
6、明治以後の姫路城にも受難が
明治維新から後の姫路城にも波乱の出来事があり、まさに現在の姿が残っているのが不思議なくらいです。
6-1、明治維新で朝敵として攻撃される羽目に
実質上最後の姫路藩主は、酒井忠惇(ただとし、ただとう)。慶応3年(1867年)2月28日に兄の隠居により姫路藩主となり、3月2日に雅楽頭に、その後12月30日に老中に任命。が、慶応4年(1868年)1月に始まった戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦いで、徳川慶喜の幕府側に与したために朝敵に。そういうわけで、岡山の池田家が姫路城を攻撃するために軍勢を派遣して大砲を撃ち込んだのですが、被害は少なく、勤王豪商による献金のおかげで姫路城は戦場にならず無事。
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6-2、廃城令で民間に譲渡
版籍奉還の後、廃城令が発せられ、民間に譲渡されるも取り壊し費用が多額のために取り壊し中止。木材や瓦を廃材利用しようとしたけれど、一般家庭に使うには重すぎるし大きすぎる瓦だったのが主な理由。尚、明治7年(1873年)には陸軍省の管轄となり陸軍の軍隊の駐屯地に。兵舎を立てるために武蔵野御殿などの場内の建物が取り壊されたり、備前丸が失火で焼失したりしたのは残念ですね。
6-3太平洋戦争で空襲に
別名白鷺城(はくろじょう、しらさぎじょう)と呼ばれる天守閣の白い壁は目立つので、アメリカ軍の爆撃機の標的にならないように黒い網をかけていたのに、昭和20年(1945年)の姫路空襲で市街地が焼け野原になったときに、姫路城にも焼夷弾がいくつも着弾。しかし天守閣に撃ち込まれた焼夷弾は不発弾だったので奇跡的に焼失せず。というわけで姫路城は、池田輝政が西国探題のために建てて以来一度も戦火にあうことなく今に至り、美しい真っ白な姿を見せているのですね。
姫路城の住所は本町68番地
姫路城の住所は姫路市本町68番地。姫路城周辺にある郵便局の本局、数校ある学校、国立医療センター、消防署、図書館、美術館、すべて68番地で、個人の家も多数あるというすごさ。地元民には普通のことだが、よそから来た人は驚くらしく、たまにテレビや新聞記事で取り上げられることも。これは陸軍時代の産物だそうで、昔は市役所や裁判所、警察署、商工会議所も全部68番地にあったという。
7、明治、昭和、平成の大修理が行われた
城の天守閣は無理をして建てられているので、50年ごとに解体して大々的な修理が必要。これは建物のためだけではなくて、お城の修理に関わる技術者の側にとっても技術を伝えるためもあるということ。
知れば知るほど見どころの多い姫路城!
姫路城は後の豊臣秀吉が現在のもととなった城を造り、池田輝政がそれを大々的に改修して、本多忠政が西の丸を作って現在の規模に完成。江戸幕府は最初から薩摩の島津家や長州の毛利家が江戸へ攻めて来ることを想定して、まず岡山城、姫路城で防戦し、それでもダメなら大坂城、名古屋城、箱根の関で食い止める。姫路城もそう言った場合の籠城を想定して、いくつもの仕掛けや銃撃のための狭間を作り、敵に備えたものの一度も使われることはありませんでした。
これを読んでいただければば姫路城がそういう役割を担って作られたこと、こんなところにあんなに立派なお城がある理由がわかっていただけるでしょう。
今では姫路城はテレビや映画の時代劇のロケに使われたりすることも多く、外国からの観光客も多く訪れる観光名所。
尚、姫路城の周辺にも城内にも、桜の木が数えきれないほどの桜の名所。これは江戸時代ではなく、明治時代の陸軍管轄の時代に植えられたものだけれど、4月の満開の桜と城の風景は歴史を感じさせるだけでなく、まさに今の平和な時代にふさわしい美しさです。