第二次世界大戦はたくさんの人を巻き込んだ悲惨な戦争だった。だけど、戦争が終わってからも平和が訪れたわけではない。数十年間も続くことになる「冷戦」が始まったからです。冷戦についてはなんとなく知っているという人も多いんじゃないか?どんな時代だったのか、詳しく見てみよう。

世界史に詳しいライター万嶋せらと一緒に解説していきます。

ライター/万嶋せら

会社員を経て、現在はイギリスで大学院に在籍中のライター。歴史が好きで関連書籍をよく読み、中でも近代以降の歴史と古典文学系が得意。専門として学ぶ近現代の国際政治に関する知識を活かし、今回は「冷戦」について解説する。

冷戦の概略

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冷戦とは何か

1945年に第二次世界大戦が終わると、世界は冷戦の時代へと突入していきました。冷戦は英語で”Cold War”、日本語では「冷たい戦争」とも呼ばれます。

冷戦というのは、アメリカを中心とする資本主義陣営とソビエト連邦(ソ連)を中心とする共産主義陣営との対立のことです。一触即発のにらみ合いが続いたものの、結果的に二つの大国間での直接的な軍事衝突には至りませんでした。そのため、実際の戦闘が行われる「熱戦」と対比して「冷戦」と呼ばれるのです。

西側、東側とは?

アメリカとソ連の対立の根底にあったのは、「資本主義」と「共産主義」という社会システムの違いでした。それぞれを単純化して説明すると、財産を個人で所有して社会の発展を目指そうとするのが資本主義、財産を共同で所有することで平等な社会の実現を目指そうとするのが共産主義です。こうした考え方の違いが背景となっていたことから、冷戦はイデオロギーの対立であると言われます。

資本主義陣営は西ヨーロッパに、そして共産主義陣営は東ヨーロッパに固まっていました。そのため冷戦の対立構造ではしばしば、資本主義陣営が「西側」と言われて共産主義陣営が「東側」と言われます。ただしこの対立構造はヨーロッパに限られたわけではなく、アジア・中南米・中東などの幅広い地域で見られました。冷戦は世界的な対立だったのです。

冷戦の初期

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By Doris Antony, Berlin - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

鉄のカーテンがおろされた

第二次世界大戦の終戦直後は、国家間の協力によって国際連盟が設立されるなど、世界は平和へと歩みを進めているかのようでした。しかし実際には、それよりも以前から大国間でのイデオロギーの対立が存在していたのです。

1946年、イギリスのウィンストン・チャーチル元首相がアメリカで行った演説の中でソ連を非難しました。東ヨーロッパに勢力圏を拡大し、東西での対立を深めていると述べたのです。このときに「ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンがおろされた」とのフレーズが使われましたが、これは冷戦の到来を告げる有名な言葉となりました。

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アメリカの封じ込め政策

アメリカのトルーマン大統領は冷戦の初期、共産主義圏の拡大を防ぐための「封じ込め政策」を実施します。マーシャル・プランという支援計画により、戦争で疲弊したヨーロッパ諸国の復興を助けると同時に、これらの国にソ連の影響力が拡大することをせき止めようとしたのです。また、イギリスに代わってアメリカが国際社会のリーダーとなることを事実上宣言したトルーマン・ドクトリンは、ギリシャとトルコに対して援助を約束しただけでなく、反ソ連・反共産主義というアメリカの立場を明確に伝えています。

東西それぞれの軍事同盟

1949年、アメリカやイギリスが中心となり、西側諸国は北大西洋条約機構(NATO)と呼ばれる軍事同盟を設立しました。一方の東側諸国は、1955年にNATOに対抗してソ連を盟主とする軍事同盟ワルシャワ条約機構を設立。東西陣営の対立が目に見える形となり、冷戦が本格化したのです。

繰り返される緊張緩和と危機の高まり

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東西陣営の「雪どけ」

冷戦は長期間にわたりましたが、その間ずっと緊張の高い状態が続いていたというわけではありません。

1953年にソ連の最高指導者スターリンが死去。また同年、冷戦という時代背景のもと1950年に開戦された朝鮮戦争も休戦となりました。1955年には、アメリカ・ソ連・イギリス・フランス四か国の首脳が集まりジュネーヴ4巨頭会談が開催されます。この頃、対立は一時的に弱まっていました。東西陣営の緊張が緩和されたこの一連の動きは「雪どけ」と呼ばれます。

当時、独裁者スターリンの死後に指導者となったフルシチョフがスターリン批判を行ったことがきっかけとなり、ソ連でも言論統制が緩まるなどの変化が起きました。

軍拡の時代

その後、核兵器の開発競争などの軍拡が行われて、米ソの間では再び緊張が高まります。

1961年には、東ドイツから西ドイツへの人口の流出を防ぐためにソ連と東ドイツによって突如ベルリンの壁が建設されました。当時ドイツは東西に分裂していましたが、ベルリンはアメリカ・ソ連・イギリス・フランスの四か国による分割管理という扱いがなされており、東西ベルリンの行き来も容易だったのです。しかし、壁の建設によって人々の移動は厳しく規制されてしまいました。ベルリンの壁は東西分裂の象徴としても知られています。

翌年1962年、キューバでは核戦争の危機が生じました。ソ連がキューバにミサイル基地を建設しているということが明らかとなり、アメリカのケネディ大統領が海上封鎖を行ったため、米ソ間の緊張が極限まで高まったのです。最終的にはソ連のフルシチョフ首相がミサイルの撤去を決定したため、軍事衝突には至りませんでした。しかし、この出来事は第二次世界大戦以降で最も核戦争の危険が高まった事件として知られ、キューバ危機と呼ばれています。

核軍縮への動き

キューバ危機で核戦争の危険に直面したアメリカとソ連は、軍備管理が結局は共通の利益につながるということを学びます。そこで、核兵器の縮小に向けた部分的核実験禁止条約が締結されたり、アメリカのホワイトハウスとソ連のクレムリンを結ぶホットラインがつくられたりしました。両国の間では戦略兵器制限交渉(SALT)も開始されます。「デタント」と呼ばれる緊張緩和の時代が訪れたのです。

\次のページで「終わりへと向かう冷戦」を解説!/

終わりへと向かう冷戦

West and East Germans at the Brandenburg Gate in 1989.jpg
By 英語版ウィキペディアLear 21さん, CC 表示-継承 3.0, Link

再び緊張の高まった「新冷戦」

1970年代終盤から80年代半ばにかけて、新冷戦と呼ばれる時代がありました。1979年にソ連がアフガニスタンへ軍事介入を行ったことを受けて、対立の落ち着いていた東西陣営に再び緊張が走ったのです。

この対立は、政治の世界以外へも広がりました。1980年にはアメリカ陣営がモスクワオリンピックをボイコット。その報復として、ソ連陣営は1984年のロサンゼルスオリンピックをボイコットします。アスリートなど、両国の政治対立に直接的な関係のない多くの人が巻き込まれたのです。

冷戦の終結

1985年、ゴルバチョフがソ連の共産党書記長に就任したことにより、東西対立の解決に向けて光が差し始めました。ゴルバチョフは政治改革「ペレストロイカ」を進め、同時に「グラスノスチ」と呼ばれる情報公開にも乗り出します。こうした改革がきっかけとなり、東欧諸国に民主化の波が訪れることとなったのです。同時に提唱された新思考外交は、中距離核戦力(INF)全廃条約の締結やアフガニスタンからのソ連軍完全撤退にもつながり、冷戦の集結に大きな役割を果たしました。

1989年、東西ベルリンの往来を阻んでいたベルリンの壁が崩壊されるという非常に象徴的な出来事が起こります。その直後、アメリカのブッシュ(父)大統領とソ連のゴルバチョフ共産党書記長が「マルタ会談」を行い、この首脳会談の中で冷戦の終結が宣言されたのです。

ソ連の崩壊

冷戦が終結した世界では国際政治の主導的立場としてのアメリカの存在感がますます高まる一方、ソ連の力は衰えていきました。マルタ会談の以前からソ連の構成国は革命により次々と独立を果たしていましたが、1991年12月25日にロシア連邦が成立したことにより、1917年から69年間続いたソ連がついに消滅したのです。

こうして、第二次世界大戦後の米ソ二強による冷戦体制が幕を下ろしました。この後、アメリカが覇権を握る新たな時代が本格的に始まるのです。そうした意味で、冷戦の終結に続くソ連崩壊は歴史の転換点ともなっています。

冷戦のサブストーリー

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アメリカとソ連の宇宙開発競争

冷戦に象徴されるのは、軍拡競争やイデオロギーの対立だけではありません。アメリカとソ連の間では、宇宙開発についても激しい競争がありました。

冷戦の初期、宇宙開発の技術はソ連の方が一歩進んでいました。ソ連は1957年に人類初の人工衛星である「スプートニク1号」を打ち上げ。その後、生物を宇宙空間に送ることについてもアメリカに先立って成功させました。アメリカをはじめとする西側諸国に衝撃を与えたこれらの出来事は、スプートニク・ショックとも言われています。その後、ソ連は人類初の宇宙飛行士としてユーリ・ガガーリンを宇宙に送り込んだのです。

宇宙開発のリーダーであると信じていたアメリカは、ソ連を追い越すために国を挙げてアポロ計画に乗り出しました。そして、1969年に人類初の月面着陸という偉業を成し遂げます。宇宙開発競争においてソ連に先んじられていたアメリカにとって、アポロ計画の成功は非常に大きな意味を持つものでした。

冷戦の時代に宇宙開発は驚くべき発展を遂げましたが、そこには米ソの対立から生まれた競争意識が関係していたのです。

\次のページで「世界は「西側」と「東側」だけじゃない」を解説!/

世界は「西側」と「東側」だけじゃない

冷戦時代の世界は、アメリカを中心とする西側陣営とソ連を中心とする東側陣営の二項対立として捉えられがちです。しかし、東西のどちらにも属さない第三勢力も形成されつつありました。

たとえば、宗主国からの独立を果たしたアジアやアフリカの一部の国々。「非同盟運動」として反植民地主義的な性格を持つ活動を進めて支持を集め、1961年には第一回非同盟諸国首脳会議が開催されています。

また、中東では1968年にアラブの産油国を中心としたアラブ石油輸出国機構(OAPEC)が結成されました。アメリカやイギリスなどの大国に左右されない独自の石油戦略を進め、先進国ではその後オイルショックが引き起こされます。

冷戦時代の二強はアメリカとソ連でしたが、東西陣営以外の勢力も台頭していたのです。

戦争状態?それとも平和?「冷戦」をどう捉えるか

1940年代の半ばから1980年代の終わりまで、「冷戦」という時代は40年以上にもわたって続きました。今では、アメリカとソ連を軸とした一種の国際秩序だったと見なされています。

実際の武力衝突が生じなかったために「冷たい戦争」と言われますが、実際には世界各地で米ソの代理戦争が行われました。多くの犠牲者を出した朝鮮戦争やヴェトナム戦争も、冷戦が背景となっているのです。こうした事実も見落としてはいけませんね。

一方で、米ソの二極体制があったからこそ世界全体を巻き込んだ壊滅的な戦争が行われなかったとして、冷戦を「長い平和」と捉える考え方もあります。圧倒的な力を持つ国が無くなりつつある今と比較すると、もしかしたら冷戦時代の方がずっと国際秩序は安定していたのかもしれません。

みなさんは、現在の世の中と冷戦当時の世の中のどちらがより平和だと思いますか?答えはありませんが、ぜひ考えてみてください。

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ソビエト連邦ヨーロッパの歴史ロシア世界史歴史

「冷戦」の軸は米ソの二項対立!時代背景を国際政治に詳しいライターがわかりやすく解説

第二次世界大戦はたくさんの人を巻き込んだ悲惨な戦争だった。だけど、戦争が終わってからも平和が訪れたわけではない。数十年間も続くことになる「冷戦」が始まったからです。冷戦についてはなんとなく知っているという人も多いんじゃないか?どんな時代だったのか、詳しく見てみよう。

世界史に詳しいライター万嶋せらと一緒に解説していきます。

ライター/万嶋せら

会社員を経て、現在はイギリスで大学院に在籍中のライター。歴史が好きで関連書籍をよく読み、中でも近代以降の歴史と古典文学系が得意。専門として学ぶ近現代の国際政治に関する知識を活かし、今回は「冷戦」について解説する。

冷戦の概略

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冷戦とは何か

1945年に第二次世界大戦が終わると、世界は冷戦の時代へと突入していきました。冷戦は英語で”Cold War”、日本語では「冷たい戦争」とも呼ばれます。

冷戦というのは、アメリカを中心とする資本主義陣営とソビエト連邦(ソ連)を中心とする共産主義陣営との対立のことです。一触即発のにらみ合いが続いたものの、結果的に二つの大国間での直接的な軍事衝突には至りませんでした。そのため、実際の戦闘が行われる「熱戦」と対比して「冷戦」と呼ばれるのです。

西側、東側とは?

アメリカとソ連の対立の根底にあったのは、「資本主義」と「共産主義」という社会システムの違いでした。それぞれを単純化して説明すると、財産を個人で所有して社会の発展を目指そうとするのが資本主義、財産を共同で所有することで平等な社会の実現を目指そうとするのが共産主義です。こうした考え方の違いが背景となっていたことから、冷戦はイデオロギーの対立であると言われます。

資本主義陣営は西ヨーロッパに、そして共産主義陣営は東ヨーロッパに固まっていました。そのため冷戦の対立構造ではしばしば、資本主義陣営が「西側」と言われて共産主義陣営が「東側」と言われます。ただしこの対立構造はヨーロッパに限られたわけではなく、アジア・中南米・中東などの幅広い地域で見られました。冷戦は世界的な対立だったのです。

冷戦の初期

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By Doris Antony, Berlin – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

鉄のカーテンがおろされた

第二次世界大戦の終戦直後は、国家間の協力によって国際連盟が設立されるなど、世界は平和へと歩みを進めているかのようでした。しかし実際には、それよりも以前から大国間でのイデオロギーの対立が存在していたのです。

1946年、イギリスのウィンストン・チャーチル元首相がアメリカで行った演説の中でソ連を非難しました。東ヨーロッパに勢力圏を拡大し、東西での対立を深めていると述べたのです。このときに「ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンがおろされた」とのフレーズが使われましたが、これは冷戦の到来を告げる有名な言葉となりました。

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