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「姫路城」の歴史を何度も訪れた歴女がわかりやすく解説!世界遺産・姫路城が10分で丸わかり

最近、平城の大改修が行われてお色直しした姫路城は、兵庫県姫路市にあるお城です。江戸時代以前に建設された天守が残っているのは、姫路城の他に全国で12だけなんです。さらに姫路城は中堀以内のほとんどの城域が特別史跡です。また現存の建物のなかでも、大天守と小天守、渡櫓などの8棟が国宝に指定され、渡櫓27、門15、塀32の各建造物が重要文化財、日本で最初にユネスコ世界遺産に登録された。

表からも裏からも、どの方面から見てもまた違った姿を見せる素晴らしく大きく美しいお城ですが、なぜこんなところにこんな大きなお城が建っているのか、不思議に思わないか?ここでは姫路という土地の歴史から姫路城の成り立ちを、日本史に詳しいライターあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史や伝記本ばかり読んでいたという歴女。司馬遼太郎ファンでほぼ全作読了。ヨーロッパ史も得意で王室の家系図マニアというあんじぇりかが、今回は何度も訪れていて自分の庭のような存在で、実際に歩くと広いことと、天守閣に登るのにかなり体力がいるという姫路城について紹介する。

1、 姫路城以前の播磨の国

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まず、姫路城が出来るまではどんなことがあったのかを見ていきましょう。播磨の国風土記などが残っているほど古い歴史で、古い神社やお寺も建立されていたんですね。

1-1、古代から集落があった土地だった

姫路城のある場所は、古くは播磨の国(はりまのくに)、播州地方(ばんしゅう)。飛鳥時代や奈良時代の都、大坂、京の都のある畿内に近い場所にあり、西は吉備の国、備前、備中、備後の岡山と隣接し、また瀬戸内海に面しているので港もある便利さ。

温暖で冬もほとんど雪が積もらないという過ごしやすい気候で水源も豊富、平野部が広がり農業もさかんだったので、むかしから人の住みやすいところだったことは残っている遺跡でも明白。

1-2、格式の高い書写山円教寺や広峰神社も存在

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姫路城の近辺には、平安時代に建てられた天台宗の別格本山書写山円教寺があります。西国三十三所のうち最大規模の寺院で、「西の比叡山」と呼ばれるほどの寺格を持ち、中世には、比叡山、大山とともに天台宗の三大道場と称され、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇や法皇も多かった巡礼の地でもありました。

また市内の広峰山にある広峰神社(ひろみね)は、なんと天平5年(733年)に唐から帰った吉備真備が、この地で神威を感じて聖武天皇に報告したことによって翌年に白幣山に創建され、天禄3年(972年)に現在地に遷座(移行すること)した古い神社。そして貞観11年(869年)、この広峰神社から平安京の現在の八坂神社に牛頭天王(スサノオノミコト)を分祠したとする説があり、貞応2年(1223年)の文書にも「祇園本社播磨国広峯社」とあることから、広峰神社は、京都の八坂神社の元宮・総本社という説もあるほどです。
意外に古い歴史を持つ土地柄なのですね。

1-3、地名の由来もかなり古い

「姫路」の名は、播磨国風土記に出てくる「日女道丘」(ひめじのおか)がもと。神話の時代の話なので伝説だけれど、昔、大汝命(おおなむちのみこと)という方がいて、その子火明命(ほあかりのみこと)の乱暴さにお手上げとなり、船で海へ出て、息子を捨てるつもりで島に置き去りにして船出。ところが置き去りにされた火明命は大変怒って、風波を起こして父の乗った船を難破させたという話です。その難破した船の残骸や積み荷などが流れ着いた場所に、「船丘」、「犬丘」、「筥(はこ)丘」、「琴丘」など14の丘の名が付けられました。

その一つである蚕子(ひめこ)の流れ着いたところが「日女道丘(ひめじおか)」で、現在姫路城のある「姫山」のこと。絹糸を作る「かいこ」の「蚕子」は、古いことばでは「ひめじ」だったんです。

これがもとですが、地名としての「姫路」は、江戸時代初期に池田輝政が姫路城を築き、今のかたちに城下町を整備した当時の文献に出てくるので、築城と城下町の整備と共に播磨の中心地として名前がはっきりしたと言っていいでしょう。

2、築城から現在の姿になるまで

何もないところに突然大きな城が出来たわけじゃなく、基礎があったはず。そして最初に大々的に作ったのは、やはりあの人。

2-1、最初に城が築かれたのは室町時代だった

室町時代、播磨の国は有力守護大名の赤松氏の所領でした。現在の姫路城のある姫山という丘に最初に城を建てたのは、正平元年(1346年)の赤松貞範。現在姫路城の建っている姫山に本格的な城を築いたが、現在の姿に較べれば砦と言っていいでしょう。そして嘉吉元年(1441年)には嘉吉の乱が勃発。赤松満祐父子が六代将軍足利義教を謀殺し、自害した後、守護大名の山名持豊が姫路城主となり播磨の国守護に。そして応仁元年(1467年)に起こった応仁の乱では、赤松政則が姫路城を陥落して領国を回復。まさに下克上の時代でしたね。

そして本丸、鶴見丸を築き、後に赤松一族の小寺氏が姫路城に入ったが、少し東に御着城を築いたために、重臣の黒田官兵衛の父が姫路城主として入城

2-2、のちの豊臣秀吉が本格的に築城し、今の城の基礎を築いた

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戦国時代の天正8年(1580年)になると、天下統一を狙い尾張の国を本拠としていた織田信長の武将である羽柴秀吉が、中国攻略のためにやってきたので、当時の城主だった官兵衛こと黒田孝高が自身の住んでいた姫路城を秀吉に献上。秀吉にとっては、近江の国の長浜に次いで二つ目の城に。
秀吉は姫路城に3層の天守閣を築き、石垣を作って本格的な城を造りました。この石垣を作るために石を集めるのに苦労していると聞いた城下に住む老婆が、石臼を提供した「姥が石」話があり、それを切っ掛けに庶民が城の石垣の建設に積極的に協力ということで、今でも姫路城内の石垣にはその石臼がこれだという案内もあり、ちゃんと残されているんですよ。
また、さすがに秀吉のすることはスケールが大きくて、城を造るだけでなく城の南側に街割りをして大規模な城下町まで造成。このとき、姫路の北を走っていた山陽道を曲げさせて、城の南の城下町を通過させるすごさ。また、今でも城下にある龍野町(たつのまち)に、諸公事役免除の制札を与えて市場を立てさせ、英賀城(あがじょう)落城後に英賀の百姓、町人を龍野町に移住させたりも。

そして天正9年(1581年)、姫路城で大茶会を催し、秀吉はこの姫路城を基盤に、播磨、但馬、鳥取平定のために三木城や鳥取城干し攻めなど長期戦覚悟の攻略を行い、ほぼ播磨全域を手の内に。

2-3、中国大返し

秀吉はその後、姫路城から中国征伐に向かいました。天正10年6月(1582年)備中高松城の水攻めの最中に本能寺の変が勃発、秀吉の元にも知らせが来て黒田官兵衛らと相談の結果、秀吉はいそいで敵の毛利家と講和をし、姫路まで必死で帰ってきました。これが世に言う中国大返し。信長の横死を知った毛利家が追撃してくればどうなったかわからないこと、それに今後の明智光秀との戦いが待っていることもあって、秀吉にとって一か八かの勝負のひとつであり、当時としてはあり得ないスピードでの行軍として有名です。

尚、黒田官兵衛は信長横死のニュースを聞き呆然とする秀吉に、「今が天下取りのチャンスです」とうっかり言ったところ、秀吉に天下取りの野望があると勘ぐられてしまって、その後は警戒されまくったのは有名な話。
またすぐあとに毛利家の陣にも信長横死の知らせは届いたのですが、秀吉に恩を売るというかたちで追撃しなかった、水攻めの水が引いた後泥だらけで動けなかったなど諸説あり。

秀吉は姫路城に帰った後一息ついてから、城に蓄えていた備蓄米や軍資金などを全部部下に分け与えて、文字通り背水の陣で山崎の合戦に臨み、明智光秀と対戦して勝利を治めて天下人への道へまっしぐら。
天下人となった秀吉を送り出したということで、姫路城は「出世城」との呼び名も

2-4、関が原の合戦の後、池田輝政が大々的に城の整備に着手

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秀吉が姫路城主だったのはわずか2年ほどで、その後は秀吉の弟の羽柴秀長が城代を勤め、次いで秀吉室である寧々の実家の兄の木下家定が城主となり、安土桃山時代の16年を治めました。その後、関が原合戦の勲功と、徳川家康の娘督姫との再婚のおかげで、慶長5年(1600年)に池田輝政が播磨国52万石を与えられて姫路城主に。

池田輝政の嫡男の利隆は前妻との間の息子であったので、家康の娘の督姫の生んだ次男忠継に備前岡山28万石、三男忠雄に淡路一国6万石が与えられていて、さらに輝政の弟長吉は兄と別に因幡鳥取6万石を領していたので、池田家は徳川家の准一門として一家で、なんと総計100万石に近い領土を有することに。関が原合戦後すぐの頃の姫路は、毛利、島津と言った大名のいる西国ににらみを効かせる最前線だったので、西国探題として大きな城を築く必要があったのです。なので輝政は、ビッグマネーと厳しい年貢取り立てで得た大金をつぎ込んで、秀吉が建てた城を大々的に改修改築し、今現在の7層の天守閣をはじめとする大規模築城が出来たんですね。

池田輝政とはどういう武将かといえば

池田輝政は、父恒興が織田信長の乳兄弟という関係で、信長の小姓をしたりして子供の頃から信長の近辺で育った人で、父と兄元助が小牧長久手の合戦で戦死したために、池田家の跡取りに。信長死後は秀吉に仕えて武功を立てたし、家康にも上手に接近して信頼を得たようですね。

家康の娘の督姫は、北条氏直に嫁いだが小田原城落城後に氏直が亡くなった後、未亡人となり実家へ戻り、秀吉の仲介で輝政と再婚。
輝政と督姫との間に5男2女が生まれ、舅の家康の信頼も厚かったでしょう。

3、本多忠政が姫路城主になり、千姫が嫁いできた

姫路城天守閣が完成したのは慶長14年(1607年)。慶長18年(1613年)の池田輝政の死後、嫡男利隆がわずか3年後に亡くなりました。後継ぎの光政はまだ7歳だったために鳥取へ転封。
そして大坂夏の陣で豊臣家が滅びた後、桑名城主だった本多忠政が元和3年(1617年)夏の陣の功績で姫路城主に

3-1、本多家は家康の家臣だが、親戚同然

本多家は、徳川家の三河以来の家来で、忠政はあの徳川四天王といわれた名将の本多平八郎忠勝の長男。それに加えて本多忠政の室は、家康の長男で信長の命令で殺された信康の娘熊姫。そういうわけなので、忠政は家康の親戚同然と言っていいでしょう。

3-2、千姫の夫は、家康と信長のひ孫で美男子だった

忠政の長男である忠刻は、家康のひ孫(信長のひ孫でもあります)。忠刻と結婚した千姫は、6歳のときに豊臣秀吉の遺言で秀頼と結婚し、大坂夏の陣で豊臣家が滅びたときに助け出された人で、家康の後継ぎの2代将軍秀忠と正室お江の方(浅井長政の3女で淀殿の妹)の長女。最初の夫である豊臣秀頼は、千姫にとって母方の従兄で、今度は父方の従姉の子(祖母のお市の方が信長の妹なので又従兄でもある)との再婚ですね。

忠刻は当時有名な美男だったので、千姫が一目惚れしてどうしても結婚したいと言ったという話と、忠刻の母で家康の孫の熊姫が家康に千姫を嫁にと頼んだという説も。いずれにしても千姫は忠刻と結婚し、10万石の化粧料(持参金)と共に姫路に嫁入りしたのですね。本多家は千姫の化粧料で姫路城に忠刻と千姫のために西の丸を増築し、姫路城は現在の形に完成

3-3、本多家一族で近辺を治めたので、実質40万石

当時本多忠政本人は16万石でしたが、嫡男の忠刻も千姫と結婚したせいで10万石を与えられていたし、次男の政朝は忠政の弟の忠朝の遺領を継ぎ播磨龍野5万石、そして忠政の娘婿の小笠原忠真も播磨明石10万石といった具合に、忠政は実質上は40万石をもらっていました。これは池田輝政にも言えることで、息子達は徳川家康の孫やひ孫なので、次男三男と言えども部屋住みにはできないということなんですね。

尚、実際に忠刻と千姫夫妻が住んでいたのは、伏見城の遺構などを移して建てた今はない武蔵野御殿という建物、でも、千姫が毎日男山天満宮を拝んだという化粧櫓は残っています。千姫は姫路城で約10年、幸せな結婚生活を送ったが、夫の早死後、娘を連れて江戸へ帰りました。

4、江戸時代、城主がよく変わったのはなぜか

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姫路城は池田家の後継ぎが幼いせいですぐに転封されて本多家が城主に。それと同じく本多家も忠刻が父より先に亡くなり、忠政の後を弟が継いだ次の代で転封。これはこの姫路城が、幼い後継ぎやしっかりしない城主には任せられないというほど重要な城だったということなのですね。そういう理由で、江戸時代の300年の間に、幼い当主が後を継いだからなどで譜代や家門の大名が6家も交代しているのです。

ちなみに、本多家の次は家康の孫の松平(奥平)忠明(ただあきら)18万石で郡山から転封されて5年後に亡くなったとき、後継ぎの忠弘が12歳だったので、すぐに山形へ転封。その後は、越前松平家、次は榊原家、再び直基系越前松平家、再び本多家、再び榊原家、またまた越前松平家となり、最後に老中、大老を勤める酒井家が入って幕末明治維新に。ちなみに石高は越前松平家以降は15万石だったので、100万石、50万石規模での時代に作られた大きな城の維持は大変だったでしょうね。

5、江戸時代のユニークな城主のご紹介

姫路城は重要な場所であったからこそ城主が変わったのですが、なかでもちょっとユニークな城主をご紹介しましょう。
今度誰かが詳しく取り上げて、大河ドラマの主役になる可能性があるかも。

5-1、放蕩息子の典型のような榊原政岑(まさみね)

正徳3年(1713年)に榊原家の分家である旗本1000石の次男として生まれ、最初は大須賀姓を名乗ったが兄の死去により家督を継ぎ、すぐに本家の姫路藩主の末期養子(亡くなる直前、直後に養子になること)で、榊原家の宗家を継いだラッキーな人です。

榊原家は三河以来の譜代の名門で徳川四天王であった榊原康政の子孫なのに、政岑は旗本の次男坊で江戸っ子を絵にかいたような人。当時は8代将軍吉宗の治世で倹約令の時代、しかしそれを無視して贅を尽くした生活をしたのです。日光代参の希望が幕府に聞き入れられなかった、という不満からか反抗的な態度をとり、奇抜な服装で江戸城大手門を警備したり、遊郭の吉原で派手に遊興したりしたのですよね。新吉原の名妓だった6代目高尾太夫を1800両(あるいは2500両)で身請けしたのは有名な話。吉宗は御三家である尾張家の徳川宗春のご乱行でも厳しい措置をとりましたが、政岑についてもご同様に。老中松平乗邑により政岑のご乱行の調査が行われ、吉宗は改易したかったほどの怒りだったが、重臣による懸命な弁明で結局はまだ20代なのに強制隠居と蟄居に。

家督は嫡男の政純が継いだものの幼少のために、懲罰的な意味もあって姫路から越後高田に転封。高田に移ってからの政岑は、今度は心を入れ替えて政純の後見人として藩政の再建に着手し、自ら率先して倹約につとめて新田500町歩の開墾や灌漑工事を行ない、さらに農民を助けるために竹細工の講習会を開いて副業を奨励するも、31歳で死去。

尚、姫路藩主時代には城下の長壁神社の祭礼で、町人に浴衣姿での参加を認めたことが例となってはじまった「姫路ゆかたまつり」は今も継続中、市内には高尾町という地名も存在。

5-2茶人で日記や絵も残し、殿さま芸を超えていた酒井 忠以(さかい ただざね)

酒井家としては姫路藩2代目で、雅楽頭系酒井家宗家としては10代目。世嗣である酒井忠仰の長男として江戸屋敷で生まれ、父が病弱だったので祖父忠恭の養嗣子となって、18歳で姫路藩主に。

この人は、絵画、茶道、能に非凡な才能を示し、安永8年(1779年)、25歳の時、ともに日光東照宮修復を命じられた縁がきっかけで出雲松江藩主の不昧公、名高い松平治郷と親交。そして江戸に滞在中、または参勤行列の途中で出会ったりしたときには治郷から石州流茶道の手ほどきを受けたほどで、のちに石州流茶道皆伝を受けて将来は流派を担うとさえいわれた茶人でした。

弟が江戸琳派の絵師となった忠因(酒井抱一)で、忠以自身も絵に親しみ、宋紫石・紫山親子から南蘋派を学ぶ。今残っている作品を見ても、単なる殿様芸を超えているほど。また、趣味や日々の出来事・天候を「玄武日記」(22歳の正月から書き出す)、『逾好日記』(33歳の正月から書き出す)に残しています。

ただ、この頃は天明の大飢饉の時代で領内も大被害を受けて藩財政は逼迫状態で、忠以は、河合道臣を家老として登用して財政改革に当たらせたが、忠以は寛政2年(1790年)に36歳で死去して、道臣は失脚、改革は頓挫と、政治的には得るところがなかった殿様ですね。

5-3忠以の弟で才能に溢れていた酒井 抱一(さかい ほういつ)

江戸時代後期の絵師、俳人。権大僧都。本名は忠因(ただなお)
この人は城主ではなく、姫路藩主酒井忠以の同母弟で大名家出身の画家。抱一は部屋住みでも兄に何かあった場合の保険として、兄が参勤交代で国元に戻る際、留守居としてしばしば仮養子に立てられている存在。兄に後継ぎの子が生まれるまではナンバー2だったわけですね。安永6年(1777年)に17歳で元服して1,000石を与えられましたが、同じ年に兄に長男忠道が生まれて後継ぎの役目は終了。古河藩主土井利厚などから養子の話も多くあっが、なぜか抱一は全て断ったそうなんですね。
包一の酒井雅楽頭家は、代々文雅の理解者が多く、兄の忠以も茶人・俳人として知られていたので、当時の大手門前の酒井家のある姫路藩邸は文化人の集うまるで文化サロン。なので放蕩時代もあったが、包一は若い頃から、様々な江戸の芸術家に接する機会があり、俳諧や狂歌の分野にも才能を発揮、寛政2年(1790年)に兄が亡くなった後に出家し大名の子弟としての格式で権大僧都の僧位を得たが、抱一という号を名乗るようになったのですね。

画家として尾形光琳派の作品を多数残し、文化11年(1828年)に68歳で死去。

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