謎に包まれた邪馬台国の場所
『「魏書」東夷伝倭人条』によると、当時、倭国(日本)は長い騒乱にあり、卑弥呼という女王を立てたことで治まったことをはじめ、倭国の身分制度や税金制度、国々に市場があり、交易が行われていたことなどが記載されていました。
邪馬台国については、卑弥呼が魏に使者を送って貢物をし、「親魏倭王」の称号と金印を授かったことや、邪馬台国の場所が記載されています。ただし、「漢委奴国王」の金印と違って発見されていないことや、邪馬台国への行き方が曖昧で正確にはわからないのです。そのため、邪馬台国の存在していた場所は大陸の日本の玄関口だった「北九州説」と、のちに日本を治める大和朝廷が生まれる「畿内説」に分かれてしまいました。
文化のステージを上げた弥生時代
縄文時代の生活と打って変わった弥生時代。日本人は渡来人と交流をはじめ、農耕民となりました。生きる上で最も大切な食糧事情が安定したことで、身分制度などの社会構造ができ上がっていきます。
その中で大きなクニとなった邪馬台国と女王卑弥呼。こちらもまた中国との交流がなければ存在すら歴史の闇に消えていました。曖昧なところも多いですが、日本人にとっても『「魏書」東夷伝倭人条』は貴重な史料なのです。