大を防ぐための「封じ込め政策」を実施します。マーシャル・プランという支援計画により、戦争で疲弊したヨーロッパ諸国の復興を助けると同時に、これらの国にソ連の影響力が拡大することをせき止めようとしたのです。また、イギリスに代わってアメリカが国際社会のリーダーとなることを事実上宣言したトルーマン・ドクトリンは、ギリシャとトルコに対して援助を約束しただけでなく、反ソ連・反共産主義というアメリカの立場を明確に伝えています。

東西それぞれの軍事同盟

1949年、アメリカやイギリスが中心となり、西側諸国は北大西洋条約機構(NATO)と呼ばれる軍事同盟を設立しました。一方の東側諸国は、1955年にNATOに対抗してソ連を盟主とする軍事同盟ワルシャワ条約機構を設立。東西陣営の対立が目に見える形となり、冷戦が本格化したのです。

繰り返される緊張緩和と危機の高まり

image by PIXTA / 32151648

東西陣営の「雪どけ」

冷戦は長期間にわたりましたが、その間ずっと緊張の高い状態が続いていたというわけではありません。

1953年にソ連の最高指導者スターリンが死去。また同年、冷戦という時代背景のもと1950年に開戦された朝鮮戦争も休戦となりました。1955年には、アメリカ・ソ連・イギリス・フランス四か国の首脳が集まりジュネーヴ4巨頭会談が開催されます。この頃、対立は一時的に弱まっていました。東西陣営の緊張が緩和されたこの一連の動きは「雪どけ」と呼ばれます。

当時、独裁者スターリンの死後に指導者となったフルシチョフがスターリン批判を行ったことがきっかけとなり、ソ連でも言論統制が緩まるなどの変化が起きました。

軍拡の時代

その後、核兵器の開発競争などの軍拡が行われて、米ソの間では再び緊張が高まります。

1961年には、東ドイツから西ドイツへの人口の流出を防ぐためにソ連と東ドイツによって突如ベルリンの壁が建設されました。当時ドイツは東西に分裂していましたが、ベルリンはアメリカ・ソ連・イギリス・フランスの四か国による分割管理という扱いがなされており、東西ベルリンの行き来も容易だったのです。しかし、壁の建設によって人々の移動は厳しく規制されてしまいました。ベルリンの壁は東西分裂の象徴としても知られています。

翌年1962年、キューバでは核戦争の危機が生じました。ソ連がキューバにミサイル基地を建設しているということが明らかとなり、アメリカのケネディ大統領が海上封鎖を行ったため、米ソ間の緊張が極限まで高まったのです。最終的にはソ連のフルシチョフ首相がミサイルの撤去を決定したため、軍事衝突には至りませんでした。しかし、この出来事は第二次世界大戦以降で最も核戦争の危険が高まった事件として知られ、キューバ危機と呼ばれています。

核軍縮への動き

キューバ危機で核戦争の危険に直面したアメリカとソ連は、軍備管理が結局は共通の利益につながるということを学びます。そこで、核兵器の縮小に向けた部分的核実験禁止条約が締結されたり、アメリカのホワイトハウスとソ連のクレムリンを結ぶホットラインがつくられたりしました。両国の間では戦略兵器制限交渉(SALT)も開始されます。「デタント」と呼ばれる緊張緩和の時代が訪れたのです。

no-img2″>
 <figcaption class=桜木建二

激しく対立しながらも、アメリカとソ連はなんとか歩み寄ろうとしていたんだな。冷戦はどのようにして終わりを迎えたのだろう?

次のページを読む
1 2 3 4
Share:
amala18